2020 年 61 巻 3 号 p. 109-113
自由主義(著者の言葉を参照すれば「個人の尊重」)を起点とする西欧近代法の枠組みのなかで,人権,憲政,民主の視点から現代中国と向き合う著者の姿勢(著者は「ストーリー」という言葉を充てることが多いように評者は感じている。そこで,次節以降では著者の論じる雰囲気を伝えるために「ストーリー」と表現させていただくことにする)は,本書に限らない。著者が学位論文を基に公刊した前著[石塚 2004]は,「個人の尊重」を「言論の自由」に見,比較憲法論的な視点から現代中国(法)と近代西欧法との間の溝がいつか埋められるという可能性を世に示した1冊であったからである。その後に著者が上梓してきた諸々の論考も,この原点からの延長線上にあると評者は思っている。
本書の構成は以下のとおりである。
本書のもとになった諸論考をすでに読んでいた評者にとって有り難かったのは,各部の末尾に設けられた「附記・解説」である。とくに第1部と第3部の「附記・解説」から,評者は日本の現代中国法研究における主流の共通理解(後述)を再確認できたし,また,それとは対極になる伏流の姿勢を少しビルドアップした拙著[御手洗 2019]の法的論理が間違っていないことも確信できた。以下でどういうことかを述べていくことにする。
第1部において著者が展開する「人権」をめぐるストーリーは,多くの日本法の法学者が前提とする近代法の理論に基づいているという意味で,「正統な」法学・憲法学の方法論に立つ3本の論考である。周知のように,いわゆる近代(化)理論は合理性を追求する考え方である。その前提に立つ近代法の理論は,たとえば「あるべき人(の姿)」として,一般人や個人という概念を使う。また,「人権」は普遍的に保護を受けるものとして,そして「権力」は暴走しやすいものとして使う。こうすることによって,社会的正義や社会的公正には唯一正しいものがあるという如く合理性を追求するストーリーを組み立てることができ,結果としてシンプルで分かりやすい論理の枠組みを提供している。
たとえば,本書において著者が展開し,また著者のストーリーを支える一元的人権観(第1章)や人権の形式的普遍性(第2章)は,その証左である。日本の憲法学も基本的人権の普遍性を承認し,別次元の人権を未成熟の人権として位置づけることによって,シンプルで,分かりやすい憲法論を展開してきた。要するに,一元的人権観やその形式的普遍性に基づく人権といえるものは唯一しかなく,タイプAの人権以外にタイプBの人権など有り得ないからこそ展開できる概念なのである。そうすると,著者に限らず正統な法学・憲法学の方法論からは,中国憲法が新設した人権条項(人権という文言が憲法条文のなかに入ったことを指す)は,基本的人権の普遍性と相容れないものと評価せざるを得ないから,これを別次元の成熟した人権として解釈する側(中国政府・共産党など。以下「体制側」とする)とは少なくとも距離を置くストーリーになってしまうわけである。
もちろん条文解釈をはじめとして解釈が多様であることは著者も承認するところである。しかし,著者は有権解釈(第3章)が体制側に独占されていることを問題として提起することによって正統な法学・憲法学の方法論の論調との隙間を埋めるかのように調整して,シンプルで分かりやすいストーリーを私たちに示してくれている。
著者のいうように,中国の人権問題を問うことがつねに私たち日本人の人権問題を見つめ直すことにつながるという認識には,評者も同意する。しかし,一元的人権観ではなく多元的人権観を承認し,タイプAの人権だけでなくタイプBの人権もあり得るだろうことを認めるならば,そこで展開できるストーリーは近代法の枠組みを優に超えるだろうから,正統な法学・憲法学の方法論によって,どこまで私たちの人権問題を見つめ直せるのだろうか。
論理的に突き詰めるならば,解釈の多様性を承認することによって,有権解釈を体制側が独占する法治も承認できるのではないだろうか。この点で,「私たち」(いわゆる西側諸国の人々)の権利論とは別次元の成熟した権利論があるとして中国的権利論の成立を肯定する評者は,著者とは異なる立場に立っている。
ところで,著者と評者が同じ立場に立っているであろうことについても触れておく必要があろう。それは,日本における現代中国(法)研究の主流が,現代中国(法)を「特殊中国的要素」のあるものとして把握し,内在的理解に努める方法論を常としており,法学・法律学の研究方法に依拠しないでいることに批判的な点である。ちなみに,特殊中国的要素として論じられることも多岐にわたるのだが,おもに「中国らしさ」や「中国だから仕方がない」,「中国独自の特別な文化」等の曖昧なマジックワードを日本の中国研究者自身が組み込むことによって「私たち」とのギャップを埋めてきた。この点について,前述の人権条項をめぐり有権解釈を体制側が独占することに批判的な論考を著者が展開するなかで,法学・法律学の研究方法と,それに基づく曖昧でないマジックワードを組み込んだ「特殊中国的要素」とを結合させようと試みたことは,学問・学術研究としての意義があったと評者は思う。
そのうえで,著者は第1部の「附記・解説」のなかで,主流の方法論と一線を画し,確たる原点から展開し,おそらくあるべき現代中国(法)の姿を遠くに眺めながら,法学者の言説が社会の変革につながっていないようにみえる現状から,「無力な法学」というに至っている。しかし,評者からみれば,著者の問題意識が近代法の理論の枠組みに忠実で,社会の変革機運に適応するものになっていないからなのではないかとも思う。
評者は,近代法の枠組みを深化させるか,または近代法を超える枠組みを構築するかの課題と向き合って後者を選んだからこそ,著者が前者を選び,その深化した姿をみせることを望みたい。とはいえ,だからこそ内在的理解に努める方法論が魅力的にみえる時もあるのは事実である。この点を垣間見られるのが,第2部における3本の論考である。
第2部において著者が「憲政」をめぐり展開するストーリーは,さらに日本の主流的現代中国研究の特徴を鮮明にしている。すなわち,対「体制側」という視点に立つ不変の構図の維持と「特殊中国的要素」の理解に努めるがゆえの,学問からの逸脱である。
著者は親交のある研究者の言説を通じて現代中国の憲政観に迫り,そこに民主主義に対する懐疑があることや,日本の憲法学者の多くがイメージする立憲主義との乖離を見,中国憲法の「あるべき姿」が立憲主義と相容れないと断ずる。これらの論考は明快で,多くの読み手は現代中国が未成熟の状態にあるように理解するだろう。シンプルにいえば,独裁国家であるから民主化すべきである,というメッセージを受け取る。
そして,著者がこのメッセージを対共産党・現政権側という構図のなかへ組み込んで,著者を含む研究者らが立憲主義と民主主義の接合を図って,体制側すなわち「もうひとつの権力」が主張する立憲主義なり民主主義なりを否定・批判するという青写真を示すことによって,読み手は魅了される。ただし,重ねて申し添えておきたいが,著者がインタビューを行った研究者らは日本を含む西欧社会一般の立憲主義や民主主義にも懐疑的な理解を示している。つまり反体制(側)なのではなく,あくまで対「体制側」の視点に立っているように評者には映るし,上記のシンプルなメッセージを著者と共有しているのかは不明である。
しかしながら,魅了される読み手のなかには,この構図における他方の姿(たとえば現代日本)を「あるべき姿」であると錯覚する危険がないとはいえない。現代日本の憲政観に民主主義に対する懐疑はないのか。国家権力の濫用を制限し国民の権利・自由を保障するだけが立憲主義なのか。そして,日本国憲法の「あるべき姿」は立憲主義と相容れるものなのか等々,私たち自身が見つめ直す必要のある問題も多い。
確かに二項対立的にストーリーを組み立てると読み手が分かりやすいことは事実であるし,「あるべき姿」との比較分析によってその異同を示しやすいことも事実である。しかしながら,そこには正統な憲法学や近代法の枠組みに忠実であるがゆえの限界と同じものが含まれているように評者には思われてならない。
もちろん著者も常々解釈の多様性を承認するので,この危険は意識しての論考だったと今でも思う。現代日本の憲政観にも民主主義に対する懐疑はあるし,憲法の精神を順守(=「遵守」ではない)する国家権力の運用によって国民の権利・自由を保障する立憲主義もある。ゆえに,著者は拒むかもしれないが,評者はやはり著者には中国の「立憲」,「民主」の可能性を「展望」しなければならない責任が当然にあると感じる。
そもそも学問とは予測する力をもつ体系的知識であるという定義に評者は同意する。そのため,研究者であれば個々の社会現象を分析し,そこに内在するさまざまな因果関係から特定の論理を解明する観察に常日頃から従事する。この観察の積み重ねによって共通する論理を析出し,それを不変の論理として言語化したものが論考である。そして,これらの論考が示す不変の論理に「概念」を付け加えて,それを理論として体系化した知識が学問を形成し確立していく。したがって,「立憲主義も民主主義も」という両者の接合を追求する著者のいう隘路を求めるストーリーに対して,評者は学問の姿を見続けたいのである。
第3部は「民主」をめぐる著者のストーリーであり,著者の学問の姿が垣間見られる。
著者は現代中国の社会現象として,情報公開や政務公開をめぐる現象および陳情という現象を取り上げる。第1部,第2部と読んできた読者であれば,情報公開や政務公開による言論の自由の拡大可能性から,そこに中国の民主化のストーリーを想起するかもしれない。また,情報公開地方法規のひな形をめぐる「広州モデルと上海モデル」(後述)という2つのモデルの盛衰から,そこに第2部と同じように対「体制」側という視点に立つストーリーを想起する読み手もいるだろう。さらに,陳情という社会現象に関する学説の分岐をとおして,権力の民主化による真の多数派支配の実現を目指す民主主義と,民主化された権力をも含めた権力からの個人の自由の確保を目指す立憲主義の,いずれに重きをおくかという戦略論があると読み解く者もいよう。あるいは,著者が目指す「立憲主義も民主主義も」という戦略の可能性を探るというストーリーを読み取る者もいるかもしれない。
まず前提として,著者と違って評者は「民主」の二義性を承認する立場に立つ。なぜなら民主とは「民の主(あるじ)」すなわち君主を意味するという語意の存在を承認するからである。たとえば「万国公法」ではデモクラシーに対置させるものとして「民主」が用いられていた。つまり,民主主義も君主主義も成立するのが日本語の「民主」である。よって,少なくとも日本では「民主」を民主主義と訳すしかないとはいえないから,「民主」を民主主義と訳せるか,という著者の問いは肯定もできるし否定もできる。
ちなみに民主主義とは,およそ国民・個人が直接もしくは間接に選出した代表を通じて権限を行使し,国民・個人としての義務を遂行する統治形態を想定し,国民・個人の自由を守る一連の原則と慣行を備え,多数決原理と国民・個人および少数派の権利を組み合わせた法システムを基盤とする考え方をいう。したがって,国民を前提にして上記の民主主義を解釈するストーリーは国民国家を前提とすることになり,逆に個人を前提とするストーリーは市民社会を前提とすることになるといえる。ちなみに,現代中国の憲法は人民(公民ではない)を前提とするストーリーを継続している。つまり,民主主義の解釈自体が多様性をもっているのである。こうしてさまざまな民主主義の姿が当然に承認されるのであるから,立憲主義と民主主義の両者を接合するストーリーは論理的には隘路でないはずである。
しかしながら,本書第3部を通読して,評者は著者自らが隘路を探し求めているような窮屈さを感じざるを得なかった。なぜ著者のストーリーを窮屈に感じたのだろうか。
確かに著者がいうように,地方政府と一般大衆との間を媒介する役割を期待されるのが法学者をはじめとする知識人であり,彼らに対する期待は,政策形成や規範的文書(立法を含む)の作成への関与であることはいうまでもない。また,その政務公開の実際について,権利救済制度としての不十分性も指摘できるだろう。さらに,著者が評価し,指摘しているように「公民」という語を使わず「個人」という語を使った広州モデルの支持(広州モデルと同様の地方法規を制定した数)が,従来どおり「公民」という語を使った上海モデルの支持(上海モデルと同様の地方法規を制定した数)を下回った原因を,中央や上級,すなわち体制側の高い評価を得やすいアプローチを後者が採用したことに求めることも,論理として理解できないこともない。
しかしそうであるならば,国家と個人の間のあるべき姿を示して,その媒介の役割を果たす知識人としての姿ないし論考を評者はみたかった。また,「学としての現代中国法」から学問として十分な権利救済制度の姿を示すべきだったろうし,法学・法律学の方法論に則って上海モデルがひな形となった論理を第一義的に示すべきだったのではないか。
まず知識人としての論考について。中国的権利論は権利の保護や実現の有無を指標とする権利基底的理論を極端に取り込んでいるというのが評者のストーリーであり,制度の実効性なるものは,「完全」をつねに目指して努力し続けるその法治社会を構成する全ての構成員の責務となる。そのため,そこでは法に合う権利(合法的権利)を保護し実現すれば十分な権利救済制度の存在を承認できるから,著者が取り上げた吉林省長春市の政務公開・情報公開は,保護する内容を条文として明記し,その救済制度を示しているため,十分条件を満たしているといえる。
一方,著者が指摘する権利救済制度としての不十分性すなわち実現可能性は,評者にしてみれば必要条件に属するものに映る。そして,上記の権利基底的理論のように指標がなければ何が不十分なのかを論じたことにならないのではないか。知識人として国家と個人の間のあるべき姿を示し,その媒介の役割を果たすならば,その指標を示して十分でない部分を明らかにする必要がある。その指標のない展開に,評者は窮屈さを感じる。
つぎに,法学・法律学の方法論による論理については,著者も指摘するように,広州モデルが過大な革新性を含む「個人」概念を採用したからにすぎないと評者も思う。これは,評者が分析した労働契約制度に関する法的変遷においても同じ論理が通用するので,少しは説得力があるだろう。すなわち,現代中国法は個人という一般的抽象的な概念を嫌い,公民という身分的具体的な概念を好む法体系を堅持し続けているのである。
簡単に紹介すると,現代中国は1980年代以前の労使関係との整合性を維持するために「労働者」とそれ以外の従業員とを区別する労働契約制度を文革後も展開する一方で,深圳市経済特区はこの区別を廃止し,「企業従業員」という新しい概念を導入して労使関係を刷新しようとした。たとえれば,「労働者」が正社員であり,「労働者」以外の従業員が非正社員である。労働契約を締結することで非正社員は一定期間だけ「労働者」と同じ利益を享受できるというのが労働契約制度の仕組みだった。一方,「企業従業員」は,この正社員と非正社員の垣根を壊す概念であり,いわば「抵抗勢力」を一掃する仕組みだった。前者が著者の紹介にある上海モデルに当たり,後者が広州モデルに当たる。そして,この盛衰は1994年7月に制定した労働法が,新しい概念を放棄する形で決着した。つまり,中国的小泉旋風は起こらなかったのである。
この社会現象から析出できる共通の論理は,現代中国(法)が建国以来基盤としてきた権利主体の対象や概念を放棄しないということである。普遍性はないかもしれないが,不変性を承認できる論理整合性を,こうして確認できる。
そうすると,上海モデルは論理整合性を確保すべく権利主体の対象である「公民」を採用していたのだから,他の情報公開地方法規が上海モデルを採用することは予想しやすく,著者が整理するように,実際に各地の情報公開地方法規は上海モデルがひな形となった。法学・法律学の方法論に則るのであれば,この法的論理を先ず確認すべきだったのではないか。そして,本書が著者のこれまでの論考を構成し直すものであったことも考えれば,補訂して欲しかったという思いの分だけ,評者には窮屈に感じたのかもしれない。
本書を総覧すれば,著者の論考と原点にある法観念が近代法理論の法観念であり,そこに「特殊中国的要素」を結合するなかで語れる諸々のストーリーが整理されていることを見て取れる。そして,著者のストーリーが今後もこの枠組みのなかで展開するのだろうという見通しも立つ。著者の今後の研究によって「学としての現代中国法」が確立することを期待したい。