アジア経済
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書評
書評:谷口美代子著『平和構築を支援する―ミンダナオ紛争と和平への道―』
名古屋大学出版会 2020年 ⅷ + 381ページ
渡辺 綾
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2022 年 63 巻 2 号 p. 83-86

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Ⅰ はじめに

本書は,世界のなかでも長期化・複雑化した内戦のひとつであるミンダナオ紛争のダイナミクスに,正面から向き合った力作である。著者は,歴史資料・新聞報道・関連文献を徹底的に渉猟すると同時に綿密な現地調査をもとに,長期的視点に立ち紛争アクターの権力構造や関係性を明らかにした。ミンダナオ社会の複雑な成り立ちを理解するために,イスラームの到来以前の歴史を遡り,イスラーム王国,植民地政府,フィリピン政府によって現地のコミュニティが国家の統治機構に取り込まれていった過程を詳述している。現地コミュニティの国家機構への取り込みが進むなかで,歴史的な変容を経ながら「ダトゥ」(首長)や「クラン」といった統治主体が温存された(注1)。著者は,植民地政府やフィリピン政府がクラン間の分断を深めるような政策を推進したことが,ミンダナオ紛争の複雑化・長期化に通じていると指摘する。そのため,ミンダナオ紛争の過程を理解する上で「国家-反政府武装勢力」という二者間だけではなく,「有力クラン」を含めた三者間の相互作用を考慮する必要性を説く。外部支援アクターには,現地社会の権力構造や政治文化を理解し,現地アクターが主体となる平和構築活動へのサポートの重要性を提起する。以下では,まず全体の構成と議論の内容を紹介し,その後評者からのコメントを述べる。

Ⅱ 本書の構成と内容

序章では,本書の問題意識,先行研究への貢献,分析手法が提示され,主要な概念が整理されている。著者は,先行研究を「リベラル平和論」と「ミンダナオ紛争研究」に分類し,以下の問題を指摘している。まず,平和構築活動の理論的中核をなす「リベラル平和論」では,民主的規範に基づく制度構築に限界があり,現地社会が主体的かつ能動的に平和を実践する可能性について十分に議論されていない。「ミンダナオ紛争研究」においては,長期化するミンダナオ紛争に対する通時的分析視座が欠如し,アクター間の関係性の複雑さが見逃されている。そのため本書では歴史的文脈を補い,「国家-イスラーム系反政府武装勢力-クラン」という三者間関係に基づく分析視角を提示し,クラン間抗争により引き起こされる暴力と分離独立紛争の不可分性を主張する。

第1章では,イスラームの到来以前から米国による植民地統治期までのミンダナオ社会の成り立ちを概観し,現在まで通底する権力構造が明らかにされている。イスラームの到来以前から存在した,地域の有力者(ダトゥ)を中心とした支配構造は時代の経過とともに変容した。米国統治下では,植民地行政に協力的なクランが取り込まれ,抵抗するクランは排除されて,クラン間の分断が強化された。こうした分割統治により,国家とクランによる垂直的な相互関係が形成され,一部の有力者が国家資源へのアクセスを独占する寡頭体制が生じた。

第2章の分析の焦点は,独立後のフィリピン政府によるムスリム統合政策に抵抗して生起したモロ民族解放戦線(Moro National Liberation Front: MNLF)との和平交渉である。国家とMNLFによる交渉の帰結として設立されたのがムスリム・ミンダナオ自治地域政府(Autonomous Region in Muslim Mindanao: ARMM)である。設立当初はMNLF幹部がARMMの要職に就任した。その後は,有力クランをARMM知事選挙の与党候補として支援することで,フィリピン政府はARMMの統治を図った。しかし,ARMMの行政能力は低く,汚職と不正が蔓延した。その結果,人びとの生活状況は改善されず,MNLFやARMMはムスリム社会から政治的正統性を獲得できなかった。それと同時に,MNLFの誕生は,国家と有力クランだけでなく,イスラーム系武装勢力が新たなプレーヤーとして加わったことを意味する。

第3章では,MNLFから分派したモロ・イスラーム解放戦線(Moro Islamic Liberation Front: MILF)の興隆からドゥテルテ政権までの和平プロセスが詳述されている。アロヨ政権下で国際的な支援体制を構築したMILFとの和平交渉は,アキノ政権下で「バンサモロ包括的和平合意」として具現化し,ドゥテルテ政権下で「バンサモロ組織法」(共和国法11054号)として法制化された。この過程で,MILFはミンダナオ問題の国際的な認知度を高めるとともに,正統な政治組織に転換する準備を進めた。

第4章では,本書が分析視角とする「国家-武装勢力-クラン」間の動態からクラン間抗争と分離独立紛争の関係性を読み解く。そのために用いられたのが,マギンダナオ州でアンパトゥアンによって引き起こされた虐殺事件である。ミンダナオ地域におけるフィリピン政府の統治能力は脆弱であったため,アロヨ政権はARMM内の治安維持,統治のためにアンパトゥアンを利用し,それと引き換えにアンパトゥアンはフィリピン政府の後ろ盾のもとで権力を拡大していったと著者は論じる。このような取引関係がマギンダナオ虐殺事件の背景にあり,フィリピン政府が同事件の発生に間接的に関与したと指摘する。それと同時に,「国家-クラン」間の関係の深化が,MILFの一部メンバーが軍事的動きを活発化させた時期と呼応しているとする。次に,2017年に発生したマラウィ占拠事件を事例として,東南アジア地域での「イスラーム国」による勢力伸張だけでなく,フィリピン政府による和平合意の履行遅延がムスリム系若年層を過激派組織に惹きつけていると主張する。

第5章では,「下からの平和構築」の成功例として,ダトゥ・パグラス町とウピ町を紹介し,そこから得られる含意を提示する。2つの町の首長は,行政能力の向上や暴力に頼らない紛争解決メカニズムの構築によって,地域の安定に尽力した。具体的には,ダトゥ・パグラス町ではARMM域外から資本を呼び込み経済発展を図ることで地域の安定,行政能力の向上が推進された。またウピ町では,現地の慣習や制度に根差し,住民の民族バランスに配慮した村落紛争解決メカニズムが設置され,平和的に住民間の紛争解決が図られた。私的な利害やクランの利益を超越して,地域の発展および安定をめざした点で2つの町の共通性を見出せる。そのために,MILFとも協力関係を構築した。著者は,2つの町の首長が公共サービスを拡充し地域の安定に尽力することで住民からの信頼を獲得し,政治的正統性を高めたと論じる。彼らが外部から持ち込まれる新たな価値や規範に応化しつつ,それを地域の慣習や社会秩序に沿う形で適合させることで「下からの平和構築」に成功したと主張する。

終章では,本書の議論から得られる3つの知見を提示する。まず,ミンダナオ地域での暴力の発生や社会の安定を理解するためには,「国家-武装勢力」という二者間関係だけでなく,影響力をもつ地域のクランを加えた三者間の競合・協力関係を読み解くこと。次に,「下からの平和構築」は,地方首長などの支配層が自身の規範を変革し,恩顧関係や血縁による紐帯から規定される親密性ではなく,より公平な資源配分をとおした公共性が追求されるときに生起する。最後に,外部支援アクターには,地域固有の政治的文脈を理解した上で,影響力・権力をもつアクターを特定し彼らの主体性を尊重しながら,公共圏を拡大させる支援が求められる。

Ⅲ コメント

ミンダナオ紛争を扱った書物は幅広い。長年,現地への支援に携わってきたNGOが出すレポートや,ミンダナオ,ムスリム社会における宗教的・構造的側面からミンダナオ紛争を説明するものなどがある。ミンダナオでの権力構造や違法経済による内戦への影響を論じた研究もあるが(Lara and Schoofs 2017),「国家-武装勢力-クラン」の三者間関係を明示的に分析の射程に入れ内戦の動態を考察したものは,本書以外に見当たらない。三者間関係という観点から紛争の複雑な構造を明らかにし,分離独立紛争とクラン間対立による暴力発生の相互作用を明らかにした点で,本書の意義は大きい。

複雑なミンダナオ社会の成り立ちや通時的な変化を詳述し,現在に通じるミンダナオの特徴や暴力発生の根源を丁寧に描いた点でも評価される。歴史を遡り,イスラームの到来やムスリム指導者を中心としたコミュニティの形成・拡大,植民地支配,独立後の国家政策により変容するムスリム社会の成り立ちを紐解いた。これほど長期的視点をもって,現在まで通底するムスリム社会の権力構造を調べ上げた文献は,日本国外でもほとんどないと思われる。ゆえに,ミンダナオ紛争やムスリム社会を学びたいと志す者には必読の書となるだろう。

評者から本書の議論へのコメントは大きく分けて2点ある。まず,本書の議論では,なぜ,どのような条件で,地方首長が暴力による覇権争いや私益誘導ではなく,公共圏を拡大させるような変革志向をもつのかが明らかにされない。著者は,ダトゥ・パグラスとウピの町長が公共サービスを拡充させて地域の安定を促進することで,人びとからの支持を集め「下からの平和構築」に成功したと論じる。しかし,人びとから支持を集めるためには,フィリピンでは恩顧関係に基づく利益誘導が依然として有効な手段である。これに偏重した手法で統治者としての地位を確立させたのが,虐殺を引き起こしたアンパトゥアンだといえる。このような恩顧関係が機能している状況では,人びとへの応答性や統治者の能力がより重要となる「公共圏創出をとおした人びとからの自発的な支持の獲得」をめざす地方首長は現れにくいといえる。また,熱心な読者は,首長のリーダーシップだけでなく,分析対象となっている2つの町が周辺地域と比べて公共サービスを拡充させやすい状況にあったのではないかと考えるかもしれない。そのため,首長のリーダーシップやコミットメントを強調する議論にとどまらず,なぜ地方首長が従来の統治手法からの転換をめざしたのか,また「下からの平和構築」が成功しやすい構造的要因を明らかにすることで,他の事例にとって,より適応可能な議論として発展するだろう。

この点は,本書の議論が含意を提示する平和構築研究にとっても重要だろう。本書は,効果的な平和構築活動のためには,既存の政治秩序に適応させた社会変革をめざす地方首長を見出し,統治者の主体性を尊重しつつ公共圏の拡大を後押しする支援が必要だと説く。しかし,統治者は選挙をとおして選ばれるため交代する可能性がある。統治者が変わればその地域の統治のあり方も変更され得るため,公共圏の創出やそれを後押しする支援の継続が難しくなるかもしれない。上記で指摘した,地方首長が変革志向をもつ誘因や,公共圏の拡大を促進する構造を明らかにすることが,公共圏の維持,ひいては持続可能な平和構築活動に寄与すると考える。

次に,「政治的正統性」の議論に関する曖昧さである。著者は,力による強制ではなく,公共財の分配や多層的な親密圏を内包する公共圏の創出をとおして,人びとからの自発的な支持が得られるとき,統治者の政治的正統性が高まると主張する。この議論に沿うと,「下からの平和構築」を成し得たダトゥ・パグラスやウピの町長は高い政治的正統性を獲得し,虐殺を引き起こしたアンパトゥアンの政治的正統性は低いと考えられる。しかし,暴力による統治と住民からの自発的な支持の程度の関係性はこれに該当しないものもある。たとえば,ドゥテルテ政権では「違法薬物の取り締まり」や「共産主義勢力の制圧」のもとで,何千もの政権に対する批判者が政府の恣意的な暴力行使の犠牲となっているとされる。政権に批判的な声を上げる人びとを弾圧し,公共圏を拡大させるような多元的な意思決定の機会が著しく損なわれているといえる。それにもかかわらず,ドゥテルテ大統領は国民からの圧倒的な支持に支えられている。この場合,ドゥテルテ大統領の政治的正統性は低いのだろうか。それとも,暴力による強制はあるものの「国民からの自発的な支持」により政治的正統性は高いのだろうか。これらの点を明らかにするために「公共圏の創出」以外に政治的正統性の程度に影響を与え得る要因を検討するといいだろう。この作業をとおして,本書での議論がより精緻化されると考える。

以上の点を指摘したものの,著者が主張する「下からの平和構築」はフィリピンでのイスラーム系過激派組織の勢力拡大を防ぐ上で重要な示唆を与える。近年,東南アジアでは「イスラーム国」の台頭が懸念されている。フィリピンでも,「イスラーム国」やアブ・サヤフ関係者によるテロ事件が毎年のように起きており,過激派組織への対策が急務となっている。経済開発や公共サービスの拡充は,雇用を創出し社会的セーフティネットの整備につながるため,私的な恩顧関係からはじき出された人びとや現状に不満をもつ人びとが過激主義に傾倒することを防ぐ安全弁として機能し得る。更なる暴力の発生を抑制するためには,現地の社会秩序や慣習を尊重しつつ,社会変革をとおして公共圏・公共性といった新たな価値・規範を生み出す地方リーダーへの支援が求められる。

(注1)  「クラン」とは親族関係を基盤とした社会ネットワークで,ミンダナオでは多くの場合,有力クランを頂点とした統治システム,社会秩序が形成されている。

文献リスト
  • Lara Jr., Francisco J., and Steven Schoofs, eds. 2017. Out of the Shadows: Violent Conflict and the Real Economy of Mindanao. Quezon city, Manila: Ateneo de Manila University Press.
 
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