2022 年 63 巻 2 号 p. 70-73
本書は,現代中国で改革開放以降に生じたイスラーム復興に着目して,清真寺(モスク)を中心とした「ジャマーア」と呼ばれる共同体の秩序形成,ならびに自治をめぐる中国共産党と回族との政治力学を論じる力作である。著者によれば,現代中国の少数民族をめぐる民族区域自治に関する研究は,従来は政治学や歴史学から実証的な研究がなされてきたものの,少数民族が営む生活世界の次元からその自治の内実を検証した研究は不十分であるという。本書は寧夏回族自治区に暮らす回族を事例として,その研究上の穴を埋めるためのミクロな視点を提供する点に大きな特徴がある。
著者は社会人類学をディシプリンとして,現代中国におけるイスラーム復興,戦前・戦中期に日本軍が行った回教工作と中国ムスリムの植民地経験を研究してきた。本書は2008年度に東京都立大学大学院社会科学研究科に提出した博士学位論文『中国西北部における清真寺と住民自治―回族のジャマーアティの民族誌―』を加筆修正し,その後に発表した数本の論稿を加えて出版したものである。本書はいわば著者のこれまでの研究の集大成といえるが,フィールドワークの実施から刊行に至るまで多くの研究助成を受けており,さらに2020年には第41回発展途上国研究奨励賞(アジア経済研究所)を受賞している。
現代中国にはイスラームを信仰する少数民族として,回族,ウイグル族,カザフ族,クルグズ族,ウズベク族,タタール族,タジク族,東郷族,サラール族,保安族の10民族が存在するが,このうち寧夏回族自治区,甘粛省,青海省をはじめとする中国各地に居住する回族は人口が最も多い。回族は漢語を母語とし,さらに唐代以降に中国に流入したアラブ系,ペルシャ系,テュルク系の外来ムスリムと漢人の改宗者をルーツとするために,外見は漢族と見分けがつかない場合が多い。著者は,現在の回族は中華民国期以前に「回民」と呼ばれた人々にほぼ相当するものとして本書で扱うと述べているが,明代以降にこの回民と呼ばれる集団が形成される過程で不可欠であったのが,清真寺の建設とジャマーアの形成であると主張する。すなわち,歴史的に回民は清真寺の周囲に集住し,そこに形成されたイスラームの生活規範に則った共同体がジャマーアである(著者はジャマーアの日本語訳に定訳はないとしつつも,時にこれを「清真寺共同体」「モスク・コミュニティ」とも呼ぶ)。そして,「回民は清真寺の周囲に集住することによって独自の宗教空間,信仰世界,民族慣習を創出し,自分たちを漢人とたえず区別してきた。ジャマーアが回民を漢人とは異なる集団として再生産してきた」(29ページ)とする。1950年代後半から1970年代後半に至る反右派闘争と文化大革命という政治的混乱によって,清真寺の多くが破壊されたため,この間ジャマーアも消滅することとなった。しかし,改革開放を期に清真寺が修復されたことで,ジャマーアも徐々に復活し,回族社会におけるその重要性が再び増している。
以下に本書の章構成の概要を述べた上で,本書の価値とコメントに言及する。
本書の章構成は以下のとおり,序章と終章を除いて4部構成(第1部は第1章〜第2章,第2部は第3章〜第4章,第3部は第5章〜第7章,第4部は第8章〜第9章)となっている。
第1部 現代中国の民族・宗教・社会主義
第1章 中国西北のイスラームと寧夏回族の社会生活
第2章 中国共産党の民族・宗教政策と回族社会
第2部 国家権力と清真寺
第3章 清真寺の伝統秩序と権力構造
第4章 清真寺に介入した国家権力―共産党・行政・宗教団体・清真寺の共棲
第3部 変貌する宗教儀礼と民族文化
第5章 異端視される死者儀礼―イスラーム改革の理想と現実
第6章 異民族には嫁がせない―民族内婚の論理とその変容
第7章 酒がならぶ円卓―婚礼に見る回族の「漢化」
第4部 中国イスラーム界に流布する愛国主義
第8章 統制される宗教,脱宗教化される民族
第9章 「右派分子」から殉教者へ―政治運動に翻弄された宗教指導者
終 章 現代中国における「イスラーム復興」のゆくえ
序章では,本書の問題関心,目的,研究動向における位置づけが示される。とくに,本書を貫く二つの研究視座(共同体の視座と自治の視座)が提示される。第一の共同体の視座に関しては,従来の共同体理論の研究動向を整理した上で,個人主義対集団主義,市民社会対共同体のごとき二元論的図式を乗り越えるモデルとして「関係主義」モデルの有用性を説いている。第二の自治の視座に関しては,「構成的自治」(他律的自治)と「生成的自治」(自律的自治)の分析枠組みから,現代中国の民族区域自治を国家権力と住民の能動的な相互交渉の場として分析することの有用性を説く。その上で,ジャマーアに特化した研究(著者はこれを「ジャマーア・モデル」と称する)の可能性に言及する。
現代中国の民族,宗教,社会主義を扱う第1部において,第1章は中国へのイスラームの伝播と拡大,中国に居住するムスリム諸民族の概況,ならびに調査地である寧夏回族自治区の地理環境,行政組織,居民委員会,清真寺の分布状況,回族集住地区の清真寺周囲に集住する回族の基本状況を述べながら,ジャマーアの特徴を描き出す。第2章は中国共産党の民族政策,宗教政策を通時的に概述した上で,改革開放以降に清真寺が中央集権的な宗教管理機構のなかに統合される過程を明らかにする。
党国家と清真寺の力関係を扱う第2部において,第3章は銀川市の清真寺を事例として,回族が清真寺を中心に形成する伝統秩序(著者はこれを「ジャマーア・システム」と呼ぶ)の特徴とその変遷を,党国家と清真寺の関係,清真寺指導者と一般信徒との関係といった文脈から考察する。第4章は中央ならびに地方のイスラーム教協会に着目し,中国共産党政権下の宗教団体の特徴を明らかにした上で,中国共産党,行政機関,宗教団体,清真寺の間に形成される共棲の関係性を分析する。
回族の宗教儀礼と民族文化を扱う第3部において,第5章は死者儀礼を事例として,その儀礼の正統性をめぐるイスラーム改革運動の進展状況を,清真寺指導者層の利害関係の視点から分析する。第6章は民族内婚を事例として,改革開放期以降に回族と漢族との民族間通婚(回漢通婚)が増加する状況下で,回族社会に存在する通婚に対する拒否反応と民族内婚を最優先にしようとする論理を明らかにする。第7章は婚姻儀礼を事例として,儀礼の形式が改革開放期以降に急速に変容し,漢化,世俗化・脱イスラーム化が進む状況と,それに対する清真寺指導層の反応を考察する。
中国共産党の政治宣伝とイスラーム界の反応を扱う第4部において,第8章は改革開放以降にイスラーム復興と並行して生じている,中国共産党と政府による民族政策と宗教政策の引き締めや法律や条例を用いた宗教統制の強化を,愛国主義宣伝活動,イスラーム教育やメッカ巡礼などの宗教活動の管理強化,イスラームを放棄した回族共産党員の問題を事例として分析する。第9章は1957年以降に生じた反右派闘争と文化大革命に人生を翻弄された宗教指導者に光をあて,中国共産党の政策転換が回族社会に及ぼす影響を考察する。
本書の結論にあたる終章では,各章で展開された議論を振り返りながら,国家権力と清真寺の関係,寧夏の回族が社会主義を経験したことの意味,ジャマーア・システムの持続性,ジャマーアが改革開放期に直面する変容,の各側面を検討することで,イスラーム復興がジャマーアの共同性および自治に与える影響を論じる。
本書の意義は,第一に,フィールドワークと文献研究で得た多数の言語からなる膨大な情報を用いて,イスラーム復興によって変貌する回族社会のジャマーアと民族自治の複雑な動態の解明を試み,それを緻密な叙述によって民族誌としてまとめ上げた点にある。本研究において著者は,フィールドワークと文献研究を駆使している。フィールドワークは2000年から2004年にかけて寧夏回族自治区銀川市で断続的に実施し,清真寺,信徒自宅,寧夏回族自治区民族宗教事務委員会(兼宗教事務局)や寧夏回族自治区イスラーム教協会などで参与観察やインタビュー調査を実施した。また文献資料としては,寧夏回族自治区社会科学院,銀川市文史資料弁公室,寧夏人民出版社などで収集した資料,情報提供者から手に入れた手記(私家版)などの記録資料をはじめとする中国語,日本語,英語の一次資料および二次資料を利用している。著者自身が語るとおり,現地調査が困難となっている現在の状況にかんがみるに,フィールドワークの終了から刊行までに十余年を経ているものの,これは決して本書の価値を減じるものではない。政治学,国際関係をディシプリンとして現代中国政治,中国−中央アジア関係を研究する評者にとって,本書が提示するミクロな視点からの研究成果は貴重であり,鮮明に描かれる回族社会の有り様と回族個々人の生きざまに圧倒される。
第二に,理論的枠組みの構築を試みた点にある。具体的には上述した二つの研究視座のうち,共同体に関する視座では,中国の著名な人類学者である費孝通が提示した,西洋社会の個人主義でもなく,日本社会の集団主義でもない,中国独自の関係主義モデルを援用して,ジャマーアの結合原理を分析している。著者によれば,中国の社会関係は「コネ」や「よしみ」を通じて結ばれ,個人が複数の結合原理を状況依存的に活用して,二者関係を連鎖することで形成するところに特徴がある(62~64ページ)。また自治に関する視座では,中国の自治が国家権力による上からの自治のみならず,住民自身による自治を囲い込むことによってその支配を正当化してきたという考えに立脚して,日本の社会学者である清水盛光が提示した,生成的自治(自律的自治)と構成的自治(他律的自治)の概念からなる二重自治モデルを援用して,回族の自治の実態に検討を加えている。以上の理論的枠組みの構築は,著者独自の分析を導き出すための挑戦的な試みとして評価できる。また,人類学以外のディシプリンの研究者が,本書の分析の成否を判断する基準としても,理論的枠組みの存在は有用である。
次に本書に対する若干の課題を述べる。第一に,著者が設定した上述の関係主義モデルと二重自治モデルという理論的枠組みが,本書の議論を通じてどこまで有効であったのか,限界があるならばどのような改善ポイントがあるのか,といった分析を明示して欲しかった。また,著者自身,この二つの理論的枠組みの親和性を注視する必要性に言及しているが,結局のところ両者を繋ぐ架け橋となる分析装置の創出には成功しておらず,その意味で本書全体に通じる一つの分析枠組みを提示するに至っていないとの印象を受けた。本書が扱うテーマの重要性と,著者が多大な労力を用いて発掘した事実の輝きを考慮すると,この点はいささか残念に感じる。
第二に,本書全体を通じて,叙述の重複や冗長な部分の存在が気になった。一例を挙げるならば,本書の目的に関する記述で,「清真寺に集う回族の人々が様々な相互行為を媒介として個々の関係を紡ぎ出しながら共同性を形成し,伝統秩序を表出する過程を記述し,ジャマーアの持続と変容の問題を見究める。また,清真寺が中国共産党主導の宗教管理機構に再編されたことをふまえ,回族の人々が無神論教育や愛国主義の政治宣伝などに直面しながら国家権力の介入に対処する様子を具体的に描写し,ムスリム少数民族の自治の実態について検討する」(6~7ページ)とあるが,同内容の記述は同じ「まえがき」部分に他に2カ所,「序章」部分で3カ所確認できる。しかも,その都度表現が多少異なるため,著者が最も主張したいポイントがどこにあるのかを読者に伝わりにくくしていると感じる。また別の例を挙げるならば,序章はそれ自体が70ページを超える力作であるが,共同体理論,少数民族の自治,中国イスラーム研究をめぐる先行研究と議論の紹介は,本書の核心に沿ったもののみを選択して取り上げる方が読み手の益となると考える。情報過多は時として著者の主張を曇らせる。不要な情報を捨てることで本書をスリム化するならば,より鮮明にその魅力が読者に伝わるものと信じる。以上がこの労作の完成度において惜しまれる点である。
最後に,著者に期待する今後の研究の展開として,ジャマーア・モデルの一般化のための三つの方向性を指摘したい。著者によれば,ジャマーア概念は基本的には回族独自の民俗概念であるが,近年は主に回族の研究者によって分析概念としても用いられるようになっており,民族の垣根を越えて分析可能な汎用性の高いモデルであるという(95~96ページ)。であるならば,第一に,ジャマーア・モデルを用いた中国国内の他のムスリム少数民族の行動原理の分析を期待したい。たとえば,宗教アイデンティティ,地域アイデンティティ,モスクを中心とする公共空間,伝統と近代の融合プロセス,経済制度,教育ネットワーク,ムスリム−非ムスリム関係などの側面から,他の中国ムスリムを分析する上でのジャマーア・モデルの有用性を測る。第二に,儒教社会におけるジャマーア・モデルの有用性の分析である。著者は本書で関係主義という概念を取り上げたが,さらに理論レベルの分析を進めて,漢族の行動原理モデル(たとえば,黄光国や翟学偉などが提示する中国社会の行動原理モデル)とジャマーア・モデルとの間にいかなる相互作用が働いているのかの解明が待たれる。第三に,他国のムスリム・マイノリティ社会へのジャマーア・モデルの応用である。これまでジャマーア・モデルは中国社会に暮らすムスリム・マイノリティの行動原理を分析対象としてきたが,たとえば,タイ,スリランカ,ミャンマーといった仏教徒が多数派を占める社会,ロシアのような正教徒が多数派を占める社会,インドのようなヒンドゥー教徒が多数派を占める社会での適用性を測る。このようにジャマーア・モデルの研究は,大きな可能性を秘めている。