アジア経済
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書評
書評:黒川伊織著『戦争・革命の東アジアと日本のコミュニスト 1920-1970年』
有志舎 2020年 370ページ
芹澤 隆道
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2022 年 63 巻 1 号 p. 92-94

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本書の議論は,以下に述べる時間軸と空間軸を交錯させることによって成り立っている。まず,時間軸は,1920年代初頭の第一次日本共産党設立から,当局による弾圧,解党,党方針の修正などを繰り返しながら,同党が東アジア各国の共産党・労働党との関係を完全に断っていく1970年前後までを設定している。つぎに,空間軸は,日本のコミュニストたち(日本人とは限らない)が活動を行っていた日本列島だけでなく,朝鮮半島,上海や北京をはじめとする中国大陸を射程に入れている。そして,さまざまな緊張・対立関係を互いにはらみつつも,帝国主義に対する東アジアのコミュニストたちの抵抗運動や革命運動を描き出している。

まず,空間軸について指摘しておきたいのは,第一次日本共産党(1921~1924年)の変遷史を,一国史的な視点ではなく,東アジアにおける革命運動や解放運動と連動させながら論じた黒川の前著『帝国に抗する社会運動――第一次日本共産党の思想と運動――』[黒川 2014]の問題関心が受け継がれていることである。さらに,本書のなかで黒川が描き出した国境を越えたコミュニストたちの連帯は,いわゆるコミンテルン(1919~1943年)が先導した国際共産主義運動に限定されたものではなく,コミンテルンから自立した,あるいはコミンテルン崩壊後も続いた革命運動や解放運動も含まれている。このように時間的にも空間的にも広がりをもつ研究を行った理由として,富田武の指摘を引用しながら黒川が強調するのは,日本のコミュニストの歴史経験の中核にあるはずの日本共産党の歴史は,同党が「固有の階級闘争史観,組織観(労働者階級の前衛,民主集中制)と不可分の『正史』をもつため,その歴史を客観的に評価,叙述することは難し」く,共産党にかかわる歴史の叙述を共産党が独占してきたからである(11ページ)。すなわち,本書の最大の関心は,日本のコミュニストたちの歴史を日本共産党の「正史」から解放し,東アジア史と連動させた日本の共産主義運動――共産党からパージされた活動家も含めて――として復元することにあるといえる。

以下,全11章からなる本書の要点を簡潔にまとめる。第1章は,1919年3月の第三インターナショナル(コミンテルン)結成以降,東アジアにおいてコミュニストたちが,どのような交流をもっていたのか,手記などに基づいて描かれている。興味深いのは,すでにこの初期の段階で,階級闘争を目論む日本人コミュニストと,階級闘争と民族解放運動を結びつけた国際共産主義運動を展開しようとする朝鮮人・中国人コミュニストの亀裂が提示されていることである。第2章ではこの亀裂が,山川均や荒畑寒村による第一次日本共産党(非合法の秘密結社)の立ち上げによって,先鋭化した問題が取り上げられている。第3章は,日本人コミュニストたちが,孫文が先導した第一次国共合作に対して共感を寄せながらも,彼らの批判の矛先は日本の帝国主義に向けられることはなく,この無自覚が朝鮮人や中国人コミュニストたちの反感を呼び起こし,東アジアにおけるコミュニストたちの連帯を困難にさせた問題が論じられている。第4章は,コミンテルンの指示に従って1926年に第二次日本共産党(第一次と同じく非合法組織)を再建したメンバーたちが,三・一五事件(1928年,484人起訴)や四・一六事件(1929年,339人起訴)によって,当局から投獄された経緯が述べられている。第5章は,コミンテルンが明確化した「一国一党の原則」(属地主義)によって,満州や日本で活躍した朝鮮人コミュニストたちがたどった軌跡が描かれている。例えば,日本への留学生であった金斗鎔と李北満が,日本と朝鮮のプロレタリア文化運動(コミュニストたちに活動資金を提供)を結びつけ,この連帯に共鳴するかたちで中野重治の「雨の降る品川駅」が生まれた。

第6章はまず,1930年代の世界恐慌によってスターリン率いるソ連が極左主義へ傾倒し,ソ連を守るための「弾よけ」として各国の共産党が利用されるようになったことが指摘されている。しかし各共産党の活動現場は,スターリンの思惑通りには動いていなかった。例えば,日本共産党は,不況や失業者の増加や相次ぐ検挙によって,少数派による武装蜂起という当初の方針の修正を避けられず,雑誌や新聞を利用した党の大衆化を図っていた。第7章は,スターリンによる一国社会主義の建設がさらに進められ,大粛清によってコミンテルン幹部のほとんどが失われた結果,コミンテルンの主体性が失われたことが論じられている。そして,日本共産党最高幹部の佐野学と鍋山貞親が出した1933年の転向声明についても,彼らのソ連に対する批判や反発を考慮する必要があるという。この黒川の指摘は,個人に問題を押し付けない視点から転向を再考するうえで示唆深い。

第8章は1930年代から1940年代にかけて,検挙を免れ,獄外にいた日本のコミュニストたちがどのように連帯しながら,日本とアメリカの帝国主義に抵抗していたのかについて論じている。GHQ占領が始まった直後,約220人のコミュニストたちの出獄が許され,合法組織として第三次日本共産党が再建された。同党を人的にも資金的にも支えたのが朝鮮人と華僑コミュニストであった。第9章は,コミンテルンの後継組織として1947年に設立されたコミンフォルムが,中国と日本でどのような影響を与えたのかについて論じられている。国共内戦を勝ち進む中国共産党は,ソ連共産党や朝鮮労働党との関係を深め,アメリカに対する東アジアの革命運動の司令塔としての役割を担うようになった。一方,GHQ占領下にあった日本共産党が掲げた平和革命論は,マルクス・レーニン主義の原則に反するものとしてコミンフォルムから厳しく批判され,共産党内部の人的対立をより深刻化させた。さらに,朝鮮半島における緊張関係が高まると,マッカーサーが指揮するGHQは,共産党を非合法化し,党中央委員24人と党機関紙『アカハタ』編集部の17人を公職追放した。続く第10章は,朝鮮戦争勃発後に激化した所感派と国際派の対立,日本共産党のコミンフォルム批判受け入れとその顛末が論じられている。同党は,中国モデルに倣い軍事路線に転換し,労働者,学生,朝鮮人から成る中核自衛隊や山村工作隊を農村に送り込んだ。しかし,反米「反戦」を掲げながら,彼らが行った火炎瓶闘争は,多くの犠牲者を生み出し,有権者からの支持を共産党は失った。終章である第11章は,スターリンの死後(1953年),フルシチョフと毛沢東が合意した,アメリカとの平和共存路線や,その後核開発をめぐり顕在化した中ソ対立が,日本のコミュニストたちにどのような影響を与えたのかが論じられている。「平和共存」と「内政不干渉」は相関関係にあるという認識が,中国,インド,ソ連の政治指導者たちの間で広まり,コミンテルン時代以来の「一国一党の原則」が廃止された。その結果,日本国籍をもたない在日朝鮮人コミュニストは除名され,本国への帰国運動が進んだ。さらに議会主義を掲げる共産党は,60年安保闘争の際,警察と全学連主流派の双方を批判する立場を取り,この方針に失望した多くの党員が離党した。彼らの多くが,ベトナム戦争に介入したアメリカ帝国主義に抵抗する「べ平連」に合流していく。

本書の特徴は,要約では示すことができない。なぜなら手記,詩,新聞,雑誌といった資料に基づきながら,東アジアにおける革命を目指したコミュニストたちの人間関係を丁寧に描き出しているからである。それは文末に付された10ページに上る「主要人物略伝」からもうかがえるだろう。個々の意図や意志を軽視し,いわゆる階級というブロックで歴史を論じようとした唯物史観と決別する黒川の矜持をまず汲み取ることができる。そして,個々の人間関係を丁寧に追いかける本書の最大の魅力として,コミンテルンや各国の共産党が革命運動を組織しようとすればするほど,そこからあふれ出てしまうコミュニストたちが各時代に必ず存在し,このあふれ出てしまった者たちによって,新たな革命運動が行われていたことを明らかにしている。まさに日本共産党の「正史」のなかで葬り去られてきた,このあふれ出てしまった者たちのインターナショナルな革命運動を鮮やかに再現することによって,本書は,冒頭で述べた目的を見事に達成しているといえる。

以下,本書を読み進めるなかで評者が気づいたこと,疑問に思ったこと,本書がさらなる成果を生み出すためのインパクトを兼ね備えていることなどを列記したい。時間的,空間的に壮大なプロジェクトを裏打ちされた歴史書は,多くの場合,2次文献の大量の読み込みによって成り立っているが,本書も例外ではない。そのこと自体に問題はないが,評者が気になったのは,黒川が多くの示唆を受けたという,富田武・和田春樹編『資料集――コミンテルンと日本共産党――』(岩波書店,2014年)と,下斗米伸夫『日本冷戦史――帝国の崩壊から55年体制へ――』(岩波書店,2011年)が,頻繁に引用されているのだが,この2冊とも朝鮮人コミュニストや中国人・華僑コミュニストと日本人コミュニストの連帯に焦点を当てているわけではない。むしろ,それらの先行研究の欠落している視点をしっかりと批判的にとらえ,より踏み込んだ「はじめに」を設ける必要があったのではないだろうか。

つぎに,本書を読み進めるなかで気づいたのは,日本列島,朝鮮半島,中国大陸の都市とそこで暮らす活動家,労働者に焦点が当てられているが,農村や農民は主体として取り上げられてはいないことである。もちろん,農村・農民問題を本書で展開することを望むのは,すでに空間的・時間的に壮大なスケールをもつ本書に対するないものねだりにほかならない。とはいえ,第一次日本共産党の創設メンバーであり,本書で何度も登場する高津正道――黒川は彼の朝鮮半島への関心を知ったのがきっかけで,社会主義運動に関心を持つようになったという(6ページ)――は,エリート主義に傾倒した福本イズムに反対し,脱党後,労農党に入り,農民運動を指導したという。この高津の変遷を引き起こしたのは,当時の共産主義運動のどのような限界だったのだろうか,フィリピン・東南アジアにおける共産主義運動と農民運動の連関性に関心をもつ評者としては非常に興味深い。

さらに,個々の人間関係を重視している本書であるからこそ,疑問点として生じたのは,民主集中制や個人崇拝という共産党のなかで築かれた特有の人間関係について,黒川がどのような考えをもっているのか,やや分かりづらいことである。たとえば,日本共産党内部で起きた派閥争いについても,誰が日本のスターリン(あるいは毛沢東)となるのかという争いや,さらには日本のカリスマ的リーダーとしてソ連共産党や中国共産党から認知されたいという欲望と不可分であったであろう。この次元において,本書が光を当てている朝鮮人コミュニストや華僑コミュニストは,競争する権利すら与えられなかった。とりわけ,本書は中野重治と高津正道の朝鮮人コミュニストたちとの連帯を高く評価しているが,この2人の連帯についても,彼らが共産党を脱党,あるいは共産主義者から「転向」し,内部の幹部争いとは疎遠な場所にいたからこそ実現できたのではないかと思われる。さらに,黒川自身,ジェンダーについて触れることができなかったことを「あとがき」で述べているが,女性党員が個人崇拝されることはなかった。

レーニンの中央集権組織論を厳しく批判したローザ・ルクセンブルクは,「2,30人の政党指導者が支配と統治を行ない,実際には,その中の1ダースばかりの卓越した人たちが指導して,労働者のエリートは,時折,会議に召集されて,指導者の演説に拍手を送り,提出された決議に満場一致で賛成することになる。要するに派閥政治になる」[田窪ほか1970]と述べた。この予言は的中したのである。

それでは,失敗に終わったこの国際共産主義運動について,本書を参考にしながら,改めてどのように振り返ることができるだろうか。評者は,「日本のコミュニストたちの歴史を日本共産党の正史から解放する」という目的は,中国共産党や朝鮮労働党の「正史」のなかで忘却されてきた,日本や東アジアで活動した朝鮮人コミュニストや中国人コミュニストの歴史を取り戻す作業と密接に結びついていると考える。もちろん,この作業は黒川1人の手では不可能であろうし,中国や朝鮮当局が行っている言論統制を考えれば大変困難なものであるに違いない。それでも本書が中国語や朝鮮語に訳され,国際共産主義運動がもっていた(その葛藤を含めた)連帯が,より多くの東アジアの読者に開かれることを願ってやまない。

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