2020 年 61 巻 4 号 p. 64-67
現代中国の中央・地方関係論は1990年代に最も活発化した。しかし2000年以降の中央・地方関係には顕著な変化がなく,体制転換や民主化といった研究テーマとしての華やかさに欠けるためか,研究者のあいだではあまり注目を集めていない。しかし,これは中央・地方関係論の重要性が下がったことを意味するものではない。本書は1990年代半ばから習近平時代までの20年間の中央・地方関係の変化を綿密に分析した力作であり,中央・地方関係論の継承と発展に貢献するものである。
本書の構成は下記の通りである。
本書の目的は,中央・地方関係研究における「集権―分権のパラダイム」を改めて明らかにすることであると著者はいう。では,このパラダイムとは一体どのようなものなのか。著者の問題意識を整理すると次の2点にまとめられよう。
1つは分権のパラダイムである。改革開放の初期(1980年代)に中央政府は地方分権,すなわちそれまで把握していた多くの権限の地方政府への移譲を進めた。それに加えて,経済の自由化にともない沿海地域はいち早く豊かになり,地方の財政も潤うようになった。一方で,中央政府の財政赤字は改善されず,中央が豊かな地方政府にたびたび借金するほどであった。そのため,地方の台頭が政治体制の混乱を助長し,国家の分裂を招く要因の1つとして危惧され始めたのである[唐 2000]。
もう1つは集権のパラダイムである。1980年代に行われた地方分権および「弱い中央・強い地方」の構図は長続きしなかった。1990年代に入ると,中央政府は中央・地方間の財政配分を抜本的に見なおす分税制改革を推進し,中央の取り分を大幅に増やした。無論,経済が豊かな地域からの反対の声はあったものの,分税制改革を止めることはできなかった。先行研究ではこれを中央への再集権としてとらえ,「強い中央・弱い地方」の構図が確立されたと理解する[呉 2000]。
では,このような理解で中国の中央・地方関係を適切にとらえられるのか,と著者は問いかける。なぜなら,強い中央が確立されたのであれば,「乱収費」(注1),不動産バブル,地方債務といった地方政府の行き過ぎた行動による諸問題をすぐに解決できたはずである,と著者は指摘する。そして,習近平の時代に強まった再分権の動きは,1990年代の再集権の弊害に起因すると主張する。
第1部では,組織改編・人事権(第1章),財政(第2章),「乱収費」,予算外資金および地方保護主義(第3章)などを事例に,1990年代に行われた再集権の実態分析が行われる。著者によると,地方への統制を強めるための人事権行使には限界があり,分税制改革をめぐる先行研究では,中央と地方の対立が過度に強調されたという。また,「中央が強くなり,地方が弱くなった」とする議論の前提である再集権そのものが,そもそも未完のものであったという。
第2部では,まず,中央が強くなったことによる負の連鎖が分析される。著者は第4章で,農民負担(注2),不動産バブル,地方債務といった事例をとりあげ,1990年代の再集権との関連性を議論する。先行研究ではこれらの問題は分税制改革に起因すると指摘されたが,著者は再集権のための一連の政策がもたらした連鎖的な反応であることを強調する。つぎに第5章では,「省直管県」(注3)および中央からの財政移転制度を取り上げ,政策の実行過程が非効率で,資金流用の問題が多発したことから,中央への再集権による効果は限定的であったことを論証する。さらに第6章で,これらの課題を解決するため,習近平時代に推進された再分権を考察する。そして,この時期の再分権は,監視体制の再構築や「インセンティブ型政策執行体制」の構築をともなっており,従来の「集権―分権サイクル」とは異なることを著者は強調する。
終章で,著者は従来のゼロサム論を克服した「包括的柔構造体制」という新たな分析モデルを提起する。「官僚主義的組織原理」,「二律背反的制度」(注4),および「歴史的連続性」によって構成されるこのモデルは,中国の風土や文化,政治や統治の手法などを考慮しつつ,制度と組織をより柔軟に理解することが,中央・地方関係の実態に迫る道であることを示す。
本書は現代中国の中央・地方関係の全体像を視野に入れつつ,個別の事例研究も入念に行った非常にバランスの取れた学術書である。とくに,一次資料が不足するなかで,公文書を丁寧に整理・分析した著者の姿勢には強く感銘を受ける。さらに脚注には,中央・地方関係論を理解するために有益な情報が多く含まれており,後進の研究者にとっても重要な資料となっている。以下では,まず本書の優れたところを2点指摘したい。
1点目は中央・地方関係論の細分化である。著者がいうように,中央・地方関係を単なるゼロサムゲームでとらえてしまうと実態をつかむことはできない。1990年代の先行研究では人事権と財政に注目したあまり,具体的な政策は軽視された。確かに,人事権と財政権限は両者の力関係を描写するにあたって,象徴的な意味合いをもつ。しかし,中央・地方の関係を一層深く掘り下げるには,具体的な政策分析は避けられないと評者は考えている。
過去の政策を考察すると,中央から末端にまで徹底されたもの(たとえば,農業税撤廃)もあれば,そうではないものもある(たとえば,不動産バブル抑制政策)。では,どの政策が執行され,どの政策が棚上げされたのか。執行されない理由はどこにあり,どのような対策が講じられたのか。これらの問題を1つずつ解明する過程こそが,中央・地方関係の実態を掴むプロセスである。本書では,政策の内容と実態分析を両立し,具体性に富んだ議論を展開することで,単純な二項対立ではない中央・地方関係像を読者に示すことに成功している。
第2に,中央・地方間の連鎖反応に注目した点を高く評価したい。「一抓就死,一放就乱」(握りしめると固まり,緩めると混乱する)という表現は,改革開放初期の政治・経済状況を的確に表しており,今日の中央・地方関係を考察するにも有益な視座を提供する。握りすぎず,緩めすぎず程よい均衡を探る試行錯誤が,中央・地方間で行われる「放権―集権」のサイクルといえよう。このサイクルを理解するには,より長いタイムスパンで政策過程を考察する必要がある。第4章,第5章でとりあげられた事例研究は,問題の原因を単に分税制改革に求めるのではなく,改革がもたらした負の連鎖,それにともなう政策の修正,次の連鎖(再分権)などを的確にとらえている。
一方で,本書を読み終えて物足りなく感じたところも少なくない。第1の疑問点は,中央・地方関係の中の利益代弁者についてである。著者の中央・地方関係論は構造の変化にウェイトを置いている。分税制改革,人事権,およびその他の事例も究極的には構造の範疇に入る。一方で,中央あるいは地方の利益を代弁するのは誰かという問いには,必ずしも明確な答えが示されていない。利益代弁者に注目することは,中央・地方関係が二項対立ではないことを証明する1つのカギになるのではないだろうか。
第1章の広東省の事例には,地方利益の代弁者らしきものが存在する。しかし,これは中央対地方の構図で描かれた人物像であり,まさに著者が批判するゼロサム論者が好むものである。そして,第3章で扱われている不動産バブルや地方保護主義については,地方利益の存在は認識されているものの,その利益の代弁者に関する議論はみられない。そこで疑問として残るのが,地方利益の代弁者は存在するのか,存在するのであれば,何をもって代弁者であるといえるのか,という問題である。
地方政治の中心人物およびその人物をとりまく人々が,中央と地方の狭間でどのような選択をしたのか。これは魅力的な課題であるが,資料的な制約からその解明に取り組むことは困難であった。幸いなことに,近年,分税制改革の当事者たちの回顧録が次々と出版され,中心人物の役割が少しずつ明らかになってきている。欲をいえば,変化する中央・地方関係のなかで,人はどのように動いたのかをもっと知りたかった。
著者が新たに提起した「包括的柔構造体制モデル」についても,若干の疑問が残る。これは本書最大のハイライトともいえるが,比較政治学で強調される検証可能なモデルというより,地域研究で重視される多角的な視点である。しかし,モデルとして提起した以上,各構成要素の定義とそれらの相関関係,異なる要素がモデルに与える影響などを,十分に説明する必要があるのではないだろうか。
とくに疑問に残るのは,モデルの第2要素として示された「二律背反的制度」である。著者は「中央はすべてを支配するが,どれ1つとしてうまく管理できない」事実を説明するために,「二律背反」という表現を用いている。問題はこれを制度といえるかどうかである。仮に,これを制度としてとらえる場合,中央から末端にまで徹底される政策はどのように解釈すればよいのだろうか。
評者からみれば,二律背反の実態は現象であり,巨大な官僚組織の中における局部的な離脱行為である。したがって,この現象の大部分はプリンシパル・エージェント論で説明することができる。プリンシパルである中央政府が絶対的な支配権をもち,エージェントとしての地方政府は中央政府の支配権に挑戦しないという基本的なゲームのルールを守りながら,自己利益の最大化を図る。そして,管理コストの大きさゆえに,中央政府は地方政府の離脱行為を完全にはコントロールできない。このロジックは中央と省との関係に留まらず,省レベル以下の政府間関係にも応用できると考えられる[任 2016]。
無論,著者自身もモデルを精緻化する作業が必要であると認識している。その際,中国研究の範疇に留まらず,比較政治学,比較共産主義研究,組織学など,他の分野との対話も念頭に入れつつ作業を進めれば,より説得力の強いモデルになるのではないだろうか。
Huang[1981]は,数字による管理(mathematical management)の欠如が明王朝の崩壊をもたらした1つの原因であると指摘し,1980年代の中国の知識人に大きな衝撃を与えた。明の時代の話ではあるが,当時の中国にも通じるところが多かったことがその背後にある。これは正に著者がいう歴史的連続性に通じる。一方で,今日の中国をみると,統計データ,官僚の業績評価,緊急時の個人の移動制限まで,数字による管理はあらゆる側面に広がっている。中国が数字による管理を実現できた場合,中央・地方関係はどのように変化するのか。これは中国研究者が本格的に取り組むべき課題でもある。
最後に,本書は中国語のニュアンスを忠実に再現するあまり,「講政治」,「省管県」,「収支両条線」といった日本語では分かりにくい表現を多用している。本書のおもなターゲットは中国専門家およびそれを目指す院生だと思われるが,わかりやすい表現を使うことにより,それ以外の読者も手に取りやすくなるのではないだろうか。