アジア経済
Online ISSN : 2434-0537
Print ISSN : 0002-2942
論文
太平洋問題調査会(IPR)における土地利用研究プロジェクトの展開―中国・日本・朝鮮の研究を中心に―
松本 武祝
著者情報
ジャーナル フリー HTML

2022 年 63 巻 3 号 p. 2-33

詳細
《要 約》

太平洋問題調査会(IPR)は,1925年の創設以来,太平洋会議の定期的な開催とともに専門家による調査研究事業を活動の柱としていた。調査研究事業においては,1920年代末以降,土地利用研究が主要課題として取り上げられた。とくに,バック(J.L.Buck)と那須皓によるそれぞれ中国と日本を対象とする研究に重点的に資金支援がなされた。両国との比較という観点から朝鮮も研究対象とされ,李勲求が担当した。

この論文では,三者による研究プロジェクトの採択過程を,3つのプロジェクト相互の関係性に着目しつつ明らかにした。さらに,三者による研究プロジェクトの実施過程における特徴を,主たるデータ源(官庁統計あるいは農家実態調査),研究実施体制(分業・協業関係)およびプロジェクト実施にともなう次世代研究者育成の実績という観点から比較分析を行った。

那須は,IPR主要参加国であった日本の地位を背景に,資金支援を長期間にわたって獲得した。そして,独自の農村社会調査を実施して,その機会を次世代の研究者育成にも役立てた。バックは,アメリカ人研究者としての人脈を介して巨額の研究資金を長期間にわたって獲得し,大規模センサスを実施した。それと並行して,アメリカの研究教育システムを導入して中国人研究者を育成した。植民地下の朝鮮人知識人は,李勲求を含めてIPRの意思決定過程から疎外されていた。李勲求の研究プロジェクトは小規模にとどまり,次世代研究者の育成には至らなかった。

Abstract

Since its founding in 1925, the Institute of Pacific Relations (IPR) has regularly held the Pacific Conference and supported expert-led research projects. Land utilization research has been a main focus of these research projects since the late 1920s. In particular, J.L. Buck’s studies on China and Shiroshi Nasu’ studies on Japan were given priority funding. From the perspective of comparisons with these two countries, Hoon Koo Lee conducted similar studies on Korea.

The present paper clarifies the characteristics of the research-project adoption process of these three parties. In addition, comparative analyses are performed of the three research projects in terms of 1) the amount and duration of financial support received, 2) the main source of research data (government statistics and/or field surveys conducted by the researchers themselves), 3) the research implementation system (division of labor and collaboration among the researchers’ groups), and 4) achievements in fostering the next generation of researchers who will continue to implement the project.

Nasu succeeded in obtaining financial support for a long period of time due to Japan’s status as a major IPR participant. He conducted his own studies on rural communities and took advantage of the opportunity to train the next generation of researchers. Buck, an influential American intellectual, obtained large amounts of research funding over a long period of time through his own contacts and also conducted a large-scale agricultural census. At the same time, he introduced the American research and education system to Chinese researchers. In contrast, the intellectuals of colonial Korea, including Lee, were marginalized in the decision-making process by the IPR. Lee’s research projects were small in scale and he was unable to train the next generation of researchers.

はじめに

Ⅰ IPR調査研究活動における土地利用研究の採択

Ⅱ IPRによる李勲求の土地利用研究プロジェクト支援

Ⅲ 土地利用研究プロジェクトに対する資金支援規模

Ⅳ 土地利用研究プロジェクトの実施過程

おわりに

はじめに

太平洋問題調査会(the Institute of Pacific Relations: IPR)は,1925年に,太平洋地域の相互関係の改善を図ることを目的に,各国政府から独立した民間の国際学術団体として設立された。IPRは,1925年から1958年まで,国際会議(太平洋会議 Pacific Conference)を2~3年の間隔で総計13回にわたって開催した(1961年にIPR解散)。IPR自身が指摘しているように,IPRは,太平洋会議の開催および季刊誌Pacific Affairs発行をもって広く知られていた[IPR 1936, 1]。これまでのIPRに関する研究では,太平洋会議に焦点を当てつつ,そこに国際関係の影響を読み解く分析が主流となっている[中見 1985; 山岡 1997; Akami 2002; 片桐 2003]。

他方で,「事実の調査研究と之に立脚せる忌憚無き意見の交換とを其の双輪的,双翼的事業とする」[那須 1932, 48]という理念の下で,IPRは調査研究事業も重視していた(注1)。南直子の集計によると,1925年から1952年まで,IPRは,調査研究事業の成果物として総計1421件の刊行物を出版している。そのうち,中国を対象とするものが261件で最も多い。太平洋地域全般の研究189件を除けば,日本研究169件がそれに次いでいる[南 2017, 259]。原[1984]第2篇は,IPR調査研究事業に関する先駆的な専論であり,IPRによる日本・中国研究の特徴と意義を論じている。

同じ東アジア地域にある朝鮮に関する刊行物数は19件にとどまった。18件のうち,朝鮮人によって執筆されたものは3件であった[Hooper 1995, 570-571; コ2005, 146]。1件は,IPR朝鮮支会創立時からの会員であった申興雨による演説文(1925年刊)であり,2件は李勲求(リ・フング,Hoon Koo Lee)の執筆による土地利用に関する学術書であった[李 1935; Lee 1936](李[1935]は,Lee[1936]の朝鮮語版)。李の業績は,IPRが関わった刊行物のなかで朝鮮人が執筆した唯一の学術研究であった。

この李の研究は,J.L.バック(J.Lossing Buck)と那須皓がそれぞれ担当した中国と日本の土地利用研究との共同研究であった。後述のように,土地利用研究は,1920年代末から30年代前半にかけて,IPRの最重要研究プロジェクトであった。バックの中国土地利用研究[Buck 1937]は著名であり,これを対象とした研究も多い。Stross[1986]chap.6-7は,中国でのバックの研究活動を紹介したうえで,本書が土地利用の効率性にのみ着目して農業問題(agrarian situation)に関する議論を回避したことを批判的に論じている。Chiang[2001]は,中国に対するIPRの学術研究支援を分析するなかで,バックの研究に対するIPRの資金支援についても言及している。Hu, Zhong and Turvey[2019]は,近年発見された原資料(調査票集計用スプレッドシート)を再利用して,バックの分析を検証している。他方,管見の限り,那須の日本土地利用研究に関する専論はまだない。堀内[2019]は,IPRにおける那須の活動を論じるなかで,土地利用研究に関して簡略に言及している。李の朝鮮土地利用研究に関しては,彼の学術研究歴を論じたパン[1996]が,IPRによる研究支援の経緯を紹介している。キム[2015]は,李が,朝鮮総督府の官庁統計とは異なる「対案的な調査」を独自に実施したこと,留学機会を通じて習得した社会調査の能力およびIPRの研究資金提供がそれを可能としたこと,を指摘している。

パン[1996]キム[2015]は,李の研究がバック・那須との共同研究として遂行されたことについて述べているが,上記の他の論稿には,こうした視点が欠けている。李は,植民地期に英語圏で活動した数少ない朝鮮人研究者のひとりであった。しかし,韓国の研究者以外には注目されておらず,三者の研究プロジェクトを関連付けて論じる研究は,深められていない。そこで,本論文では,李に対して国際的な共同研究の場を提供したバック・那須との共同研究プロジェクトを分析対象とする。

ところで,太平洋会議において中国は,中国に従属的地位を押し付けるイギリスや日本による政治的・経済的措置の問題点を繰り返し提起した。また,朝鮮は,日本による植民地支配に対する批判を表明した。両国によるこうした植民地主義批判にもかかわらず,第二次大戦後の新世界秩序に関する議論が始まる1942年に至るまで,IPRが「反植民地主義」の立場を鮮明にすることはなかった。IPRの有力参加国がいずれも植民地帝国であったことにともなう利害が反映していたといえる[Akami 2002, 98-99, 185, 268]。IPRでの中国・日本・朝鮮の土地利用研究は,それぞれ,植民地帝国(アメリカ)の研究者による従属国(中国)研究,植民地帝国(日本)の研究者による自国研究および植民地(朝鮮)の研究者による自国研究という三者三様の組み合わせによって構成されている。こうした三者による土地利用研究の実施過程の分析を通じて,IPR調査研究事業において植民地主義がどのような影響を及ぼしていたのかを明らかにすることを,分析課題として設定する。

具体的な着目点としては,第1に,IPRの研究プロジェクトとしてそれぞれの土地利用研究が採択される過程における相互の関係性を明らかにする。そして,第2に,研究プロジェクトの実施過程に関して三者の比較対照を行う。具体的には,まず,それぞれの研究プロジェクトの規模(支援金額,期間,研究遂行体制)について比較する。さらに,IPRが,将来自ら調査を担当できる研究者を訓練することを研究支援の目的のひとつとして設定しており,そのために「少数の機関に対して継続的に支援する」方針で臨んでいた[IPR 1933, 3]ことに着目する。すなわち,研究プロジェクトが研究者育成に及ぼした効果という観点からも三者を比較する。

Ⅰ IPR調査研究活動における土地利用研究の採択

1925年7月に,ハワイYMCAの提唱によって,ホノルルでIPR国際会議が開催された。6カ国(オーストラリア・カナダ・中国・日本・ニュージーランド・アメリカ本土)と3地域(ハワイ・朝鮮・フィリピン)から代表者が参加した。この会議では,「人口・人種関係」がひとつの争点とされ,とくに日米間の移民問題が焦点となった[片桐 1985, 38-39]。1924年のいわゆる「排日移民法」制定が,その背景にあった。この国際会議において常設機関である中央理事会(Pacific Council)の設立が決定されるとともに,各国に国内理事会が設けられていった[片桐 1992, 157(注2)。また,IPRの調査研究部門を担当する部署として,国際調査委員会(International Research Committee)が置かれることとなった。

1927年の第2回ホノルル会議においても,移民問題は主要論点のひとつとなった。日本理事会の提案にそって,「人口・食糧問題」および「移民問題」という2つの論点に分けて討論されることになった。日本理事会は,「人口・食糧問題」という包括的な論点を提示することによって,「移民問題」を,日米間の政治問題という枠組みを超えたより普遍的な観点から提示することを狙った[片桐 1992, 168-171]。日本理事会は,第2回会議の準備の過程で,「人口・食糧問題」の専門家である東京帝国大学教授・那須皓をメンバーに招請した[片桐 1992, 162]。日本理事会会員の選出が,その中心人物となった新渡戸稲造の第一高等学校校長時代の人脈を背景にしていたことが指摘されている[中見 1985, 106]。那須もこの人脈の一員であり,「郷土会」での交流もあった[馬場ほか 1953, 12-13]。1927年1月には,日本理事会のなかに研究部がつくられ,新渡戸が委員長に,那須が幹事に就任している[新渡戸 1930, 2]。第2回ホノルル会議での人口食糧問題円卓会議において,那須は,スタンフォード大学食料研究所(The Food Research Institute)所長のアルスベルグ(Carl Alsberg)およびアメリカ農務省農業経済局経済分析官のベーカー(O.E.Baker)とともに報告を行った。Nasu[1927]は,その報告にもとづく刊行書である。

ところで,1927年2月に国際調査委員会調査局長(the research secretary)として,ニュージーランド出身のコンドリフ(J.B.Condliffe)がIPR本部に赴任した。彼は,アメリカ理事会事務総長であったカーター(E.C.Carter)から,IPR国際調査委員長でありアメリカ社会科学研究会議(Social Science Research Council: SSRC)の国際委員長でもあったショットウェル(J.T.Shotwell)に対して30~40のプロジェクト候補を提出するように指示された。ショットウェルがそのなかから研究計画として適格なものを選び出して,SSRCを介して財団からの資金支援を得るためであった[Condliffe 1981, 438-440; Chiang 2001, 224]。

しかし,コンドリフはひとつの案しか持ち合わせていなかった。第2回ホノルル会議の場においてアルスベルグが助け舟を出し,彼の研究者仲間とともに「すき焼きランチ」の機会を設けて,移民,生活水準,土地利用などのプロジェクト案をコンドリフに提示した。その主要メンバーが,ベーカーと那須であった[Condliffe 1981, 440-441; Chiang 2001, 225]。コンドリフは,調査局長就任直後にIPR事務総長の紹介でアルスベルグと面会していた[Condliffe 1981, 436]。那須は,第2回会議を回顧して,会議を機会に「O.E.Bakerさんなどの学者とも親しくな」ったと述べている[那須 1982, 98-99]。

ベーカーは,アメリカの農業土地利用に関する研究者であった。第一次大戦を前後して,アメリカの農業生産(および耕境)の拡大縮小および土地価格の急騰落が引き起こされ,農地の保全とその計画的利用の必要性が認識された。1919年には,アメリカ農務省に土地経済課(Division of Land Economics)が設立され,土地利用研究を担当した[Taylor and Taylor 1952, 848]。1923年のアメリカ農務省農業年報(Yearbook)には,“The Utilization of Our Lands for Crops, Pasture, and Forests”という論文が掲載され[Gray et al. 1924],「土地政策の思考における重要なターニングポイントであった」と評価されている[Taylor and Taylor 1952, 852]。ベーカーは,この論文の共著者のひとりであった(注3)

ベーカーは,農業地理学の研究者でもあり[Taylor and Taylor 1952, 316],アメリカ地理学協会(the American Geographical Society)は彼の活動拠点のひとつであった。同協会長ボウマン(Isaiah Bowman)とベーカーとの交換書簡資料のなかに,“Agricultural Land Resources and Their Utilization in Eastern Asia, Australia and Other Pacific Countries”というタイトルの研究計画書が含まれている。作成者は明記されていないが,ベーカーの手によるものであるとみなして間違いない(注4)。作成日は,1927年7月26日と記され,同年12月5日が改訂日とされている。1928年5月にコンドリフがIPR事務総長宛に提出した国際調査委員会による研究課題設定作業に関するレポートのなかでは,10件の研究課題候補のひとつである“Land Utilization in Eastern Asia, etc.”に関して,SSRCがこの課題を精緻化するためにIPR国際調査委員会に差し戻したこと,第2回ホノルル会議の際にこの研究計画を主導したベーカーに対して,ショットウェルが精緻化作業を依頼したこと,ベーカーによる改訂版がアメリカ調査委員会の議事録(1928年2月25日(注5))に掲載されていることを指摘している[Condliffe 1928, 4-5]。ベーカーの上記研究計画書に記された作成日・改訂日と前後関係が符合している。

ベーカーが作成した研究計画の特徴は,研究対象地域の研究者を1~2年間アメリカに招いて,土地分級と土地利用に関する統一的な概念および統計調査の手法を習得させるプログラムになっていることである。また,アメリカ内(とくに農務省)の蔵書を主要な資料として用い,研究対象地域から持ち込む資料はそれを補完するものとして位置づけている。ベーカーは,第一弾として4カ国(日本・中国・オーストラリア・ソ連(アジアロシア))を挙げて具体的な担当者を推しており,日本と中国については,那須とバックが名指されている。

コンドリフ自身は,研究課題設定作業の一環として,1927年10月から3カ月を掛けて日本と中国を訪問し,現地の研究者たちと意見交換を行っている(注6)。土地利用研究との関連では,日本で東京帝国大学の那須研究室を,中国で南京・金陵大学のバックの研究室をそれぞれ訪問している[Condliffe 1981, 441, 446-448]。この人選に際しては,那須との個人的な関係やベーカーの提案が影響したと考えられる(注7)。中国では,金陵大学学生による農家経済調査のデータにもとづいてバックが執筆していた原稿を見て,即座にその出版に対する財政支援を申し出ている(注8)。コンドリフは,中国各地を訪問した後,朝鮮経由で東京に戻って帰路についている。彼は,「朝鮮に関して調査を開始することによって日本人と敵対することは意味あることではなかった」と述懐している[Condliffe 1981, 455]。この時点では,コンドリフは,IPRの有力参加国である日本への配慮から,朝鮮研究への取り組みには消極的であったといえる。

IPRによる調査研究事業は,ロックフェラー財団の財政支援を得て,1928年に始まった。①「満州」(以下カッコを省略)の政治的・法的・経済的研究,②太平洋地域の保護領・先住民・植民地政府および③中国・日本における土地利用研究という3つのプロジェクトが開始された[IPR 1936, 4]。③の事業に関しては,中国をバックが,日本を那須がそれぞれ担当した(1929年までの2カ年事業)。表1に示したように,その後バックと那須のプロジェクトは,それぞれ1934年,1933年まで継続している。両プロジェクトは,前述の「少数の機関に対して継続的に支援する」というIPRの方針が反映した事例であったといえる。なお,太平洋会議においては,第2回ホノルル会議での「人口食糧供給」「太平洋地域に於ける移民」に続いて,1929年の第3回京都会議においても,「食糧人口問題」が円卓会議の議題として採用されている。1933年の第4回上海会議においても,「太平洋地域に於ける人種及び其の移動」という議題が円卓会議で取り扱われている[山岡 1997, 90-91]。このように,第1回ホノルル会議での課題設定以来,人口・食糧・移民という相互に関連しあう課題が太平洋会議において継続して取り上げられていった。土地利用研究プロジェクトは,これらの課題に対して科学的な知見を提供することを目的とするものであり,太平洋会議との「双輪的,双翼的」な関係が意識されていたことが窺える。

表1 食糧供給・人口・土地利用プロジェクトに対する資金支援額の推移

(出所)IPR[1936, 55-60]より筆者作成。

(注1)1936年の数値は予算額。他は決算額。

(注2)Nasu のプロジェクトに対する1932 ~ 33年の各5,000 ドルは,もう1 つのプロジェクト(Rural Social Life in Japan)との合算額。

土地利用研究についてコンドリフは,研究者をアメリカに呼び寄せて研究手法を習得させようとするベーカーの手法に対して,学術帝国主義(academic imperialism)という表現で批判している[Condliffe 1981, 441]。結果的には,土地利用研究プロジェクトは,両者のアイディアを折衷するかたちで進展した。すなわち,那須はこの研究のためにアメリカに滞在することはなかったが,中国での研究に関しては,バックおよび金陵大学中国人研究スタッフとアメリカ人研究者とがそれぞれアメリカと中国とに長期滞在して研究交流を行っている。また,既存の官庁統計資料の利用にとどまらず,農家への聞き取り調査などの現地フィールドワークにも重点が置かれた。

Ⅱ IPRによる李勲求の土地利用研究プロジェクト支援

1929年10月26日,第3回京都会議に先立って開催された国際調査委員会において,同委員長のショットウェルは,朝鮮において研究活動が行われる可能性に関する書簡を読み上げて,朝鮮メンバーが京都会議でこの件についての提案を表明するかもしれない,那須博士にとっては彼の研究において朝鮮からの協力が得られれば望ましいことであろう,と発言している[International Research Committee 1929b, 39]。国際調査委員会の別の資料(日付不明)には,新規の研究課題案が列記された下に,手書きでKorean Land Utilizationと追記されている(高木自身によるメモと思われる)[International Research Committee 1929c, 45]。また,さらに別の資料(日付不明)には,7つの研究課題の中のひとつとして,Land Utilization in Japan and Koreaという課題がタイプ文字で挙げられている[International Research Committee 1929d, 77]。そして,11月7日付の中央理事会に対する国際調査委員会の報告書のなかでは,土地利用研究2件(バックおよび那須)を含む5件の継続プロジェクトの後に新規プロジェクト8件が挙げられてそれぞれ予算配分額が記されている[International Research Committee 1929a, 42]。後者8件のなかのひとつが,Lee: Land Utilization and Rural Economics in Koreaであった(1930~31年事業)。10月26日のショットウェルの提案を踏まえて朝鮮の土地利用に関する研究課題が追加され,那須の研究と統合することが検討された後に,上記の研究課題に落ち着いたと考えられる。Leeと記された人物こそが,李勲求である。

李(1896年生)は,朝鮮の水原高等農林学校を卒業後,1921年に東京帝国大学農学部に入学して那須の指導を受けている。その後,カンザス州立農業大学に留学して修士課程を修了し,さらにウィスコンシン大学農業経済学科に進学した。ヒバード(B.H.Hibbard)の指導の下で朝鮮の土地制度に関する通史を研究して1929年に博士号を取得している[方 2004, 76]。ヒバートは,アメリカ歴史学派を興したイーリー(R.T.Ely)の下で学んでいる。イーリーは,土地問題の研究にも取り組んだ[高 2004, 第1章]。アメリカ農務省で土地利用研究を担当したグレイやベーカーも,イーリーの教え子であった。博士課程修了後,李は,アメリカ農務省農業経済局嘱託(通訳官)として勤務している[パン 1996, 130]。この就職に際しては,ウィスコンシン大学の人脈が活かされたと推察される。

国際調査委員会で朝鮮に関する研究活動が議題に取り上げられた際に,土地利用研究が課題として採択され,かつ李が担当者として選ばれた具体的経緯は不明である。前述のショットウェルの書簡の内容から,国際調査委員として参席していた那須がこの研究課題と担当者を提案したものと推察される。李は,那須にとっては教え子であり,ベーカーにとっては同僚であった。李を加えることで,土地利用研究プロジェクトを充実させることができると考えたと思われる。なお,1930年初春にコンドリフから李に手渡された研究計画書には,この研究プロジェクトは那須教授が執行中である日本の土地利用研究プロジェクトと関係があるので,コンドリフ調査局長が李勲求博士と那須教授を訪問して相談をする,という主旨の計画が記されていた[李 1935, 7-8]。那須がこの研究計画作成にも関わっていたことが窺える。

ところで,1929年10月26日国際調査委員会における前述のショットウェルの発言は,IPR朝鮮支会の会員資格問題と関連している。第1回ホノルル会議終了後,IPRの恒久組織化のために基本規約(the Constitution)の制定が準備され,第2回ホノルル会議の中央理事会で決定された。基本規約第3条第3項は,主権国家もしくは自治国家に会員資格を限定した。そして,それらの国家内部の「領土的,または人種的団体」に関しては,国内理事会の同意が得られることを条件に太平洋会議事務局と直接の関係を結ぶことができる,と規定された。この条項は,朝鮮からの参加に懸念を示す日本理事会からの強い要請によって付け加えられたものであった[片桐 1986, 55-56]。

第1回ホノルル会議には朝鮮から5名の参加があり,同年のうちに朝鮮支会が結成されている。そして,第2回ホノルル会議にも3名の参加者を派遣している[コ 2005, 130]。しかし,第3回京都会議では,この基本規約制定によって,日本理事会の同意なしには参加が困難となった。朝鮮支会は,第3回京都会議に向けて,中央理事会宛に,基本規約第3条に会員資格として「民族的団体」を付け加えるように要求した。他方では,日本理事会に対して正式参加への同意を求めることを拒んで,京都会議の不参加を決定した[片桐 1986, 62-63]。

1929年10月25日の中央理事会は,朝鮮支会に対して,「草案中の規約修正につきては,提案の機会を与ふることを保証する」旨の決議を行い,その内容を電報で送って朝鮮支会に参加を促した。それを受けた朝鮮支会は,「来賓」の資格で会員5名を京都会議に派遣した。中央理事会は,規約改定に関する朝鮮支会会員の陳述を聞いたのち,4名の理事に対して,この規約改定要求問題の検討を要請した。4理事は,11月9日の理事会において,基本規約第3条第3項の条文中,「国内理事会の同意」という文言に代えて「中央理事会全員の賛同」とする改定案を用意した。IPRの立場からすれば,基本規約改定の提案資格を有しない朝鮮支会会員からの意見を聴取して,国内理事会の同意を不要とする旨の改訂案を用意したことは,朝鮮支会に対する譲歩であったといえる。しかし,実質的には,この改定案は,日本理事会に中央理事会での拒否権を与えることを意味した[片桐 1986, 65-69]。基本規約改定には,理事会開会の4カ月以前の郵便予告あるいは2カ月以前の電報予告を要する(基本規約第10条)ことから,この改定案は,この手続きの完了後に開会される中央理事会で採決がなされることになった[新渡戸 1930, 70]。基本規約第3条第3項の改定案が採決・承認されたのは,1931年10月の第4回上海会議中央理事会においてであった。その際,「特別扱い」を求める朝鮮支会からの請願が付議されたが,日本理事会の異議によって不成立に終わっている[那須 1932, 36]。

ショットウェルは,1929年11月4日の京都会議中央理事会において,「今回会議の前に朝鮮を訪問して,朝鮮会員がIPR参加に関して満足できる条件を見つけ出せることを望みつつ,文化問題や研究事業に関してIPRと協力できる可能性に向けて努力した」という主旨の発言をしている[The Pacific Council 1929, 25]。朝鮮支会の会員資格が認められなかったとしても,IPR調査研究事業に朝鮮メンバーが関わってくれることをショットウェルは望んでおり,10月26日国際調査委員会の時点では,ショットウェルの希望に沿った発言が朝鮮支会会員側からあることを期待していたと考えられる。片桐[1986]は,このショットウェルの発言を,「ややもすると基本規約の改定に重点を置きすぎて,IPR本来の目的を見失いがちな朝鮮グループに与えるにふさわしい忠告」と評している(p.68)。個人資格での参加というIPR運営の原則に反して,「領土的,または人種的団体」の資格問題を提起したのは日本理事会であった。ショットウェルの発言が「忠告」であったとすれば,朝鮮支会にとっては説得力を欠くものであった。ショットウェル発言に対する評価としては,会員資格問題に関して原則的立場を貫こうとする朝鮮支会会員に対して,調査研究活動支援という「実益」を提供することで“柔軟”な対応を促したものと捉えるのが妥当なのではないか。

結局,第3回京都会議中央理事会において,朝鮮支会の会員資格問題をめぐる議論は行き詰ってしまい,ショットウェルが期待したような調査研究活動に関する朝鮮支会側の“柔軟”な対応を得ることもできなかった。ただし,国際調査委員会で採択された李による朝鮮土地利用に関する研究プロジェクトは,中央理事会への報告を経て実施に移されていくことになった。

李の回顧によると,1929年クリスマスに偶然ニューヨークで遭遇したIPR「朝鮮部委員」であり彼の友人でもあった人物によって,彼がこの研究プロジェクトの担当者に指名されたことを伝えられている[李 1935, 6]。

ところで,朝鮮では,保守的福音主義に対する批判および社会主義農民運動への対抗を背景に,1920年代中ば以降,YMCAや長老派による農村運動が本格化した。とくに,1928年に開催された国際宣教協議会(IMC)エルサレム大会において,コロンビア大学教授ブルナーが朝鮮での現地踏査にもとづいた報告書Rural KoreaBrunner 1928]を発表したことが契機となって,協同組合運動など,キリスト教団体による農村運動が活発になった[チャン 1995, 212, 218;方 1998, 200, 201-202, 206]。朝鮮支会会員の過半数はYMCA・YWCAに所属していた[外村 1996, 191]。そのなかの主要メンバーであった尹致昊(支会委員長,太平洋会議第3回大会参加)と申興雨(支会委員,同第1回大会参加)は,ブルナーが「京城」滞在の際に少人数で夕食を共にしている(注9)。また,申興雨と金活蘭(YWCA,同第1~3回大会参加)は,朝鮮代表団の一員としてIMCエルサレム大会に派遣されている[チョン 1971, 207]。朝鮮支会会員は,朝鮮キリスト教団体における農村運動の活発化およびそのための農村実態調査の重要性に対する認識の高まりという潮流を作り出すうえで,中心的な役割を果たしていたといえる。このことから推察して,李がIPR研究プロジェクトとして朝鮮土地利用研究に取り組むことになったことに対する朝鮮支会会員の期待は大きかったといえる。李は,研究プロジェクト報告書の朝鮮語版序論において,朝鮮は有史以来の農業国であり現在も農民が全人口の大部分を占める「農業民衆」であるとしたうえで,農学界に身を置く学徒として,農村の苦悩や悩みを自己のものとして捉え農民の疾苦や艱難を自身のものとして考えないではいられない,と述べている[李 1935, 5]。李もまた,朝鮮キリスト教団や朝鮮支会会員と問題意識を共有していたことが窺える。

1930年初春にワシントンを訪ねたコンドリフによって,李は,土地利用研究プロジェクトに関する正式な告知を受け,その際に,研究計画書(先述)の提示を受けている[李 1935, 6-7]。そして,①彼がコンドリフから告知された時,折よくアメリカ地理学協会から委託された業務があったので故郷に帰る計画中であった,②1930年夏期に故郷に帰った際に,懸案の「太平会(ママ)憲法(ママ)改正問題」に関して,朝鮮来訪ができなくなったコンドリフ博士に代わって本人が「朝鮮部委員」と協議したものの,約2カ月を浪費することになった,と述べている[李 1935, 8-9]。

①に関連して,1929年12月に,ベーカーはボウマンに対して,開拓地帯研究プロジェクトにおける満州研究の担当者候補として李を紹介している(注10)。さらに1930年1月には,ベーカーはボウマン宛に,李がソウルのYMCAから調査局長の職を提案されており,この職と満州研究とは両立可能である見通しを李が持っていることを報告している。さらに,満州を対象とする開拓地帯研究プロジェクトとバックの中国土地利用研究を,李を介して結び付けようという意図から,李をバックに紹介したことをボウマンに報告している(注11)

②に関しては,1930年2月,ベーカーは,IPRアメリカ理事会事務総長カーター宛書簡のなかで,李が朝鮮のYMCAにまもなく赴任する予定であること,そしてIPRが朝鮮での調査事業のためにYMCAに資金支援を行うことを李から聞いたことを伝えたうえで,開拓地帯研究プロジェクトと関連づけようという思惑から,朝鮮でのIPR調査事業の内容についてカーターに照会している(注12)。この時点では,IPRは,李がソウルのYMCAに赴任することを前提に,そこを窓口にして朝鮮土地利用に関するプロジェクトを実施することを構想していたことがわかる。

他方,1931年1月に朝鮮で発刊されたある雑誌記事は,IPRにおける「植民地代表参加案」に対する議決は「昨夏」に開催予定であった中央理事会に持ち越されたが,この理事会は事情により開催されず,1931年10月に開かれる理事会を待つことになった,そのために,朝鮮農村調査の機関を別途置くというショットウェル博士の提案も保留されることになってしまった,と伝えている[一記者 1931, 62(注13)。京都会議の後の「東亜日報」「朝鮮日報」の記事は,それに出席した朝鮮支会会員の活躍を伝えるなかで,あたかも彼らの要求が中央理事会に受容されたかのような論調で,次の会議への期待を述べている[コ 1991, 320]。他方で,民族主義者と社会主義者の協同戦線であった新幹会は,京都会議が開催される以前から,IPRが人道主義・理想主義にもとづく学術交流の場から日米英中心の政治的な会議に変質したという認識にもとづいて,IPRに批判的な立場を採っていた。そして,京都会議直前には,朝鮮支会会員に脱退を勧告する決議を行っていた(その際の司会は朝鮮支会会員であった)[外村 1996, 203-205]。朝鮮支会会員のあいだでも,基本規約改定案に対して評価が動揺していたことが窺える。そうした状況の下で,1930年夏の時点では中央理事会が開催されずに朝鮮支会の資格問題が未決着の状態にあったことが,李の研究プロジェクトに関する彼と朝鮮支会との協議を難しくしたと考えられる。

李は,1930年6月に帰郷しているが,YMCAに職を得てはいない(注14)。そのこととIPR研究プロジェクトの困難との関連は不明である。同年8月には,金陵大学から農業経済学講座の教授として招請を受けて(注15)南京にわたっている。李は,多年間の「宿志」(満州開拓地研究と朝鮮土地利用研究の双方を指すと思われる:引用者)達成の機会にも拘わらず事情がそれを許さないことを慨嘆しつつ海を渡った,と述べている[李 1935, 9]。その後,「憲章改(ママ)正問題」が落着しないまま,既定の調査事業を遅延させることもできないというIPRの側の判断から,李による土地利用研究プロジェクトの執行をアメリカ地理学協会に委嘱することになった[李 1935, 9]。

1932年時点で遂行中のIPRの研究プロジェクト21件のうち,直接の担当者以外に後援団体名が挙げられているのは,李のプロジェクトを含めて3件だけであった。そのうち2件は当該国理事会が後援者になっている[IPR 1933, 11-12]。李の研究プロジェクトの遂行体制だけがとくに例外的なものであったことがわかる。

IPR国際調査委員会は,アメリカ理事会調査部委員でもあったベーカーやボウマンとの個人的な関係を通じて,オーストラリア・満州・モンゴル・カナダ・シベリアを研究対象とする開拓地帯プロジェクトの成果を土地利用研究プロジェクトに活用することができると認識していた[IPR 1936, 10]。Pacific Affairs誌1930年7月号掲載の李の研究活動に関する記事では,「アメリカ地理学協会のために満州の開拓地帯における朝鮮人に関する研究に取り組む予定」と紹介され,その次に「朝鮮土地利用研究にも関心を有している」と記されている(注16)。IPRは,アメリカ地理学協会委嘱の下での李の満州研究と朝鮮研究の双方に着目していたことが窺える。

李は,1931年3月に,平壌に新設された崇実専門学校農学科の教授に就任する機会を得て,金陵大学を去った。IPRによる予算計画では,1930~31年が李の研究プロジェクトの実施年次であったが,1931年春に平壌に職を得ることで,李は,ようやくこのプロジェクトに取り組むことができるようになった[李 1935, 9(注17)。朝鮮支会の会員資格問題が,結果的に,李の研究活動スケジュールをタイトなものにしていった。

李は,南京から平壌に赴任する帰途,「『満洲事変』直前」[李 1932b, 3]の満州で在満朝鮮人に関するフィールドワークを行ない(注18),それをもとにして開拓地帯研究プロジェクトの報告書を執筆した。李は,1931年末に報告書をアメリカ地理学協会ボウマンに提出している(注19)。その後,報告書の一部を英語論文として発表し[Lee 1932],さらに,「京城」の出版社から朝鮮語版を出版している[李 1932b]。ボウマンは,満州研究の専門家でIPR満州研究プロジェクトにも参加していたヤング(Walter Young)[IPR 1936, 20]に対して,李の報告書の出版について意見を求めている。1933年の返信においてヤングは,この報告書を中庸(mediocre)と評したうえで,アメリカ人による的確な改訂を経れば出版の価値があると判断している。他方でヤングは,極東における国際情勢という観点から,朝鮮人によって執筆された満州に関する著作をアメリカの資金によって出版することが,李にとって,アメリカ地理学協会にとってそして日米関係の利害にとって問題となりうることを進言している(注20)。結果的に,この報告書は英語で出版されなかった。その直接的な原因は不明であるが,ヤングの進言が示すように,満州および在満朝鮮人をめぐる当時の厳しい国際関係がそれを妨げた可能性がある。

Ⅲ 土地利用研究プロジェクトに対する資金支援規模

1936年にIPRが作成した研究プロジェクトに関する報告書によれば,1928年から1936年までの間に支出した支援額は,総額で36万7385ドルとなる(1936年は予算額)。同じ期間中に,IPRは,ロックフェラー財団から研究支援として総額39万5000ドルの支援を受けている[IPR 1936, 60]。研究プロジェクト支援額のほとんどが,ロックフェラー財団からの寄付によって賄われていたことになる。このほかに,1928年には,IPR関連の研究プロジェクトとして,SSRCからの支援金4万600ドルが支出されている。

前述の1936年IPR報告書のなかでは,10の研究分野が紹介されている。その筆頭に「食糧供給,人口および土地利用」が挙げられ,「この研究はIPR調査事業の基礎」と位置づけられている。また,「IPRがこの研究課題の根源的な重要性を確信していなかったならば,これほど大規模で継続的な支援を行わなかったであろう」とも述べている[IPR 1936, 5-6]。この研究分野に属する個別プロジェクトを整理すると前出の表1のようになる。1928年にバックと那須の研究に対する資金支援およびSSRCによる研究支援2件が始まって以降,1933年まで資金支援がコンスタントに持続した。その後,件数・支援額がともに減少して1936年には当該プロジェクトがなくなった。「食糧供給,人口および土地利用」の研究分野として分類できる11件に対する支援額総額は,12万7270ドル(そのうち,SSRCから1万5000ドル)であり,IPR支援総額(SSRC分を含む)の31.2%を占めている。1928~33年の間は,毎年4割前後の高いシェアを保っていた。

1928~36年間に資金支援がなされた研究プロジェクトの件数は,1928年のSSRCからの支援によるプロジェクト5件を含めて,総数で104件であった[IPR 1936, 55-60(注21)。件数ではその1割強にすぎない「食糧供給,人口および土地利用」分野の研究プロジェクトに集中的にIPRの資金移動が投入されたことになる。とくに,バックと那須による2件のプロジェクトだけで,この研究分野へのIPR支援額(SSRC分を含む)の71.5%,支援総額(SSRC分を含む)の22.3%が投入された。この2件の研究プロジェクトに比べると,李の研究に対する支援は,プロジェクト期間は2年間だけであり,支援金額も少額であったことがわかる。

第3回京都会議において,国際調査委員会はステイトメント(Statement of Research Policy)を発表した。そのなかの1項目として,プロジェクトは2年以内に完了(あるいは中間報告)するものとする(ただし,特別な場合は4年間に延長できる),という規定が掲げられている[Condliffe ed. 1930, 653]。先に述べたように,IPR国際調査委員会は,研究プロジェクト支援に際して,少数の機関に対して継続的に支援する方針で臨んでいた。他方で国際調査委員会は,この方針を維持すればそれ以外の機関が放置される,という弊害についても認識していた[IPR 1933, 4(注22)。この新しい規定を設けることによって,この弊害に対応しようとしたと思われる。前掲表1から確認できるように,1930年以降に新規に採用された土地利用研究プロジェクトについては,李のものも含めて,「2年以内」という原則がすべて適用されている。バックや那須の研究プロジェクトが優遇されたことは確かである。他方で,李の研究への支援がバックや那須のそれに比べて小規模にとどまったのは,李のプロジェクトだけが冷遇された結果というわけではなかったことになる。

Ⅳ 土地利用研究プロジェクトの実施過程

1.バックの中国農村土地利用研究プロジェクト

バック(1890年生)は,コーネル大学農科大で学んだ後,1916年に長老派宣教師兼農学者として安徽省宿県に赴任した。その後,コーネル大学卒業生で金陵大学農林科大学長であったライズナー(John Reisner)によって,1920年に同大学農業経済学担当の教員として招請された。コーネル大時代にウォーレン(George F. Warren)の下で農業経営学を学んだバックは,学生に対して帰省先で農家経営調査を行うカリキュラムを提供した。学生に調査手法を学ばせるとともに,自身は農家経営に関するデータを蓄積していった。安徽省のデータを用いた論文によって,1923年にバックはコーネル大の修士号を取得している。さらに,中国7省2866農家のデータにもとづいて,1930年にChinese Farm Economyを出版し,1933年にはコーネル大学から博士号を取得した[Turvey 2019, 33-39, 43]。この著書の出版に当たっては,コンドルフの推薦によりIPRから出版助成を得たことは前述のとおりである。

さらにバックは,金陵大学を拠点に1928年からIPRの資金支援を受けて中国土地利用に関する研究を開始した。中国理事会にとっては最大規模の支援額となっていたが,バックは,この研究プロジェクトに関する申請を,中国理事会の承認を得ずに直接ホノルルの本部に提出していた[Chiang 2001, 244-245]。バックの中国メンバーとしての活動は,第3回京都会議へのデータ・ペーパー提出が確認できるだけである。第4回上海会議には,アメリカのメンバーとして出席している[山岡 2010, 18, 107]。バックは,アメリカ人研究者の人脈を通じて,この研究プロジェクトの研究環境を整えていったということができる。なお,この時期,IPRによる研究支援額の過半が中国に対して配分されていた。またロックフェラー財団による寄付額に関しても,中国は,アメリカに次ぐ第2の対象国であった[Chiang 2001, 226-230]。IPRの研究支援活動を財政的に支えていたロックフェラー財団は,中国での学術研究・教育事業に対して強い関心を持っていた。このことが,バックの研究資金確保に有利に作用したということができる。

多額の資金を長期に確保することができたバックは,この土地利用研究プロジェクトにおいて大規模な聞き取り調査を実施した。調査対象農家の選定のために,バックは,まず土地利用に関する予備調査を行って中国を8つの農業地帯に区分した。それにもとづいて,22省を対象に168の調査対象地区を選定し,さらに各地区について代表的な村落を選定して100戸に農家経営調査(Farm Surveys)を,250戸以上に人口調査を,そして20戸に食糧調査を実施した。その結果,農家経営調査と人口調査においてそれぞれ1万6786戸,3万8256戸の有効調査票を回収している。現地調査に際しては,この調査のための訓練を受けた金陵大学卒業生が地域調査者(regional investigator)として派遣された。彼らが,調査地域において調査票に記入する人材を見つけて訓練を行った[Buck 1937, viii-x, 358-359]。なお,バックは,農家経営調査対象農家の選定に際しては,村落悉皆(大規模村落の場合はその一部地域の悉皆)調査の方針で臨んでいる[Buck 1937, ix]。1930年刊行の前著に対しては,卒業生による聞き取りでは対象農家が中上層に偏るというサンプリングに関する批判が寄せられていた[Turvey 2019, 43]。バックはこれを念頭に,新たなサンプリング手法を採用したと思われる。調査は,1929年から33年にかけて実施され,1937年に3巻の著作(本編,統計資料,地図集)として刊行されている。

IPRの報告書は,このバックの研究プロジェクトを「事実上の標本農業センサス」と位置付けている[IPR 1936, 9]。この時代の中国においては,政府による農業統計の収集は緒についたばかりであり,中国全域に関する統一的な統計資料はまだ整備されていなかった(注23)。バックによる大規模な農家調査は,その先駆的な試みであり,中国農業の全体像をはじめて提示したと評価されている[IPR 1936, 9]。「はじめに」で述べたように,バックのこの著作に対しては,土地利用の効率性にのみ着目して農業問題(agrarian situation)に関する議論を回避しているという批判がある[Stross 1986, 186]。バックは,この著作の冒頭において,小作問題,紛争調停における不正義,高利貸しあるいは商人の中間搾取といった農業問題は本書では対象とはしないものの,本書のデータが農業問題分析に将来貢献することを期待すると述べている[Buck 1937, 1]。バック自身が「事実上の標本農業センサス」というプロジェクトの目的に自覚的であったということができる。

この著作に先立つ1930年の著作において,バックは,農業問題を念頭に,中国農民経営の零細性と貧困の原因として農外就業機会の限定性や小作料の不公正な高率性に言及している[Buck 1930, 143, 166]。その一方で,菜園での野菜栽培を農民に奨励したところ,栽培時間が確保できないという農民の応答を得たバックは,「野菜栽培方法に関する無知の言い訳」という解釈を示している[Buck 1930, 357, 381]。また,生活水準の低さを論じるなかで,仏教や道教の儀式は農民に増産などの効果をもたらさないばかりか損失を与えている,あるいは,中国農民は豊作の年にはギャンブルや暴飲暴食に費やしてしまう,と説明している[Buck 1930, 409, 421(注24)Akami[2002]は,IPRにおける植民地主義がオリエンタリズムを随伴していたことを指摘している(p.101-102)。中国農民の貧困の原因を無知や浪費に求めるバックの啓蒙的言説にも,オリエンタリズムを見出すことができると考える。

ところで,金陵大学でのバックの土地利用研究には,バック以外に複数のアメリカ人研究者が関わっている。まず,1928年には,バックの指導学生であった孫文郁(W. Y. Swen)をアメリカに留学させて,アルスベルグの下で土地利用研究の方法論を学ばさせた。彼は,帰国したのちは,バックが率いる土地利用研究チームの監督代行(acting director)に就いている[Buck 1973, 33-34]。そして,バック自身が,IPRの勧めにより1929年秋から半年間アメリカに滞在して,当地の土地利用研究者と打ち合わせを行っている[Buck 1973, 30]。そのうち数週間は,アメリカ農務省においてベーカーら専門家と調査票に関する検討を行っている(注25)

他方で,複数のアメリカ研究者が金陵大学に滞在して研究交流を行っている。この研究プロジェクトのために金陵大学に滞在したことのあるアメリカ人は,土壌学,人口学,栄養学,統計学,農業経済学などの分野の専門家10名ほどであった。そのほかにオーストラリア,イギリス,ニュージーランド,ドイツの専門家(気象学,地形学,地理学,協同組合論など)もこの研究に関わっている。その際,アメリカ地質調査所(United States Geological Survey),中国国際飢饉救済委員会(the International Famine Relief Commission),ミルバンク財団(the Millbank Memorial Foundation)およびスクリップス人口問題研究財団(the Scripps Foundation for the Study of Population Problems)からの資金支援がなされている[Buck 1973, 33-35; IPR 1936, 9-10]。

さらに,1931~38年間には,金陵大学とコーネル大学との間で,後者の教員を前者に派遣してバックの研究を支援する一方で,前者の中国人学生を後者に留学させる協定プログラムが運用された[Stanton 2001, 64]。バックのプロジェクトには,中国人研究者の育成プログラムも組み込まれており,金陵大学農林科大を研究・教育機関として整備するという成果をもたらしたといえる。それは,アメリカ式の研究・教育システムの中国への導入という効果も有していた。たとえば,土壌学者・ソープ(J.A. Thorp)の下で土壌調査に参加した中国人若手研究者が,その後中国人土壌研究者の第1世代として活躍している[Gong et al. 2010, 4-5]。バック自身も,中国人スタッフに対して懇切に接して研究活動を促したという評価を得ており,彼の協定プログラムの下で,多くの金陵大学学生がアメリカに留学した。これらのプログラムは,中国大陸と台湾で活躍する多くの農業経済学者を輩出した[Trescott 2007, 182-183]。

バック主導による金陵大学の土地利用研究プロジェクトには,国民政府も注目した。バックは,1931年には,長江の水害被害地域復興のための政府調査に対する支援の依頼を,また,翌32年には,上海事変での日本軍の攻撃による農民被害に関する調査の依頼を,宋子文(南京政府財政部長)から受けている[Stross 1986, 181-182; Turvey 2019, 51]。さらに,土地利用研究の一環として農産物価格問題に取り組んだのをきっかけに,バックは,1934年以降アメリカの対中通貨政策に関わるようになり,1939年には南京政府財政部の顧問に就いている。そして,日中戦争期を通じて,アメリカへの借款返済に関して国民政府に助言を行っている[Turvey 2019, 51]。

2.那須皓の日本農村土地利用研究プロジェクト

那須(1888年生)は,東京帝国大学農科大を卒業の後,1917年に同助教授に就任する。渡米休職の後に復職して1923年に教授に就いている[那須 1982, 392-393]。1927年第2回ホノルル会議に参加した後,1936年第6回ヨセミテ会議まで連続して太平洋会議に出席している[山岡 2010,74]。那須は,1927年以降,研究部幹事として日本理事会における研究活動の方針決定に深く関わった。さらに,国際調査委員会副委員長(1931~34年)も務めており,IPRの研究支援方針の決定過程においても重要な役割を果たす立場にあった[堀内 2019, 45]。那須に比べれば,バックのIPR研究運営活動への関与の程度は低かった。李の場合は,太平洋会議への参加,ペーパー提出いずれの経歴もない。

那須の土地利用研究に対してIPRは,予算規模では劣るものの,継続期間に関してはバックのそれにほぼ匹敵する長期間の支援を実施している。このプロジェクトの下での那須の研究成果は,1929年第3回京都会議に提出された報告書[Nasu 1929]と桑園土地利用に関する日本語の報告書[那須 1933]の2点である。後者に関しては,英語版が準備されたようであるが[IPR 1936, 8],結果的には出版されていない。

IPRの報告書は,1929年発表の那須の著作に関して,第1に優れた地域農業統計機関の存在が土地利用研究における定量的な分析を可能にしており,それは他国において見出すことの難しい事例であること,第2に多くの大学院生の自発的な協力によって比較的少額の資金支援が優れた成果に結びついていること,を指摘している[IPR 1936, 8]。第1の指摘のとおり,この著作では,主として道府県別農業統計を用いて分析を行っている。バックのプロジェクトのような農家経営調査は実施していない(注26)。1933年出版の桑園に関する著作においても,「附録」として群馬県佐波郡町村役場への聞き取り調査にもとづく分析が掲載されているほかは,基本的に農業統計を用いた分析がなされている。

1929年刊の著作のための分析に携わった近藤康男の回顧によると,1928年7月に,静岡愛知両県17町村を対象として,「東大農経教室」の助手・副手全員と在学学生の半数が参加して,「太平洋問題調査会から委託された農村社会生活調査」を実施している[近藤 1985, 14-15]。しかし,この1929年刊の著作のなかに,その調査の成果が直接的に反映されている箇所は見出せない。神谷慶治の回顧によると,この時期,那須の農政学講座には,「土地利用研究室」と「農村調査研究室」が設けられていた。「土地利用研究室」が「太平洋調(ママ)査会」の資金による研究を行い,1929年著作に続いて,1933年に桑園に関する著作を出版した。「農村調査研究室」では,生計費や生活水準という観点から,農村調査を実施した[神谷 1975, 99(注27)。那須の講座では,1928年から31年にかけて,7県39村を対象に「農村経済の実態調査」を実施している[馬場ほか 1953, 13(注28)。近藤が言及した「農村社会生活調査」と同じものであると思われる。IPRからの研究資金が,土地利用研究とともに農村社会生活調査にも用いられていたと推察される。前掲表1注2に示したように,1932~33年には,那須は,土地利用研究とは異なる研究課題に対しても資金支援を得ている。那須は,IPRの資金支援に応じて講座の研究体制を構築する一方で,講座の研究課題に応じてIPRに研究プロジェクトを申請しており,IPRの研究支援制度を柔軟に利用していた様子が窺える。

那須のプロジェクトにおいては,統計分析に耐えうる既存の官庁統計が利用可能であるという条件を生かして,独自の農家調査を実施することなしに,研究課題に接近することが可能であった。そして,IPRから支援された資金を利用して,与えられた課題とは異なる分野に関するフィールドワークをも遂行している。さらに,このプロジェクトの実施を通じて,国外(欧米)の研究者からの学術的支援なしに,講座の内部で農業経済学分野の若手研究者を育成する仕組みを作り上げていったということができる。

那須の指導の下で実施された農村社会生活調査は,満州移民政策および1930年代農林省の主要政策のひとつであり満州移民政策との関係も深かった農山漁村経済更生運動と関連づけられて,戦時期まで実施された[馬場ほか 1953, 13]。東京帝国大学農学部農政学研究室[1938]および東京帝国大学農学部農業経済学教室[1940]は,その成果としてよく知られている。那須は,IPRの研究プロジェクトの遂行過程で確立させた研究手法を,1930年代後半における日本の大陸政策・農業政策に対する資料提供のために利用したということができる。

そして那須自身も,満州事変の後に満州農業移民政策など日本の大陸政策に深く関わっていった[那須 1982, 147-153]。堀内暢行が問題提起したように,「IPRの活動を通じて国際平和創生に取り組みつつ,その平和を切り崩すことになった日本の対外政策において重要な役割を担った」那須の言動は,一見矛盾している[堀内 2019, 45]。この「矛盾」を考えるうえで,那須が第2回ホノルル会議の直後に,円卓会議を振り返って,「私共は我国人口の増大は決して直ちに日本を軍国主義的侵略政策に駆るものではなく,我々はもつとも公明正大かつ進歩的なる態度をもつてこれに基く難問題の解決に努力しつゝある旨を述べ」[那須 1927, 88]たと論じていることに注目したい。戦後においても,那須は,同会議での討議に関して,「日本は帝国主義的に領土を拡大するつもりはないが,人口が増加するから生活は苦しくなるといった大きな問題を提起しました」と振り返っている[那須 1982, 98]。日清日露戦争とその後の台湾・朝鮮に対する植民地支配あるいは対華21カ条要求やシベリア干渉戦争などを勘案すれば,1927年時点において日本の「軍国主義的侵略政策」「帝国主義」を否定する那須の認識は正当であるとはいえない。「公明正大かつ進歩的なる態度」の表明は,あくまで,アジア太平洋地域における植民地領有と中国における権益を相互に承認しあっていた欧米列強からの参加者に向けたものであったといえる。

中見眞理は,太平洋会議での議題に関して日本理事会会員が,アメリカに対しては対米移民問題という「政治的」議題を自ら提起したのに対して,不平等条約等に関わる中国問題や朝鮮のIPR会員資格問題を取り上げることについては「政治的」と見做して否定的な態度を取ったことを指摘している。この対照性をもって,日本理事会会員が「朝鮮や中国のナショナリズム軽視をいかに当然のこととして受けとめていたかを示すもの」と評している[中見 1985, 110]。また,Akami[2002]は,日本理事会会員が,一方では東洋と西洋との調和者としての日本の役割を強調しつつも,他方では欧米の植民地主義者と同様に朝鮮や中国に対してはオリエンタリスト的態度で臨んでいたことを指摘している(p.102)。上記の那須の言明にも,この二人の論者がともに言及している二重規範を見出すことができよう。

那須は,戦後に満州農業移民政策を回顧するなかで,「満州を日本が勢力範囲にいれた。その経緯に力の行使があったし,無理があった」としつつも,「満州には広大な土地があり…それを立派に利用できるのは日本人じゃアないか」,「現地の開発」は「日本のためにもなるし,現地の住民のためにもなる」という考えで政策を推進した,と述べている[那須 1982, 148]。中国人の「開発」能力に対する過小評価および日本が「実利」をもたらせば中国ナショナリズムが収まるという発想を読み取ることができる。こうした那須の発想が,満州農業移民政策の侵略性に関する認識を鈍くしたと考えられる。

盧溝橋事件の後,日本軍の華北占領の下で,北京にあった旧国立4大学は「臨時政府」の「国立」北京大学へと整理統合され,1938年5月に医学院と農学院が設立されている[田島 2006, 72-73]。那須は,IPRの活動を通じて中国人研究者と交流するようになったのをきっかけに,1930年代中ばには,外務省の「対支文化事業」の助成を受けて,東京帝国大学農学部に中国人留学生を特別大学院学生として受け入れていた。こうした経緯から,那須は,北京大学農学院名誉教授に就任し,講座の門下生を教員・研究員として農学院および付設農村経済研究所に派遣している[田島 2006, 74, 80(注29)。その後那須は,1944年に中華民国国民政府(汪精衛政権)の全国経済委員会顧問として南京に赴任して[田島 2006, 75],日本の大陸政策にさらに深く関与することになった。これを理由に,那須は,戦後の一時期公職から追放されている。

3.李勲求の朝鮮農村土地利用研究プロジェクト

李の土地利用研究プロジェクトに対する資金支援は,その金額と期間において,バックや那須に対するそれに比べて限定的であった。しかも,朝鮮支会の参加資格問題の影響によって,現地調査に費やすことのできる期間がさらに限定された。そのうえ,開拓地帯研究プロジェクトと作業期間が重なってしまったため,土地利用研究プロジェクトは,厳しい時間的制約の下で進められることになった。

それに加えて,李の研究プロジェクトは,那須やバックのように自らの申請にもとづくプロジェクトではなかったために,その基本的な枠組みは国際研究委員会によって与えられた。コンドリフから李に提示され研究計画書においては,研究計画は東京帝国大学と金陵大学で調査研究中である土地利用研究と同一のものであり,各地域相互の「比較研究材料を提供することを目的とする」とされ,「実地調査及び既存資料の蒐輯および整理」をもって研究手法とすることが明示されていた[李 1935, 7-8]。

研究手法のうち「実地調査」に関して,李は,英語版において,アメリカ農務省によるグレートプレーン研究および南京大学農業経済学科での研究と比較可能なデータを提供するために準備された調査票を用いた,と述べている[Lee 1936, ⅲ-ⅳ(注30)。朝鮮語版では,現下朝鮮農村の実情を踏まえつつ,東京帝国大学那須教授,南京金陵大学バック教授およびアメリカ農務省農業経済局グレイ博士が用いた調査票を参考に作成した,と説明されている[李 1935, 10-11]。

英語版と朝鮮語版の記述を比較すると,バックの調査票については両者が言及している。金陵大学在職中に,この研究プロジェクトに関してバックと討議を行ったと推察される。那須に関しては,英語版に言及がない。那須が研究プロジェクトにおいて農家経済調査を実施しなかったことと関連があると思われる(注31)。アメリカ農務省に関しては,英語版と朝鮮語版で記述が異なっている。アメリカ農務省農業経済局の1923年度活動報告書には,グレイが課長を務める土地経済課において,それまでの数年間,北部・中部グレートプレーンを対象に土地利用に関する地域研究に取り組んできた,と述べられている。この研究の担当はベーカーであった[Taylor 1924, 44-45(注32)。朝鮮語版に示された「グレイ博士が用いた調査票」というのは,実質的には,この地域研究の一環としてベーカーによって作成されたものであると推察される。李は,英語版においては,とくにベーカーの名を挙げつつアメリカ農務省が質問項目の輪郭(lines)を教示する資料を提供してくれたことに対して謝辞を述べている[Lee 1936, ⅳ]。

李の研究において比較対象として設定された地域は中国と日本であり,グレートプレーン研究とは直接的な関係はなかった。アメリカ地理学協会長ボウマンやベーカーが進める開拓地帯研究プロジェクトにおいてグレートプレーンが研究対象地域となっていた。そして,ボウマンとベーカーは,かねてより開拓地帯研究プロジェクトとIPRの土地利用研究プロジェクトとの連携を試みていた。李がグレートプレーン研究を参照した背景に,アメリカ地理学協会の意向があったと推察される。なお,調査票に関して,李は,コンドリフの後任であるホランドに対して,アメリカ地理学協会イエルク(W. L. G. Joerg)の承認を得た旨を伝えている(注33)。イエルクの名は,英語版の謝辞にも挙げられている [Lee 1936, ⅳ]。アメリカ地理学協会からの委託事業であったことに対して,李が細心の注意を払って誠実に対応していたことが窺える。

実際の農家調査は,41名の調査者の助力を得て実施された[Lee 1936, ⅲ]。調査にあたって李は,崇実専門学校の卒業生・在学生を選抜して,事前に調査方法に関する講義を3~4日かけて行った。そののち,1931年に朝鮮13道48郡の133里(村落)を対象に1556戸に対する調査を実施している(不正確な記録を含む事例を除いた1249戸を分析対象農家とした)。さらに,1932年には,5道10郡31里の338戸を対象に農家負債に関する追加の調査を行っている[李 1935, 10-11]。バックの農家調査に比べるとその規模は格段に小さいものの,研究期間や資金の制約のもとで綿密なフィールド調査が目指されたといえる。

なお,朝鮮全体で里の数は2万8312,総農家戸数は約281万戸であった[李 1935, 18, 288]から,1里当たりの農家戸数は平均99戸となる。これに対して,1里当たりの平均調査戸数は,31年調査では約12戸,32年調査では約11戸であることから,集落悉皆調査ではなく,抽出調査を行ったと考えられる。李は,調査農家選定について,「標準法(Sample method)に依拠」したと説明している[李 1935, 10]。これに関してキム・インスは,制限的な形態ながらも,ランダムサンプリングの手法が採られたと捉えている[キム 2015, 196]。バックの農家調査サンプリングに対する批判とそれに対するバックの対応が,李の念頭にあった可能性がある。

コンドリフが提示した研究計画書のうち「既存資料の蒐輯および整理」に関しては,李は,気象や土壌に関するデータを朝鮮総督府観測所による観測報告や勧業模範場(1929年に農事試験場と改称)による試験結果に求めている。また,農業生産や農地所有・貸借に関するデータに関しては,朝鮮総督府が作成した農業統計を用いている。これらのデータは,日本にとっては朝鮮植民地統治のための基礎的資料であった。植民地下での官庁統計の利用という李の手法は,官庁統計が整備途上にあったために独自のデータ蓄積が要請されたバックとも,また自国の政府が整備した官庁統計を利用することが可能であった那須とも異なるものであった。

李は,1931年9月に,ホランドに対して,最終報告提出を第5回国際会議開催が想定される1933年秋まで延長してほしい旨の手紙を送っている。あわせて,研究費の追加支給(1500ドル)の要請を行っている(注34)。1931年に実施した1500戸農家調査では,前年の米価下落の影響によって農村経済の実情を正しく把握できておらず,翌32年に追加で1500戸の調査を行ないたいこと,統計分析に完璧を期すために時間と労力が必要であること,を,その理由として挙げている。これに対してホランドは,第4回国際会議の国際調査委員会の日程に合わせて1931年10月末までの原稿提出を要請している(注35)。李の状況報告から判断すれば無理な要請であったが,李のプロジェクト期間が1930~31年であったことを踏まえた原則的な対応であったといえる。

李は,プロジェクト期間延長と予算追加についての交渉を,ボウマンにも依頼している(注36)。その依頼を受けたボウマンが国際調査委員会に提案を行った(注37)ところ,ボウマンは,アルスベルグに相談するようにホランドから要請され,アルスベルグからは,1933年春までに暫定稿を提出するという条件つきで,論文提出の延期を認めるという返信を得ている(注38)。前掲表1に示したように,アルスベルグは1932~33年に土地利用研究プロジェクトを担当している。李のプロジェクトをアルスベルグのプロジェクトに合流させることで,締め切り延長問題を解決させようとしたようである。暫定稿は,1933年第5回国際会議に向けてアルスベルグがデータ・ペーパーを作成するための資料として必要であった(注39)

李は,1933年3月に,500頁に及ぶ土地利用研究の原稿をボウマンに提出している。それをボウマンに知らせる書簡のなかで,IPRが研究期間延長要請に関して対応してくれなかったこと,IPRの一部(some quarters)において,朝鮮に関わる事柄を無視する雰囲気(the feeling)があること,そのためにボウマンによる熱心な要請も結局は実現しなかったこと,を,指摘している。そのうえで,提出原稿を,8月開催予定の次回国際会議に向けて至急出版するように要請している(注40)。この書簡から,1932年に計画していた追加調査への資金支援を得られなかったことがわかる。調査戸数が,1931年調査に比べて格段に小さくなっているのは,そのためであったと推察される。「朝鮮に関わる事柄を無視する雰囲気」というのは,朝鮮支会会員資格問題以来,李が直面してきた問題を通じて感じた印象であったといえる。かかる雰囲気によって朝鮮支会の存在が否定され,李のプロジェクトは,IPRとは直接関係のない学術団体を窓口にせざるを得なくなった。その団体の会長と国際調査事務局長との間の個人的な関係に頼る以外に研究活動に関する要望をIPRに伝える術を持たなかったことが,李のプロジェクトを財政的に強く制約づけたということができる。

ボウマンは,李の原稿をアルスベルグに転送している。それを知らせる書簡においてボウマンは,冒頭の150頁を読んだ感想として,その内容が極めて期待外れであったと述べている。とくに自然現象と人口を扱った部分の評価が低い。それに比べて土地利用に関する記述の評価は高く,ボウマンは,その理由として,自分たちが詳細な調査票を提供して調査の準備を支援したことと李が土地経済学の訓練を受けていたことを挙げている。そのうえでボウマンは,李が,朝鮮人でなければ対処のできない,西洋人には克服困難な問題を乗り越えて現地データを収集することはできるものの,よく訓練されたアメリカの土地経済学者のようにはそれを正しく取り扱うことはできない,と述べて,李の研究を改訂してより多くの成果を引き出すことを提案している(注41)。アルスベルグは,ボウマンへの返信のなかで,李の原稿はまだ読んでいないが,アジア人研究者と関わった経験に照らして,ボウマンの記述は自分が感じていたことでもある,と述べている(注42)。朝鮮支会の会員資格問題ゆえに,李は,アメリカの学術団体の委託事業としてプロジェクトを実施せざるをえなかった。研究成果は,その学術団体を介してIPRに提出することとなった。そしてその結果,李の研究遂行過程および研究成果は,アジア人研究者に対して自立した研究者同士の対等な役割ではなく,位階的な分業関係を求めるアメリカ人研究者の視線に晒されることになったのである。

元原稿を翻訳したと考えられる朝鮮語版と英語版の構成を比較すると,章と節はほぼ対応している(注43)。李は,ボウマンに対して,原稿には138の表と39の図が含まれていることを伝えている(注44)が,これに対して英語版には,132の表と13の図・地図が掲載されている[Lee 1936, ⅻ]。英語版の出版にあたっては,全体の構成は変更せずに,部分的な改訂がなされたと推察される。早急な出版を望む李の思惑とは違って,英語版の出版は1936年にずれ込んでいる。英語版まえがきには,「中国と日本で実施された類似の研究と時期を合わせるために,著者の責任によってではなく出版が遅れた」と説明されている[Lee 1936, ⅳ]。改訂作業のために出版時期が遅れたわけではなかったようである。

ところで,前述のように,李は,朝鮮総督府が作成した官庁統計には欠落分野が存在することを批判的に捉えて,自らの「対案的な調査」によって朝鮮農業・農民の実態を明らかにしようとした[キム 2015, 197]。李は,1920年代後半以降,朝鮮農村の疲弊を「民族的危機」と捉えて,その原因と救済策に関する論考を朝鮮の新聞・雑誌に投稿している[パン 1996, 139-149]。土地利用研究プロジェクトを「宿志」と捉えた李の課題意識もそこにあったと考えられる。李にとって,「対案的な調査」は,この課題意識を研究活動に反映させるための不可欠の手法であった。

キム[2015, 198-199]は,「対案的な調査」として,①「諺文」(ハングル)の識字率,②主穀の収穫量,③圃場分散,④労働力・畜力投下量,⑤農家支出額という5点の調査対象を挙げている。以下では,土地利用研究と特にかかわりのある③~⑤に関する論点を,バック・那須の研究と比較しながら整理する(注45)

まず,圃場分散に関して。Nasu[1929, 80-82]Buck[1937, 199-201]は,それぞれ日本と中国農村における圃場分散について言及している。那須は典拠を示さずに議論を進めているのに対して,バックは,自分自身の農家調査から得た統計数値を示しながら論じている。那須・バックともに,圃場分散による労働効率低下を問題としている。那須は,圃場分散と農民の村落集住を挙げて,日本には西洋のような農場(farm)は存在しないと述べ,その背景(多品目栽培・水利)についても説明を加えている。Lee[1936, 97-100]は,バックと同様に,自らの調査によって得た数値を用いて圃場分散の実態とそれに伴う非効率性を論じている。そして,那須と同様に,欧米のような農場が朝鮮には存在しないことを指摘するとともに,農民(farmer)という用語を農場経営者ではなく小農業主(petty agriculturist)の意味で用いるが,それは実質的には小農(peasant)である,と,踏み込んだ説明を行っている(p.97)。

つぎに,労働力・畜力投下量および農家支出額に関して。Nasu[1929, 161-163]は,国勢調査を用いて反当り農業労働人口を道府県別に比較している。Buck[1937, 289-310]は,自分自身の調査の結果を用いて,家族/雇用労働別,月別,農業/副業労働別の投下量を算出し,労働力過剰(農繁期の過小)問題の実態を分析している。畜力の投下量についても論じている。Lee[1936, 220-229]も,自らの調査を通じて,家族/雇用労働・畜力の投下量およびその月別変化量を分析している。そのうえで,投下労働量のコスト(賃金換算額)を算定し,それにもとづいて調査農家の経営収支計算を行っている[Lee 1936, 229-232, 271-273]。朝鮮農会や朝鮮総督府による農家経済調査では,労働投下量が正確には調査されておらず,「対案的な調査」によってはじめて得られた貴重な結果であるということができる。Buck[1937]では調査農家の経営収支計算は行われていないが,Buck[1930]でその作業がなされている。その際,農民(the farmer)の収益は,経営主(the operator)の労働とマネジメントに起因するという考え方にもとづいて,経営主以外の家族投下労働が費用として計上されている[Buck 1930, 74-75]。これに対して,Lee[1936, 272]は,経営主および家族投下労働をあわせて費用に計上している。この算定方式は,Nasu[1929]が,農地に投下された資本の利益率を算出する際に,費用としてすべての家族投下労働を算入しているのと同一である(ただし,李は利益率の計算は行っていない)。李は,収支計算の結果として朝鮮農民の収益が僅少にとどまっていることを明らかにし,それが,満州・シベリア・日本への大移動(the large exodus)の原因になっていることを指摘している(p.272)(注46)。満州朝鮮人移民に関する自分自身の研究を念頭に置いた言及であると考えられる。

李は,その研究プロジェクトの基本的な枠組みはIPRから与えられた。他方で,彼の「対案的な調査」は,植民地朝鮮における農村疲弊の実態と原因を明らかにしようとする李の内在的な問題意識にもとづくものであった。「代案的な調査」には,バックや那須の分析手法や調査項目の影響を見出すことができた。李は,これらの調査の結果に対して独自の観点からの分析を加えつつ報告書としてまとめていったのである。

李は,アメリカ地理学協会に2つの報告書を提出した直後に,『朝鮮日報』紙上に,それらの内容を紹介する記事を連載している(注47)。それに加えて,2報告書の朝鮮語版を出版した。前述のように,IPR朝鮮支会の主要メンバーは,朝鮮農村問題に関する課題意識を共有していた。李の活発な出版活動は,彼(女)らの課題意識に対して客観的な分析結果の提示を通じて応えようとするものであったと考えられる。他方で,『朝鮮農業論』は朝鮮支会会員の範囲を超えて,広く朝鮮人知識人の注目を集めた。その出版記念会には,学会・言論界・社会団体などから50余名が参席し,安在鴻(朝鮮日報社長)らが祝辞を述べている。祝辞のなかでは,この著作が,1500戸に及ぶ農家調査にもとづく科学的成果であること,「国際会議」(IPR)への報告書でありアメリカから英語版が出版されること,が強調された(注48)

李が在職していた崇実専門学校農学科は,キリスト教長老派の農村運動の一環として設立されている。長老派の農村運動は,農民を主体として体制変革を目指す社会主義系列の農民運動とは異なり,キリスト教知識人が主導して養成した農村指導者を媒介として農村教徒のあいだに農業経営の改善や協同組合組織の普及を目指す,資本主義体制を前提とする改良主義的な農村教育・農村啓蒙運動であった。李は,高等農事学院運営や農村巡回講演会開催などの活動を通じて,農業技術普及や農業経営改善のための啓蒙活動に携わった。また,機関誌『農村研究』の編集を担当しつつ,キリスト教知識人や農村指導者に向けて朝鮮農村問題についての自身の論考を数多く発信している[パン 1996, 136-160]。

土地利用研究プロジェクトは短期間かつ低予算の事業で終了したために,次世代の研究者を彼自らが育成することは困難であった。李は,朝鮮農村疲弊の実態と原因を分析した研究成果を広く発信して朝鮮人知識人や農村指導者を啓発することを通じて,社会的役割の一端を果たそうとしたと考えられる。

崇実専門学校は,平安南道庁による神社参拝強要に応じなかったことが契機となって,1938年に廃校を強いられた。李は,その後,朝鮮日報の主筆を務める(40年からは副社長を兼任)ものの,40年廃刊を機に江原道鉄原に隠棲した[パク 2017, 82-83, 90]。解放後,李は,アメリカ軍政下の南朝鮮で農務部長に就任する。アメリカ留学歴および戦時下での隠棲により親日協力行為を犯さなかったことが選任の理由であった[イ 2020, 443]。その後,1950年代末からは,反李承晩政権の立場で政治活動に加わり,1960年四月革命後の選挙では参議院議員に選出された。しかし,1961年の軍事クーデター直後に収監され,そこで急死している[パン 1996, 114]。

おわりに

1920年代末から30年代前半にかけて,土地利用研究はIPRの調査研究事業における主要プロジェクトのひとつであった。本論文においては,東アジア3地域(中国・日本・朝鮮)での土地利用研究を分析の対象とした。植民地帝国アメリカの研究者(バック)による従属国(中国)研究,植民地帝国日本の研究者(那須)による自国研究および植民地朝鮮の研究者(李)による自国研究という三者三様の組み合わせによってそれぞれの研究が遂行されたことに着目しつつ,三者の研究の相互関係および比較の観点から分析を行った。

IPRの有力参加国であった日本の国内理事会に加わりさらに国際調査委員会でも要職に就いた那須は,そうした立場を活かしてこの研究プロジェクによる資金支援を長期間にわたって獲得した。その資金を用いて東京帝国大学の講座において独自のフィールドワークを実施し,土地利用研究だけでなく農村社会生活に関する研究にも取り組んだ。そして,その機会を次世代の研究者育成にも役立てた。他方で,IPRが植民地主義に関して現状追認的な態度をとるなかで,那須にとってIPRにおける研究活動は,帝国日本の植民地支配や満州侵略に対する批判的な視点を獲得する契機とはならなかった。植民地支配と満州侵略に対する那須の追認は,1930年代以降,日本政府の大陸侵略政策に対する関与につながった。

中国在住のバックは,IPRへの関与の程度は乏しかったものの,自分自身のアメリカ人人脈を介して中央理事会と直接交渉することで巨額の研究資金を長期間にわたって獲得した。その資金で大規模なフィールドワークを実施して,中国政府農業統計の不備を補う土地利用に関する研究業績を挙げた。この業績に先立つ農家経済に関する著作においては,中国農民の貧困の原因として農民の無知や浪費を挙げており,オリエンタリズムによる先入観が窺える。これらの研究活動と並行して,バックはアメリカの大学との学術交流を仲介することで中国にアメリカ式の研究教育システムを導入し,中国人研究者を育成した。こうした実績は,研究支援を通じて中国に対して文化的な,ひいては政治的な影響力を強めようとするアメリカ人知識人やロックフェラー財団の期待に応えるものでもあった。

那須とバックは,IPR有力参加国の研究者として獲得してきたそれぞれの“資源”を活かすことによってIPRにおける発言力を確保し,研究支援を引き出すことができた。しかし,植民地下の研究者であった李は,そのような“資源”を欠いていた。朝鮮支会は,IPR調査研究事業の意思決定過程から疎外された。李に対する研究支援は,会員資格問題に対するIPRの朝鮮支会への対応策の副産物にすぎなかった。研究支援対象者として選抜される局面に限って,彼が日米への留学を通じて獲得した人脈が活かされた。

李の研究プロジェクトにおいては,その研究目的および研究手法は,IPRとアメリカ地理学協会によってあらかじめ提示されていた。そして,彼の研究活動は,アメリカ地理学協会の監督の下で遂行された。その監督は,李が提出した報告書の内容にも及んだ。他方で,李は,朝鮮総督府による調査の欠落を踏まえつつ「対案的」な農家調査を実施している。それは,バック,那須およびアメリカの研究者の研究手法を参照しつつも独自の視点を加えたものであった。そして,報告書では,日本の植民地支配に対する批判的論点を提示した。李の研究プロジェクトにおいては,予算規模と研究期間の制約のために,那須やバックとは異なって,次世代の研究者を育成することは困難であった。李は,研究成果の刊行を通じて,自分自身の研究業績を農村啓蒙運動に活かした。

冒頭で引用した那須の見解が示すように,IPRは「事実の調査研究」を標榜していた。しかし,実際には,東アジア3地域の土地利用研究プロジェクトの採択と研究資金配分の過程には当時の国際政治上の力関係が反映した。また,三者による研究プロジェクトは,それらの実施過程においては,IPR有力参加国であった日・米の東アジアにおける学術的ヘゲモニーをそれぞれに強化する効果を有したといえる。李は植民地支配批判の視点からヘゲモニーに対抗的な論点を提示したものの,IPRによって取り上られることはなく,李自身の出版活動を通じて朝鮮の知識人や農村指導者のあいだで共有されるにとどまった。

(東京大学大学院農学生命科学研究科教授,2021年5月19日受領,2022年1月14日レフェリーの審査を経て掲載決定)

(注1)  那須皓は,1931年太平洋会議においてIPR国際調査委員会(後述)の副委員長を務めていた[那須 1932, 53]。

(注2)  以下,IPR国内理事会の名称は,日本理事会,アメリカ理事会,中国理事会というようにIPRを省略して表記する。朝鮮に関しては,中央理事会への参加が認められず国内理事会は組織されなかった。朝鮮内の組織を朝鮮支会と表記する。

(注3)  那須は,第2回ホノルル会議直後に刊行した著作のなかでこの論文を引用しており[那須 1927, 68],アメリカにおける新たな土地利用研究の潮流に早くから着目していたことが窺える。

(注4)  “1. Research Project.” Archives of the American Geographical Society Library [UWM Libraries Digital Collections], Collection Series: Directors’ Files, Isaiah Bowman [以下,AAGSL Bowman Collectionと略], Folder Title; Baker, Oliver E., 1920-27, 118-02. https://collections.lib.uwm.edu/digital/collection/agsny/id/32934/rec/20

ベーカーは,ボウマンが主催する開拓地帯Pioneer beltに関する共同研究グループに属していた。二人は,IPR土地利用研究プロジェクトを開拓地帯研究プロジェクトと連結させることで対象地域を「満州」・モンゴルに拡大させるアイディアをもっていた(Bowman to Baker, April 7, 1928, AAGSL Bowman Collection, Folder Title; Baker, Oliver E.,1927-1935, 14-01. https://collections.lib.uwm.edu/digital/collection/agsny/id/32980/rec/14)。

(注5)  アメリカ調査委員会開催日時は,このレポートに記載されている議事録ページ数から推察した(筆者は,この議事録は未見である)。

(注7)  バックは,Buck[1937]のはしがき冒頭で,この研究の当初のアイディアはベーカーによって提案された,と紹介している(p.vii)。

(注8)  この原稿は,1930年に出版されている[Buck 1930]。

(注13)  この記事が指摘している臨時の中央理事会開催案については,その開催に向けて実際に手続きが取られたのかどうかも含めて,詳細は不明である。

(注17)  この著作の中では,朝鮮への帰国を1932年3月と記述されているが,1931年3月の誤りであろう。

(注21)  同じタイトルのプロジェクトは1件とした。事務に係る支出項目(5件)は除いた。

(注22)  Chiang[2001]は,「クラブのような後援ネットワーク(clublike patronage network)」という表現を用いて,IPRの研究プロジェクト支援事業の排他的な性格を指摘している(p.212)。

(注23)  北京政府時代にも中国での農業統計整備は実施されたが,正確さに欠けていた。国民政府のもとで,1932年以降に農業統計の整備が格段に進んだとされている[王・清川 2004, 28-29]。

(注24)  以上の論点は,Stross[1986], 177-178においても批判的に論じられている。

(注26)  郡農会に照会をして独自に情報を収集した箇所はある[Nasu 1929, 163]。

(注27)  神谷慶治は,「土地利用研究室」に属し,鞍田純とともに1933年著作の実質的な執筆者であった(那須[1933]序文による)。

(注28)  これらの調査結果の一部は,東京帝国大学農学部農政学研究室[1933; 1936]として出版されている。

(注29)  これらのスタッフの多くが,那須の下で「農村社会生活調査」に参加している[神谷 1975, 84-86]。

(注30)  李勲求は,グレートプレーンに関してthe Great Western Plainesと表記している。グレートプレーン全体を指しているのか,グレートプレーン西部を指しているのか,不明である。

(注31)  IPRの報告書では,李が中国研究で用いられたものと同型のフィールド調査を実施したと指摘している[IPR 1936, 10]。日本研究についての言及はない。

(注32)  ベーカーには,グレートプレーンに関する学術論文もある[Baker 1923]。ベーカーは,開拓地帯研究プロジェクトの一環としても,グレートプレーンを対象に研究を行っている[Baker 1932]。

(注43)  英語版の第10章と第11章が,朝鮮語版では欠落している。前者は農村の疲弊を論証する内容であり,後者は東洋拓殖会社を批判する内容となっていることから,キム・インスは,「一種の“検閲”」が作用したものと推察している[キム 2015, 206]。

(注44)  注40と同じ。

(注45)  ②の主穀の収穫量に関する官庁統計は存在した。地方行政機関の吏員が調査するために,課税を恐れる農民が収穫量を過少申告する傾向があることを想定して,李は,より正確な収穫量調査を試みている[キム 2015, 198]。

(注46)  朝鮮語版(李[1935])では,朝鮮外への移住に関する記述は欠落している。

(注47)  「만주문제와 조선사람」(満州問題と朝鮮人)は,1932年1月1日から4月17日にかけて(73回),「朝鮮農業論」は,1933年5月3日から8月3日にかけて(56回),それぞれ連載されている。

文献リスト
  • 고정휴[コ・ジョンヒュ]1991.「태평양문제연구회 조선지회와 조선사정연구회」[太平洋問題研究会朝鮮支会と朝鮮事情研究会]『역사와 현실』[歴史と現実](6): 282-326.
  • 고정휴[コ・ジョンヒュ]2005.「식민지시대 미국 지식인의 한국문제인식 태평양문제연구회(IPR)를 중심으로」[植民地時代アメリカ知識人の韓国問題認識 太平洋問題研究会(IPR)を中心に]『역사와 현실』[歴史と現実](58): 119-147.
  • 김인수[キム・インス]2015.「일제하 이훈구의 토지이용조사의 정치적 의미」[日帝下李勲求の土地利用調査の政治的意味]『사회와 역사』[社会と歴史]第107集: 181-215.
  • 박규환[パク・ギュファン]2017.「식민지 지식인의 굴절, 그 뜻과 결 일제강점기 이훈구의 농촌운동과 숭실」[植民地知識人の屈折,その意味と結果 日帝強占期李勲求の農村運動と崇実]『한국기독교와 역사』[韓国基督教と歴史](46): 69-96.
  • 大韓民国文教部国史編纂委員会 1968.『한국사료총서19집 尹致昊日記9』[韓国資料叢書19集尹致昊日記9](原文は英文による執筆).
  • 방기중[パン・キジュン]1996.「일제하 李勳求의 農業論과 經濟自立思想」[日帝下李勲求の農業論と経済自立思想]『역사문제연구』[歴史問題研究](1): 113-162.
  • 方基中 1998.「일제하 裵敏洙의 基督教 農村運動論―長老教農村運動의 政治的思想的接近―」[日帝下裵敏洙の基督教農村運動論―長老教農村運動の政治的思想的接近―]『東方学志』(99): 191-236.
  • 方基中 2004.「일제하 李勲求의 韓国土地制度史論」[日帝下李勲求の韓国土地制度史論]『東方学志』(127): 69-124.
  • 이송순[イ・ソンスン]2020.「미군정기 한국 농업 기술기구의 변천과 농업 기술관료」[米軍政期韓国農業技術機構の変遷と農業技術官僚]『사학연구』[史学研究](137): 421-468.
  • 李勲求 1932a.「만주문제와 조선사람」[満州問題と朝鮮人]『朝鮮日報』1932年1月1日~4月17日(73回連載).
  • 李勲求 1932b. 『満洲와 朝鮮人』[満洲と朝鮮人]平壌:崇実専門学校経済学研究室.
  • 李勲求 1933.「朝鮮農業論」『朝鮮日報』1933年5月3日~8月3日(56回連載).
  • 李勲求 1935.『朝鮮農業論』京城:漢城図書.
  • 一記者 1931.「国際会合과 朝鮮人의活動(第1回)」[国際会合と朝鮮人の活動(第1回)]『東光』(17): 60-65.
  • 장규식[チャン・ギュシク]1995.「1920-30년대 YMCA 농촌사업의 전개와 그 성격」[1920-30年代YMCA農村事業の展開とその性格]『한국기독교와 역사』[韓国基督教と歴史](4): 207-261.
  • 전택부[チョン・テクブ]1971.『人間申興雨』서울[ソウル]:大韓基督教書会.
  • 「李勳求氏 農村問題講演 盛况裏에서 終了」[李勲求氏農村問題盛況裏に終了]『中外日報』1930年6月25日.
  • 「哲學博士李勳求氏 金陵大學에서 招聘」[哲学博士李勲求氏金陵大学に招聘]『中外日報』1930年8月28日.
  • 「中国南北에散在한 朝鮮同胞들의消息」[中国南北に散在する朝鮮同胞の消息]『朝鮮日報』1931年3月10日.
  • 「李勲求博士出版紀念会」『毎日申報』1935年7月1日.
  • 王健・清川 雪彦 2004.「戦前中国の統計機構と政府統計:主要統計にみる統計システムの機能」『中国経済研究』2(2): 16-33.
  • 片桐庸夫 1985.「太平洋問題調査会(IPR)と移民問題(一)―第一回ハワイ会議を中心として―」『法学研究:法律・政治・社会』58(6): 37-56.
  • 片桐庸夫 1986.「太平洋問題調査会(IPR)と朝鮮代表権問題―朝鮮グループの脱退,1925-1931―」『法学研究:法律・政治・社会』59(4): 45-76.
  • 片桐庸夫 1992.「太平洋問題調査会(IPR)と移民問題―第二回ハワイ会議を中心として―」『法学研究:法律・政治・社会』65(2): 155-184.
  • 片桐庸夫 2003.『太平洋問題調査会の研究―戦間期日本IPRの活動を中心として―』慶應義塾大学出版会.
  • 神谷慶治 1975.『大地に育まれた集団の愛と良心』東大農業経済教室OB・福田・御明神の会.
  • 高哲男 2004.『現代アメリカ経済思想の起源: プラグマティズムと制度経済学』名古屋大学出版会.
  • 近藤康男 1985.『農村調査の構想と実際』農山漁村文化協会.
  • 田島俊雄 2006.「農業農村調査の系譜―北京大学農村経済研究所と「齊民要術」研究―」末廣昭編『岩波講座「帝国」日本の学知地域研究としてのアジア』6,岩波書店.
  • 東京帝国大学農学部農業経済学教室編 1940.『分村の前後』東京:岩波書店.
  • 東京帝国大学農学部農政学研究室編 1933.『漁村経済の研究』岩波書店.
  • 東京帝国大学農学部農政学研究室 1936.『庄内田所の農業,農村及び生活』岩波書店.
  • 東京帝国大学農学部農政学研究室 1938.『更生運動下の農村』岩波書店.
  • 外村大 1996.「太平洋問題調査会朝鮮支会に関する一考察」後藤乾一編『戦間期のアジア太平洋地域―国際関係とその展開―』早稲田大学社会科学研究所.
  • 中見眞理 1985.「太平洋問題調査会と日本の知識人」『思想』(728): 104-127.
  • 那須皓 1927.『人口食糧問題』日本評論社.
  • 那須皓 編 1932.『上海における太平洋会議』太平洋問題調査会.
  • 那須皓 編 1933.『本邦土地利用の研究 桑園の部』岩波書店.
  • 那須皓 1982.『惜石舎雑録』農村更生協会.
  • 新渡戸稲造編 1930.『太平洋問題―一九二九年京都会議―』丸善.
  • 馬場四郎ほか 1953.「我が国における社会調査の沿革」『民族学研究』17(1): 2-28.
  • 原覚天 1984.『現代アジア研究成立史論―満鉄調査部・東亜研究所・IPRの研究―』勁草書房.
  • 堀内暢行 2019.「那須皓の国際平和活動―満洲問題対応を中心として―」『アジア太平洋討究』(35): 43-54.
  • 南直子 2017.「IPR(太平洋問題調査会)とアメリカの日本研究」『総研大文化科学研究』(13): 257-264.
  • 山岡道男 1997.『「太平洋問題調査会」研究』龍渓書舎.
  • 山岡道男 2010.『太平洋問題調査会関係資料 太平洋会議参加者名簿とデータ・ペーパー一覧』早稲田大学アジア太平洋研究センター.
  • Akami, Tomoko 2002. Internationalizing the Pacific: The United States, Japan and the Institute of Pacific Relations in war and peace, 1919-45. London: Routledge.
  • Baker, Oliver E. 1923. “The Agriculture of the Great Plains Region.” Annals of the Association of American Geographers, 13(3) September: 109-167.
  • Baker, Oliver E. 1932. “Government Research in Aid of Settlers and Farmers in the Northern Great Plains of the United States” in Pioneer Settlement Coöperative Studies by Twenty-six Authors. ed. W.L.G. Joerg. New York: American Geographical Society.
  • Brunner, Edmund de Schweinitz.1928. “Rural Korea A Preliminary Survey of Economic, Social and Religious Conditions” in The Christian Mission in Relation to Rural Problems Report of the Jerusalem Meeting of the International Missionary Council March 24th. -April 8th, 1928. London: Oxford University Press.
  • Buck, J. Lossing 1930. Chinese Farm Economy. Chicago: University of Chicago Press.
  • Buck, J. Lossing 1937. Land Utilization in China: a study of 16,786 farms in 168 localities, and 38,256 farm families in twenty-two provinces in China, 1929-1933. Nanking: University of Nanking.
  • Buck, J. Lossing 1973. Development of Agricultural Economics at the University of Nanking, China, 1926-1946. Ithaca, New York: Cornell University.
  • Chiang, Yung-chen 2001. Social Engineering and the Social Sciences in China 1919-1949. New York: Cambridge University Press.
  • Condliffe, John B. 1928. “Research Activities.” Pacific Affairs 1-2 June.
  • Condliffe, John B. ed. 1930. Problems of the Pacific 1929; Proceedings of the Third Conference of the Institute of Pacific Relations, Nara and Kyoto, Japan, October 23 to November 9, 1929. Chicago: University of Chicago Press.
  • Condliffe, John B. 1981. Reminiscences of the Institute of Pacific Relations in Remembering the Institute of Pacific Relations: The Memories of William L. Holland. ed. Paul F. Hooper. 1995. Tokyo: Ryukei Shyosha.
  • Gong, Zitong et al. 2010. “American Soil Scientists’ Contributions to Chinese Pedology in the 20th Century.” Soil Survey Horizons 51(1) Spring: 3-9.
  • Gray, Lewis C. et al. 1924. “The Utilization of Our Lands for Crops, Pasture, and Forests” in U.S.D.A. Agriculture Yearbook 1923. Washington. D.C: Government Printing Office.
  • Hooper, Paul F. 1995. Remembering the Institute of Pacific Relations: The Memoirs of William L. Holland. Tokyo: Ryukei Shyosha.
  • Hu, Hao, Funing Zhong and Calum G. Turvey eds. 2019. Chinese Agriculture in the 1930s; Investigations into John Lossing Buck’s Rediscoved ‘Land Utilization in China’ Microdata, Cham. Switzerland: Palgrave Macmillan.
  • Institute of Pacific Relations 1933. A Research Program in the Pacific Area; fifth biennial conference. Banff, Canada, August 14-28, 1933. Honolulu: Institute of Pacific Relations.
  • Institute of Pacific Relations 1936. The Study of International Affairs in the Pacific Area: a review of nine years’ work in the international research program of the Institute of Pacific Relations. New York: Institute of Pacific Relations.
  • International Research Committee (IPR) 1929a. “Report of International Research Committee to the Pacific Council, November 7 1929.” 東京大学アメリカ太平洋地域研究センター図書室高木八尺文庫IPR関係資料No.29所収 37-42.
  • International Research Committee (IPR) 1929b. “Minutes of Fourth Meeting. October 26, 1929.” 高木八尺文庫IPR関係資料No.33所収38-39.
  • International Research Committee (IPR) 1929c. “Research Project for Consideration.”高木八尺文庫IPR関係資料No.33所収 45.
  • International Research Committee (IPR)1929d. 資料名不明. 高木八尺文庫IPR関係資料No.33所収 77.
  • Lee, Hoon K. 1932. “Korean Migrants in Manchuria.” Geographical Review, 22(2) April: 196-204.
  • Lee, Hoon K. 1936. Land utilization and rural economy in Korea. Chicago: The University of Chicago Press.
  • Nasu, Shiroshi 1927. The Problem of Population and Food Supply in Japan. Honolulu: Institute of Pacific Relations.
  • Nasu, Shiroshi 1929. Land utilization in Japan: prepared for the third session of the Institute of Pacific Relations. Tokyo: Institute of Pacific Relations.
  • The Pacific Council(IPR)1929. “Minutes, Meeting of the Pacific Council, November 4 1929.” 高木八尺文庫IPR関係資料No.29所収 23-26.
  • Stanton, Bernard F. 2001. Agricultural Economics at Cornell A History, 1900-1990. Ithaca, New York: College of Agriculture and Life Sciences at Cornell University.
  • Stross, Randall E. 1986. The Stubborn Earth: American agriculturalists on Chinese soil, 1898-1937. Berkeley: University of California Press
  • Taylor, Henry C. 1924. Report of Chief of Bureau of Agricultural Economics. Washington, D. C.: USDA Burau of Agricultural Economics
  • Taylor, Henry C. and Taylor Anne Dewees 1952. The Story of Agricultural Economics in the United States, 1840-1932: men, services, ideas. Ames, Iowa: Iowa State College Press.
  • Trescott, Paul B. 2007. Jingji Xue, The History of the Introduction of Western Economic Ideas into China, 1850-1950. Hong Kong: The Chinese University Press.
  • Turvey, Calum G. 2019. “John Lossing Buck and Land Utilization in China” in Chinese Agriculture in 1930s; investigations into John Lossing Buck’s Rediscoved ‘Land Utilization in China’ Microdata. eds. Hao Hu, Funing Zhong, Calum G. Turvey. Cham, Switzerland: Palgrave Macmillan.
  • “Surveying the Research Field in the Pacific.” 1927. News Bulletin. November.
  • “Research Progress Note.” [Institute Notes]. 1930. Pacific Affairs. 3-2, February.
  • “Mr. W.Y.Swen.”[Institute Notes]. 1930. Pacific Affairs. 3-6, June.
  • “Korean Study.” [Institute Notes]1930. Pacific Affairs. 3-7, July.
  • Archives of the American Geographical Society Library [UWM Libraries Digital Collections], Collection Series: Directors’ Files, Isaiah Bowman,

    Folder Title; Baker, Oliver E., 1920-1927

    Folder Title; Baker, Oliver E., 1927-1935.

    Folder Title; Alsberg, Carl L., 1930-1935.

    Folder Title; Lee, Hoon K., 1931-1933.

    Folder Title; W-Z (miscellaneous).

 
© 2022 日本貿易振興機構アジア経済研究所
feedback
Top