アジア経済
Online ISSN : 2434-0537
Print ISSN : 0002-2942
書評
書評:Martha Mendoza, Robin McDowell, Margie Mason, Esther Htusan and The Associated Press, Fishermen Slaves: Human Trafficking and the Seafood We Eat
Miami: Mango Media, 2016, 152pp.
山田 美和
著者情報
ジャーナル フリー HTML

2019 年 60 巻 2 号 p. 99-105

詳細

Ⅰ はじめに

本誌では取り上げることのなかったジャンルの出版物である。本書は,タイの水産業で現代の奴隷として働く外国人労働者の実態をとらえた,Associated Press(AP)の記者の一連の報道記事からなる。

ミャンマーからタイへ膨大な数のミャンマー人が職を求めて渡り,多くの産業で劣悪な状況で働いている。なかでも米国をはじめ,世界で消費される水産物を捕る長距離漁船で酷使されているという。彼らはいかなる方法で漁船にリクルートされてくるのか。いかなる労働搾取が漁船で行われているのか。そして「人身取引」と称されるこの実態に,我々はどう向き合うのか。研究者が学問的ディシプリンや分析のフレームワークに拘泥しているあいだに,ジャーナリストは現場に駆けつけ,現場の声をストレートに伝える。AP記者らの報道は,囚われていた漁船員を解放し,消費者に衝撃を与え,政府を動かし,社会に大きなインパクトを与えた。そして本書は,2016年ピューリッツァー賞報道部門で最も栄誉ある公益賞を受賞した。

本稿では,人身取引問題の調査研究として本書がどのような意義をもつかを述べる。さらに本書が社会的に評価されるに至った理由として,「人身取引」の国際法における定義の変化,そして「ビジネスと人権」の法的ディスコースの展開を論じ,本書の社会的評価を位置づける。最後に今後に残された課題を述べる。

Ⅱ 本書の内容

本書には,報道の経緯が記された序章のあと,2014年6月14日から2015年12月18日までの22本の記事が,現場の瞬間を切り取った数々の写真とともに,7つの章に配置されている。記事の生々しさを本誌読者に伝えるべく,メッセージ性の高い見出しを随所に引きながら,内容を要約する。

第1章 あなたが買った魚は誰が捕まえたのか?

本書の出発点となる2本の記事から本章はなる。「脱出不能――2014年6月14日インドネシア・アンボン発――」は,ミャンマーの若者がブローカーに騙され,インドネシア沖で奴隷になっていると報じる。この記事を起点としてその実態を探っていく。次の「乱獲が招く奴隷――2015年2月25日タイ・サムサコーン発――」は,タイの水産業は近海の漁獲高激減のため遠洋に出ており,その操業は外国人労働者の搾取労働で成り立っていると指摘する。記事に添えられた写真では,インドネシアの小島から瀕死の状態で救助され,サムサコーンに連れてこられたミャンマー人男性がTシャツとおむつだけの姿で横たわっている。そのベッドの下には尿の水たまりがある。

第2章 ベンジナ島

本書の核となる記事である「檻に閉じ込められて――2015年3月25日インドネシア・ベンジナ発――」は,インドネシア東部の小島,密林に隠され隔絶したベンジナ島に囚われたミャンマー人労働者の存在を突き止める。海岸の裏手にはタイ人の偽名を記した多くの墓標が草陰に見える。檻に閉じ込められた労働者がAPのビデオカメラに恐るべき実態を語る。「もしアメリカやヨーロッパの人が魚を食べるなら,我々のことを忘れるべきではない。この海の底には島ができるくらいの人骨が埋まっている」。魚は世界の市場に届けられるが,魚を捕った労働者の命はベンジナ島で果てる。生き残っている者が故郷に戻れる日がくるのだろうか。

第3章 22年間奴隷として

「彼はただ家に帰りたかった――2015年6月30日インドネシア・トゥアル発――」は,ベンジナ島に身を潜めていた漁船労働者のひとりの来し方を詳細に記録した記事である。

ミャンマー人のモン州の小さな村の4男2女の長男であるミンナインは15歳で父を亡くす。貧困に落ちた家族の前にブローカーが現れる。数カ月で300ドルをタイで稼げる約束を信じて村を出たのは1993年,18歳だった。インドネシアの埠頭から漁船に乗せられ,粗末な食事と不衛生な環境,過酷な労働に加え,暴行を受ける。殴られ,縛られ,電気ショックを加えられ,檻に閉じ込められる。死んだ仲間の死体が魚と並んで冷凍庫に隠匿された。3年が経ち,トゥアルの埠頭に着岸したとき,彼は帰国を懇願する。その瞬間,ヘルメットが彼の頭を割る。血が溢れる割れ目を両手で押さえる彼にタイ人船長が怒声を浴びせる。「放さねえよ,おまえが死んでもだ」――彼は逃げた。インドネシアのマルク諸島,香辛料で知られる島々には,逃亡し,捨てられた移民労働者たちがジャングルに身を隠していた。

2015年4月,彼はある報せを聞く。水産業の奴隷と米国大手食品会社を関連づけたAPの報道を知ったインドネシア政府が,島々にいる奴隷たちの救出を開始しているという。勇気を出して姿を現した彼は救出された。帰国した母国は軍事政権の圧政下にはなく,反体制派リーダーだったアウンサンスーチーは軟禁を解かれ,議員になっていた。母国が変わったように,すっかり変わった彼は出身の村へ戻り,母親と22年ぶりの再会を果たす。

第4章 銀の海物語

本章は2015年夏の3本の記事からなる。ベンジナ島の労働者,彼らが乗っていた船,搾取労働によって捕獲された魚を輸送する船を発見し,それらの関係を突き止める。本章のタイトルは,Silver Sea(銀の海)という美しい名をもつ船には,その名とは裏腹の凄惨な実態があったことを表している。

先のAPの報道を受けてインドネシア当局が捜査を開始し,タイとインドネシアの水産業界の大物と実業家の合弁企業Pusaka Benjina社と輸送会社Silver Sea Fishery社の取引関係が浮かび上がった。ベンジナに運ばれた魚は,Silver Sea Fishery社の船荷としてタイに向かう。同社の請求書には,船名Silver Sea 2号があった。AP記者は,最新技術を使った衛星ビーコンから,同名の船がタイとパプアニューギニア間を往来しているのを発見する。デジタル・グローブ社の協力を得て,2艇のトローリー船がSilver Sea 2号を挟み,その両脇から魚が積み込まれている映像をとらえる。同船のインドネシア領海入りをAPから伝えられたインドネシア当局が同船を,同国海軍基地に曳航した。ミャンマーに戻ったかつての奴隷労働者が,同船に魚を積み込んだこと,そして同船で運ばれたことを証言し,人身取引事件が次々と明らかになる。何百人ものミャンマー人漁船員が,タイから偽物の入国書類と船員手帳でインドネシアに連れてこられ,ベンジナ島のPusaka Benjina Resources社の構内に監禁されていたのだ。こうしてAP記者らは強制労働によって捕獲された魚と米国の大手食品会社のサプライチェーンとの結びつきを証明した。このAPの報道は,米国議会での公聴会に記録され,そこで奴隷労働と米国企業のサプライチェーンの関係性が議論される。

第5章 法はあるけれど

かかる人身取引問題に関係各国はいかなる法政策をとるのか。本章はインドネシア,タイ,米国各地を発信元とする5本の記事からなる。

米国国務省の人身取引報告書は,その初版2000年版から現在までタイにおける労働搾取を指摘し続けている。米国には強制労働による製品の輸入を禁止する法律はあるが,タイとの政治経済関係から発動されていない。他方,タイ政府は2008年に反人身取引法を成立させ,現在の軍事政権は人身取引問題を優先課題とするものの,ベンジナ島での事件への対応は及び腰だ。2011年「ビジネスと人権に関する国連指導原則」には,国はビジネスによる人権侵害から人々を守らなければならないと明記されているが,タイでは地元当局が人権を侵害していると,同原則の起草者であるハーバード大学教授ジョン・ラギー氏は指摘する。

食品世界大手ネスレ社が,タイへの移民労働者の強制労働による製品が自社のサプライチェーンに流通していると,自らの調査報告を公表した。企業の人権に関する情報開示は訴訟につながるから,寝た子は起こすなといわれるなか,実際にAPの報道を引用した訴訟で訴えられているネスレは先進的といえる。

第6章 2000人を超える救出

本書のハイライトとなる6本の記事から本章はなる。インドネシア東部の島々には脱出のすべもなく生き延びている者が数千人もいるという。APの取材に恐る恐る答えてきた労働者たちの数は増え,彼らの惨状が明らかになる。連載記事の見出しを追うと,救出の現場の緊迫と速度が刻々と伝わってくる。「立ち往生する漁船員たち――2015年3月28日インドネシア・ジャカルタ発――」「APの調査から緊急救出へ――2015年4月3日インドネシア・ベンジナ発――」「300人を超える漁船員が無事に――2015年4月4日インドネシア・トゥアル発――」「帰国した者,まだ残されている数百人――2015年5月13日インドネシア・トゥアル発――」「さらなる奴隷救出――2015年7月31日――」「2000人そしてさらに――2015年9月17日インドネシア・アンボン発――」――APによる発見を受けて,インドネシア当局が即時に救出を実施する。救出された人々の証言はAPが録画した檻と墓のビデオで報道したとおりだった。エンフォーサーという暴行や虐待を行う者の存在も明らかになった。APの報道によって,さらに2000人を超える漁船員が救出された。このような大規模の救出は初めてだと人身取引問題の専門家はいう。彼らを苦しめたトローリー船が,今度は自由になった彼らを運ぶ。救出された喜びの一方,長く故郷を離れ一銭もない男たちは今後に不安を募らせる。

このような惨状に対する最も効果的なプレッシャーは消費者であると専門家はいう。消費者が安い水産物を求めることが労働者の虐待に拍車をかけていると指摘する。救出されたひとりが働いていたMabiru Industries社は人身取引と違法漁業で捜索を受け,操業を停止した。アンボンのMabiru社はキハダマグロを日本市場に売っていた。企業がその責任を否定することはできない。

第7章 エビ奴隷

漁船員と同じように騙されて強制労働を強いられる移民労働者はエビの皮剥き作業場にもいる。「あなたの食料品店やレストランは奴隷が剥いたエビを売っているのか?――2015年12月15日タイ・サムサコーン発――」は,名前でなく番号で呼ばれる労働者への虐待の実態を描く。虐待が行われている工場から出荷するトラックを5日間にわたり追跡し,タイの大手輸出業者に到着するのを確認する。日本の企業名も記されている。APの取材を受けた水産大手タイ・ユニオンは,今後エビ加工は自社内で行い,取引先の工場閉鎖で失職した労働者を雇用するという業界として大きなステップを踏み出す。

 余波

本報道の後の動きを伝える3本の記事で本書は終わる。APの報道を受け,米国の政治家や人権団体がタイからの魚やエビのボイコットを求める。大手水産食品企業は,人権や労働の問題がないようサプライヤーに確約させるという。一方,米国人身取引対策大使はいう。ボイコットだけが答えではない,対話で改善を促す方法もあり,消費者はまず知るべきだと。さらにEUはタイ政府に対して水産食品のサプライチェーンにおける強制労働問題への即時の対応策を求める。APのこれら一連の報道が評価を受ける。

Ⅲ 本書の意義

1年半にわたるタイ,インドネシア,ミャンマー,米国各地での丹念な取材によって書かれた本書は,人身取引問題の調査研究として2つの大きな意義をもつ。

第1の意義は,人身取引問題という事象の点と点をつないだ点である。すなわち,水産業において奴隷労働によって捕獲された魚と米国の食卓の関係を立証することに成功した点に大きな意義がある。

人身取引問題の調査研究は,その調査対象が被害者,非正規移民,犯罪者という「隠れた人口」であるために難しい[山田 2016]。また各国における入国管理政策,外国人労働者政策,売春に対する政策,社会構造や汚職などに関係する問題であり,その実態にアプローチすることは容易ではない。

本書を読みながら,評者がかつてタイで調査した瞬間が甦ってきた。冷凍マグロが日本向け直行便で空輸されるプーケットの港。マグロに金属棒を刺し鑑定する腕っぷしの太い中年男性。「この魚はどこで捕れたのか?」と問うと睨み返された。サムサコーンの水産加工工場の寮。劣悪な労働環境を語るミャンマー人労働者に見せられた名刺。彼らが働く工場の日本人の品質管理者のものだった。ミャンマー人が働くラノーンの港。管理する政府職員は自分が唯一のタイ人だと自嘲した。コンクリートの地べたに並べられた色とりどりの魚。EUの視察のときだけブルーシートを敷くという。埠頭では漁船員を斡旋するミャンマー人の老婆が座り込んでいた。港町で漁船員が通うカラオケバーのひとつ。地元警察官がオーナーであると噂に聞き,行ってみる。接客のミャンマー人女性と話していると,数人の大男が現れ,カメラを向けて脅してきた。その恐怖に評者は長い間苦しんだ。これらは断片に留まってしまい,評者は点と点をつなげることはできなかった。

翻って,本書のAPの記者たちは,勇気のある,そして粘り強い取材を重ねた。点と点をつなぎ,線にして面にし,さらには立体として立ち上がらせた。インドネシア東部の隔離された孤島ベンジナ島に囚われている奴隷漁船員たちを発見し,取材し,そこから船荷された水産物がタイの港に陸揚げされ,トラックに積まれて水産加工場に運ばれてゆくのを追跡する。その水産物の米国への輸出を税関記録から辿っていく。そして大手食品スーパーの棚に陳列されている製品のラベルをつぶさに調べ上げた。本書は,これまで幾度となく断片的エピソードとして語られてきた移民労働者の悲惨な状況,そしていくつかの報告書で指摘されてきたサプライチェーンへのつながりを見事に証明した。

本書の第2の意義は,AP記者が人身取引問題の調査過程において,取材する相手をその問題解決に向けて動かしていったことである。2015年3月インドネシアの孤島で檻に入れられていた漁船労働者発見の記事の衝撃は大きかった。ウォルマートを含む米国大手小売業の代表が,タイとインドネシア政府に対応を求めた要請書にはこう書かれている。――「これまで水産業における人身取引の問題は多々指摘されながらも,その特定性に欠けていたため対策をとることができなかった。APの報道はこれをダイナミックに変える」。一連の取材のなかでインタビューされたインドネシア政府高官,米国会議員,米国大手小売業,タイ大手水産会社CEOらは行動を起こしていく。

そしてAP記者たちが動かした相手は誰よりも,彼女らの取材に最初に応じたミャンマー人労働者たちである。その取材が過酷な状況にいた彼らを勇気づけ,救出につながったことが最大の意義であろう。

インドネシアの孤島に閉じ込められていた彼らのように,人身取引問題の調査研究対象は「隠れた人口」である。そうであるからこそ,調査する者の倫理が問われる。人身取引の被害者への調査者の心得と手法についてUnited Nations Inter-Agency Project on Human Trafficking [2008]は次のように列挙する。

①被害者を傷つけないこと,被害者に寄り添うこと,しかし中立であること,②個人の安全と防御を優先すること,リスクを確認し最小限にすること,③調査についての情報を与えたうえで同意を得ること,④匿名性,秘密性を可能なかぎり確保すること,⑤通訳およびフィールド調査のチームを適切に選定し準備すること,⑥被インタビュー者のニーズに応じて照会情報を準備すること,緊急の介入に備えること,⑦他者を助けることを躊躇しないこと,⑧情報を有効に活用することである。

本書の記者たちは奇しくもすべて女性であり,その行動力と判断力と実行力によって,これらの倫理要件を満たしながら,被害者の救出を実現させた。人身取引を調査研究することは,その問題の解決を指向する責任と義務を果たすことであるならば,本書はまさにそれを体現するものである。人身取引の被害者であるミャンマー人男性が22年ぶりにミャンマーに戻り母親と再会する様子を描いた記述と写真は,その場にいた者にしか書けない興奮と熱を帯びている。本書に収められなかった記事や事後譚が掲載されたウェブサイトも参照されたい。

本書にまとめられた2014年夏から2015年末にかけての一連の報道が関係各国,企業,国際社会に与えたインパクトは大きい。報道が社会的意義を有するには,その報道を受け止める社会の認識とタイミングがある。それでは本書はなぜそのようなインパクトを与えることができたのか。本書がそれだけの意義を認められ,評価されるに至るには,どのような理由があるのか。

IV 論評

本書への社会的評価が定まった理由は,人身取引問題に対する国際社会の認識とアプローチが変化したことにあると評者は考える。APの報道内容は,EU議会や米国議会で議論され,貿易政策に影響を与え,ビジネスのあり方,消費行動に変化をもたらした。そこには人身取引問題に関する報道を受け止める社会という器の変化があり,その背景には,国際法上の「人身取引」の定義の変化と「ビジネスと人権」のディスコースの展開がある。それらがあって本書は社会的評価を高めたのだ。

第1に,「人身取引」の国際法における定義の変化は,人身取引問題に対する人々の認識を変えた。人身取引問題はかつて女性と子どもの性的搾取の防止・撲滅を主眼としていた。対して,2000年国際組織犯罪防止条約の補足議定書である,「人,特に女性および児童の取引を防止し,抑止しおよび処罰するための議定書」(採択地から「パレルモ議定書」と呼ばれる)は,人身取引の定義をより広く明確にした。

「『人身取引』とは,搾取の目的で,暴力その他の形態の強制力による脅迫若しくはその行使,誘拐,詐欺,欺もう,権力の濫用若しくはぜい弱な立場に乗ずること又は他の者を支配下に置く者の同意を得る目的で行われる金銭若しくは利益の授受の手段を用いて,人を獲得し,輸送し,引き渡し,蔵匿し,又は収受することをいう。搾取には,少なくとも,他の者を売春させて搾取することその他の形態の性的搾取,強制的な労働若しくは役務の提供,奴隷化若しくはこれに類する行為,隷属又は臓器の摘出を含める」(パレルモ議定書第3条(a))。

パレルモ議定書は,被害者の性別を問わないこと,労働搾取を例示したこと,被害者の保護を規定したことによって,人身取引問題への認識を変えた。それまで女性と子どもの性的搾取に限られていた人身取引問題は,労働搾取をその対象とするようになったのである。詐欺による就労斡旋や労働現場における搾取が,人身取引のひとつの形態として定義されたことにより,その問題把握と対策が求められるようになった。

本書が取材の対象としてとらえた,ブローカーに騙され,タイの漁船で逃げ場のない労働を強いられるミャンマー人の実態は,パレルモ議定書の定義があってこそ「人身取引」と呼ばれ,政策の対象たるのである。

労働搾取型の人身取引が定義されたことに加え,第2に,ビジネスと人権のディスコースの展開によって,その問題へのアプローチが変化した。つまり,ビジネスと人権の関係,企業が人々の権利に与えるインパクトに関する議論が展開してきたことが,ビジネスの責任を追及した本書への時宜を得た社会からの評価をもたらした。

2011年国連人権理事会において全会一致で承認された「ビジネスと人権に関する国連指導原則」は,人々の権利を保護するのは国家の義務であるとともに,人々の権利を尊重する責務が企業にあると明記した(同原則の成立の詳細は,Ruggie [2013])。国際法において人々の権利を保護するのは国家の義務であり,私人であるビジネスは国際法の主体ではない。しかし,企業活動が人々に及ぼす影響が大きいため,企業は人々の権利に負のインパクトを与えることを避ける責務があると,同原則によって認識されるようになった。

人身取引問題についていえば,人身取引を防止,処罰するのは国家の義務であるという古典的パラダイムから,人身取引,とくに労働搾取型の人身取引についてはそれを引き起こさない,加担しない責務がビジネスにあると認識されるようになったのである。AP記者によるタイ・ユニオンやネスレへの取材は,企業はその操業によって人身取引を引き起こす,加担する,関係することを防止する責務があるという認識の広がりと深化によって意味をもつものとなった。

さらに国際法における相乗的な展開としては,2014年に,強制労働条約(1930年ILO第29号)の議定書の採択があった。その採択により,20世紀前半から存在している同条約で禁止されている強制労働が,人身取引というアプローチからあらたに照射された。タイが2014年の同議定書の採択に反対票を投じた唯一の国だったことは,本書のなかで報じられている。

同議定書を補足する強制労働(補足的措置)勧告(第203号)には,強制労働の防止策として各国の行動計画策定,強制労働のおそれがあるセクターへの労働法の適用拡大,労働基準監督の強化,搾取的な募集や斡旋からの移民労働者の保護が含まれている。そしてこれまで国家の役割,すなわち国際法上の当事者としての義務として議論されてきた人身取引や強制労働の防止,禁止について,国家以外の役割が認識されるようになった。

その展開をさらにG7エルマウ・サミット首脳宣言(2015年6月8日)に見ることができる。同宣言では「責任あるサプライチェーン」が政策課題に挙げられ,その実現のために,各国政府の義務,民間部門の責任が結びつけられた。同宣言以来,サプライチェーンにおける強制労働,人身取引がないよう促す法政策が,2015年英国現代奴隷法をはじめとして見られるようになる。

パレルモ議定書の策定に関わった国際法学者ギャラハーは,人身取引問題を3つの要素に分解している[Gallagher 2010]。①被害者もしくは潜在的被害者の脆弱性を増加させる要素,②人身取引された労働から生産される製品やサービスへの需要を創出もしくは持続させる要素,③加害者およびその共謀者が罰を受けずに操業できる環境を作り出し持続させている要素である。これらについて本書は,法的地位や言語の違い,洋上という限られた空間,エンフォーサーの存在など,被害者である外国人漁業労働者の脆弱性を増加させる要素をあぶりだした。そして人身取引された者の労働による水産物が流通する構造をとらえ,さらにその状態を放置してきた法制度の不備,不作為そして消費社会の無自覚を指摘した。

「人身取引」という言葉はときにジャーナリズムによって独り歩きしてしまう。しかし,この「人身取引」という用語がパレルモ議定書で定義されたこと,そして「ビジネスと人権」のディスコースの展開という背景があったからこそ,本書で報道される人身取引問題が具体的な形として立ち上がり,対策をとるべく政府,企業を動かしたのである。そして本報道への社会的評価をもたらしたのである。

タイの水産業における人身取引問題に関する対策や法政策論文としては,本書と相前後して,Chantavanich and Laodumrongchai and Stringer [2016], Renshaw [2016], Sukonthapan [2016]などが公表されている。

Ⅴ 社会に残された課題

本書を著したAP記者たちの行動は,2000人にのぼる被害者の救出に結実し,ピューリッツァー賞の栄誉を受けた。その一方で,人権を侵害されている人々を救うべく活動している人権擁護者(human rights defender)が多くの理不尽な困難に直面している。たとえば,タイにいる移民労働者のために活動してきた英国人アンディ・ホール氏は,2014年に工場で働くミャンマー人労働者への搾取をリポートしたことを名誉棄損として同工場の経営者に訴えられ,タイ検察による刑事裁判も並行して行われた。欧州の企業団体やEU議会がタイ政府に対し,同氏への訴えを取り下げるよう要請を繰り返した。同氏への訴えが取り下げられたのは2018年5月,その直後にタイ政府は首都バンコクでビジネスと人権への取組みを披露するセミナーを開催し,2014年の採択に反対した強制労働条約(ILO第29号)の議定書を批准した。工場の経営主からの訴えは執拗に続いている。

EU市場を失いたくないタイ政府は,さらに2018年末,いまだ13の批准国しかない漁業労働者の保護を目的とする漁業労働条約(ILO第188号)の批准をアジアの国として初めて決定した。これが奏功したのか,2019年1月9日にEUは2015年4月以来,タイの水産業に出し続けていたイエローカードを解除した。本書にまとめられた一連の報道が社会に与えた大きなインパクトが,政治的にはひとつの収束を見たといえよう。

EUの解除決定に対して,国際運輸労働者連盟は,タイの水産業の実態は何も変わっていない,かえって消費者に誤ったメッセージを与えると非難している。

タイからの水産物の仕向け先として日本は米国に次ぐ第2位である。ミャンマー人の搾取的労働に依存するタイの水産業の構造と消費社会のあり方を問うた本書の意義は,読み手である我々が「人身取引」と称される実態に向き合うことによって普遍性を有するであろう。

文献リスト
  • 山田美和編 2016. 『「人身取引」問題の学際的研究——法学・経済学・国際関係の観点から——』 アジア経済研究所.
  • Chantavanich, Supang, Samarn Laodumrongchai and Christina Stringer 2016. “Under the Shadow: Forced Labour among Sea Fishers in Thailand.” Marine Policy (68): 1-7.
  • Gallagher, Anne T. 2010. The International Law of Human Trafficking. Cambridge: Cambridge University Press.
  • Renshaw, Catherine 2016. “Human Trafficking in Southeast Asia: Uncovering the Dynamics of State Commitment and Compliance.” Michigan Journal of International Law (37): 611-659.
  • Ruggie, John Gerard 2013. Just Business: Multinational Corporations and Human Rights. New York: W.W. Norton & Company.
  • Sukonthapan, Pisawat 2016. “Indonesia & Thailand: ‘Maltreatment’/‘Forced Labor’/‘TIP’in Fisheries in Indonesia/Thailand.” INDONESIA Law Review 2016(1): 38-57.
  • United Nations Inter-Agency Project on Human Trafficking 2008. Guide to Ethics and Human Rights in Counter-Trafficking: Ethical Standards for Counter-Trafficking Research and Programming. Bangkok: UNIAP.
  • Seafood from Slaves: An AP Investigation Helps Free Slaves in the 21st Century (https://www.ap.org/explore/seafood-from-slaves/).
 
© 2019 日本貿易振興機構アジア経済研究所
feedback
Top