アジア経済
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書評
書評:トラン・ヴァン・トウ・苅込俊二著『中所得国の罠と中国・ASEAN』
勁草書房 2019年 ⅹ+272ページ
熊谷 聡
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2020 年 61 巻 4 号 p. 61-63

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 はじめに

それまで順調に成長を続けて中所得の段階に達した国が,さまざまな理由から経済成長率の低下に直面して停滞するという「中所得国の罠」の概念が登場してから10年余が経過した。中国やASEANなどの東アジア各国が中所得国の段階にあることともあいまって,「中所得国の罠」の議論はここ10年,経済発展研究の注目トピックのひとつであった。

本書は2つの点から「中所得国の罠」についての研究書として重要な意味をもつ。第1に本書は東アジアのほとんどの主要国について国別に分析を行っているにもかかわらず,各国の専門家による共著ではなく2名の著者によって執筆されている点である。これは,分析フレームワークの統一性という点で重要な意味をもつ。第2に,日本における東アジアを対象とした経済発展・産業発展研究の成果がふんだんに盛り込まれている点である。これは,著者らが長くこの分野での研究に携わってきたことに負うところが大きく,さらに本書が日本語で書かれた学術書であることがプラスに働いている。もちろん,「中所得国の罠」に関する英語論文にも,こうした日本における経済発展・産業発展研究の成果はフィードバックされているが,本書ではさらに多くの成果が取り込まれていることが日本語参考文献の多さからも読み取れる。

本書は「中所得国の罠」に関連する多様な議論や事例について包括的にカバーしており,一般読者から専門家まで,前提知識の多寡を問わず通読するに値する内容となっている。議論を行ううえでさまざまな経済発展理論を援用しているものの,数式の使用は最小限に限られる。一方で,豊富な時系列データを用いた図表が多く盛り込まれており,一般の読者にも理解しやすい内容になっている。

 本書の構成と概要

本書は11章を3部にまとめた構成になっている。第1部「中所得国の罠の課題と理論」では「中所得国の罠」の概念が登場した背景にはどのような事象があったのか,また「中所得国の罠」が生じるメカニズムはどのような理論によって説明されうるのかが紹介されている。冒頭から「中所得国の罠」の概念が登場した背景と開発経済学における位置づけ(第1章),「中所得国の罠」が生じる理由についての理論的枠組みの説明(第2章),歴史的にみた中所得国の経済成長実績と「罠」の特定および早期の脱工業化についての分析(第3章)と,東アジアに限定されない「中所得国の罠」の全体像についての議論が続く。その後,東アジアの経済成長を特徴付けているFDI主導型成長についての分析(第4章)と,東アジアの工業化過程について雁行形態論とフラグメンテーション理論を援用した分析(第5章)が示される。ここまでの5章によって,「中所得国の罠」の概念とその周辺にある経済発展に関連する理論および,東アジアや他の中所得国の経済発展の軌跡について,ひととおり理解できる構成になっている。とくに第2章では,低位中所得国の経済発展は要素投入型であるため労働・資本市場の発展が重要であり,高位中所得国への移行は全要素生産性が主導する成長への転換が鍵になるという本書の骨格をなす分析フレームワークが提示されている。

第2部「北東アジアの経験が示唆するもの」では,日本と韓国を例として「中所得国の罠」に陥らずに高所得国入りした2カ国について,経済成長の軌跡を振り返っている。第6章では明治期以降の日本の経済発展過程について,低位中所得国から高位中所得国への移行時には金融市場と労働市場の発達が大きく寄与し,高位中所得国から高所得国への移行には技術導入・技術革新が大きく貢献したと結論している。第7章では1960年代以降の韓国の高度成長を科学技術力の強化という観点から論じている。外国技術の模倣からはじまった韓国の科学技術政策が,外国技術の導入・改良を経て独創的技術・イノベーションの追求へと転換していく過程を,R&D支出などのインプットと,特許や論文数,貿易指標などアウトプットの両面の統計を用いて論証している。第2部では日韓両国を「中所得国の罠」を回避した急速なキャッチアップ型経済成長の成功例として取り上げ,他の中所得国への政策インプリケーションを引き出している。

第3部「中所得国の罠は回避できるか――中国とASEANの展望と発展」では,「中所得国の罠」の回避が目下の課題となっている中国およびASEAN経済について分析を行っている。第8章では,1978年の対外開放政策採用以降の中国の急速な経済発展について先行研究に幅広く言及しながら分析を進めている。著者らは,中国の低位中所得国から高位中所得国への移行は,労働・資本市場が十分に発展しなかったにもかかわらず国家主導の資本投資によって達成されたとみている。また,今後,中国が「中所得国の罠」を回避するために必要なイノベーション能力については,国を挙げた科学技術の振興政策にも支えられ,かなり高くなっていると認めている。著者らは中国は早晩高所得国入りするだろうと予測しつつも,現在の政治体制がネックとなり,高所得国入り後の持続的な経済成長は難しいと結論している。第9章では,高位中所得国に達しているタイとマレーシアの2カ国を共に外資主導型の経済発展の例として分析している。両国の工業化政策と外資導入政策の変遷を跡付け,アジア通貨危機以降の経済動向と発展戦略を論じている。第10章では低位中所得国のインドネシアとフィリピンについて,非工業型の経済発展モデルと位置づけて分析を行っている。とくに2000年代以降,インドネシアは資源依存型経済へ回帰し,フィリピンはサービス業主導型の経済になったと著者らはみている。しかし,両国の今後の経済成長を考えた場合,製造業の振興は不可欠であると著者らは結論している。

第11章はベトナム経済の分析である。近年年率平均7パーセントを超える経済成長率が続き好調に見えるベトナム経済について,著者らは社会主義経済からの「移行」と経済発展を目指す「開発」の2つの問題を同時に抱えているとする。1986年に開始されたドイモイ(刷新)政策について,2006年までを第Ⅰ期,2007年以降を第Ⅱ期と位置づけ,第Ⅰ期の経済成長は社会主義経済からの移行で開放された資源に海外直接投資が加わって経済発展が加速したと分析している。一方で,著者らは第Ⅱ期には「移行」の遅れが顕在化してマクロ経済が不安定になり,潜在的な経済成長力が発揮されていないとみている。

 コメント

本書は,東アジアの多くの国々を包括的かつ国別に分析対象としているにもかかわらず,各国専門家によるオムニバス形式ではなく,2人の著者による共通の枠組みに基づいた議論であることに最大の特長がある。もちろん,著者の専門であるベトナム経済の分析が最も深いなど,各国の分析には若干の濃淡があるものの,どの国についても統一的な枠組みを用いた必要十分以上の分析が行われている。本書の掲げる,①低位中所得国の経済発展は要素投入型であり,その促進には労働・資本など生産要素市場の整備が重要な政策課題である,②高位中所得国への移行には全要素生産性が主導する成長への転換が鍵となるため,イノベーションや技術導入が重要である,という分析フレームワークは,各国の分析例によって補強され,十分な説得力をもっている。

本書はまた,流行のトピックとみられがちな「中所得国の罠」の概念をテーマにしながらも,ソロー・スワン型の経済発展モデルを中心としたオーソドックスなマクロの経済発展論と,日本でこれまで蓄積されてきた「産業高度化」を鍵概念としたミクロの経済発展論の接合を図っている点にも大きな特徴がある。「中所得国の罠」研究においては中国やASEANが中心的な分析対象となっているため,英語論文においても東アジアの各国研究の成果がかなり引用されている。ただ,引用される東アジアの既存研究は英語論文が中心であり,その背後にある膨大な日本語による各国の経済発展研究・産業高度化研究の蓄積については必ずしも十分に踏まえられているとはいえなかった。本書では,そうした日本における東アジア各国を対象にした研究成果が数多く採り入れられており,日本語書籍であることのアドバンテージが十分にいかされた内容となっている。

結果として,本書における「中所得国の罠」の議論は,2010年代半ばまでのさまざまな議論をくまなく取り込んだものになっている。踏まえている理論的枠組みにしても,分析例としている国々にしても,中南米やアフリカについて深く論じていない点で「東アジアにおける」という限定はつくものの,本書は「中所得国の罠」研究の現時点での「総集編」といえる内容になっている。数式を多用せず,豊富な事例とグラフやデータを用いている点とも相まって,「中所得国の罠」について学びたい学生やビジネスマンにも推奨でき,一方で各国専門家であれば他国の事例と理論枠組みについて,マクロ経済の専門家であれば各国の細かい事例について知ることができる点で,十分に新たな知見が得られるものになっている。

惜しむらくは,第1部で提示した共通フレームワークを用いて第2部,第3部と各国の分析を進めたにもかかわらず,終章・結論がない点である。もちろん,各国の分析結果をフィードバックしたうえで理論フレームワークが提示されていることは理解できるが,終章として理論フレームワークが各国の事例に照らし合わせてどの程度妥当であったのか,また,各国において理論フレームワークに収まらない特異性があるとすれば,それはどのようなものであったのかが示されていれば,読者の「中所得国の罠」への理解がさらに深まったものと考えられる。

最後に,「中所得国の罠」研究の現在について若干述べておきたい。本書で包括的に議論されたような中所得国の罠に陥っている国には何が不足しており,そこに陥らなかった国は何が優れていたのか,という議論を踏まえ,2010年代後半に入ると「中所得国の罠」と制度や政治要因の関係についての分析が開始されている。Doner and Schneider[2016]が指摘する「生産性改善のための政策がわかっているのに,各国政府はそれをなぜ実行できないのか」という問題である。

世界には,合理的な政策を立案する能力が伴わない政府も数多くある。しかし,同様に,実施すべき合理的な政策は明らかであるにもかかわらず,それが実施できない,実施しない政府が数多くあるのも事実である。前者のケースは政策アドバイザーの派遣や政府・官僚の政策立案能力の向上によって解決することが可能であるが,後者のケースを解決することは非常に難しい。合理的な政策をあえて採用しない政府のインセンティブ構造を生み出している,より根源的な制度や暗黙の了解を見つけ出し,抜本的な改革を行う必要があるためである。

こうした制度的・政治的要因の分析に進むための大前提としても,本書で包括的に示された「中所得国の罠」の経済学的な分析を踏まえることが必須である。2000年代後半からスタートした中所得国の罠についての研究を一旦総括する研究として,本書は十分な包括性と深度をもっていると評価できる。

文献リスト
  • Doner, Richard F. and Ben R. Schneider 2016. “The Middle-income Trap: More Politics than Economics.” World Politics 68(4): 608-644.
 
© 2020 日本貿易振興機構アジア経済研究所
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