アジア経済
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論文
「ビジネスと人権に関する国連指導原則」にもとづくタイの国家行動計画の策定――なぜタイはアジア最初のNAP策定国となったのか――
山田 美和
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2021 年 62 巻 2 号 p. 2-23

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《要 約》

「ビジネスと人権に関する国連指導原則」が2011年国連人権理事会において全会一致でエンドースされた。この指導原則を各国が実行すべく策定する政策文書が「ビジネスと人権に関する国家行動計画」(National Action Plan on Business and Human Rights:NAP)である。欧州各国によるNAP策定が先行する一方,タイ政府が2019年10月に初のアジア地域における国としてNAPを閣議決定し公表した。本稿では,なぜタイがアジア地域において最初にNAPを策定するに至ったのか,その過程を分析し,タイNAP策定の意義,その意義を具現するNAPの内容の特徴を分析する。軍事政権下にあったタイは,国連人権理事会における普遍的定期的レビューを逆手に取り,EU市場に応え,かつASEANのリーダーたることを示すためにNAP策定の機会を最大限に活用したと分析される。タイNAPの特徴は,国際社会から非難されてきたイシューに直截的に対応していることであり,なかでも越境投資・多国籍企業分野における政策には,投資受入国であり投資企業の母国でもあるというタイの経済的立ち位置が如実に表れている。

Abstract

The UN Guiding Principles on Business and Human Rights were unanimously endorsed by the UN Human Rights Council in 2011. To implement the Guiding Principles, governments of countries worldwide have drafted and launched their own national action plans on business and human rights (NAP), which consist of policy documents aimed at protecting human rights and ensuring that companies fulfill their responsibility to respect human rights. Although many European countries had already published their NAPs, no Asian country had until Thailand drafted and launched its NAP in October 2019. This article discusses the background and process behind the drafting of Thailand’s NAP, investigates the reason why Thailand became the first country in Asia to do so, and discusses the significant features of the NAP and the policy measures it contains. During its military-led administration, which was criticized in a Universal Periodic Review by the UN Human Rights Council, Thailand took the development of its NAP as an opportunity to respond to demand from the EU market. Further, Thailand utilized the process of making its NAP to display its leadership among ASEAN member states. Thailand’s NAP directly addresses the issues for which Thailand has been criticized. Its uniqueness as an investment-hosting state is reflected in its policy measures on cross-border investment and multinational enterprises.

 問題の所在

Ⅰ NAPとは何か

Ⅱ タイのNAP策定プロセスとその背景,動機,意義

Ⅲ タイのNAPの特徴

 むすびにかえて

問題の所在

多国籍企業の活動が活発になるに従い,その投資先国である途上国社会に対して有する影響力,現地の人々の権利に与える負のインパクトが拡大してきた。その企業の活動をどう規制するか,企業活動の自由度を狭めたくない先進国(多国籍企業母国)と多国籍企業,それに対して多国籍企業の活動を規制しようとする途上国(多国籍企業による投資受け入れホスト国)と市民社会が対立してきた。その対立の構造関係を修復すべく作成されたものが「ビジネスと人権に関する国連指導原則」(以下,指導原則)である(注1)。同原則は2011年に国連人権理事会において全会一致で承認された。この指導原則を各国が実行すべく策定する政策文書が「ビジネスと人権に関する国家行動計画」(National Action Plan on Business and Human Rights:NAP)である。

2013年9月にイギリスが世界に先駆けてNAPを公表し,2019年末時点において欧州では18カ国が公表している(注2)。またアメリカにおいても2016年に「責任ある企業行動計画」が策定された(注3)。その一方,世界経済においてその重要性を拡大しているアジア地域において,NAPを策定し公表する国はなかなか現れなかった(注4)。そのようななか,タイ政府が2019年10月29日にアジア地域における国として初のNAPを閣議決定し,公表した(注5)。先行するNAPが主に多国籍企業母国として策定されたのに対し,タイのNAPは,タイは投資受入国であるということを明示していることが,これまでのNAPには見られない特異性となっている。では,どのようにしてタイはアジア地域における最初のNAP策定国となったのか。そしてその意義は何なのか。

本稿では,なぜタイがアジア地域において最初にNAPを策定,公表するに至ったのか,その策定の過程を分析する。そしてタイがアジア地域において最初にNAPを策定し,公表することの意義,その意義を具現するNAPの内容の特徴を分析する。これまで先行する欧州各国のNAPについてはDe Felice and Graf[2015]ICAR, ECCJ and Dejusticia[2017]Augenstein, Dawson and Theilborger[2018]による分析や評価がなされているが,タイのNAPについてはない。

本稿の構成は,まず第Ⅰ節において,NAPとは何かを説明し,そのグローバルおよびアジアにおける動向を整理する。その上で第Ⅱ節において,タイにおけるNAP策定のプロセスについて,その背景,動機,意義について分析する。そして第Ⅲ節においては,その動機によって具現化されたタイのNAPの特徴を論じる。最後に双方にとって政治的経済的に重要な相手国である日本へのインプリケーションを論じる。

Ⅰ NAPとは何か

1. 「ビジネスと人権に関する国連指導原則」とNAP

2011年国連理事会第17会期において人権と多国籍企業およびその他の企業の問題に関する事務総長特別代表であるジョン・ラギーから最終報告書が提出され,「ビジネスと人権に関する指導原則:国際連合『保護,尊重および救済』枠組実施のために」が審議され全会一致で承認された(注6)。同報告書は,企業活動と人権の問題の深刻化の根本原因はガバナンス・ギャップの存在,すなわち企業を含む経済的アクターがもたらす負の側面と,それを適切にコントロールできない国際社会側の能力のギャップであるとし,指導原則はそれをできるだけ少なくし埋めていくことを目的として作成された。指導原則は,第1の柱である人権を保護する国家の義務,第2の柱である人権を尊重する企業の責任,そして第3の柱である救済へのアクセスから構成され,31の原則を規定している。指導原則の普及と実行のために,人権と多国籍企業およびその他の企業のイシューに関するワーキンググループ(以下,ビジネスと人権国連WG)が同年設置された(注7)

同WGは2014年第69回国連総会に各国政府にNAP策定を促す報告書を提出した(注8)。そこで示されたNAPの基底となるべき原則として,国家の義務と企業の責任の相互補完と関連性,スマートミックスによる各国の状況に即した施策,政策の垂直的・横断的一貫性,スタンダードをあげることによる国際的なレベルプレイングフィールド(公平な競争条件)の形成,そしてジェンダー,特に侵害を受けやすい集団の課題の5つを明記している。端的に言えばNAPとは,指導原則をどのように運用し実行していくのか,各国政府が立案し執行する政策文書であり,その目的は,ビジネスと人権に関して,様々なマルチステークホルダーからのニーズとギャップを把握し,具体的かつ実行可能な政策と目標を明らかにするプロセスによって,企業による人権侵害を防止し,人権保護を強化することである。

2. 先行する欧州各国のNAP策定

2011年に欧州委員会は企業の社会的責任(CSR)に関する政策文書を発表し(注9),指導原則を実行すべくNAPの策定を欧州連合(EU)加盟国に促した。2013年9月にイギリスが世界に先駆けてNAPを策定,公表した。続いて同年11月にオランダ,2014年にはデンマーク,フィンランド,2015年にはリトアニア,スウェーデン,ノルウェーという欧州各国が策定した。同年末にはコロンビアが欧州以外の初めてのNAP策定国となった。NAP策定は,2015年のG7エルマウ・サミット首脳宣言(注10)や2017年のG20ハンブルク首脳宣言(注11)においても奨励され,2016年にはスイス,イタリア,ドイツ,アメリカ,2017年にはフランスなど欧州7カ国で策定された。先行した欧州各国およびアメリカのNAPの共通点は,自国企業が人権尊重の責任を促進するために政府が何をするか,海外における自国企業による人権の尊重を強調している点である。すなわち多国籍企業母国として,自国企業がその投資先国における事業活動において人権を尊重するよう促している(注12)。企業の人権尊重を促す具体的政策として,企業に自発的にもしくは規制として人権デューディリジェンスを導入させ企業のサプライチェーン上の人権リスクの特定を促している。そして自国企業のみならず,貿易や投資の相手国の企業による人権尊重の促進を促している。そうすることによって,経済活動にとってレベルプレイングフィールドが形成されることが企図されている[山田 2017a]。

3. アジアにおけるNAP策定の遅れ

欧州各国そして南米においてもNAP策定プロセスが進むなか,2016年4月初めてのアジア地域ビジネスと人権フォーラムが開催された(注13)。そこでアジア各国におけるビジネスと人権の課題が挙げられ,アジア地域においていまだNAP策定の動きが見られないこと,アジア各国政府によるコミットメントがないことの現状と課題が議論された[山田 2016]。オープニング・プレナリーにおける基調演説で,指導原則の草案者であるジョン・ラギーは,他の地域に比べて,アジア各国の政府のビジネスと人権の課題への取り組みの躊躇は,人権を尊重することは経済成長や持続的発展の足枷になるという誤った思いこみに起因しているかもしれないと指摘した。NAP策定について「・・・アジアでは,特に欧州より遅れている。・・・ここ数年にわたりビジネスと人権国連WGやその他がすべての政府に対してNAP策定を促しているのに,まだアジア各国の政府はNAPを策定していない」と報告されている(注14)

なぜ,NAPへのコミットメントがいまだ限られているのか。それが議論されたセッションでは,アジアをはじめとする各国からの参加者によって率直な意見が交わされ,NAPが作成されていない最大の要因として,政治的意思の欠如が挙げられた。その欠如は人権尊重は経済成長を妨げるという誤解から生じていることもあるし,人権という言葉自体の特定の背景におけるセンシティビティや矮小化された理解の仕方が原因との意見も出された。また政府や省庁におけるキャパシティ不足も指摘され,時間と資源の制約のなかで,人権は追加的コストとの政府の見方がNAPの進展の妨げとなっていることも挙げられた。それらを打破するには,誰がNAPに責任を有するのかという,明確な政治的マンデートが必要であることが強調された。それらの制約を克服し抜きん出たのがタイである。そのアジア地域フォーラムでは,タイ国家人権委員会コミッショナー,プラカイラッタナー・トンティラボン(Prakairatana Thontiravong)率いるタイの代表団の積極的な動きが見聞された。

Ⅱ タイのNAP策定プロセスとその背景,動機,意義

1. タイのNAP策定のプロセス

タイのNAP策定プロセスの開始は,国連人権理事会における普遍的定期的レビュー(UPR)を緒とする。2016年5月に開かれた第25会期において,タイは4年ぶり2回目のレビューを受け,そこでスウェーデン政府から指導原則を実施するためにNAPを作成し実行することを勧告された。その勧告に対応する自主的誓約(Voluntary Pledge)の行動計画をタイ政府関係機関はドラフトし,それが内閣に提案され2017年1月に合意された。その計画の一部として,法務省権利自由擁護局がビジネスと人権に関する国家行動計画を作成するフォーカルポイントとして指定された。

公表されたタイの「ビジネスと人権に関する第一次国家計画」(1st National Action Plan on Business and Human Rights 2019-2022)(注15)(以下,タイNAP)は,3年をかけた策定の過程を,3つのフェーズに整理する。すなわち2016年から2017年の閣議決定を挟む期間におけるステークホルダーとのワークショップなどによる情報収集およびダイアログ,2017年から2018年のゼロドラフト作成とそれに対するパブリックコメント募集,ビジネスと人権国連WGメンバーからの意見や勧告,そして2018年から2019年のステークホルダーとのさらなる会合を重ねてのドラフト作成,再度パブリックコメントにかけての最終案の作成である。その過程は,以下の通りである。

2016年11月14日法務省は同省権利自由擁護局長を委員長とする,ビジネスと人権に関する国家行動計画を準備,作成,モニターおよびその実施を評価するための委員会(NAP委員会)を任命する命令(No.557/2559)を発した。その構成は国家人権委員会,外務省,商務省,財務省および労働省等関連省庁から成る。既述の2017年1月31日の閣議決定においてマンデートを得た同局は動きを加速させる。指導原則の実施には政府,企業,市民社会組織など幅広いステークホルダーの関与が不可欠と考えられ,2018年3月19日にそれらの関係者を追加したNAP委員会の任命に関する命令(No.89/2018)を新たに発令した。法務省権利自由擁護局はタマサート大学法学部教授とゼロドラフトを作成し,全国5つの地域でのコンサルテーションを行い,2018年6月27日から2018年7月31日にかけてパブリックコメントを募った。2018年4月にはビジネスと人権国連WGメンバーを招聘し,タイにおけるビジネスと人権に関する状況およびNAPドラフトについてもコメントおよび勧告を受けた。国連開発計画(UNDP)の協力を得て,国際機関,公的機関,市民社会,国有企業,企業との複数の会合を行った。ゼロドラフトから改良されたNAP案が2019年2月15日から3月15日までパブリックコメントにかけられ,そのフィードバックを考慮の上,修正されたNAPが法務省から内閣に提出された。2019年10月29日タイにおけるビジネスと人権に関する最初の国家行動計画が閣議決定された。同年11月の第8回国連ビジネスと人権フォーラムにおいてタイのNAP策定,公表は大きくアピールされた。

タイがUPRを契機として国際機関との協働に動きNAPを策定した動機は,その置かれていた国際的立場にあったと分析される。それはどのような状況にあったのか。

2. タイNAP策定の背景と動機――軍政下における人権侵害批判とUPRへのポジティブな反応――

2014年5月タイでは,プラユット・チャンオーチャー(Prayut Chan-o-cha)陸軍司令官の主導でクーデターが起き,政権を掌握したプラユットは自ら暫定首相となった。クーデターは欧米諸国から強く非難され,開始されていたEUとの自由貿易交渉は凍結された。プラユット暫定政権は,混迷したタイの社会秩序および治安の維持を最優先として,政治活動の禁止や報道規制などの抑圧的な措置により政治デモを封じ込め,言論統制を強化し,汚職撲滅や不法移民労働者の取締りを強化した。それらは人権侵害であると国際社会から批判され続けてきた。

タイにとって欧米諸国との貿易への依存度は高い。タイの輸出相手国として,アメリカ,EUは2014年ではそれぞれ2位,3位であり,2015年および2016年ではアメリカは1位,EUは3位である。輸出入総額としてもEUはタイにとって中国,日本に次ぐ第三の貿易相手国であり,貿易総額のおよそ10%を占める[アジア経済研究所 2017]。アメリカやEUが経済制裁や禁輸措置を発動すればタイ経済に与える打撃は大きい。

政治体制や人権に関する欧米諸国からの批判に対し,タイは国内政治への介入には断固拒否する姿勢を固持していた。しかし同時に,2016年策定の第12次国家経済社会開発計画において投資を通じた国際競争力の向上,ASEAN域内における生産・統括拠点としての魅力の向上をめざすタイは,アメリカ国務省人身取引報告書で最低ランクに位置付けられた人身取引問題やIUU(違法・無報告・無規制)漁業問題に対しては実務的な対応を行い,民政復帰をにらんだ柔軟な姿勢を示していた[アジア経済研究所 2016; 2017]。

2016年5月国連人権理事会第25会期において,タイは4年ぶり2回目のレビューを受けた。そこでは,憲法停止,人権弁護士の失踪,言論統制,政治活動の制限,移民労働者の権利侵害等について改善を求める勧告が各国からなされた。そのなかのスウェーデン政府による「ビジネスと人権に関する国連指導原則を実行するためのビジネスと人権に関する国家行動計画を作成し,策定し,実行せよ」という勧告に対して,タイ政府は好機として積極的に反応したのである。

2019年3月に国連人権理事会に提出された進捗報告では,2016年11月にNAP委員会が設置されたこと,2017年5月のタイ国家人権委員会,法務省,外務省,商務省,タイ工業連盟,タイ銀行協会,タイ商工会議所およびグローバル・コンパクト・ネットワーク・タイランドによって指導原則を実行するための協力覚書が署名されたこと,複数のパブリックコンサルテーションを実施したこと,NAPの草案は終盤に入っており,優先分野として労働,コミュニティ・土地・天然資源・環境,人権擁護者および越境投資・多国籍企業に焦点をあてること,さらには,NAPの実行は,責任ある企業行動を促進する経済協力機構(OECD)との協力プログラムのサポートを得ることが報告されている。そして,2018年3月26日から4月4日のビジネスと人権国連WGの招聘についても,同WGからタイ政府の強い政治的意思を評価されたこと,同WGの助言をNAP作成に活かすこと,同WGのタイ王国訪問の公式報告書は2019年6月の国連人権委員会第41会期に提出されると報告されている(注16)

タイがNAP策定プロセスを国連人権理事会に向けて発信し,前回のUPRに応える形での策定であること,そのプロセス自体に国連WGを関与させていること,実行にあたってはOECDと協力することなど,NAP策定を自らの国際社会に向けた積極的なアピールとしていることが観察される。暫定政権の正当性の欠如への批判に対して,NAP策定へのトップコミットメントでかわしたのである。

タイのこのようなUPRへの前向きかつ積極的な反応は他に例をみない。2014年にビジネスと人権国連WGがNAP策定を勧告して以降,ASEAN各国のUPRにおいて指導原則の実行について言及されているのは,2016年1月の第24会期におけるシンガポールのUPRが最初である。同国に対しオランダがNAP策定の経験を共有すべく,国連WGの勧告に従ってNAPを策定するよう勧告した。それに対してシンガポール政府は留意するに留め,すでに企業の社会的責任および持続可能な開発を促進していると回答した。同年5月のタイのUPRにおいて,スウェーデンからのNAPの策定の勧告に対し,タイが自主的誓約においてビジネスセクターにおける人権の原則と実務を促進することを明記したのとは対照的である。2019年1月人権理事会第32会期におけるベトナムのUPRでは同じくスウェーデンから,指導原則を実行するためにビジネスおよび市民社会と対話をしNAPを作成,策定そして実行するよう勧告が出された。ベトナムはその勧告を受け入れなかった。表1に示す通り,タイのようなポジティブな反応は他にない。軍政であったタイがUPRの勧告を受け入れNAP策定に注力したのは異例であると同時に,タイがその機会を大いに活用したことが看取される。2019年11月25日第8回国連ビジネスと人権フォーラムの「さらなる政府のリーダーシップ:コミットメントから行動へ」と題されたハイレベルプレナリーでは,パネリストとして,ウィシット・ウィシットソラート(Wisit Wisitsora-at)タイ法務省事務次官がNAP策定を誇らしげに披露し,その隣りにはアナ・ホールベルグ(Anna Hallberg)スウェーデン対外貿易大臣がいた。

表1  ASEAN各国のUPRにおける「ビジネスと人権」に関する勧告

(出所)国連人権理事会各会期報告書より筆者作成。

3. ASEANにおけるビジネスと人権の展開とタイのリーダーシップ

アジア各国政府のビジネスと人権への取り組みの動きが鈍いなかで,ASEAN政府間人権委員会(AICHR)は取り組みを始めていた。2009年第15回ASEAN首脳会議によって設立されたAICHRは,その5カ年計画(2010~2015年)において最初のテーマ別調査の対象として,CSRと人権,ビジネスと人権を取り上げ,2014年にCSRと人権に関するベースラインスタディを作成した[AICHR 2014; 鈴木 2016]。

2015年末の首脳会議でASEAN共同体の設立が宣言され,ASEAN共同体ビジョン2025が発表された。ASEAN共同体は,ASEAN政治安全保障共同体(APSC),ASEAN経済共同体(AEC),ASEAN社会文化共同体(ASCC)から構成され,いずれの青写真においてもCSRの推進が明記されている[ASEAN 2015]。APSC青写真2025では,「CSRを定着させるため,民間セクターおよび他の関係するステークホルダーとの協働を強化するためのASEAN財団を支援する」(A.2.2.v.)。AEC青写真2025でも同様に明記されている。「CSR活動を促進するためにステークホルダーと密接に協働する」(D.5.78.ii.)。ASCC青写真2025ではその柱のひとつに人権の促進と保護とあり(B.3),その実行戦略として,CSRが挙げられている。

CSRと人権に関するベースラインスタディのフォローアップとして,2016年11月にはASEAN地域におけるCSRと人権に関する戦略(ASEAN Regional Strategy to Promote Corporate Social Responsibility and Human Rights)の立案が議論された。ASEANで操業するビジネスに対し,CSRは寄付や慈善事業ではなく,自らの企業活動がもたらす人権,社会および環境へのインパクトをアセスメントすることであるとの認識を求めるものである[ASEAN CSR Network 2016]。2017年5月タイにおける指導原則の実行へのプラユット暫定首相による政治的コミットメント表明の翌日には,同地で「ビジネスと人権に関する地域ワークショップ:ASEANにおけるNAPの推進」(Regional Workshop on Business and Human Rights: Moving Ahead with NAPs in ASEAN)が開催され,ビジネスにおいて人権尊重を推進するASEAN地域戦略が議論された[山田 2017b; 井上 2017]。すでに「いくつかのアジアの国々ではNAP策定が国内人権機関に主導されて動いて」いた(注17)。同ワークショップでは,タイ国家人権委員会に加え,フィリピン国家人権委員会が投資認可とくに採掘産業における人権に関する認可要件の必要性を論じ,マレーシア国家人権委員会はビジネスと人権に関して基礎調査を実施し政府に提言を行ったことを報告し,インドネシア国家人権委員会は木材やパーム油産業における取り組みなどを説明するなど,各国の現状と課題が議論された。その後もAICHRによってワークショップが継続的に開催され,2018年6月にもバンコク国連会議場においてAICHRおよびその他の機関との共催によってビジネスと人権に関するグッドプラクティスを共有する地域間ダイアログ,2019年6月にはOECD等とともに,「責任ある企業行動とビジネスと人権フォーラム」が開催された。それらの動きを主導してきたのはAICHRタイ代表であり,タイ国家人権委員会コミッショナーであり,タイ法務省であった。

ASEAN各国のうち国家人権委員会の動きが見られる国々のNAP策定に関する現状を見てみよう。マレーシアでは,国家人権委員会(SUHAKAM)が指導原則にもとづくNAP策定のために政府が考慮すべき政策目標や勧告を盛り込んだ「マレーシアのためのビジネスと人権に関する行動計画の戦略フレームワーク」(Strategic Framework on a National Action Plan on Business and Human Rights for Malaysia)を2015年3月にまとめた(注18)。それを歓迎する形でマレーシア政府は作成にコミットメントを示したが,その後の動きは滞った。2019年6月24日に法務大臣がNAP策定のプロセスを開始する閣議決定を表明したが目立った進展は見られない(注19)

インドネシアでは,2014年9月に政府が国家人権委員会(Komnas HAM)と市民社会組織である政策研究・アドボカシー研究所(ELSAM)にNAPに関する提言書の作成を任命し,2017年に文書が作成された(注20)。2019年初めに経済関係調整省(Coordinating Ministry for Economic Affairs)主導で作成プロセスが開始され,2019年12月までに策定を予定しているとされていたが,現時点において進捗は見られない。

フィリピンでは,フィリピン国家人権委員会は2013年頃からNAP策定を政府に促していた。2014年11月にハノイで開催された第14回非公式ASEM人権セミナー「ビジネスと人権」のNAPに関するセッションでは,AICHRのフィリピン政府代表(当時)ロザリオ・ゴンザレス・マナロ(Rosario Gonzales Manalo)から「アジアにおけるNAPはフィリピンが最初になる」との発言もあった(注21)。しかし,2016年6月にドゥテルテ政権になってからNAP策定への政府のコミットメントはまだない。

2009年第15回ASEAN首脳会議によって設立されたAICHRは,その5カ年計画(2010~2015年)において最初のテーマ別調査の対象として,CSRと人権,ビジネスと人権を取り上げたが,各国におけるNAP策定への取り組みは,各国のAICHR代表や人権委員会ではなく,政府の政治的コミットメントがその展開を左右する。マレーシアやインドネシアでは国家人権委員会がNAP策定の基底とすべき報告書を作成するなど早い時期からの活動があったにもかかわらず,強い政治的コミットメントが得られないまま現在に至っている。NAPはあくまで政府が策定する政策文書なのである。その点においては,タイ政府は巧みに国家人権委員会と協働体制を敷き,国家人権委員会自体がタイの国際的アピールの役割をしている(注22)

既述の2017年5月のセミナーにおける国軍司令官プラユット暫定首相による強烈な演説は,ビジネスと人権国連WGチェア(当時)のマイケル・アッド(Michael Add)を「あれほどの強いトップコミットメントは見たことがない」と言わしめた(注23)。その前月4月には新憲法を公布・施行し,タイは民政復帰への大きな一歩として,欧米諸国との関係改善に向けて動き出すべく,対外的アピールの機会としてNAPへのコミットメントを示したと観察される。タイは軍事政権下において,ASEANにおけるリーダーシップを主導すべく,NAP策定プロセスを加速させたのである。そして2019年3月には選挙が行われ,クーデター首班であったプラユット国家平和秩序維持評議会長兼暫定首相は,パラン・プラチャーテット党首として連立政権を発足させ第61代首相となった。図ったように同年はタイがASEAN議長国であり,閣議決定されたNAPの冒頭には,「タイにおける最初のビジネスと人権に関する国家行動計画の公式な採択と表明は,ASEANそしてアジアにおけるタイのリーダーシップを再確認するものである」と明示されている(タイNAP 3ページ)。

これらの背景と動機をもって策定されたNAPにはどのような政策が盛り込まれているのであろうか。

Ⅲ タイのNAPの特徴

1. タイのNAPの構成

タイのNAPは4つの章から構成されている。第1章は導入として,ビジネスと人権に関する国連指導原則の第1の柱,第2の柱および第3の柱の概要の説明,ビジネスと人権国連WGによって作成されたNAP作成のガイドラインの概要,NAP策定の国際的動向が概説されている。それらを踏まえてタイにおけるNAP策定の経緯が記されている。第2章では,策定プロセスの詳細が記され,当該NAPにおける主要優先分野(労働,コミュニティ・土地・天然資源・環境,人権擁護者,越境投資・多国籍企業)が挙げられ,当該NAPと第12次経済社会開発計画等の他の国家計画や政策との関連性が説明されている。第3章はNAPの核となる内容が盛り込まれている。上記4つの主要優先分野についてそれぞれ,現状,課題,行動計画が明記されている。うち行動計画は,第1の柱の国家の義務,第2の柱の企業の責任および第3の柱の救済へのアクセスの3つのパートから構成される。第1の柱および第3の柱では,イシュー毎に計画されている活動,所管省庁,予定時期,指標そして合致する国家戦略,持続可能な開発目標(SDGs)および指導原則が明記されている。第1の柱の国家の義務と第3の柱の救済へのアクセスを合わせて,労働分野では21のイシュー,コミュニティ・土地・天然資源・環境分野では14のイシュー,人権擁護者分野では8つのイシュー,そして越境投資・多国籍企業分野では12のイシューが整理され,関係する省庁および関連機関は36におよぶ。第4章は,行動計画の実行,運営,モニタリングならびに短期および長期の評価のメカニズムについて明記している。評価は2019年から2020年,2021年から2022年の2期に行われるとしている。

2. タイのNAPの特徴

タイのNAPの顕著な特徴は,国際社会から非難されてきた主要なイシューに直截的に対応していることである。これまで公表されてきた他国のNAPは総じて指導原則のひとつひとつに対応する現状分析,課題そして今後の取り組みという構成になっており,31ある原則をそれぞれ実行すべく政策が明記されている。翻ってタイのNAPは,労働,コミュニティ・土地・天然資源・環境,人権擁護者,越境投資・多国籍企業という大枠の4分野に焦点をあて,NAPの射程を明確にしている。表2はタイNAPで列挙されている政策とその担当省庁について抽出したものである。政策の担当としては,もっとも多く挙げられているのは労働省であり,法務省,内務省,工業省と続く。4分野それぞれにおいて多くの省庁が関わっているのが見てとれる。

表2  タイNAPにおける優先4分野別担当省庁

(出所)タイ「ビジネスと人権に関する第一次国家計画(2019-2022)」より作成。

(注)省庁名はNAPに策定されている政策・措置・取り組みの多い順。

労働分野については,近隣諸国からの移民労働者に対する取り扱いについて批判されてきた。2014年6月にはアメリカ国務省人身取引報告書において制裁対象となるTier 3に格下げされ,タイ政府および輸出業界に衝撃をもたらした。移民労働者の置かれている状況が強制労働に相当するとの報告にタイ政府は猛反発した。強制労働をなくすための国際的な取り組みとして2014年6月国際労働機関(ILO)総会において強制労働条約(ILO 第29号)の議定書(補足的措置)勧告(第203号)が採択された際には,タイのみが反対票を投じてさらなる批判に晒された。EUは2015年4月タイの水産業に対しIUU漁業規則(1005/2008)にもとづきイエローカードを出した。2015年のクーデターにEUは政治的制裁として政府間の公式訪問を凍結し,EUとの関係は悪化した。

2016年5月のUPRに前後して,タイは国際社会にアピールすべく取り組みを重ねていく。同年3月24日に2006年の職業上の安全および健康促進枠組条約(ILO 第187号)を批准,同年6月7日に2006年の海上の労働に関する条約(改正)を批准,同月13日に1958年の差別待遇(雇用および職業)条約(ILO 第111号)を批准した。同月29日に公表された2016年度版アメリカ国務省人身取引報告書においてタイはTier 3からTier 2 Watchに引き上げられた。

さらに2018年6月4日タイ政府は首都バンコクでビジネスと人権への取り組みを披露したセミナー開催直後に,2014年の採択に反対した強制労働条約(ILO 第29号)の議定書(補足的措置)勧告(第203号)を批准した。同月29日公表の2018年度版アメリカ国務省人身取引報告書においてタイはTier 2 WatchからTier 2に引き上げられた。そして2019年1月30日には当時13の批准国しかなかった漁業労働者の保護を目的とする漁業労働条約(ILO 第188号)の批准をアジアの国として初めて決定した。同月EUは,2015年4月以来タイの水産業に出し続けていたイエローカードを解除した(注24)

行動計画においては,第1に1949年の団結権及び団体交渉権条約(ILO 第98号)への署名の検討が挙げられている。当該条約はILO中核的労働基準として労働者の権利のなかでも核となるものであるが,その批准を拒んできたタイとしては,大きな転換といえよう。また2011年の家事労働者条約(ILO 第189号)への加盟の検討は,当該条約の批准国が少ないなか率先した姿勢を見せていることが観察される。

コミュニティ・土地・天然資源・環境に関する人権侵害は,タイ国家人権委員会の報告において憂慮すべき事項として挙げられてきた。地域の住民は影響を受けるプロジェクトに対して権利を主張し反対する権利が制限されており,天然資源や環境の管理について情報へのアクセスもヒアリングもなく参加することができず,政府はコミュニティへの負の影響を防止し是正する措置をとっていないと報告されている[NHRC 2018]。同委員会は,産業廃棄物や汚染物質の廃棄による環境への悪影響を防止するため工場や企業の影響評価の実施を強化し監督すること,採掘産業等において健康被害,生活への影響を蒙っている人々に対して救済措置を図ること,法改正等を行って持続可能な天然資源および環境の管理について住民の参加を促すことを勧告している。それらの勧告に応えるようにNAPでは,同委員会の勧告に従い関連法の見直しが予定されている。また大規模プロジェクトや経済特区において影響を受けるステークホルダーやコミュニティへの情報開示を促している。経済特区については,現政権の産業構想タイランド4.0の中核となっている東部経済回廊(Eastern Economic Corridor)を含み,その運営において指導原則を実行するためのガイドラインの作成が盛り込まれている。

人権擁護者についても国際的批判への対応が強調されている。「人権擁護者の保護に関するイシューは,2016年5月におけるUPR,2017年3月の人権理事会および2017年7月の国連女性差別禁止委員会などの国際的な場でしばしば挙げられてきた」と記述し,そして著名な人権活動家の名前を明記して,人権擁護者の保護の重要性を強調し,その取り組みとして強制失踪防止条約(ICPPED)の批准を明記している。

3. 越境投資・多国籍企業分野――国内外の市場に応えるタイNAP――

投資受入国であり投資企業の母国でもあるという,タイの経済的立ち位置が如実に表れているのが,NAPの越境投資・多国籍企業分野における政策であり,タイのNAPを特徴づけている。先行する欧州のNAPは,自国は投資する側そして買い手としての自国企業の海外における事業活動,サプライチェーンに焦点をあてている。対してタイは,それと同時に,投資される側そして売り手としての自国企業が人権を尊重することを促進することも企図し,投資家の信頼醸成を目的として明記している点が特徴的である(注25)表3は越境投資・多国籍企業分野における行動計画を抽出したものである。

表3  越境投資・多国籍企業分野における行動計画

(出所)タイ「ビジネスと人権に関する第一次国家計画(2019-2022)」より抜粋、作成。

タイへの投資の項では,タイ領域および管轄内にある企業組織が指導原則を遵守するよう奨励するための措置を検討するとして,海外投資家にとってタイ企業が人権を尊重する投資先,事業相手であることをアピールしている。大規模プロジェクトもしくは公共サービスに関するプロジェクトを開始する前に,人権に対するリスクおよび影響を調査し評価することも盛り込まれている。タイ企業の海外への進出に関しては,国外での人権侵害の防止として,在外タイ企業に対して人権を尊重することを要求し,海外へ進出するタイ投資家が人権の原則を尊重し,投資ホスト国の人権に関する法規制等を含むルールを守るために,各国における投資ガイドラインを策定することを検討することによって,意識啓発を行い取り組みを促進することなどが盛り込まれている。投資家の意識啓発として,証券取引委員会およびタイ証券取引所とのコミュニケーションのチャネルを設置することによって企業および企業家に指導原則を広めることが盛り込まれている点も,タイの市場がグローバルスタンダードを満たすことを強調していると看取される。そして,外務省および商務省(国際通商交渉局)の役割として,「基本的人権,環境および国民の健康等を含む公共の利益を守るタイの政策を反映しているタイの国内法および規則を尊重し遵守するタイ国内の投資家および企業を促進し支援することを,タイ政府は強調することを確約する」とあり,タイが企業の経済活動にとってレベルプレイングフィールドであることを明示している。

NAPの期待される効果および便益として,経済および投資面において「タイにおける人権保護についての確信を高めることによって,ビジネスセクターのタイへの投資を促進すること,タイが国際人権基準に準拠し,責任ある企業行動を促進するためのみならず,ビジネスによる人権への負の影響を受けた人々に救済を提供するために具体的措置を有しているという信用を外国投資家のなかで醸成することによって,タイにおける外国投資が増えること,人権を尊重するタイ企業の顧客が増えること」が明記されている(NAP 5ページ)。タイからの海外投資の増加に伴い,投資先での人権侵害が問題視されるようになったこと,たとえばミャンマーのダウェイ経済特区における深海港湾プロジェクトにおける人権侵害についてタイ国家人権委員会が是正勧告をしていることなども背景として記述されている。

タイにとっては,2014年のクーデターで凍結されたままの,EUとのFTA交渉を再開すること,すなわち自由貿易相手国としてEUを納得させることが,NAP策定によって期待されている効果と推察される。そしてタイおよびタイ企業がビジネスと人権についてのグローバルスタンダードを満たす取引相手であることを対外的に示すことも目的にある。投資受入国であり投資企業の母国であるタイは,国際的に批判されてきたイシューにピンポイントに焦点をあて,まさに国内外の市場に応えるNAPを策定したといえるだろう。

むすびにかえて

Aaronson and Higram[2015]によれば,指導原則の普及と実行には,政府が政策優先度をどれだけ高くできるか,そして政府が企業に対してどれだけ動機付けられるかが左右する。タイのNAP策定は,軍事政権下という特異な政治的トップコミットメントによってその優先度が引き上げられた。そこにはもちろん国際的批判によって経済活動に影響を受けるタイ経済界の動きもあった(注26)。アジア各国においてNAP策定が遅れているなか,タイはトップコミットメントによって,法務省権利自由擁護局にマンデートを明確に与え,国際機関からの支援を最大限に活用し,人権への取り組みを追加的コストではなく,投資および経済活動を活性化させるものとしてNAPを策定し,アジア最初のNAP策定国となったのである。軍事政権という特異な政治的トップコミットメント,EU市場を重視するタイ経済界,指導原則にいち早く着目した国家人権委員会,そして異なる省庁間のハブとして働いた法務省権利自由擁護局の的確な能力(注27)が,タイをアジアにおける初のNAP策定国にしたのである。

さて,タイにとって外国直接投資額の約3割を占める最大の投資元は日本である(注28)。2016年4月のアジア地域ビジネスと人権フォーラムの報告書には,日本に関するセッションのなかで「指導原則の実行はSDGsのより効果的な実現のための機会,多様なステークホルダー間の信頼醸成の機会である。アジアにおける唯一のG7国としてビジネスと人権への取り組みにリーダーシップを発揮せよ」と日本が明示された(注29)。日本は,同年11月ジュネーブにおけるビジネスと人権フォーラムにおいて,NAP策定へのコミットメントを表明したが,アジアにおける最初のNAP策定国にはなれなかった。策定のコミットメント表明から4年を経た2020年10月,日本政府は「ビジネスと人権に関する行動計画(2020-2025)」を公表した。当該文書において日本政府は,「その規模,業種等にかかわらず,日本企業が,国際的に認められた人権およびILO宣言に述べられている基本的権利に関する原則を尊重し,指導原則その他の関連する国際的なスタンダードを踏まえ,人権デューディリジェンスのプロセスを導入すること,また,サプライチェーンにおけるものを含むステークホルダーとの対話を行うことを期待」している。

在ASEAN日系企業は,CSR方針を有している割合およびサプライヤーに対し,労働・安全衛生・環境に関する方針を有しその準拠を求めている割合が,他地域に在する日系企業に比べて低い[山田・井上 2019]。タイNAPはタイ領域および管轄内にある企業組織が指導原則を遵守するよう求めている。日本企業は,サプライチェーンの重要な役割を担うタイにおいて,NAPが策定されたことを理解する必要がある(注30)。日本企業はサプライチェーン上の関係性において,ビジネスと人権への取り組みを深化させることが可能であるはずである。タイのNAPが計画に終わらず具体的に実行され,その効果を有するには,タイでそしてタイ企業と経済活動をする日本企業の責任ある企業行動によるところは大きい。タイNAPが今後どのように実行され,経済活動による人権侵害を防止し,人権保護を強化することにつながるのかの検証は,日本のNAPの検証とともに次稿の課題としたい。

[付記]

本稿の作成にあたり,2名の匿名レフェリーより詳細かつ貴重なコメントを頂いた。ここに記して感謝したい。

(アジア経済研究所新領域研究センター,2020年3月12日受領,2020年11月13日,レフェリーの審査を経て掲載決定)

(注1)  同原則の成立の詳細はRuggie[2013]。分析はAaronson and Higram[2013]など。

(注2)  https://www.ohchr.org/EN/Issues/Business/Pages/NationalActionPlans.aspx(2020年3月11日アクセス)。

(注3)  RESPONSIBLE BUSINESS CONDUCT FIRST NATIONAL ACTION PLAN FOR UNITED STATES OF AMERICA December 16, 2016 https://mk0globalnapshvllfq4.kinstacdn.com/wp-content/uploads/2017/10/NAP-USA.pdf(2020年3月11日アクセス)。

(注4)  韓国は2018年8月に公表した「第3次人権の促進と保護のための計画」の第8章にビジネスと人権に関する項目を入れ込んだが,独立したNAPの策定国としてはリストされていない。https://www.ohchr.org/EN/Issues/Business/Pages/NationalActionPlans.aspx

(注5)  ピルカ・タピオラ(Pirkka Tapiola)駐タイEU大使が「タイがアジアで初のNAPを策定したことを祝う」と2019年10月31日にツイートしている。https://twitter.com/PirkkaTapiola/status/1189892311506776066(2020年3月11日アクセス)。

(注6)  A/HRC/17/31.

(注7)  A/HRC/RES/17/4.

(注8)  A/69/263.

(注9)  A Renewed EU Strategy 2011-14 for Corporate Social Responsibility, European Commission, COM/2011/0681 final.

(注12)  なかでもイギリス,オランダ,アメリカ等のNAPにおいてはミャンマーにおける責任ある企業活動,投資について特記している。

(注13)  国連欧州本部(ジュネーブ)では2012年から毎年ビジネスと人権フォーラムが開催され,地域フォーラムとして2013年にラテンアメリカ・カリブ地域フォーラム,2014年にアフリカ地域フォーラムが開催された。

(注14)  A/HRC/32/45/Add.2. 筆者は同フォーラムにおいて4人の総括ラポーターの一人として務めた。

(注15)  タイ語版 https://www.ohchr.org/Documents/Issues/Business/NationalPlans/NAPThailandTH.pdf(2020年3月11日アクセス),英語版 https://www.ohchr.org/Documents/Issues/Business/NationalPlans/NAPThailandEN.pdf(2020年3月11日アクセス)。

(注17)  A/HRC/32/45/Add.2.

(注18)  https://drive.google.com/file/d/0B6FQ7SONa3PROHVpMngzc0NhUHM/view?pli=1(2020年3月11日アクセス)。

(注19)  http://www.bheuu.gov.my/pdf/ucapan/TEKS%20UCAPAN%20YBM/Ucapan%20YBM.pdf(2020年3月11日アクセス)。

(注21)  2014年11月20日筆者による会議参加でのヒアリング。この発言は当該ASEMセミナーのクロージングにおけるサイドセッションでアジアにおいてどこが最初にNAPを策定するのかという司会者の問いに対してフィリピン代表が発言したものである。当該ASEMセミナーには,EUおよびASEAN各国のみならず,日本(在ベトナム大使館),韓国(国家人権委員会)などから参加があった。https://www.asef.org/images/docs/Side-event%20-%2020%20November%20-%20NAPs%20Business%20and%20Human%20Rights.pdf(2020年3月11日アクセス)。

(注22)  タイ国家人権委員会議長は2017年3月のGANHRI(Global Alliance for National Human Rights Institutions)総会におけるセッションにおいて,同年5月に開催予定のビジネスと人権に関する大きなセミナーを法務省や外務省等とともに開催し,ASEAN地域における指導原則の啓発と知識の共有を広めたいと演説をしている。GANHRIにおいてパリ原則の条件(政府からの独立性,委員の選任方法等)を満たしているAステータスに認定されているのは,ASEAN各国のなかではマレーシア,インドネシアおよびフィリピンの国家人権委員会であり,タイ国家人権委員会は条件に完全に合致しているわけではないとしてBステータス認定とされている。

(注23)  2017年5月31日筆者による会議参加でのヒアリング。国家人権委員会コミッショナーの招待で当該会議への参加が可能になった。

(注24)  タイの水産業における人身取引問題については,山田[2019]

(注25)  タイNAPの策定・公表時点において,欧米諸国以外ではコロンビア,チリおよびケニアがNAPを策定・公表している。いずれも投資受入国であるが,コロンビアのNAPは国内和平プロセスの一環であり,チリはSDGsへの貢献であり,いずれも投資誘致は目的とされていない。ケニアのNAPは本稿執筆時点でまだ閣議決定,議会承認前であると伝えられており,本稿の考察対象としていない。

(注26)  グローバル・コンパクト・ネットワーク・タイランドのリーダーであるネティトン・プラディットサーン(Netithorn Praditsarn)氏は,2011年国連人権理事会において指導原則が全会一致で承認された際,理事国のひとつであったタイ政府のジュネーブ代表部職員であった。その後チャロン・ポカパン・グループに転じ,企業サイドからタイのNAP策定に関与してきた。たとえば山田[2018]

(注27)  タイ法務省権利自由擁護局国際人権課長であるナーリーラック・パチャイヤプーン(Nareeluc Pairchaiyapoom)氏は,2015年5月国連人権理事会におけるUPRにタイ政府のデリゲート団の一員(当時課員)として参加している。NAP策定の担当者およびスポークスパーソンとして国内外の会議で発言してきた。たとえば山田[2018]

(注28)  2018年時点。外務省サイト https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/thailand/data.html#section4(2020年3月11日アクセス)。

(注29)  A/HRC/32/45/Add.2.

(注30)  たとえばタイ国家人権委員会コミッショナー,プラカラッタナー・トンティラボン(Prakairatana Thontiravong)氏の発言については山田[2018]

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