2021 年 62 巻 4 号 p. 127-130
新自由主義経済が導入されて久しいインドでは,経済力をつけたミドルクラスがよりよい教育機会や就業機会を獲得し,資本を拡大させている。その一方で,急速な発展から取り残され,貧しいその日暮らしや不法な定住を余儀なくされる多くのスラム生活者がいる。彼らや彼らが住む地域は経済成長の「お荷物」として囲い込まれる。彼らの生はアガンベンがいうところの「例外状態」として,国家の統治の下に置かれながらも,国家全体の政治経済的趨勢からは排除され,宙吊りの状態にとめ置かれる。この「例外状態」にある人々の生は国家からも社会からも忘却され,貧困,犯罪,暴力,不衛生な環境のもとで病気や死の危険のなかに剥き出しにされている[アガンベン 2003]。
だがスラム生活者のなかには,単に「剥き出しの生」を受け入れるのではなく,限られた資源やネットワークを最大限に駆使して,自らの生を忘却されないよう必死に政治や法にしがみつき,国家の生権力と対峙する者もいる。本書は,そうした人々の生きる力を,デリー郊外の2つのスラム地区の人々をめぐる丁寧な民族誌とともに浮き彫りにし,彼らにとってのよりよい生の獲得はいかにして実現されうるのかを考究した意欲的な論書である。著者は,よりよい生の獲得のひとつとして,子どもの生育・教育に着目する。不法定住者が居住するスラム社会では,子どもの養育環境を整えようとしても,経済的困窮,暴力,法や制度の不備,階層的あるいは地域的な差別など諸種の要因によって阻まれる。その際,資源や資本の乏しいスラム住民は身近な他者を頼り,他者の力に依存することで自分だけでは乗り越えられない阻害要因を克服しようとする。本書では,社会的弱者の人間開発をめぐる機会や資源へのアクセスを保証し,子どもの養育に対する当事者の要望や視点を反映させた環境を実現することを「子育ての民主化」と概念化する。そのうえで,個人では解決不可能な困難を身近な他者に依存することで克服しようとする人々のレジリエントな日常の営為を個別の事例から丹念に描き出しつつ,「子育ての民主化」を達成するうえで重要となる視角を提示している。
本書の構成は次のとおりである。
第1章 貧困を抱えて生きる――大都市デリーのスラムと子育ての困難
第2章 「子育ての民主化」と政策―就学前教育施策の改革を求める貧困者の声
第3章 「子育ての民主化」と市民社会――貧困者の声の反映をめざすNGOの実際の働き
第4章 「子育ての民主化」と地域社会――生活環境改善に向けて「手配」する
第5章 「子育ての民主化」と人生機会――よりよい教育を求める貧困家庭の間の格差
終 章 子育てと民主主義がつながるとき
最初に第1章から第5章までの概要を示し,そのうえで評者の見解を述べたいと思う。
第1章では,都市のスラムで子育てをするスーマンという女性の事例を通して,スラム居住区で生育する困難と,それに対峙する彼らの生活戦略が描かれる。スーマンの事例では,限られた収入のなかで子どもによりよい教育を受けさせるために,関係者との間で,懇願,脅し,賄賂などの手段を用いて交渉し,子どもの成育環境を整え,人生機会の拡大を目指す様子が描写される。本章では,民族誌的記述を通して,資源や機会にアクセスする際のスラムならではの種々の困難に対して,住民が知りうる限りの関係者と接触し,情報を入手したり交渉したりしながらそれらと対峙し,資源や機会の獲得を実現しようとするプロセスが論じられる。
第2章では,インドの保育事業の構築過程に焦点が当てられる。1975年に発動した保育事業では,市民団体や裁判所,国際機関,NGOといった諸種のアクターとの協働により,事業の量的・質的な向上が進められている。他方,事業のパートナーとなったNGOは,公的事業を批判的に意見する元来の立場から,事業実施の補完的な役割を担う位置づけへと変更を余儀なくされる。一方のNGO側もメンバーに虚偽の発言を要請することで,政府に対して戦略的な権利要求および制度要求を実践し,さらに発言を要請されたメンバー自身も,NGOからの要請に自己への信頼を感じ取り,使命感をもってそれに応答する。こうしてさまざまな目的をもつアクターと,個々の関係性のなかで立ち現れる感情(信頼感,責任感)とが重なり合いながら,保育事業の拡大と改善という同一のベクトルへと向かっていることが説明される。
第3章では,スラムで権利擁護活動を実施するNGOに着目し,その末端で働く住民ワーカーによる活動の功罪が描かれる。NGOはE地区およびW地区に暮らす女性を住民ワーカーとして採用し,住民の声を行政に届ける支援を実施している。だが,W地区の住民ワーカーはE地区での活動に消極的であり,その結果,被支援者の数に地域間での差が生じることとなった。この事例から,NGOによりW地区のスラムの子どもたちの要求が国家の福祉体制に包摂される一方で,ワーカーの恣意性によって,ほかのスラム住民が支援の対象から排除されるという,支援における排除と包摂の表裏一体性が浮き彫りにされる。
第4章では,「地域手配力」という分析概念が提示され,私的領域で生起する個々の課題や要望が,スラム地区内外の依存可能な他者の支援を通じて,行政や政治へと到達する過程が詳細に述べられる。「地域手配力」とは,端的にいえば,問題や要望が立ち現れた際に,頼るべき適切な人物を探し当てる情報力や発想力や直感力,日常的に幅広い関係を構築・維持するための努力とスキル,相手に依頼する際の交渉力などである。住民たちは,依存可能な複数のアクターに計画的かつ試行的に,さらには偶発性にも頼りながら「手配」を行い,要望を実現する。そこには,公益と私益,社会正義と違法性などが両義的に入り混じっており,この境界の曖昧な部分に子どもの養育という私的実践が入り込む余地が生まれると著者は指摘する。
第5章では,子どもの教育機会獲得における「地域手配力」の重要性が事例とともに示される。経済的困窮やスラムという住環境によって教育機会が制限されるなか,人々は身近な他者に試行的に頼り,彼らのもつ情報やアイディアや影響力を借りることで,期待に近い教育を具現化していく。一方で,スラム居住者の誰もが「地域手配力」を発揮できるものではなく,依存可能な他者との関係づくりや,情報入手のための能力や機会すらない場合,その可能性はきわめて限定的となる。最後に著者は,「地域手配力」が発揮できるか否かは偶発的で状況依存的かもしれないが,たとえそうであったとしても他者への「手配」を通じてよりよい生を獲得しようとするスラムの人々の営為を見過ごしてはならないと警鐘を鳴らす。
本書は,インドの経済的躍進の陰で,その恩恵から取り残され困窮生活を迫られるスラム地域の人々の現状を描き出し,さらに,彼らの未来を担う子どもたちの養育上の「民主化」をいかに実現していくのかという重要な課題の理論構築に挑んだ1冊である。18カ月におよぶフィールドワークをもとにした丁寧な民族誌的記述には,スラムの人々とのラポールを形成し,当事者の立場からスラムの生活圏における困難や課題を真摯に受け止めようとする著者の誠意が映し出される。少なくとも日本語で出版された著書のなかで,現代インドのスラム社会をこれほどまで詳細に描いた民族誌的論考は見当たらず,本書は民族誌としても価値が高いといえる。以上,本書が取り上げる対象や課題の重要性を踏まえたうえで,つぎに評者の見解をいくつか示したい。
1点目は「地域手配力」という概念の汎用性についてである。序章で語られる,デリーのメトロ駅で目的の場所への行き方を通行人に次々と聞き歩く男性に遭遇した著者の経験は,他者へと依存する「地域手配力」がインド社会で広くみられる特性であることを示唆している。すなわち,スラム住民が自己の人生機会を拡大するために「地域手配力」を発揮できるのは,そもそもインド社会にそうした素地があるという前提が読み取れる。だが,スラムの人々にこれらの「力」がどのように涵養されてきた/いるのかという歴史的・文化的背景について触れられていない。それゆえに,次のような疑問を抱く。本書が扱う事例は,諸個人の能力やキャパシティが著しく限定されたスラム住民の間で,インド的な地縁/血縁ネットワークと同様のあるいは類似的な共助関係や支援体制が先鋭的に立ち現れたととらえるべきなのか。あるいは,世俗化が進み住民間の規範や関係性が政治的イデオロギーや市場経済の影響を強く受ける都市社会において,スラムという弱者の生が剥き出しにされる領域が生成されれば,インドに限らず共通の事象として「地域手配力」が育まれることが措定されているのか。そうであるならば,これまでの研究で扱われてきたインド的なネットワークのあり方とどのように異なるのか。これらの問いに対する答えをある程度明確に示すことで,芯のある理論の構築が可能になると思われる。
2点目として指摘するのは,依存される側の視点である。本書では頼る側の「地域手配力」に主眼が置かれており,頼られる側の行為主体性は副次的に描かれる。人々が頼る相手として登場する,近隣住民,NGO,国際機関,行政職員,学校教員,政治家などが対象者からの依存に応答するのは,事業目標の達成や票田の獲得など,概して互いの利害が一致したときだと著者は論じている。その一方で,本書では支援者の諸行動が単純に利害だけに帰結できない事例が散見される。では,依存する者への応答には,どのような論理が働いており,それは,歴史的,社会的,あるいは文化的にどのような意味をもつのだろうか。依頼される側の市民社会的イデオロギー,宗教上の教義,インド的な血縁/地縁ネットワークが育んだ共助の意識が働いているのか。あるいは,もっと単純にその時々の気分や住民への見栄や建前,頼られた相手への感情などによるものなのか。スラム地域において「地域手配力」が発揮できる環境として「手配」を受け入れる他者が身近に存在することを前提とした議論であるならば,やはり支援者側の「受け入れる論理」もより詳細に分析する必要があるだろう。
最後に,本書において評者が著者の研究姿勢に対して最も好感を抱いたのは,巻末に添えられた「あとがき」に描かれたスーマンのその後の人生であった。第1章において,スーマンが子どもの教育のために学校選択やアーダールカードの取得に奮闘し,学校への直談判や行政職員への賄賂など,関係者との交渉を通じて子どもの成育環境を整え,家族のよりよい生の獲得が実現されていく過程が描き出された。だが,「あとがき」で再び登場するスーマンは,夫が失業して酒にのめり込んだ挙句に暴力を振るうようになり,人生に絶望して自殺未遂を起こしていた。この描写に,「地域手配力」によって自己実現を果たすスラム住民を予定調和的に論じるのではなく,スラム社会のリアリティに向き合おうとする著者のフィールドや研究に対する誠実さを感じることができた。だが同時に,スーマンの苦境を描いたこのエピソードは,本論のなかで精査し検討すべき重要な課題を示しているのではないかと感じた。
本書で論じられた,スラム住民による地域手配のプロセスには,身近に居合わせた他者や,偶然得られた情報,運よく巡ってきた機会など,偶発的な要素が散在する。それゆえに,利用できる資源/資本の少ない貧しいスラムの人々は,今般の新型コロナウィルスのパンデミックのように状況が暗転すれば,スーマンの如くいとも簡単に死の危険に晒されることになる。したがって貧困層の生活を守るには偶発性に左右されることなく,人生機会を得られるような手堅い仕組みづくりが求められる。一方で,著者が「潜在力」と呼ぶ,ある種の感覚的な能力を素地とする「地域手配力」は,仕組みとして型にはめると,その機能が失われる可能性があり,ここに矛盾が生じうる。子育ての民主化をより手堅く実現するための理論構築において,諸個人の技量次第ともいえる「潜在力」と状況依存的な「地域手配(力)」をどう位置づけるのか。子育ての民主化には不可欠だが不確実性の高いこれらの概念を綿密に議論することが重要な作業になると考える。
加えて,第4章,5章で扱っている事例のように,W地区におけるNGOの学校入学支援,公園の美化と子どもの安全な遊び場の整備,ストリートのゲート設置による治安の確保などは,E地区の排除のもとで成り立つ要望実現であった。また,子どもの入学支援を受けるには,情報にアクセスでき身近な支援者とよい関係を築けることが提起されているが,著しい困窮のために働き詰めのシングルマザーの事例では,支援活動の情報を得る時間すら確保できていなかった。これまでの議論でも指摘されてきたように,新自由主義下の福祉政策では,サービスが提供されているにもかかわらず,それにアクセスしない/できないのは「自己責任」と見なされている[Sharma 2010]。したがって,一見「民主化」が実現されているかのようなこれらの事例は,他者の排除と隣り合わせであるといえる。このように,「地域に手配する」という営為の先にあるのが,包摂のみならず排除をともない,状況依存的で脆弱な基盤のうえで達成される「民主化」とならざるを得ない事実は見過ごしてはならないだろう。その意味で,本書の議論で使用される「民主化」という概念にはやや楽観論的な印象を受けるのである。
本書が提示する「地域手配力」の議論はスラム住民などの脆弱な人々の生を支え,よりよい人生機会を獲得する可能性を秘めた重要な議論であるがゆえに,それと表裏一体である,より弱い立場にある人々の排除や忘却,さらに偶発性や状況依存性にいかに取り組むかが本研究のさらなる深化につながると考える。