アジア経済
Online ISSN : 2434-0537
Print ISSN : 0002-2942
書評
書評:佐藤仁著『反転する環境国家――「持続可能性」の罠をこえて――』
名古屋大学出版会 2019年 xv+318+30ページ
金沢 謙太郎
著者情報
ジャーナル フリー HTML

2020 年 61 巻 3 号 p. 97-100

詳細

Ⅰ はじめに

本書は東南アジアの森林や灌漑,漁業資源などのさまざまな現場をふまえて,国家が行う環境政策がなかなか効果を発揮しないのはなぜか,と問う。それは地域社会が自律性を失い,地域の環境や資源を保全する動機づけを失っているからではないか。「環境保護」制度の充実は,環境そのものの管理から,知らず知らずのうちに人間社会の管理へと侵蝕し,かえって地域の人々と自然環境との関係を悪化させている。本書では,この矛盾した現象を「反転」と呼ぶ。

まえがきは,2017年にベトナムでエビの養殖池を調査したときのエピソードに始まる。輸出用のエビ養殖ブームに沸く農村部では,半ば投機的に養殖ビジネスに手を出す農民が相次いでいる。そこでは病気で死んだ大量のエビはそのまま川に流されていた。著者にとって衝撃だったのは,川が汚れるのは「私の責任ではなく国の責任である」と言い放つ農民たちに少しも悪びれた様子がないことであった。「環境政策の優等生」ともいわれるベトナムには,環境を汚す行為に税を課したり,水質汚染に罰則を設けたりする規制はむろん存在する。しかし,「上からの」環境政策と,「日々の暮らしの向上にまい進する後発国の現場との間のギャップはあまりに大きく,小手先の対応では解決できそうもない」(ⅰ-ⅱページ)と著者は語っている。

本書は環境保護そのものに異を唱えているのではないし,すべての環境政策が反転すると主張しているわけでもない。「だが,いかなる政策にも,その負担を背負う人」(ⅴページ)がいて,耳あたりのよい介入ほど,地域の人々の環境保全意識を低下させる場合がある。とくに注意を要するのは,環境問題の解決が中央政府に委ねられる過程で,格差や不平等が拡大するときである。「環境国家」とは「(特に地域の人々から見て)環境保護や資源の持続可能性確保を目的に行われる介入の影響が,自然環境だけでなくその地域の人々の暮らし全体に及ぶようになった国家」(12ページ)と定義される。

著者の佐藤仁は,これまで開発研究,資源論,環境政策など幅広い分野において,刺激的な論考を発表し続けてきた。「現場に身を置いて,人々の側から問題を捉え議論を組み立てていくこと」を「社会科学の仕事」(ⅷページ)と言明する著者は,豊富なフィールドワークの実践に基づいて環境政策を読み解く。経済開発と環境保護をひとつの連続としてとらえる著者の視線の先にあるのは,そこに発動する権力の動きである。経済開発も環境保護も国家を主体とした公共事業であり,両者は一連のつながりをもつ。本書はこうした視点から,環境政策のパラドクスを解き明かしていく。

Ⅱ 本書の構成と概要

本書は既出論文をベースに,序章と第4章,終章の書き下ろしを加え,全体として以下の構成をとっている。

  •  序章   環境国家の到来
  • 第Ⅰ部   環境国家をどう見るか
  •  第1章   「問題」のフレーミング――環境国家の論理基盤
  •  第2章   環境を介した人間の支配――環境国家のメカニズム
  •  第3章   包摂と排除――初期環境国家の形成過程
  • 第Ⅱ部   環境国家とアジアの人々
  •  第4章   維持への力――インドネシアの灌漑施設と地域社会
  •  第5章   備える力――タイにおける共有地と自然災害
  •  第6章   手放す力――カンボジアの漁業と利権放棄
  • 第Ⅲ部   反転をくい止める日本の知
  •  第7章   文明の生態史観――京都学派と「下からの」環境国家論
  •  第8章   公害原論――被害者に寄りそう認識論
  •  第9章   資源論――縦割りをこえた「総合」論
  •  終章   反転をほどく

序章の冒頭には,ラオスの山奥で国際協力事業の現地スタッフが「カーボン」(炭素)について村人に語りかける場面が出てくる。彼らが手掛けている事業は,気候変動の緩和を目的とした森林保全である。環境事業を外から持ち込むスタッフの姿は,かつてアニミズム信仰が一般的であった東南アジアの山地民にキリスト教をもたらした宣教師と重なる。当時と今の違いは,先進諸国がつくり出した問題を解決するために後進国の奥地の人々の手を借りなくてはならないという関係性の変化にある。しかし,自然環境を保全するために実施されたはずの政策が,反転を引き起こす事例が出ている。たとえば,奥地の人々が強制移住させられたり,資源への自律的なアクセスが阻害されたりするケースである。その結果,当該地域の自然環境の持続性が失われていく。

第Ⅰ部第1章では,環境問題のある側面が選択的に強調され,問題の複雑性が単純化されるフレーミングという過程に注目する。フレーミングは,国家による資源・環境への働きかけに正当性を与え,そのお膳立てをする。著者は「これしかない」と政策の選択肢が限定されるときこそ,そもそもこの問題をとりあげることになった背景には,どのような力が働いているかを問い,他の選択肢の可能性を押し広げることが必要であるとする。

第2章は環境国家のメカニズムに迫る。森林や牧草といったローカルな資源も,現場の地域社会をこえて交易や税制,所有権,近隣の開発事業など,国家レベルの動きに影響を受ける。自然の資源化をすすめる経済開発が自然環境に影響し,その環境を守るための政策が再び資源化のプロセスに影響する過程で国家に権力が集中していく。これは環境保全の底流で人間の規律化が進んでいることを示しており,その不利益を真っ先に被るのは政治的弱者である。

第3章では,19世紀後半の近代化に差しかかった時代の日本とタイ王国(1939年まではシャム)を比較している。明治政府が導入した地租改正は土地の所有者個人と国家の契約関係に基づく中央集権的な構造への転換点となった。同時に,日本は極端な森林荒廃に代表される資源開発の限界に比較的早い段階で直面していた。そのため,国と地域住民は相互依存的な関係にあり,資源管理においては包摂的な政策がとられた。一方,シャムでは,山地民や地域住民を排除する方向で資源管理の政策が行われてきた。また,政府の実効的な統治が及ばない地域も多く残されていたため,相対的に地域の人々はより多くの自由を手にしていた。

第Ⅱ部に移って第4章では,国家主導で建設されたインドネシアの農業灌漑施設にスポットを当てる。そこでは,財源節約のために維持管理の業務をできるだけ地域に移譲したい政府と,維持管理を政府に担ってほしいと考える農民とのせめぎあいがみられる。いったん造られた水路施設がどのような維持管理を要求し,その対応を通じて国家と社会の関係にどう影響を与えるのか。「維持」への新たな視角は,自然と社会の関係だけでなく,これからの国家と地域社会の関係を読み解く鍵になる。

第5章では,タイの共有地と自然災害をめぐる議論が展開される。2004年のスマトラ沖地震により,タイ南部は津波による甚大な被害を受けた。沿岸地域には土地所有権をもたない人々も多く居住していた。復興・再開発の計画において,政府は厳格なゾーニングを実施し,彼らを元の居住地に戻すことを頑なに拒んだ。加えて,国境管理の厳格化や漁労活動(ナマコの採捕)の制限などがなされたため,彼らの備えは一気に奪われる事態となった。地域の人々の多様な「備える力」と国家の備える力の乖離は大きい。

第6章では,カンボジアのトンレサップ湖において,100年以上の伝統ある排他的な漁区システムを政府がコミュニティに全面開放した影響を考察している。伝統的な漁区システムは,共有地の私的管理という排他的な制度だが,安定した秩序を与えていた。これが解体されたことにより,漁区の境界線がわかりにくくなり,「不法漁業」が横行するようになった。不法漁業は,賄賂を警察や水産局,環境保護局の役人に支払うことで黙認され,巧妙に法律の網をかいくぐっている。

第Ⅲ部に移って第7章では,いわゆる京都学派の理論系譜とジェームズ・スコットのゾミア論が対比されている。前者には,梅棹忠夫の「文明の生態史観」や中尾佐助の「照葉樹林文化論」,川勝平太の「文明の海洋史観」,高谷好一の「世界単位論」が挙げられている。いずれも国家に先立つ生態的条件を重視し,競争と適者生存の発展段階論ではなく,棲み分けと平行進化の発想を基本とする。一方,ゾミアとは,20世紀半ば以前の東南アジア大陸部で,課税や徴兵を通じた国家への取り込みに抵抗し,それゆえに山に暮らすことを積極的に選んだ人々を指す。京都学派やゾミアの議論は,非国家,脱国家への着目とともに地域共同体を主体とした内発的発展への志向性をもつ。

第8章では,1970年代,宇井純が提唱した公害原論を手がかりに,権力と科学知の密接な関わりに注目する。宇井が遺した「公害に第三者はいない」という言葉は,本人にそのつもりはなくても,半ば自動的に「第三者」は加害者の側に立つことを意味する。著者は特定の知を価値あるものとみなし,他の知を取るに足らないものとして軽視する知の構造,格差に目をつぶってはならず,とくに学問の中立性を盾に政治や公正さの問題とは無縁とみなされがちな知こそ,暴力性をはらんでいると指摘する。

第9章では,縦割りをこえた「総合」論のモデルについて戦後初期の資源調査会の実践から論じている。戦後,GHQの顧問として日本に赴任したエドワード・アッカーマンは,復興計画の中枢であった経済安定本部のなかに資源委員会(後の資源調査会)を新設した。アッカーマンは徹底的な現地踏査に基づいて「自然の一体性」に即した資源の総合計画を組み上げようとした。

終章では,環境ガバナンス論と環境国家論の違いを明確にしている。環境ガバナンスとは,政府や企業,市民社会など多様なアクターが参画する環境管理の実践である。環境ガバナンス論は「意思決定の入口」,すなわち物事の決め方に関心を示すのに対して,環境国家論は「行為の出口」,とくに環境政策が人間社会に与える影響に注目する。従来の環境ガバナンス論が不十分なのは,開発国家時代の問題解決の手法と,それを支える制度をそのまま環境に投影しているところである。今必要なのは,競争に基づく経済的な自立ではなく,人間が互いにどのような関係を築くべきかという依存関係の質を問う環境国家の時代への転換であると本章は結んでいる。

Ⅲ 本書の意義とコメント

序章に登場した村で何をすべきだったのかという問いに対して,著者は端的に「外部からの介入の影響を人々が理解する時間的猶予をつくり,変化を受け入れられる体力を養うこと,そして彼らが『違ったあり方』を実現できる回路を確保すること」(276ページ)であると答えている。我々は具体的な環境問題を目の当たりにして,「何をすべきか」をつい考えたくなる。しかし,目的よりも手段の開発を優先する政策が採用されれば,思いがけない人の支配へと転化することがある。

あとがきに「『環境をいかに守るか』という単純なかたちで提示されることの多い議論を,相当に複雑にする内容である」(312ページ)とあるように,本書は目にみえやすい表層の次元だけでなく,問題の構造にひそむ国家と社会の依存のメカニズムという次元に踏み込んで議論している点に大きな特徴がある。著者の繰り出す多彩な修辞も魅力であり,真骨頂ともいえる。だが,ときに抽象度が高く,わかりにくい表現も散見される。たとえば「環境国家の反転を許容している近代科学の『知』が環境国家の反転を許しているのだとすれば」(220ページ)や「手放す力」,「反転をほどく」などである。

本書はまた,問題解決の見通しを日本の知的資産から導き出そうという政策的貢献もうたっている。しかしながら,第Ⅲ部の「反転をくい止める日本の知」については,やや物足りないと感じる向きもあると思う。著者によれば,第9章に出てくる資源調査会の「縦割りの克服」という試みや現地踏査に基づく資源の総合計画の立案などは,今日の政策にも求められる知見である。他方で,第7章の文明の生態史観と第8章の公害原論については,終戦後から1970年代という時代背景のなかで「主流となる考え方を批判する側に回ったアイディア」(272ページ)であり,前者を「差し迫った政策判断にじかに結びつくものではない」(195ページ)とし,後者を「知の格差問題」への異議申し立てという側面からとりあげている。そこで,気になるのは,第7章で京都学派のひとりとして紹介されている川勝平太であり,第8章で「生活知」の提唱者として登場する嘉田由紀子である。前者は静岡県知事の現職であり,後者は前滋賀県知事である。県レベルではあるものの,首長としてのそれぞれの発想や課題認識はどのように政策に反映され,いかなる結果をもたらしたのか。加えて,梅棹や宇井が耕した知的土壌は,時期や期間に限定された含意のみならず,より長い時間軸を射程においた評価も加えられると読者としてありがたい。

タイトルにもなっている「環境国家」という概念は,一般的には環境分野を統括する省庁が設置され,環境関連法規が整備され,国際条約の署名などを行う国家を意味する。しかし著者はこれを「制度と実態の乖離が著しい後発国に当てはめるにはふさわしくない」(12ページ)とし,後述のとおり独自の定義を付している。環境国家という造語は,著者が観察してきた東南アジアの環境保護の現場に暮らす人々の生活変化と深く結びついている。ただし,著者自身が述べているように,環境国家であるかどうかを客観的に示す基準はない。また,「環境国家の定義が一定しないのは,その影響を強く受けやすい地域住民の視点を中心に置く本書のスタンスからすると当然」としている(12ページ)。このような見解に従えば,東南アジア諸国は,時と場合によって開発国家になったり,環境国家になったりすると解釈してよいのであろうか。他方,日本やヨーロッパ諸国は,正転する環境国家と呼べるのか。やはり,定義が一定しないと,議論は錯綜するのではないか。

本書はその副題にあるように,持続可能性という概念に潜む罠に警鐘を鳴らすものである。現在,開発業界ではSDGsが一種の「流行語」になっているが,本書の問題意識を重ねれば,実態が伴っていないのにSDGsに対応しているかのようにみせかける「SDGsウォッシュ」やSDGsの反転の可能性にも留意する必要があろう。また,結論では,環境国家の権力構造を踏まえ「やはり,開発と社会制度のあり方そのものを見直す必要が出てくる」(293ページ)と言及されているが,今後具体的にそれをどう見直していくのかが問われることになろう。

本書は,持続可能とは何をいつまで持続することなのか,という問いについて幅広い学問的視野とアジアの人々の暮らし向きから深く探究した書物であり,今後開発と環境の問題を追究するうえで欠かせない道標になるだろう。

 
© 2020 日本貿易振興機構アジア経済研究所
feedback
Top