アジア経済
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論文
日朝貿易に関する日本政府の政策決定――1960年代前半における直接輸送と直接決済の実現を中心に――
谷 京
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2021 年 62 巻 3 号 p. 2-31

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《要 約》

本稿は従来ほとんど学術的関心の対象とならなかった日朝貿易の展開過程を分析し,日韓国交正常化交渉のさなかの1960年代前半に,むしろ日朝貿易の制限緩和が進んだ要因を明らかにする。先行研究では,日本政府と経済界とのせめぎ合いのなかで,日朝貿易は漸進的・事後承認的に制度化されたといわれる。本稿はこれまで単一アクターとして仮定されてきた日本政府内の省庁間対立に注目し,通産省や大蔵省が日朝貿易の制度化に大きな役割を果たしたと主張する。すなわち,戦後日本の朝鮮半島政策には,同じ資本主義陣営の韓国を優先しようとする外務省の「冷戦の論理」だけでなく,北朝鮮との経済関係の拡大を模索する通産省,大蔵省,経済界の「経済の論理」が存在した。そして,日韓会談の停滞を直接の契機として,日本政府内では「冷戦の論理」よりも「経済の論理」が優勢となった。それゆえ,日朝貿易は東アジア冷戦下においても発展し続けた。

Abstract

The aim of this paper is to clarify factors that led to the expansion of Japan–North Korea trade in the early 1960s during the negotiations for normalization of diplomatic relations between Japan and the Republic of Korea. The development process of Japan–North Korea trade is investigated using historical materials from the Diplomatic Archives of the Ministry of Foreign Affairs (MOFA) of Japan. Previous research indicates that Japan–North Korea trade was gradually institutionalized as a result of conflict between the Japanese government and the business world. This paper focuses on interagency conflict within the Japanese government, which had been assumed to function as a single actor, and makes the case that the Ministry of International Trade and Industry (MITI) and the Ministry of Finance (MOF) played an important role in institutionalizing Japan–North Korea trade. Japan’s policy toward the Korean Peninsula included not only the “Cold War logic” of MOFA, which intended to prioritize the Republic of Korea but also the “economic logic” of MITI, MOF, and the business world, which sought to expand economic relations with North Korea. Then, due to the stalling of negotiations for normalization of diplomatic relations between Japan and the Republic of Korea, the “economic logic” faction became dominant over the “Cold War logic” faction within the Japanese government. Therefore, Japan–North Korea trade continued to develop even during the Cold War in East Asia.

 はじめに

Ⅰ 日朝間接貿易の経緯

Ⅱ 日朝直接貿易の実現への動き

Ⅲ 「政経分離」にもとづく日朝貿易の拡大

 おわりに

はじめに

日本と北朝鮮(注1)の関係を振り返ると,政治面では停滞を続けた一方で,経済面では1950年代半ば以降,貿易を中心に活発な交渉が行われていた。しかも,この交渉には日本社会党,日本共産党,在日朝鮮人総聯合会などの「左派勢力」だけでなく,自由民主党議員や財界人も関与していた。そして,日本政府は韓国政府の猛反発にもかかわらず,経済界の北朝鮮との接触を黙認した。つまり,日本政府は東アジア冷戦下で,政治面では韓国との国交正常化を選択しながらも,経済面では「政経分離」にもとづく日朝貿易の拡大を図ったといえる。

それでは,なぜ日本政府は経済界の北朝鮮との接触を黙認し,ときには自民党議員や財界人も日朝貿易に積極的であったのか。これまで「戦後」日朝関係史研究において多くの関心を集めてきたのは在日朝鮮人の北朝鮮帰国事業であり,日朝貿易に焦点を合わせた研究は少ない。日朝貿易がこれまで学術的関心の対象とならなかった背景としては,何よりもまず,日朝貿易は日韓貿易や日中貿易に比べると小規模であったことがあげられよう。しかし,北朝鮮が輸出する鉄鉱石や石炭などの鉱物資源,および日本が輸出する機械類はともに相手国内で需要の高いものであった。そのため,日朝貿易には在日朝鮮人が経営する「友好商社」だけでなく,日本の大手商社も「ダミー会社」を用いて積極的に関与していた[藤田 2020, 181]。また,帰国事業をめぐる交渉が一段落してからは,日朝貿易をめぐる交渉こそが日朝間の「接点」であった。したがって,日朝貿易を軸に日朝関係史を描くことには十分に意義がある。

李[2002]三村[2017]は日朝貿易会の会誌『日朝貿易』を主要な史料として,日朝貿易の展開を通史的に描いた。河合[1988]も北朝鮮の「開放政策」との関連に注目しつつ,日朝貿易の経緯を簡潔に整理している。また,日朝貿易の当事者がその歴史を振り返ったものとしては,村上[1996]澤池[2010]藤田[2020]があげられる。さらに,朴[2012]は日朝協会関係者や社会党議員を主要アクターとして日朝貿易の展開過程を詳細に論じており,本稿にとって重要な先行研究である。しかし,日本政府が日朝貿易の拡大をどのように捉えていたのか,あるいは日朝貿易の拡大により日本政府内にどのような議論や対立が生じたのかについては,これらの研究では扱われていない。

例外的に,1970年代の日朝貿易については日本政府や自民党議員などのアクターにも注目した研究がなされている。辛[1996]は,財界による日朝経済関係の推進が重要な圧力となって,日本政府の北朝鮮政策が柔軟化したことを明らかにした。また,高[2010]は北朝鮮の対日接近政策という視角から,日朝貿易をめぐる在日朝鮮人総聯合会と財界主流の接触を詳細に描き,その政治への波及効果も論じた。1970年代の日朝貿易に関する日本政府の政策決定過程を論じている点において,いずれも重要な先行研究である。

日朝貿易をめぐる政策決定に関する研究の対象時期が1970年代に集中しているのは,やはりこのデタント期に日朝貿易の拡大への動きが顕著となったからであろう。確かに,1972年10月から北朝鮮の貿易・技術関係者の日本入国が認められるようになり,翌年12月には日本輸出入銀行資金を利用した対北朝鮮輸出,および貿易保険の適用も認められるようになった。その結果,1970年代の日朝貿易額,とりわけ北朝鮮への輸出額は急増した。しかし,ここで留意すべきは,外務省の「対韓考慮」から日朝貿易に課された種々の制約が,輸銀融資の適用と北朝鮮側関係者の日本入国を除けば,東アジア冷戦の緊張緩和以前にすでに取り払われていたことである。すなわち,当初の日朝貿易は間接輸送や第三国地決済を余儀なくされたが,1960年代に入ると段階的に直接輸送や直接決済が実現した。つまり,日本政府は日韓国交正常化交渉(以下,日韓会談)が進行しているさなかに,韓国政府の猛反発にもかかわらず日朝貿易の制限を緩和した。換言すれば,日朝間の輸送や決済といった貿易取引の基礎的条件が1960年代前半のうちに整備されたからこそ,1970年代の日朝貿易は飛躍的発展を遂げられたのである。したがって,1960年代前半までの日朝貿易の展開過程は詳細に検討される必要があろう。

ところで,上述の先行研究は次のような認識を共有している。すなわち,「日朝貿易の進展は北朝鮮を現実に存在する国家として認識しつつも,国交正常化交渉を行っている韓国に配慮して直接的関係をもとうとしない日本政府と,それに対抗してビジネスを展開しようとする貿易会社との間のせめぎ合いのなかで実態が先行し,それを追認するかたちで制度化されるパターンが続いた」[三村 2017, 81]という認識である。確かに,日朝貿易関係業界はしばしば強硬手段や実力行使によって局面打開を図った。しかし,ここで問われるべきは,なぜ日朝貿易関係業界は日本政府に日朝貿易の実態を追認させ,さらにその実態を制度化させることに成功したのかということである。換言すれば,日本政府と日朝貿易関係業界を対立関係で捉えただけでは,日本政府が日朝貿易の黙認にとどまらず,日朝貿易の制限緩和にも踏み切った背景が明らかにならない。

そこで,本稿は貿易政策に関与する外務省,通産省,大蔵省の動向に注目し,日韓会談が進展をみせていた1960年代前半に,むしろ日朝貿易に対する制約が取り払われた経緯を描く。すなわち,外務省外交史料館所蔵史料(注2)をはじめとする日本側資料にもとづき,日朝貿易をめぐる日本政府内の省庁間対立とその背景を論じ,同時期における日朝貿易の促進要因を明らかにすることが本稿の具体的課題である。

Ⅰ 日朝間接貿易の経緯

1. 大連経由の日朝貿易

1950年に朝鮮戦争が勃発すると,占領下の日本はアメリカの要請により,北朝鮮および中国との貿易を全面的に中断した。日米安保体制と反共主義を基礎とする吉田茂政権は,サンフランシスコ講和条約による独立回復後も日朝貿易を禁止し続けた。それでも,1953年の停戦によって朝鮮半島の南北分断が事実上固定化されると,日本の貿易業界は北朝鮮との取引を模索しはじめた。朝鮮戦争で国土と産業に壊滅的打撃を受けた金日成政権もまた,復興資材を入手するために日本との貿易に関心を示した(注3)

1955年1月,漁業協定交渉を進めるなかで副次的に日朝間の商談が成立し,日朝貿易の許可を求める正式申請がはじめて通産省に提出された。この申請の許可をめぐって,早くも外務省と通産省との間に見解の相違が生じた。すなわち,外務省は対韓関係を優先し,日朝貿易を認めない方針をとった。一方,通産省は貿易拡大および国内需給の観点から日朝貿易を許可しようとした(注4)。結局,この取引は実現しなかったが,北朝鮮の対日接近が本格化する以前から通産省が日朝貿易を認める方針であったことは注目に値する。

同年2月25日,北朝鮮の南日外相は声明を発表し,対日関係改善に前向きな姿勢を示した[労働新聞 1955]。北朝鮮は建国以来,日本を潜在的な帝国主義的侵略国家として敵対視していたが,1954年末以降の中ソの対日平和攻勢に呼応し,鳩山一郎政権との接触を図ったのである。鳩山首相も南日声明には好意的姿勢をとり,朝鮮半島における「二つの朝鮮」をも認める等距離外交を唱え,対韓関係より対朝関係を優先するかのような態度であった[金 2018, 130-133]。辛貞和によれば,鳩山が北朝鮮の提案に肯定的であった理由は,次の2つである。第一に,ソ連との国交回復を最大の外交課題とした鳩山にとって,北朝鮮との接触は対ソ交渉を円満に進めるための環境を醸成するものであった。第二に,日韓会談の無期延期や李承晩ラインの強化といった韓国の対日強硬姿勢を「北朝鮮カード」によって牽制する意図があった[辛 2004, 53]。

南日声明と鳩山の積極的姿勢により,日朝貿易の実現を目指す日本国内の動きはさらに活発化した[村上 1996, 97]。当然,韓国政府は南日声明以降の日本国内における親北朝鮮ムードを警戒し,日本が「万一韓国の当面の敵たる北鮮と何らかの関係」をもった場合は「両国関係をすら断絶する」と繰り返し言明した。その結果,1955年6月3日,対韓関係を優先する外務省アジア局は,当面は日朝貿易を認めないと正式に決定した(注5)

ところが,8月18日,韓国政府は第3次日中民間貿易協定の締結に対する報復措置として,日本との経済断交に踏み切った。韓国政府の対日経済断交は日朝貿易の実現に追い風となった。もともと日朝貿易に積極的であった通産省に加え,外務省経済局でも「韓国の経済断交措置により日韓関係は現在以上に悪化する惧れがない」として,日朝貿易を認めようとする動きが出てきたからである(注6)

10月15日には日本の東工物産,東邦商会,和光交易の3社と朝鮮貿易会社北京弁事処との間で片道500万ポンドの貿易契約が結ばれた[日朝貿易会 1970, 18]。また,同時期に田辺稔日ソ貿易協会専務理事が訪朝し,朝鮮国際貿易促進委員会との間で日朝貿易の具体化を話し合った。さらに,古屋貞雄社会党衆議院議員を団長とする日本国会議員訪朝団が金日成首相と会見し,国交正常化と貿易・漁業問題について懇談した(注7)。停滞を続ける日韓関係とは対照的に,日朝経済関係が着々と生まれつつあった。

ただし,日朝貿易の実現への逆風も同時に吹いた。すなわち,韓国政府の強硬措置は対日経済断交にとどまらず,小康を保っていた李承晩ライン付近における日本漁船の拿捕が同年8月以降に相次いだ。そこで,外務省は10月21日の幹部会で「従来の方針通り北鮮との一切の取引を認めない」との態度を確認し,他省に通達した[朝日新聞 1955]。そして,10月24日の各省次官会議では外務省が作成した文書をもとに「政府としては北鮮との貿易その他の接触を認めない」と決定された(注8)。その文言は同年6月3日の外務省アジア局の決定と酷似しており,同局の意向が反映されたものであることがうかがえる。以後,この次官会議決定は日本政府による日朝貿易制限措置の法的根拠となり,先述の貿易契約も実行不可能となった。

とはいえ,すでに通産省や外務省経済局が日朝貿易を容認する方向へと傾きつつあったこともあり,北朝鮮との貿易を禁止する決定が法的拘束力や罰則規定をもたない次官会議決定にとどまったことも事実である。つまり,日本政府は日朝貿易の可能性を完全に断とうとしたわけではなく,むしろ次官レベルで方針を変えれば,いつでも北朝鮮との取引が可能になる状況を形成したといえよう。

それゆえ,次官会議決定後も日朝貿易を模索する民間の動きは弱まらなかった。1956年6月,東邦商会や東工物産など日本側貿易商社の代表が北朝鮮を訪問し,朝鮮貿易会社と中国・大連経由の取引契約を結んだ。この取引は大連港で陸揚げ・船積みを行い,大連と朝鮮の区間は北朝鮮側が陸送することで,形式上は日中貿易を装った[宮原 1964, 5; 李 2002, 9]。そのため,前年の次官会議決定にもかかわらず,日本政府はこの日朝貿易を禁止できなかった。同年9月27日,無煙炭3000トンを積んだ第一船が日本に入港し,ついに日朝貿易が開始された。

いうまでもなく,韓国政府は日朝貿易の開始に強く反発した。11月7日,柳泰夏駐日韓国代表部参事官は中川融外務省アジア局長を訪ね,北朝鮮産無煙炭の輸入に抗議した。柳の抗議を受けて,外務省と通産省の担当者はその1週間後,北朝鮮産無煙炭を中国経由で輸入する問題についての話し合いを開いた。まず,針谷正之外務省アジア局第一課長は「外務省としては殊更に韓国を刺激するが如きことは避けたい」としながらも,「韓国の抗議に対する言訳が立つならば」日朝貿易を認める余地があると述べた(注9)。これまで,外務省アジア局は「対韓考慮」を理由に日朝貿易の不許可を主張し続けてきた。しかし,停滞を続ける日韓関係とは対照的に着々と進展しつつある日朝関係を前に,とうとう日朝貿易を許可する可能性に言及したのである。

針谷の発言に対し,もともと日朝貿易に積極的であった通産省側は,以下3点の「言訳」を展開した。第一に,貿易管理令は北朝鮮との貿易そのものを禁止しているわけではない。そのため,業者側に外貨決済の制限を回避されれば,通産省としては日朝貿易を阻止する術がない。第二に,韓国政府の対日禁輸によって無煙炭の国内需給が逼迫している。第三に,書類上は満洲産無煙炭となっており,北朝鮮産無煙炭が混入している根拠はない。仮に中国から輸入した無煙炭のなかに北朝鮮産無煙炭が含まれていたとしても,これを識別することは困難である。そして,通産省の担当者は「通産省としては〔中略〕何等かの型で北鮮との貿易ルートを開いておきたい」と明言した(注10)

外貨決済の制限をめぐる問題については,補足説明が必要であろう。貿易管理令は外国為替及び外国貿易法(外為法)にもとづき,輸出規制と輸入管理について定めた政令である。とりわけ輸出貿易管理令では,特定地域を仕向地とする特定貨物の輸出の許可制または承認制が定められた。そして,ココム規制もこの輸出貿易管理令により実施された。しかし,ココム規制は特定品目の輸出を禁止するリスト規制であったため,該当外品目の貿易は規制されなかった。それゆえ,ココム規制を実施する貿易管理令は日朝貿易を全般的に規制するものにはなりえなかった。

そこで,日本政府は大蔵省令の「標準決済方法に関する規則」を法的根拠として,日朝貿易を規制した。すなわち,標準決済規則別表4においてスターリング地域,特別指定地域,特別決済勘定地域以外の地域との決済通貨をドルと規定することで,日本政府は日朝貿易を外貨決済面から不可能にした。アメリカの外国資産管理令は,ドルを北朝鮮との決済に使用すれば国籍にかかわらず制裁を加えると規定していたからである(注11)。ところが,先述のとおり,日朝貿易は大連港で陸揚げ・船積みすることで日中貿易の形式を装った。そして,日朝間の決済は中国の銀行を経由したため,通産省は日朝貿易を阻止する術をもたなかったのである(注12)

結局,通産省が関係業者から北朝鮮産無煙炭を輸入しないとの念書をとって,中国からの無煙炭の輸入を継続することになった(注13)。しかし,通産省が主張したように,中国から輸入される無煙炭の産地を識別することは不可能であった。したがって,日本政府は北朝鮮産無煙炭の輸入を実質的に黙認したといえよう。その結果,1956年9月から12月までに日朝貿易額は60万ドルに達した。その内訳は日本の輸入額が50万ドルと大幅な入超であった[日朝貿易会 1966, 3]。

大連経由の日朝貿易は数々の制約を抱えながらも順調に拡大した。日朝貿易の取引額は1957年には413万3000ドルに達した。同年9月27日には日本国際貿易促進協会,日朝協会,日朝貿易会の日本側3団体と朝鮮国際貿易促進委員会との間で「日朝貿易協定」が締結された。日朝貿易協定は「日朝両国間の貿易を発展させ両国人民間の友好を増進するために,平等互恵の原則に基づ」くという目的と原則を掲げた。取引目標額は片道600万ポンドで,品目,取引契約,決済,輸送,商品検査,紛争解決と仲裁などの項目も立てられた。また,相互の見本市開催と通商代表部設置,貿易・技術関係者や専門家などの相互派遣の実現,両国政府間協定の速やかな締結のための努力も合意された(注14)。日朝貿易協定は日朝直接貿易の原則と実務内容,さらに日朝貿易正常化への具体的目標を明らかにしており,両国の貿易団体が合意した最初の貿易協定として大きな意義を有していた[李 2002, 9-10]。

もっとも,日本の貿易業界には,韓国への刺激を避けるためにも,日朝貿易は「日中貿易のかげにかくれて」進めることが望ましいという意見もあった。しかし,北朝鮮側が「貿易協定を結ばなければ取引しない」という対日姿勢を明確にすると,日本の貿易業界は日朝貿易協定の締結に踏み切らざるをえなかった[朝日新聞 1957]。北朝鮮は1957年5月にインドネシアと貿易協定を結んで以来,国交をもたない国々とも貿易協定の締結を図り,イギリスや西ドイツとも交渉を進めていた。それゆえ,このまま日朝間に協定がない状況を維持すれば,貿易の先細りが懸念された[朝日新聞 1957]。換言すれば,北朝鮮の積極的な貿易政策が日本の貿易業界に「国際競争に取り残され,折角の好市場を失う」ことになるという焦りをもたらしていたのである(注15)

2. 日朝貿易の中断と再開

1957年に年間で約400万ドルを記録した日朝貿易額は,1958年1月から5月上旬までの4カ月あまりで再び400万ドルに達した(注16)。同年4月には日朝貿易会と日本国際貿易促進協会が日朝貿易協定にもとづく取引を実行するため,22社からなる訪朝日本実業団を編成した。そして,日朝貿易協定の取引額1200万ポンドのうち,約700万ポンドの輸出入契約を交わした[日朝貿易会 1970, 22]。

ところが,その直後の5月2日,長崎のデパートで飾られていた五星紅旗を右翼青年が引きずりおろすという長崎国旗事件が起こった。1952年以来,日中間では「積み上げ方式」で経済文化交流が展開され,中国の第1次5カ年計画の順調な進展とともに,日中貿易も急速に拡大していた。しかし,中国側は長崎国旗事件を契機に態度を硬化させ,日中関係が全面的に断絶した[井上 2010, 145-148]。その結果,大連を経由することで日中貿易の体裁をとっていた日朝貿易もまた,中断を余儀なくされた。

日中貿易関係業界は貿易再開のための業界大会や陳情書の提出など,活発な運動をただちに展開した。また,日朝貿易会も日朝直接貿易の実現と日中貿易の再開を目標に,関係業界と広く提携する方針を定めた。そして,1958年9月には日本国際貿易促進協会,日朝協会,日朝貿易会が日朝貿易協定の延長を朝鮮国際貿易促進委員会に申し入れた。しかし,北朝鮮側は「直接貿易が行われず,友好と互恵平等を基礎とする協定の実施が岸政府の非友好的態度により阻害されている下では協定は空文に等しい」と延長を拒否したため,同月26日に日朝貿易協定は失効した[日朝貿易会 1959, 12-13]。

北朝鮮側との交渉が難航するなか,日朝貿易再開の契機をつくったのは大蔵省であった。同年12月,西欧諸国の通貨交換性回復にともない,日本政府は「標準決済方法に関する規則」を改正することになった。外務省は標準決済規則の改正に際し,日朝貿易を従来どおり阻止しうる措置を大蔵省に申し入れた。その結果,同規則の別表4は「北鮮から受領し,若しくは北鮮へ支払う通貨はない」と改正され,北朝鮮との取引は従来と同様に標準外決済となった(注17)。ところが,この改正によって日朝貿易再開への思わぬ「抜け穴」が生じた。すなわち,香港などの第三国を決済地とすれば,北朝鮮との取引が標準決済の要件を満たすことになったのである(注18)。標準決済規則の改正の結果,第三国地決済の日朝貿易を抑えられなくなったことについて,大蔵省は為替管理の一般的緩和によるものであり,やむをえないと主張した。また,日朝貿易に「積極的意向」を有する通産省も大蔵省の意見に同調した(注19)。一方,外務省も標準決済規則の改正によって生じた「抜け穴」をふさぐことは難しいと考えていた。新たに貿易管理令で北朝鮮とのいかなる貿易も認めないと明確に規定すれば,政府の貿易自由化という根本政策や対共産圏貿易の促進方針と矛盾するため,関係各省の強い反対が予想されたからである(注20)

外務省が日朝貿易の阻止を断念すると,高碕達之助通産大臣は事務当局に対して日朝貿易を認める方向での各省の調整を指示した(注21)。そして1959年5月,通産省は通関書類上で原産地,船積地,仕向地が北朝鮮と明示されていない限り,対北朝鮮物資の通関を「暗黙に認めても差支えな」いとの税関宛通達案を作成した(注22)。日朝貿易に積極的な通産省が対韓関係を優先する外務省を押し切り,第三国地決済の日朝貿易再開を黙認したのである。

権容奭によれば,高碕と通産省が日朝貿易再開へのイニシアチブをとった背景は,次の2つである。第一に,鉄鋼業界の増産にともない安価な鉄鉱石を確保する必要に迫られるなか,日本国内では北朝鮮産鉄鉱石に注目が集まっていた。第二に,日本の経済界は日朝貿易を日中貿易の打開策の一環として捉え,中国の鉄鉱石や原料炭の輸入への足がかりとして日朝貿易に期待していた[権 2007, 85]。とりわけ後者の日朝貿易と日中貿易のリンクは重要である。財界出身の高碕は第2次岸内閣の通産大臣に就任して以来,日中貿易の再開に尽力した。しかし,中国政府の「政経不可分」への固執や岸政権内の慎重論もあって,日中間の交渉は難航していた[井上 2010, 236-237]。そこで,高碕は中国よりも態度が軟化していた北朝鮮との貿易を突破口に,日中貿易の再開を目指したと推測される。

日朝貿易の再開が日本政府から黙認されると同時に,再び日朝貿易に追い風が吹いた。在日朝鮮人の北朝鮮帰国事業の進展によって,日韓関係が急速に悪化したのである。6月11日,帰国事業の進展に反発した駐日韓国代表部は対日通商業務を停止した。これに対し,大蔵省は「通商上の報復措置」として対韓輸出手形の買取停止を各市中銀行に指示したため,日韓貿易が断絶した。さらに,韓国代表部が信用状の新規開設を凍結すると,日本側は「日韓貿易に従事している在日韓国商社(韓国銀行,大手筋貿易商社たる建設実業,和進産業,銀星産業,三護貿易及び大韓海運等の韓国海運会社)の追放等も考慮すべき」と厳しい対応策を用意した(注23)。日本側の強硬な姿勢の背景には,日韓経済関係の非対称性が存在した。すなわち,日本の貿易全体における日韓貿易の地位は取るに足らないものであった一方で,韓国の貿易全体における日韓貿易の地位はきわめて重要であり,日本は韓国にとって欠かせない輸出入市場であった(注24)

ただし,日韓貿易の中断によって,韓国から輸入する予定であった無煙炭の輸入割当を他国に切り替える必要が生じた。その代替輸入先として浮上したのが北朝鮮であった。9月14日,煉豆炭業界代表と関係省庁担当者が自民党総務会に招集され,北朝鮮産無煙炭の輸入について話し合った。この会議で,通産省は北朝鮮産無煙炭の輸入を求める業界代表に同調し,外務省に日朝貿易の許可への決断を促した(注25)。一方,自民党と外務省は北朝鮮からの無煙炭輸入には慎重な姿勢を示した。しかし,煉豆炭業界が無煙炭の緊急確保を望み,通産省と大蔵省も外貨割当の発表を急いでいたにもかかわらず,外務省経済局は韓国側との無煙炭輸入再開交渉を外務省アジア局に一任し,この問題について具体的な行動を何も起こさなかった(注26)。経済局は日韓貿易の再開交渉が難航することを見越したうえで,本来の管轄業務をアジア局に押しつけたように思われる。

実際,韓国側との輸入再開交渉は難航した。10月12日,伊関佑二郎外務省アジア局長と柳泰夏駐日韓国代表部大使が非公式に会談し,韓国産無煙炭3万1000トンの対日輸出に合意した。ところが,崔圭夏外務次官はこの合意が報道された直後,日韓貿易の再開を否定した。11月4日には,具鎔書商工相が「韓国政府は日韓関係が改善するまで日本の希望している無煙炭その他数種の物資の対日輸出を許可しない」と発表した[朝日新聞 1959; 読売新聞 1959a; 1959b]。すでに,同年8月には日朝の赤十字社の間で帰国協定が結ばれていた。帰国事業が最終段階に入るなかで,日韓関係は暗礁に乗り上げていたのである。結局,韓国政府が無煙炭や鉄鉱石の対日輸出の再開を全面的に認めたのは翌年4月12日のことであった[読売新聞 1960]。

1959年6月25日,中断を続ける日韓貿易とは対照的に,標準決済規則の盲点を突いた第三国地決済の日朝貿易がはじまった。12月15日には,日本政府は事前承認を必要としない物資について,北朝鮮以外の地域と決済すれば北朝鮮に直接輸出することを容認した。その結果,北朝鮮への輸出直航の政府許可を受けた第一船「高星丸」が同月31日に横浜を出航した[李 2002, 10-11]。日朝貿易額は翌年5月末までに対北朝鮮輸出386万ドル,対北朝鮮輸入140万ドルに達した。長崎国旗事件で中断を余儀なくされた日朝貿易は,帰国事業にともなう日韓関係の悪化にも助けられて,再び軌道に乗ったのである。

Ⅱ 日朝直接貿易の実現への動き

1. 日朝貿易関係業界の攻勢

1959年6月末に再開した日朝貿易は香港を経由する方法で行われた。すなわち,取引の契約先を香港の商社にした上で,日朝間を結ぶ貨物船はいったん香港に立ち寄った。同年12月半ばからは,日本政府の事前承認が不要な物資については北朝鮮への直接輸送が認められた。しかし,日本政府の事前承認を必要とする対北朝鮮輸出品と対北朝鮮輸入品のすべては,依然として香港経由で輸送しなければならなかった[宮原 1964, 6]。しかも,中継手数料として取引額の2.5~3%を香港の商社に支払わなければならなかった。その結果,香港を経由する方法では輸送費が非常に高くついた(注27)

それでも,日朝双方は貿易拡大に積極的であった。朝鮮国際貿易促進委員会は相川理一郎日朝貿易会理事を通じて,日本との取引希望品目を詳細に伝えた。北朝鮮側の取引希望にもとづく日朝直接貿易に踏み切った場合,その取引額は少なくとも初年度片道1000万ドル,多ければ初年度片道5000万ドルに達すると見込まれた(注28)。日朝貿易への動きは日本側でも活発になりつつあった。日本国際貿易促進協会をはじめとする関係5団体は第33回臨時国会に際し,日朝直接貿易の実現を要求する請願運動を展開した。この請願運動には東工物産(日中貿易専門商社),東邦商会(古河系列),和光交易(丸紅系列),第一通商(三井系列)など,商社も協調的であった[朴 2012, 427]。

1959年12月,日朝直接貿易の許可を求める請願書が参議院に提出されると,通産省通商局は請願書に対する回答の検討を開始した。翌年2月22日,通産省通商局政策課の馬淵首席事務官が赤谷源一外務省経済局東西通商課長を訪ね,日朝貿易をめぐる問題について協議した。馬淵は請願運動の状況と通産省の対応について,次の2点を指摘した。第一に,国会で日朝貿易の問題を取り上げ,日本政府の態度を糾弾しようとする動きが日朝貿易関係業界において顕著である。そして,現在の日朝貿易の禁止措置は単なる大蔵省令である「標準決済方法に関する規則」にもとづいており,その根拠は必ずしも妥当ではない。そのため,「国会等で大局的且つ法制的に攻撃された場合,通産省としては自信がない」。日朝貿易の規制は,法制的には輸出入貿易管理令に明記すべきである。しかし,実際には日本政府の貿易自由化方針との関係で,日朝貿易の禁止措置の明記は難しい。むしろ,通産省の事務レベルでは,日朝貿易を「中共乃至は北越等の共産圏諸国と同様の取扱いにしてもよいのではないか」という意見が強い。第二に,現在は標準決済規則の条文の「強引な解釈」により,第三国地決済の対北朝鮮輸入を認めていない。日本政府が対北朝鮮輸入を対北朝鮮輸出と同様に黙認するならば,日朝貿易関係業界は先述した国会での糾弾を行わない意向である。逆に,第三国地決済による北朝鮮からの輸入を認めないままならば,標準決済規則の解釈に関する行政訴訟も辞さないとの態度をとっている。そこで,通商局は標準決済規則の条文の解釈を再検討した。その結果,対北朝鮮輸入について「第三国地決済による限り,これを有効に規制し得ない」との意見が有力となった。しかも,行政訴訟に至れば,日本政府の敗訴の可能性が高いと思われる。したがって,通産省の支配的見解としては,国会における「北鮮貿易論争」を未然に防ぎ,また行政訴訟を抑止するためにも,第三国地決済の対北朝鮮輸入を黙認したほうが得策である(注29)

赤谷は,対北朝鮮輸入を黙認すべきという意見が通産省内で強まっていることを伝えた馬淵に対し,次の2点を回答した。第一に,外務省全体としては,1955年の次官会議決定に反するような日本政府の基本方針の変更はないと解している。日朝貿易の規制は,主として対韓関係への「政治的考慮」から行われている。第二に,経済局では「純経済的立場から,日韓貿易とのかねあいを考慮しても,対北鮮貿易を認めてもよいのではないか」という意見が有力となっている。しかし,この問題は対韓関係への考慮,特に抑留日本人漁夫の釈放交渉との関連から,まずはアジア局の意向を尊重すべきである。したがって,香港を決済地とする対北朝鮮輸入の認否についても,日朝貿易の推進に慎重なアジア局の意見が優先する(注30)

ところで,アジア局北東アジア課が作成した会議録からは,経済局の日朝貿易への見解に関する以下の記述が全文削除された。

経済局としては,日本政府としてこの際対北鮮貿易に対する態度を明確化し,これを禁止するなら,香港決済,香港経由を含む一切の対北鮮貿易をも規制すべきであり,又,逆にこれを認めるならば,次官会議の決定をスーパーシードする決定をなし,他の共産圏貿易と同様の扱いをなすべきであるとの見界(ママ)を有する。(注31)

第三国地決済の日朝貿易をも規制するならば,日朝貿易の禁止措置を貿易管理令に明記しなければならない。しかし,貿易自由化が日本政府の根本方針である以上,そのような措置は到底とりえなかった。したがって,経済局の見解の真意は,日朝貿易について「次官会議の決定をスーパーシードする決定をなし,他の共産圏貿易と同様の扱いをなすべきである」にあったといえよう。

さて,馬淵と赤谷の協議に陪席したアジア局北東アジア課の渡辺事務官は,抑留日本人漁夫の釈放交渉が進行しているなか,国会で日朝貿易の問題が論議されれば対韓交渉に支障をきたすとの私見を述べた。そこで,渡辺は通商局から日朝貿易関係業界に対し,国会議員を通じた糾弾運動の自粛を求められないかどうか,馬淵に質問した。馬淵は,関係業界への自粛要請は可能であり,努力すると約した(注32)。ところが,馬淵は続けて新たな問題を提起した。

通商局としては,第三国船に対して対北鮮配船を認め,邦船に配船を認めないために,外国船に法外なる運賃を徴集される事態は妥当でなく,邦船の対北鮮配船を禁止することが法制上不可能であることにもかんがみこれを認めるべきだとの意見が強く,香港決済対北鮮輸出入ともに認める場合,邦船配船が行なわれることが予想される(注33)

馬淵の発言からは,通産省の日朝直接貿易への積極的姿勢がうかがえる。すなわち,通産省は第三国地決済の対北朝鮮輸入を黙認すべきと考え,しかも日本船による直接輸送をも容認した。通産省がこのような見解に至ったのは日朝貿易関係業界からの圧力が大きいが,通産省が関係業界の攻勢に押された要因は2つあげられる。第一に,日本政府は標準決済規則の「強引な解釈」によって日朝貿易を制限していたため,国会論戦や行政訴訟といった関係業界の強硬手段に対抗できなかった。第二に,経済局の議論にもみられるように,そもそも「純経済的立場」からは日朝貿易を認めたほうが良いとする意見が日本政府内でも強まっていた。

馬淵と赤谷の協議の2日後,懸念されていた国会での「北鮮貿易論争」が起こった。衆議院大蔵委員会において,石野久男社会党衆議院議員が佐藤栄作大蔵大臣に次官会議決定の妥当性を問いただしたのである。次官会議決定の詳細を把握していなかった佐藤は,石野に対して次官会議決定の再検討を快諾した(注34)

もちろん,この時点で次官会議決定が即座に撤回されることはなかった。それでも,日朝貿易の問題が国会で取り上げられたことで,日朝直接貿易の実現を目指す関係業界の動きはさらに活発になった。日朝貿易会は「最近懸案の韓国抑留日本人漁夫送還問題もようやく解決に近づきつつあり,もはや朝鮮民主主義人民共和国との貿易を禁止する理由はない」として,日朝直接貿易の許可を求める「日朝貿易正常化に関する陳情書」を外務省に提出した。陳情書は,日本政府が日朝貿易を規制し続けても韓国政府の態度好転は期待できないと指摘し,日朝直接貿易の必要性について以下4点をあげた。第一に,平和共存という世界的潮流のなかで経済の国際競争が激化しており,日本も「海外の安定した市場の確保と近接国の資源の効率的活用」の必要に迫られている。第二に,北朝鮮は経済の発展にともない購買力を増大させており,約600億円の火力発電設備と年間数百万トンの有煙炭の購入を希望している。地理的にも近い北朝鮮は,日本にとって「きわめて有利かつ安定性のある取引先」である。第三に,日本は鉄鋼業の巨大な発展にともない,近い将来3000万トンにもおよぶ鉄鉱石の輸入を図らなければならない。北朝鮮の鉱物資源はほかの地域の鉱物資源よりも有利な価格で買付可能であり,日本の「産業の体質改善と生産原価の引き下げ」に大きく寄与する。北朝鮮からの鉄鉱石の輸入は日本経済の「必至の要請」である。第四に,西欧各国は北朝鮮との取引を年々拡大させている。香港経由の日朝貿易では多額の中継手数料と無用な運賃を支払わなければならず,日本は西欧諸国との競争上きわめて不利な状況にある(注35)

日朝貿易会は発足以来,日朝協会や在日朝鮮人団体と緊密な連携をとってきた。その意味で,日朝貿易がいわゆる日朝友好運動の一環として「友好貿易」の要素を有していた点は否定しがたい(注36)。しかし,この陳情書はあくまでも日朝貿易の経済的重要性を強調した。陳情書に掲げられた数字を鵜呑みにはできないが,北朝鮮が安価な鉱物資源を豊富に有していたことやプラント設備の大型契約を結ぼうとしていたこと自体は事実であった。たとえば,当時の鉄鉱石の国際価格は1トンあたり約11ドルであったが,北朝鮮の茂山鉄鉱石は1トン当たり約7ドルで購入できるといわれた(注37)

日朝貿易が単なる「友好貿易」にとどまらない経済的重要性を有していたことは,経済界の動きからもうかがえる。1960年5月31日,東工物産の川瀬一貫社長は池田勇人通産大臣に「鉛精鉱の標準外決済の輸入許可に関する件陳情」を提出した。この陳情書はフランス商社との間で成約した北朝鮮産鉛精鉱6000トンの輸入に関し,標準外決済による輸入の許可を求めた。川瀬は,北朝鮮から鉛精鉱を輸入する必要性を次のように強調した。

御高承の如く北鮮検徳鉱山は嘗て我国の経営下にあり,品質その他の条件は我国需要家の熟知するところであり,又至近距離にある関係上我国の緊急需要に応ずる最も好適な供給源であるため,予ねてその輸入が待望され来ったものであります。(注38)

高度経済成長(岩戸景気)による日本国内の重化学工業の急速な発展にともない,経済界は需要が逼迫した鉱物資源の確保に奔走していた。豊富な鉱物資源を有し,地理的にも近い北朝鮮は,日本にとって重要な輸入先のひとつと目された。しかも,北朝鮮の鉱山のほとんどが植民地期は日本人によって経営されていた。それゆえ,川瀬が述べたように,戦後日本の財界人は北朝鮮の鉱物資源の特徴を熟知していた。つまり,北朝鮮の鉱物資源は他地域の鉱物資源に比べ,日本の経済界が活用しやすいものであった。日朝貿易は,たとえ全体としては少額にとどまったとしても,特定の品目に着目すれば大いに経済的重要性を有していたといえよう。

2. 日朝貿易に対する制限の再検討

日朝貿易関係業界の攻勢を受けて,日本政府内では通産省や大蔵省からも日朝貿易に対する制限の再検討を求める声が強まった。そこで,外務省経済局東西通商課はアジア局北東アジア課との協議の結果,関係各省の課長レベルの会議を開くことにした。1960年6月12日,通産省通商局の予算課長,輸入第一課長,市場第三課長,大蔵省為替局の企画課長補佐,調査課長補佐,外務省経済局の東西通商課長,アジア課長,そして外務省アジア局北東アジア課長が霞友会館に会し,日朝貿易の経緯と問題点を話し合った(注39)

まず,通産省は,少なくとも中国あるいは北ベトナムと同程度に日朝貿易を認めることが貿易自由化と対共産圏貿易振興政策の一環として望ましいという見解を示した。また,通産省は「対韓考慮」のために当面は日朝貿易の全面再開を主張しないとしながらも,第三国地決済による対北朝鮮輸出を継続すると同時に,第三国地決済による対北朝鮮輸入も黙認すべきであると主張した。その理由は,次の3つであった。第一に,対北朝鮮輸出を認めている以上,対北朝鮮輸入も認めなくては筋が通らない。第二に,対北朝鮮輸入を阻止するための大蔵省による標準決済規則の解釈は妥当でなく,業者が強く主張する行政訴訟に至った場合,日本政府の勝訴の見込みはない。第三に,日中貿易の中断も相まって,日朝貿易を推進する関係業界の圧力がきわめて強い(注40)

次に,大蔵省は,次官会議決定や「対韓考慮」をふまえると北朝鮮との直接貿易は認めがたいと述べた。しかし,日朝貿易を標準決済規則により決済面から規制するのは適当ではなく,第三国地決済の対北朝鮮輸入を同規則によって禁じるのは「無理な解釈」であるとも指摘した。標準決済規則は,硬貨(金またはドルなどの外貨と交換可能な通貨)地域を原産地または船積地とする物資を軟貨(金またはドルなどの外貨と交換不可能な通貨)地域からの輸入として決済してはならないという趣旨であり,そもそも日朝貿易を規制するためのものではなかったからである。そこで,大蔵省は第三国地決済の対北朝鮮輸出入を認めることには賛成するとして,標準決済規則の条文の修正を主張した(注41)

一方,外務省は,韓国政府が日朝貿易の進展にきわめて敏感であることに言及した。たとえば,駐日韓国代表部は日朝貿易に関する新聞報道が出されるたびに,おもに外務省経済局に対して「事情問合せ」を行っていた。また,日本側が対韓焦げ付き債権の弁済促進や日本人商社員の入国などを要求すると,韓国側は日朝貿易の問題を持ち出して次官会議決定の「再確認」を要求していた(注42)。要するに,日朝貿易は日韓間の経済問題においても重要な争点となっていた。

関係各省課長レベル会議の翌日,早くも村井七郎大蔵省為替局企画課長が赤谷源一外務省経済局東西通商課長に対し,為替自由化にともなう標準決済規則の改正案を申し入れた。従来の標準決済規則では,標準決済による輸入の一要件として「当該貨物の原産地及び船積地が別表第4に掲げる当該指定通貨に係る地域に属していること」と規定されていた。北朝鮮を原産地または船積地とする輸入取引はこの条文の要件を満たせなかったため,日本政府に阻止された。ところが,大蔵省の改正案では,この条文が「オープン勘定地域を原産地とする輸入貨物の支払はオープン勘定により行なうものとする」という文言に改められた。これにより,オープン勘定地域以外からの輸入について,原産地および船積地に関する要件が失われた。すなわち,北朝鮮からの輸入も第三国を決済地とする限り,対北朝鮮輸出と同様に標準決済として扱われ,日本政府の承認が不要とされたのである。村井の申し入れに対し,赤谷は「対北鮮貿易問題は従来から地域局たるアジア局の主管であるので,御申入れの趣旨は早急にアジア局に取次ぐ」と回答した(注43)

ところが,外務省アジア局は標準決済規則の改正案についてなかなか態度を示さなかった。しびれを切らした大蔵省は,貿易と為替の自由化にともない早急に標準決済規則を改正したいと再び外務省に申し入れた。1960年8月6日,ついにアジア局は大蔵省の標準決済規則の改正案に反対しないことを決定した。アジア局が標準決済規則の改正に同意した理由は,次の2点である。第一に,アジア局自身,標準決済規則の改正によって第三国地決済の対北朝鮮輸入を黙認しても大きな問題はないと考えるようになっていた。アジア局は「本件改正によっても,北鮮との直接貿易は依然として禁止され,改正の結果認められるものは,第3国決済の貿易であり,狭義の北鮮貿易ではない」と解釈することで,改正案と次官会議決定との矛盾を解消させたのである(注44)。第二に,日朝貿易関係業界,通産省,大蔵省の圧力が強いことも標準決済規則の改正を認めるべき理由としてあげられた。

他方,大蔵省および通産省事務当局においても,本件改正に極めて積極的であり,外務省がこれに反対であるならば,外務省に関係なく,対北鮮貿易を個別的に許可しようとの考え方(例えば大蔵・通産専管事項たる標準外決済による輸入を,外務省に事前の連絡なく許可する等)すら真面目に研究されており,外務省として本件改正に反対するならば,却ってembarassing(ママ)な立場に立たされる可能性が強い。(注45)

また,アジア局は標準決済規則の改正に関し,韓国とアメリカへの対応についてもあらかじめ検討した。韓国に対しては,狭義の日朝貿易,すなわち日朝直接貿易は標準決済規則を改正しても認められないため,「政府として北鮮貿易を認めないとの立場に変りはない」との説明が可能であるとした。アメリカに対しては,貿易と為替の自由化にともない第三国地決済の日朝貿易は規制しえなくなったことを説明するとした。さらに,北朝鮮に対する戦略物資の輸出については「ココムの規定が当然遵守されることを確認する」としながらも,イギリスや西ドイツ,フランスなどの西欧諸国が北朝鮮と直接貿易関係を有している点を指摘するとした。この主張の背景には,1958年の「対中共統制緩和審議」の経験があった。同審議では,ココム加盟国の中でも貿易依存度の高い西欧諸国や日本が政治的理由から特定の共産主義国に重い貿易制限を課すことは,大局的には利益にならないと主張された。アメリカは当初この主張を否定したものの,最終的には承認していた。アジア局はこの経緯を指摘することで,貿易依存度の高い日本が北朝鮮に対して重い貿易制限を継続するのは得策ではないとアメリカの説得を試みたのである(注46)

アジア局は韓国とアメリカへの対応を検討した上で,標準決済規則の改正と第三国地決済の対北朝鮮輸入の黙認を決定した。ところで,この決定に関する外務省文書の記述は全文修正されている(注47)。修正前と修正後の記述を比較すると,修正前の記述には日韓会談への言及がみられる。第三国地決済の対北朝鮮輸入の黙認を意味する標準決済規則の改正は韓国政府を強く刺激するものであり,再開が予想された日韓会談の紛糾を招きかねなかった。そこで,アジア局は日韓会談がはじまる前に標準決済規則の改正を強行し,日朝貿易が日韓会談の争点となることを防ぐとともに,第三国地決済の対北朝鮮輸入の黙認を既成事実化しようとしたのではないか。一方,修正後の記述では,標準決済規則の改正の引き延ばしが「事務的には至難」であることが,同規則の改正に同意すべき理由としてあげられている。この記述は,貿易と為替の自由化にともない標準決済規則の改正が急務であるという大蔵省の主張に沿ったものと思われる。簡潔に整理すれば,修正前の記述は日朝貿易を認めるべき国際要因を,修正後の記述は国内要因をあげているといえよう。

しかし,標準決済規則の改正案への同意は外務省全体としての決定には至らなかった。その理由は,次のような外務省の情勢判断であった。

外務省としては,昨年4月,韓国に革命が起り,対日友好の線が強くなり,10月には日韓会談予備会談が開かれ,国交正常化のための交渉早期妥結が期待されたので,韓国側に日本側の誠意をいささかでも疑われる可能性のあった本件改正は,タイミングの点で難しい(注48)

1960年,強硬な対日姿勢を維持し続けた李承晩政権が4・19革命によって崩壊した。李承晩に代わって政権を掌握した張勉は,以前から日韓国交正常化を望んでおり,積極的に日本に接近していた。張勉は「日韓経済協調論」をはじめ,特に日本との経済関係の改善に熱心であった。一方,池田勇人首相も張勉政権の発足に祝電を送り,小坂善太郎外務大臣の訪韓を推進した。同年9月6日,小坂は日本の閣僚として戦後はじめて,韓国を公式に訪問した。小坂は韓国政府の首脳部と会談し,経済協力構想について議論した[金 2018, 189-191]。要するに,経済協力方式による請求権問題の解決に積極的な張勉政権が登場したことで,日韓関係は大幅に改善した。そして,日韓関係の悪化が日朝貿易の追い風となった1950年代後半とは対照的に,この時期の日韓関係の好転は日朝貿易の拡大を妨げた。外務省は,通産省と大蔵省が主張する標準決済規則の改正および第三国地決済の対北朝鮮輸入に反対し,これらを抑えることに成功した。その結果,1960年内の標準決済規則の改正は見送られたのである。

Ⅲ 「政経分離」にもとづく日朝貿易の拡大

1. 日朝間の直接輸送の実現と対米韓折衝

日朝貿易関係業界は香港経由の取引を余儀なくされるなか,ついに実力行使に踏み切った。すなわち,1960年10月16日,第一通商は銑鉄3000トンやタルク500トンなどを積んで清津を出航したアンナー・プレサス号を直接芝浦に入港させた。そして,香港を経由しなければ貨物を没収するという税関当局に対し,通関を要求し続けた。翌年3月には,東工物産と東邦商会も北朝鮮で船積みした貨物船を日本へ直航させた[日朝貿易会 1970, 30]。

第三国地決済の対北朝鮮輸入を認めるべきとする通産省と大蔵省の主張は,関係業界が実力行使に踏み切ったことで,いっそう強まった。一方,1960年10月25日に開始された第5次日韓会談は当初の期待とは裏腹に難航した。それゆえ,外務省アジア局北東アジア課は日朝貿易に関し,「日韓関係を考慮することの必要は薄らいだ」と判断した。そして,翌年2月17日,ほかの貿易・為替自由化の措置とともに標準決済規則の改正を「実施しても差支えない」と認めた(注49)。さらに,翌月には外務省の主管局であるアジア局も「北鮮貿易を全面的に抑圧するのは必ずしも得策ではなく,かたがた日韓会談の妥結の見とおしがつかない状況の下にあって,対北鮮直接輸入程度の措置は大勢に影響するところ少ない」と判断し,大蔵省の標準決済規則の改正案に同意した。その結果,日本政府は1961年4月1日を期して標準決済規則を改正し,対北朝鮮直接輸入を認めることになった(注50)。ただし,同時期に中国をはじめとする国交未回復の共産圏諸国が強制バーター地域(注51)から外されたにもかかわらず,北朝鮮だけは強制バーター地域に残された。また,北朝鮮側貿易関係者の日本入国も認められないままであった[宮原 1964, 6]。

それでも,日朝貿易会は日朝間の直接輸送の実現について,「これをもたらしたものは,何よりもわが国貿易業界を中心とする国民の貿易正常化のための長年の努力と朝鮮側の一貫した対日貿易態度にほかならず,同時に,日朝貿易禁止の理由とされてきた日韓会談が,国民の反対にあって早期妥結を阻まれている結果にほかな」らず,また「互恵平等の正常な貿易を築き上げるための基礎的条件が生み出され」たとして高く評価した[日朝貿易会 1961, 4-5]。実際,日朝間の直接輸送が実現した結果,日朝貿易額は着実に増加した。1961年の取引額は前年比で約1.8倍,仲介輸出も含めると約2.7倍に伸びた[宮原 1964, 7]。

ところで,アメリカと韓国は日朝間の直接輸送の実現をどのようにみていたのか。1961年3月9日,駐日アメリカ大使館のトレザイス経済担当公使は牛場信彦外務省経済局長を訪ね,駐日アメリカ大使発外務大臣宛書簡を手渡した。この書簡は,日本政府が日朝直接貿易の制限撤廃を検討していることに対し,アメリカ政府の懸念を表明した。そして,日本政府が次官会議決定を撤回しないこと,および日朝直接貿易を促進しないことを求めた。アメリカ政府の要求の根拠は,次の3点であった。第一に,北朝鮮「体制」は国連安全保障理事会で「侵略者」と定義されている。そして,1950年6月25日の国連安保理決議は国連全加盟国に対し,北朝鮮への援助を控えるよう求めている。また,1951年5月18日の国連総会決議は北朝鮮に対する戦略的禁輸の適用を求めている。第二に,北朝鮮「体制」は国際的地位の向上のため,自由主義諸国との貿易拡大や貿易協定の締結を図っている。日本政府の日朝貿易制限措置の撤廃は,北朝鮮が国際社会から認められつつあるという北朝鮮当局および共産主義陣営の主張に利用される恐れがある。第三に,日朝貿易の制限緩和は日韓関係を確実に悪化させ,日韓国交正常化を困難にする(注52)。なお,アメリカが日朝貿易に関して具体的行動を起こしたのは,管見の限り,これが最初である。日朝間の直接輸送の実現は,日朝貿易がこれまでとは次元の異なる「新しい段階」に入ったことを意味していた[日朝貿易会 1961]。だからこそ,はじめてアメリカは日朝貿易の進展に関心を示したのであろう。

1961年3月15日,牛場は討議資料の形式で,日本政府は「貿易自由化の進展に伴い対北鮮貿易の統制を従来の大蔵省における決済規則による統制より通産省における強制バーター方式による統制に移した」にすぎないと回答した。また,同資料は日本政府が日朝貿易に関して今後も「次官会議決定の枠内」にとどまると明言した。ところが,駐日アメリカ大使館はアメリカ側の申し入れが駐日アメリカ大使発外務大臣宛書簡によって行われたことから,日本側の回答も外務大臣発駐日アメリカ大使宛書簡で受領したいと要請した。そこで,外務省経済局東西通商課は次の主張の書簡を送った。まず,日朝貿易はこれまで大蔵省の標準決済規則によって統制されてきた。しかし,日本政府は為替自由化への措置として標準決済規則の簡素化を企図している。改正後の標準決済規則では,日本政府は第三国地決済による日朝貿易を制限できない。そこで,日本政府は北朝鮮を強制バーター地域に指定することで,日朝貿易を通産省の統制下に置くこととした。つまり,日朝貿易は依然として「継続的な政府管理下」にある。また,日本政府は北朝鮮との直接決済を引き続き認めない方針である。この点において,日朝貿易に関する次官会議決定は有効である(注53)

注目すべきは,討議資料と書簡を比較すると,書簡のほうが日朝貿易に積極的な回答となった点である。すなわち,書簡は日朝直接貿易を「北朝鮮との直接決済による貿易」と定義することで,日朝間の直接輸送の実現に対するアメリカ政府からの批判を回避した。また,書簡における次官会議決定への言及は,討議資料における言及よりも限定的であった。つまり,討議資料では次官会議決定を遵守する意思が示されたのに対し,書簡では次官会議決定の有効性が確認されたにすぎなかった。

直接貿易と直接決済の読み換えは,4月6日の牛場とトレザイスの定例会見でも展開された。トレザイスは,北朝鮮の銑鉄を積んだ貨物船が川崎に直接入港するという新聞報道に関し,北朝鮮との人的・物的交流を行わないという日本政府の方針が変更されたのかと問いただした。牛場は「日本政府の方針は北鮮との直接決済による貿易を行わない」というものであり,今回のように「物資が直送されても決済が第三国を通じて行われる」のであれば,次官会議決定には反しないと答えた(注54)

4月7日,駐日韓国代表部は標準決済規則の改正にともなう日朝間の直接輸送の実現に関し,口上書で次の5点を主張した。第一に,日本政府の措置は日朝間の直接貿易を認めるものであり,必然的に北朝鮮を援助するものである。これは韓国に対する「非友好的措置」であるのみならず,国連安保理決議と国連総会決議にも反する。第二に,早期の国交正常化に向け第5次日韓会談が進行しているさなかに,日本政府があえてこのような非友好的態度をとることは理解に苦しむ。この状況に歯止めがかからないならば,日韓会談の円滑な進行に必要な「友好的空気」は損なわれると指摘せざるをえない。第三に,1955年の次官会議決定にもとづき北朝鮮との貿易を禁止するという,従来の日本政府の主張と矛盾した措置がとられたことは遺憾である。第四に,韓国政府は日韓貿易の拡大を望んでいるが,日本政府の措置は必然的に日韓貿易額を減少させるであろう。第五に,したがって韓国政府は日本政府の「非友好的措置」に対し,最大級の抗議を申し立てる。そして,ただちに状況を改善するため,日本政府がその立場を真剣に再考するよう強く求める(注55)。駐日韓国代表部はこれまでも日朝貿易の進展に繰り返し抗議してきた。口上書の基本的な主張は,日本政府に次官会議決定の遵守を求めた点において,従来の抗議と変わらない。また,日朝直接貿易の実現が「国連安保理決議と国連総会決議にも反する」とした点,および日朝直接輸送の実現を日朝直接貿易の実現とみなした点において,駐日韓国代表部の口上書は駐日アメリカ大使発外務大臣宛書簡ともほぼ同一の内容であった。

同月20日,外務省は駐日韓国代表部からの抗議に対し,次の2点を反駁した。第一に,日本政府の貿易に関する基本的態度は「政治上の問題を離れて,世界のあらゆる国々と自由にこれを行うことにあり,共産圏諸国との貿易についても,自由諸国中の関係国と協調して戦略物資の輸出を厳重に統制している以外には,原則として統制を行わない」というものである。第二に,このような日本政府の態度は自由主義諸国の一般的動向と一致している。日本政府は日朝貿易が日韓関係に与える影響を考慮し,これまで例外的に全面禁止措置をとってきた。しかし,貿易と為替の自由化を推進するにともない,日朝貿易の制限緩和に対する強い要望が国内関係方面より提起された。日本政府がこのような要望を受け入れなければ,「却ってこれが日韓会談に対する反対ないし日本国と北朝鮮との交流促進を提唱する等の好ましからざる結果」を招くと認められる。そこで,日本政府は「大局的見地」から,貿易と為替の自由化の一環として日朝貿易の制限緩和を実施する(注56)

駐日韓国代表部からの抗議に対する反駁は,外務大臣発駐日アメリカ大使宛書簡と比較して,より踏み込んだ内容になった。すなわち,同文書は池田内閣の共産圏諸国との貿易に対する基本原則,つまり「政経分離」の原則を北朝鮮にも適用することを宣言した。同時に,日朝貿易の制限緩和が貿易・為替自由化の一環であり,日韓会談への反対を抑えることにもつながると主張した。ただし,日本政府が「日韓会談のためにも,日朝友好運動の業界への拡散を阻止する必要があった」[朴 2012, 439]ため,日朝間の直接輸送を認めたとはいいがたい。これまで日朝貿易の制限緩和に反対してきた外務省は,むしろ第5次日韓会談の難航によって「日韓関係を考慮することの必要は薄らいだ」ため,日朝間の直接輸送を認めたのである(注57)。1961年4月の日朝間の直接輸送の実現は,1950年代後半と同様に,日韓関係の悪化が日朝経済関係の進展をもたらすパターンに位置づけられよう。

2. 日朝貿易の拡大への新たな課題

日朝貿易は,直接輸送が認められたあとも貿易管理と為替管理の両面から制約された。貿易管理面では,1961年4月に改正された輸出貿易管理令第1条第2項と輸出貿易管理規則第2条第2項により,北朝鮮は強制バーター地域に定められた。為替管理面では,標準決済規則により北朝鮮との直接決済が禁じられた(注58)。そのため,日朝間の決済方法は1961年4月以降も第三国地決済を余儀なくされた。この第三国地決済は,基本的にはパリの北欧商業銀行(ユーロバンク)を通じて行われた。すなわち,日本側商社が朝鮮金剛協同貿易商社に信用状決済で外貨を支払う場合は,まず日本の為替銀行を開設銀行とし,受益者をユーロバンク内の朝鮮金剛協同貿易商社の口座とする信用状をユーロバンク宛てに開く。信用状を受け取ったユーロバンクは,あらためて受益者を朝鮮金剛協同貿易商社とする信用状を朝鮮中央銀行宛てに開く。そして,朝鮮中央銀行が信用状を朝鮮金剛協同貿易商社に通知して,はじめて信用状の授受を終える。また,日本側商社が朝鮮金剛協同貿易商社から外貨を受領する場合は,上記の取引を逆にした方法でユーロバンクの開設した信用状を受け取る。要するに,日本側商社は北朝鮮側との通貨の受け渡しができないため,日朝間の決済をユーロバンク経由で行わざるをえなかった[日朝貿易会 1962, 3-4]。

ユーロバンク経由の第三国地決済という「不自然な方法」がとられたことによって,日朝間の決済はさまざまな損失を被った。たとえば,ユーロバンク経由で事実上二重に信用状を開設する方式のために,直接決済ならば2日で到着する信用状が電報で1週間以上,郵便では3週間以上を要した。その結果,貨物船が北朝鮮の港に到着しても,ユーロバンク経由の信用状が到着しないために船積みできないという事態がしばしば発生した。これは時間の浪費という問題だけでなく,船積みの遅れによって多額の倉庫料を支払わなければならないことにもつながった。そのため,近接した隣国であるにもかかわらず,日朝間の海上運賃はきわめて高くついた。また,北朝鮮の強制バーター地域への編入により対北朝鮮輸入に対する日本政府の事前承認が要求されたが,その取得にも最低2週間,長ければ1カ月以上を要した。さらに,第三国地決済自体の経費も高かった。すなわち,信用状の開設に必要な銀行チャージとケーブルチャージは,日朝間の取引では信用状を二重に開設するため,単純に通常の取引の倍額を必要とした。しかも,第三国地を経由するために,信用状の誤記をはじめとするトラブルも起こりやすかった[日朝貿易会 1962, 4-5]。

5月18日,相川理一郎日朝貿易会常務理事は和田博雄社会党国際局長を通じ,外務省に「朝鮮民主主義人民共和国との決済に関する陳情書」を提出した。相川は北朝鮮の強制バーター地域への編入を「輸出入を認めながら同国との決済を封ずるという極めて矛盾した措置」と批判した。そして,「貿易取引に外貨の受払を伴うことは常識であり,政府当局がかかる措置を残存せしめなければならない何らの理由も見出せ」ないとして,北朝鮮との直接決済を認めるよう求めた(注59)。また,相川は北朝鮮の貿易者・技術関係者の入国許可に関する陳情書も同時に提出した。この陳情書は,日朝間の直接輸送が認められたことで火力発電設備や中波放送設備などのプラント輸出の現実性が増しているなか,プラント輸出の商談を促進するには北朝鮮の貿易・技術関係者の来日を実現することが必要であると主張した(注60)

同月26日,外務省経済局東西通商課は日朝貿易会の陳情書に対し,日朝貿易の制限のさらなる緩和は「必らずしも得策とは考えられない」と回答した。その理由は,次の2点であった。第一に,直接輸入の許可から1カ月あまりが経過したばかりで,その運用上の成果も定かでない。第二に,日朝貿易の問題と「密接な関連を有している日韓交渉の見通しが立」っていない(注61)。後者は,外務省が日朝貿易を制限する理由として,以前から繰り返し述べてきたものである。しかし,直接輸入を許可した直後であるという前者の理由は注目に値する。一定の期間をおき,直接輸送の実現にともなう日朝貿易の拡大が確認されれば,さらなる制限緩和の余地があることを認めているからである。換言すれば,外務省も「政経分離」の原則を北朝鮮にも適用した以上,北朝鮮だけを強制バーター地域に指定し続けることは難しいと認識していた。実際,東西通商課は「外務省としては,今後の対北鮮貿易政策については,関係各省と密接な協同の上,上記の諸事情を慎重に勘案しながら,わが国経済にとり最善と思われる措置をとって行きたい方針である」とも述べた(注62)

日朝間の直接輸送が認められると,日朝間で活発な商談が展開された。とりわけ大きな商談は,八幡製鉄の稲山嘉寛副社長による北朝鮮茂山鉄鉱石の輸入交渉である。1961年3月20日,稲山は金最善朝鮮国際貿易促進委員会副委員長に対し,茂山鉄鉱石を輸入したいと申し入れた。ここで注目すべきは,前年5月に北朝鮮産鉛精鉱の輸入を図った川瀬一貫東工物産社長と同様に,稲山が日本の経済界は北朝鮮の鉱物資源の「情報,品質については,かねてより熟知して」いると述べたことである(注63)。このような川瀬や稲山の認識は,戦前の朝鮮植民地支配の経験に根ざすものといえる。すなわち,植民地朝鮮に進出した日本企業は北朝鮮の豊富な鉱物資源を開発した。とりわけ茂山鉄鉱石は商工省のもとで「総合的鉄鋼国策」の一環として増産が進められ,戦時期に建設された製鉄所の原料鉱に使われた[中外商業新報 1936; 木村 2016, 47-49]。稲山はこの茂山鉄鉱石を安価で購入し,日本最大の製鉄所で利用しようとしたのである。日本の経済界が朝鮮植民地支配の経験から北朝鮮の鉱物資源について「熟知」していたことは,日朝貿易の発展への大きな誘因であったといえよう。

稲山による茂山鉄鉱石の輸入交渉は順調に進んだ。6月16日,北朝鮮から茂山鉄鉱石を年間20万トンないし50万トン輸入するという業界新聞の報道を受け,外務省経済局東西通商課が八幡製鉄の鉱石課長に聞き取り調査を行った。鉱石課長は,通産省重工業局も「年間40~50万トン且つ長期契約でないならば差支えなし」としており,茂山鉄鉱石の「輸入の見込は十分ある」と述べた(注64)。ところが,茂山鉄鉱石の輸入交渉は朝鮮金剛協同貿易商社が日本の業界代表の訪朝を求めたことで暗礁に乗り上げた。日本の鉄鋼業界は,当面は業界代表を訪朝させる考えを有しておらず,また「北鮮側からの来日は問題にならぬと承知」していたからである。業界代表の代わりに商社員を訪朝させることも検討されたが,適当な人材が見つからなかった。その結果,茂山鉄鉱石の輸入交渉は1961年度の所要鉄鉱石がすでに十分入手できたこともあって,いったん延期とされた(注65)

日朝間の貿易・技術関係者の往来,とりわけ北朝鮮側関係者の日本入国が認められなかったことは,茂山鉄鉱石の輸入交渉が頓挫する一因となったように,日朝貿易の発展への大きな障害となった。そのため,日朝貿易打開運動は日朝協会が進めた北朝鮮行き旅券獲得運動や原水爆禁止世界大会への北朝鮮代表の参加,崔承喜舞踊団の日本公演実現などの諸運動と密接に関連づけられて展開された[朴 2012, 440]。ただし,経済界は日朝協会と連携した日朝貿易打開運動とは別個に,北朝鮮の貿易・技術関係者の訪日実現を求める運動も展開した。たとえば,村瀬雅芳組合貿易連合常務取締役は外務省アジア局北東アジア課を訪ね,朝鮮消費協同組合中央連盟代表団の入国許可を求める陳情書を提出した(注66)。この陳情の背景には,北朝鮮側が相互商品納入に関する長期協定と総額200万ポンド程度の輸出入契約を締結するため,代表団3名の東京への派遣を希望していたことがあった。また,組合貿易連合自身も「日本よりの輸出品については,現在日本が輸出を切望しているものが殆んどであり,又,輸入品も希望するものが多い」として,北朝鮮側代表団の訪日実現を強く求めていた(注67)

北朝鮮の貿易・技術関係者の訪日実現という問題は,日朝間の直接輸送が認められてから最初の契約でも懸案となった。1961年5月,東工物産と朝鮮金剛協同貿易商社との間で総額26万ドルの中波放送設備の対北朝鮮輸出契約が締結された。8月31日には東工物産と芝電機(メーカー)の代表者が香港経由で訪朝し,取引に関する「最終詳細契約」を締結した。通産省も放送設備の輸出と契約額の10%の後払いを許可した。ところが,この契約では放送設備の検査と試運転のため,北朝鮮側技術関係者の日本入国と立ち会いが規定されていた。また,パリからユーロバンクを経て東京銀行に開設された信用状でも,北朝鮮側技術関係者による日本での立会検査確認書の提出が代金支払いの条件として明記されていた(注68)

日本政府は1961年4月の日朝直接輸送の実現に際し,当面は北朝鮮の貿易・技術関係者の日本入国を認めないとしていた。日本政府が北朝鮮側関係者の入国を認めないことは,次官会議決定が「一応生きている」と解釈するためにも重要な決定であった(注69)。それでは,なぜ通産省は北朝鮮側技術関係者の日本入国を規定した対北朝鮮輸出契約を認めたのか。実は,東工物産は北朝鮮側技術関係者の日本入国が契約上必要であることを隠した上で,通産省の事務当局から放送設備の輸出許可を得ていた(注70)。しかし,通産省は北朝鮮側技術関係者の日本入国が契約条件であることを知らずに放送設備の輸出を許可したとはいえ,むしろこの輸出契約の実行に積極的であった。

本件輸出を通産省として本年9月,許可している以上,輸出振興,貿易自由化の必要が高まっている現在,更に前記事情により北鮮のみについて人の来往を弾力的に運営しない行政的措置自体に問題がある。(非承認共産圏各国,東独,外蒙,中共,北越よりの入国は認めている。)

よって,通産省としては,本件の如く「純粋技術者の来往は真に已むを得ない事由がある場合に限り,次官会議申合事項の特例として認める。」こととして,外務省,法務省入管等の関係者と打合わせ,早急にこの解決を図る必要がある。(注71)

通産省は,以前から日朝貿易に積極的姿勢を示してきた。しかし,これまでの通産省の主張は,標準決済規則の「抜け穴」により日朝貿易を阻止しえないという,ある意味では消極的なものであった。ところが,放送設備の輸出にともなう北朝鮮側技術関係者の日本入国という問題が浮上すると,ついに通産省は1955年の次官会議決定そのものを批判するようになった。通産省は「輸出振興,貿易自由化の必要が高まっている」なかで,これまで以上に日朝貿易に積極的になっていたといえよう。実際,佐藤栄作通産大臣は放送設備の輸出に関する和田博雄社会党国際局長の陳情に対し,肯定的に回答していた。また,法務省入国管理局長も北朝鮮側技術関係者の入国に「同情的」であった(注72)

しかし,外務省は「1955年10月の次官会議申合せ事項(北鮮との貿易その他の接触は行なはない),ならびに当時の日韓関係をも顧慮し」た結果,1961年10月,放送設備の輸出にともなう北朝鮮側技術関係者の日本入国を拒否した。そこで,東工物産は再び北朝鮮側と交渉して当該条件を削除し,その代償として北朝鮮産トウモロコシ6000トンを買い取ることで契約をまとめた。そして,翌年6月に放送設備の輸出を完了した(注73)

3. 日朝間の直接決済の実現と日韓請求権交渉の展開

日朝関係正常化に関する陳情は1962年に入ると急増した。同年1月から4月初頭までに計20件の陳情が外務省に提出された。その内訳は市議会からの陳情が12件,区議会・町議会からの陳情が5件,県議会からの陳情が3件と全国各地域にわたっていた。いずれの陳情も日朝間の強制バーター方式の撤廃や直接決済の実施,人的往来の実現を要求していた。これらの陳情の背景には,日朝貿易会や国際貿易促進協会が各地方自治体に対し,国会や関係官庁への陳情運動を展開するよう働きかけていたことがあった(注74)

7月27日,通産省通商局は外務省経済局に対し,通産省と大蔵省の「共通意見」として北朝鮮を強制バーター地域から除外して日朝間の直接決済を認めるよう求めた。その理由には「貿易為替管理の正常化及び手続の簡素化」と「近く開かれる国会対策」があげられた(注75)。特に日朝間の直接決済の容認については,通産省以上に大蔵省が積極的であった。大蔵省は,現行の標準決済規則が煩雑かつ難解であることから,新たに一般的な決済手続規則を定めたいとの意向を有していた。そのため,一般的な決済手続規則の制定にともない,標準決済規則にもとづく日朝間の直接決済の制限が消滅したとしてもやむをえないと考えられた(注76)

しかし,外務省は「貿易為替管理制度の簡素化の一環」として北朝鮮との直接決済の制限および強制バーター制度を廃止するのは適当でないと判断した。外務省の反対理由は,次のとおりである。

日韓関係が近く新な調整の時期を迎えるに際し,標準決済規則の改正〔にともなう日朝間の直接決済の容認――筆者注〕は為替管理制度の全面的改正に依るものであるため仕方ないとしても,後者バーター制度の廃止は,韓国に不必要な刺戟を与え,その態度を一層硬化させる結果を招ねく虞れもあり,少なくとも現段階においては,本件を認めることは適当でないと考える。(注77)

従来と同様に,外務省は日韓関係を理由に日朝貿易の制限緩和に反対した。特に北朝鮮の強制バーター地域からの除外は為替管理ではなく貿易管理の問題であるため,韓国に不必要な刺激を与えると考えられた。

それでも,通産省と大蔵省は9月に入ると「対北鮮貿易共同改正案」を作成した。共同改正案の要点は,次の3点である。第一に,為替管理面では,標準決済規則別表4の北朝鮮に関する規定を削り,北朝鮮との直接決済を可能とする。第二に,貿易管理面では,輸出貿易管理規則の付表2を削り,北朝鮮に関して同規則第2条の条件を外すことにより,北朝鮮に対する強制バーター制度を廃止する。第三に,改正の時期は90%輸入自由化が行われる10月1日とする(注78)。要するに,共同改正案は日朝貿易の制限を「人事の往来を除き,すべて共産圏中の国交未設定たる中共,北越,外蒙,東独及びアルバニヤ並にしようと」するものであった(注79)

共同改正案には,為替管理面では「IMFに対する決済規則緩和に関する申し開きの一環としての意味」もあった。すなわち,大蔵省は同年10月に開かれる予定のIMFコンサルテーションに備え,標準決済規則の簡素化を企図していた(注80)。したがって,共同改正案は7月27日の「共通意見」と同様に,大蔵省のイニシアチブで作成されたと推測される。

伊関佑二郎外務省アジア局長は共同改正案が外務省に提示される前に,村上一大蔵省為替局長との協議のなかで「自分としてはこの改正方針でよいのではないか」と答えていた。そのため,大蔵省と通産省は,外務省も共同改正案には反対しないと了解していた(注81)。実際,大平正芳外務大臣は9月2日の臨時国会において,北朝鮮の強制バーター地域からの除外を求めた穂積七郎社会党衆議院議員に対し,「今後検討してみましょう。〔中略〕うしろ向きの方向に検討するつもりはありません」と明言していた(注82)。また,大蔵委員会の理事会でも村上一大蔵省為替局長と宮本淳通産省通商局次長から,外務当局も北朝鮮の強制バーター地域からの除外に「特に反対の訳ではない」との意向が紹介されていた(注83)

しかし,外務省は9月5日の幹部会で「改正案そのものには原則的に異議はない」としながらも,共同改正案の実施期日については「日韓会談との関係上,大蔵,通産両省の予定する期日に行なうことは絶対回避すべし」と決定した。まず,外務省は通産省に共同改正案への反対を通達した。通産省は外務省の意向を「容れざるを得ない」と回答した。次に,同月10日,赤谷源一外務省経済局東西通商課長が村井七郎大蔵省為替局企画課長に共同改正案への反対を通達した(注84)

ところが,村井は「今に至って課長レベルで回答されても困る」として,外務省の意向に強く反発した。共同改正案は,大蔵省にとって「局長以上の問題」かつ「大蔵省対国会の問題」であった。なぜならば,先述した大蔵委員会の理事会において,大蔵省為替局長が10月1日までに共同改正案を実施すると明言していたからである。さらに,村井は「そもそも本件改正については,規則上は外務省の事前同意を得る要はな」く,大蔵省としては「既定方針とおり改正案を進めている次第である」と述べ,共同改正案の実施強行すら示唆した。大蔵省の反発は,外務省経済局東西通商課が「兎に角大蔵を翻意せしめる要あり」と経済局長およびアジア局長に伝えるほど強かったのである(注85)

外務省経済局は大蔵省からの想定外の猛反発を受け,9月24日の外務省幹部会を前に「人の交流制限は存続し,かつ,パブリシティは極力さけることを条件として,本件改正には反対せざること」を決定した。経済局が共同改正案の実施を容認した理由は,次の3つである。第一に,日韓会談が早急に妥結する見通しもないため,むしろ日朝貿易に対する従来の「不自然な制限は,今の時期において解消することも一策である」こと。第二に,共同改正案の実施を強く主張する大蔵省と,外務省の意向に応じて日朝貿易の制限の継続を考慮する通産省との間で「態度に喰違いの生ずることにつき通産省は不満を抱いている」こと。第三に,韓国側からの抗議に対しては,共同改正案の「本来の目的は,I.M.Fとの関係上,貿易為替の自由化の一環としての改訂であり,北鮮貿易の緩和を目的としたものではない,との説明をもって納得せしめることが出来ると考えられる」こと(注86)

特に注目すべきは,「日韓交渉は早急に妥結の徴もない」という経済局の認識である。1961年10月20日,池田勇人政権と朴正熙政権との間で第6次日韓会談が開始された。翌年3月には,小坂善太郎外相と崔徳新外相が東京で5回にわたり公式に会談した。ところが,この外相会談では,請求権問題に関する日韓双方の主張が依然として大きく隔たっていることが明らかとなった。事務折衝では解決できない問題を政治折衝で解決する試みは,事実上成果なしに終わったのである(注87)。また,外相会談と並行して進められた事務折衝も行き詰まっていた。すなわち,一般請求権小委員会では,請求権の法的論理や事実関係をめぐる日韓間の応酬が繰り返された[金 2018, 251-252]。このような第6次日韓会談の停滞を受けて,経済局は共同改正案の実施を容認したといえる。

外務省幹部会は上記の経済局の決定をふまえたうえで,共同改正案に対する外務省の方針として,次の3点を最終決定した。第一に,原則的には共同改正案に異論はないが,日韓会談が「微妙な段階」に来ているため,1962年末まで共同改正案の実施を延期する。第二に,1963年1月以降は日韓会談の結果にかかわらず,共同改正案の実施に同意する。第三に,もし日韓会談が1962年内に妥結した場合は,ただちに共同改正案の実施に同意する(注88)。要するに,幹部会はあくまでも日韓会談が妥結するまでは,韓国政府を刺激しかねない共同改正案の実施を延期すべきと考えていた。

9月26日,経済局は幹部会の最終決定を大蔵省為替局に通達した。渡米中の村上一為替局長は国際電話で外務省の最終決定を聞くと,「局長個人としては外務省の最終的態度には反対である」と述べた。しかし,大蔵省は外務省の最終決定には反対であるが,「10月1日の実施を延期することは止むを得ない」と判断した。それでも,大蔵省は「日韓会談が妥結せば直ちに実施すべきである」として,共同改正案の早期実施を求め続けた(注89)

11月1日,外務省幹部会決定が示した延期期限を待たず,ついに共同改正案が実施された。すなわち,従来の「標準決済方法に関する規則」が廃止され,新たに大蔵省令の「標準決済方法に関する省令」が施行された。この省令では,北朝鮮との決済を禁止していた条項が取り除かれ,北朝鮮との決済もすべて標準決済として認められることになった。また,通産省も同日に輸出貿易管理規則の一部を改正し,北朝鮮を強制バーター地域から除外した。日朝間の取引自体に対する法的制約が取り除かれた結果,日朝貿易は「一応日中貿易と同様の取扱い」となった[日朝貿易会 1962, 5-6]。

なぜ共同改正案は延期期限を待たずに実施されたのか。先行研究では,池田政権の日朝貿易に対する姿勢は日中貿易の拡大を念頭においたものとされる[朴 2012, 465-466]。確かに,同月9日に高碕達之助と廖承志との間で「日中総合貿易に関する覚書」が調印され,翌年から「LT貿易」が開始された。しかし,先述のとおり,1962年内の共同改正案の実施には日韓会談の妥結が条件とされていた。そこで,日韓会談の展開をみると,同年9月に日韓間の事務折衝に一定のめどがついた。10月20日には金鍾泌中央情報部長が来日し,池田首相や大平外相との会談を重ねた。日韓請求権交渉は,政治決着が近づいていた[金 2018, 263]。このように日韓会談の妥結の見通しが立ったからこそ,1962年11月1日というタイミングで外務省は共同改正案の実施に同意したと推測される。

朴正鎮は,日朝貿易関係者の人事交流が引き続き拒否されたために,標準決済の許可と強制バーター制度の廃止にもかかわらず1962年度の日朝貿易額は約30億円で,1961年と比べても「まったく横這い状態」であったと述べる[朴 2012, 466]。しかし,共同改正案の実施が1962年11月であったこと,およびユーロバンク経由の決済は約3週間を要したことを考慮すれば,共同改正案の実施の効果が現れるのは翌年になろう。つまり,1962年の取引額が「横這い」となったのは当然である。実際,1963年の取引額は前年比1.6倍の約53億円となり,さらに1964年の取引額は前年比2倍を超える急増をみせた。共同改正案の実施によって,日朝貿易は依然としてさまざまな制約を抱えながらも「本格的な発展の段階に入った」といえよう[日朝貿易会 1963, 5]。換言すれば,1962年11月1日の共同改正案の実施は,やはり日朝貿易にとって,そして戦後日本の北朝鮮政策にとって,大きな転換点であった。

おわりに

従来,日朝貿易は次のように捉えられてきた。第一に,日朝貿易は日中貿易の打開策や北朝鮮の対日人民外交の延長線上にあり,その主要アクターは日朝協会関係者や社会党議員,在日朝鮮人団体であった[権 2007; 朴 2012]。第二に,日朝貿易は日本政府と日朝貿易関係業界のせめぎ合いの中で漸進的・事後承認的に制度化・拡大された[三村 2017]。しかし,本稿はこのような日朝貿易イメージに対し,これまで述べてきた日朝貿易の展開過程の分析をもとに,以下2点を主張したい。

第一に,日朝貿易は単なる「友好貿易」にとどまらない経済的重要性を有していた。本稿が再三強調してきたように,北朝鮮の鉱物資源は価格面や歴史的背景から日本の経済界にとって大いに魅力的であった。それゆえにこそ,日朝貿易には左派勢力や在日朝鮮人団体だけでなく,経済界の主流も積極的に関与した。そして,日朝貿易は日中関係との連関性も否定できないものの,それ以上に日韓関係と連関していたといえる。たとえば,1950年代の2度にわたる日韓経済断交や1960年にはじまった第5次日韓会談の難航といった日韓関係の悪化は,日本政府が日朝貿易の制限緩和に踏み切る直接的要因として作用した。また,日朝間の直接決済の実現にも日韓請求権交渉の展開が大きく影響していた。

第二に,日朝貿易の制度化(制限緩和)の過程では,日本政府内でも貿易政策に関与する外務省,通産省,大蔵省のせめぎ合いがあった。もちろん,職責の異なる各省の考えが違ったとしても,それは当然のことではないかという指摘もあろう。しかし,重要なことは,各省が日朝貿易に対して異なる見解を有していたこと自体ではない。「対韓考慮」を優先する外務省を押し切るかたちで,通産省や大蔵省が日朝貿易の制限緩和を容認し,そして実際に北朝鮮との貿易が実現・拡大したことに注目すべきである。すなわち,東アジア冷戦下の日本の朝鮮半島政策には,同じ資本主義陣営の韓国を優先しようとする外務省の「冷戦の論理」だけでなく,北朝鮮との経済関係の拡大を模索する通産省,大蔵省,経済界の「経済の論理」が存在した。

さらに,通産省,大蔵省,経済界の「経済の論理」にはそれぞれ異なる思惑や要因があったことも重要である。通産省は貿易拡大という基本方針,そして無煙炭をはじめとする対北朝鮮輸入品目の日本国内における需給状況を重視し,日朝貿易に積極的な姿勢をとり続けた。大蔵省は為替自由化を進める必要から,決済面における日朝貿易の制限の撤廃に大きな役割を果たした。経済界は鉄鉱石をはじめとする北朝鮮の安価な鉱物資源に注目し,日朝貿易の拡大を模索した。朝鮮植民地支配の経験により,日本の経済界が北朝鮮の鉱物資源の特徴を「熟知」していたことも,日朝貿易の推進要因として作用した。日朝貿易は,このような三者の異なる思惑から導き出された「経済の論理」が外務省の「冷戦の論理」を上回ることで,東アジア冷戦にもかかわらず発展し続けたのであった。

(一橋大学大学院法学研究科法学・国際関係専攻博士後期課程,2020年10月1日受領,2021年1月15日レフェリーの審査を経て掲載決定)

(注1)  本稿では,朝鮮民主主義人民共和国の略称として「北朝鮮」という呼称を用いる。ただし,史料の引用に際しては,一部の差別的表現も歴史的用語としてそのままにした。

(注2)  外務省外交史料館所蔵史料の出典元については,分類番号を示し,文献リストとの参照を可能にした。

(注3)  在アメリカ合衆国井口大使発岡崎大臣宛電信第2376号,1954年9月27日,E’.2.5.6.2.

(注4)  ア五課「対北鮮貿易につき見解問合せに関する件」1955年1月27日,E’.2.5.6.2.

(注5)  外務省アジア局「北鮮との貿易その他諸関係を樹立することの可否に関する件」1955年6月3日,E’.2.5.6.2.

(注6)  作成者不明「北鮮貿易に関する件」1955年8月,E’.2.5.6.2.

(注7)  アジア局第一課「北鮮との漁業,貿易協定問題に関する経緯」1956年9月3日,2010-4106.

(注8)  外務省「北鮮と貿易その他の諸関係を樹立することの可否に関する件」1955年10月21日,E’.2.5.6.2;北東アジア課「北鮮貿易に関する件」1960年6月16日,2010-4106.

(注9)  作成者不明「北鮮産無煙炭の中共経由輸入に関する件」1956年11月15日,E’.2.5.6.2.

(注10)  同上。

(注11)  経通「対北鮮貿易の現状について」1960年6月30日,2010-4106.

(注12)  中国は標準決済規則で特別指定地域に加えられていたため,決済通貨としてポンドが認められていた。(注8)の「北鮮貿易に関する件」。

(注13)  (注9)の「北鮮産無煙炭の中共経由輸入に関する件」。

(注14)  「日朝貿易協定」1957年9月27日,E’.2.5.6.2.

(注15)  ア一課「日朝貿易に関し日朝協会長の要請の件」1957年11月20日,E’.2.5.6.2.

(注16)  経済局東西通商課「わが国の対北鮮貿易取引実績について」1960年,2010-4106.

(注17)  標準外決済では貿易の個々の取引について大蔵大臣の許可・承認が必要であり,これによって北朝鮮との貿易は阻止された。(注8)の「北鮮貿易に関する件」。

(注18)  ただし,北朝鮮からの輸入は標準決済規則の別項の規定により,北朝鮮が原産地または船積地である限り,たとえ第三国地決済であっても標準外決済とされた。(注11)の「対北鮮貿易の現状について」。

(注19)  作成者不明「北鮮貿易に関する件」1959年,2010-4106.

(注20)  (注8)の「北鮮貿易に関する件」。

(注21)  (注19)の「北鮮貿易に関する件」。

(注22)  東西通商課長「従来の『対北鮮貿易取引実績』について」1960年3月3日,2010-4106.

(注23)  北東アジア課「日韓貿易の現状」1959年6月19日,2010-4106.

(注24)  経ア「日韓貿易の両国経済に及ぼす影響」1959年6月11日,2010-4106.

(注25)  (経,通)武藤「煉豆炭用無煙炭の北鮮乃至南鮮(韓国)からの輸入に関する件」1959年9月14日,E’.2.5.6.2.

(注26)  北東アジア課「朝鮮産無煙炭輸入に関する件」1959年9月28日,E’.2.5.6.2.

(注27)  (注16)の「わが国の対北鮮貿易取引実績について」。

(注28)  同上。

(注29)  北東アジア課「北鮮貿易に関する件」1960年2月23日,2010-4106.

(注30)  同上。

(注31)  同上。

(注32)  同上。

(注33)  同上。

(注34)  「第34回国会衆議院大蔵委員会議録第5号」1960年2月24日。

(注35)  日朝貿易会「日朝貿易正常化に関する陳情書」1960年3月1日,2010-4106.

(注36)  たとえば,1959年の「日朝貿易会活動方針」には,日朝貿易会の活動の基本方針は「日朝直接貿易と在日朝鮮人の帰国を実現し,朝鮮に対する友好関係を確立せしめる」ことにあると明記されている[日朝貿易会 1959b, 15]。

(注37)  経済局東西通商課「北鮮茂山鉄鉱石の輸入に関する件」1961年6月16日,E’.2.5.6.2.

(注38)  川瀬一貫「鉛精鉱の標準外決済の輸入許可に関する件陳情」1960年5月31日,2010-4106.

(注39)  (注8)の「北鮮貿易に関する件」。

(注40)  同上。

(注41)  同上。

(注42)  同上。

(注43)  経通「対北鮮貿易との関連における標準決済方法に関する規則改正に関する件」1960年6月13日,2010-4106.

(注44)  北東アジア課「第3国地を決済地とする対北鮮輸入に関する件」1960年8月6日,2010-4106.

(注45)  同上。

(注46)  同上。

(注47)  同上。

(注48)  北東アジア課「第三国地を決済地とする対北鮮貿易に関する件」1961年2月17日,2010-4106.

(注49)  同上。

(注50)  作成者不明「北鮮との貿易」1961年,E’.2.5.6.2.

(注51)  強制バーターとは,輸入に際して輸出を結びつけ,輸入超過を防ごうとする制度である[日朝貿易会 1961, 8]。

(注52)  経済局東西通商課「対北鮮貿易問題に関する米申入れの件」1961年4月6日,E’.2.5.6.2.

(注53)  同上。

(注54)  作成者不明「対北鮮貿易に関する件」1961年4月7日,E’.2.5.6.2.

(注55)  KOREAN MISSION IN JAPAN「NOTE VERBALE」1961年4月7日,2010-4106.

(注56)  外務省「北鮮貿易一部緩和に関する韓国政府よりの口上書に対する反駁」1961年4月20日,2010-4106.

(注57)  (注48)の「第三国地を決済地とする対北鮮貿易に関する件」。

(注58)  北東アジア課「対北鮮貿易の手続規則について」1962年8月23日,2010-4106.

(注59)  相川理一郎「朝鮮民主主義人民共和国との決済に関する陳情書――標準決済規則別表四の改正について」1961年5月18日,E’.2.5.6.2.

(注60)  相川理一郎「火力発電設備などプラント輸出商談にともなう朝鮮民主主義人民共和国の貿易ならびに技術関係者の入国許可に関する陳情書」1961年5月18日,E’.2.5.6.2.

(注61)  経通「北鮮との決済及び入国問題に関する陳情書に対する回答要領の件」1961年5月26日,E’.2.5.6.2.

(注62)  同上。

(注63)  稲山嘉寛発金最善宛電信,1961年3月20日,E’.2.5.6.2.

(注64)  (注37)の「北鮮茂山鉄鉱石の輸入に関する件」。

(注65)  経済局東西通商課「北鮮茂山鉄鉱石の輸入について」1961年8月25日,E’.2.5.6.2.

(注66)  組合貿易連合は,農業協同組合と漁業林業協同組合によって1961年4月に設立された貿易専門機関である。

(注67)  三橋誠「陳情書――朝鮮消費協同組合中央連盟訪日代表団について」1961年8月28日,2010-4106.

(注68)  通商局市場第三課「北鮮向放送設備輸出契約に伴う北鮮技術者入国の件」1961年10月2日,E’.2.5.6.2.

(注69)  (注48)の「第三国地を決済地とする対北鮮貿易に関する件」。

(注70)  経済局東西通商課「北鮮向放送設備の輸出に関する件」1962年7月27日,E’.2.5.6.2.

(注71)  (注68)の「北鮮向放送設備輸出契約に伴う北鮮技術者入国の件」。

(注72)  同上。

(注73)  (注70)の「北鮮向放送設備の輸出に関する件」。

(注74)  東西通商課「日鮮(北鮮)関係正常化に関する陳情について」1962年4月5日,E’.2.5.6.2.

(注75)  経済局東西通商課「対北鮮強制バーター制度の廃止及び標準決済規則改正に関する通産省通報の件」1962年7月27日,E’.2.5.6.2.

(注76)  北東アジア課「対北鮮貿易の手続規則について」1962年8月23日,2010-4106.

(注77)  (注75)の「対北鮮強制バーター制度の廃止及び標準決済規則改正に関する通産省通報の件」。

(注78)  北東アジア課「対北鮮貿易の手続規則改正について」1962年9月5日,2010-4106.

(注79)  経済局東西通商課「対北鮮貿易措置の改正について」1962年9月10日,E’.2.5.6.2.

(注80)  (注78)の「対北鮮貿易の手続規則改正について」。

(注81)  同上。

(注82)  「第41回国会衆議院外務委員会議録第5号」1962年9月2日。

(注83)  (注79)の「対北鮮貿易措置の改正について」。

(注84)  経済局東西通商課「対北鮮貿易改正措置に関する件」1962年9月10日,E’.2.5.6.2.

(注85)  同上。

(注86)  経済局「対北鮮貿易措置改正に関する件」1962年9月22日,E’.2.5.6.2。

(注87)  外務省アジア局北東アジア課「日韓会談問題別経緯(4)(一般請求権問題)(その2)」1963年10月1日,1頁,文書番号533,日韓会談文書情報公開アーカイブズ。

(注88)  (注86)の「対北鮮貿易措置改正に関する件」。

(注89)  経済局「対北鮮貿易措置の改正に関する件」1962年9月26日,E’.2.5.6.2.

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