アジア経済
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論文
パキスタンのカーラーバーグ・ダム建設計画――連邦,州,政党,そして軍の利害の間で――
近藤 高史
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2023 年 64 巻 4 号 p. 2-31

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《要 約》

パキスタンの水資源確保のためにインダス川に建設が計画されているのがカーラーバーグ・ダムである。小論の目的は同ダムが1960年代に着工が予定されていたにもかかわらず,いまだ計画段階のままとどまっている背景を明らかにすることにある。小論では同ダム建設計画の展開と建設反対派の動向を概観した後,現計画を形作った2000年代のムシャッラフ政権の取り組みと建設反対派への対応,政党の同計画への姿勢,計画をめぐるパキスタン国内の言説も検討した。そのなかで,計画停滞の背景にスィンド・パンジャーブ両州間の水配分争いを中心とした連邦・州,州間の不信感と相互の信頼醸成努力の欠如があり,これらの克服は容易でない点を指摘した。また,政治への介入を繰り返してきたパキスタン軍は水利計画にも利害関係を有しているために同ダム計画を後押ししてきたが,近年同ダム以外の水利計画の選択肢が増えたために優先順位が下がったことも背景として指摘した。

Abstract

The Kalabagh Dam (KBD) is a proposed multi-purpose water reservoir that the Government of Pakistan (GOP) is planning to develop across the Indus River with the aim of securing Pakistan’s water resources. Although the GOP originally scheduled construction to commence in 1960s, the project continues to be delayed. The purpose of this paper is to clarify the background of the long stalemate surrounding this project. After providing an overview the project’s history and the viewpoints of anti-construction groups, this paper analyzes recent efforts to jumpstart construction of the KBD, including the response by Pervez Musharraf’s government, which designed the current plan in the 2000s. This paper also examines political parties’ attitudes to the KBD and public opinion in Pakistan. The main conclusions are as follows. (1) As seen in the Sindh–Punjab water dispute over the Indus River, distrust between the federal and provincial governments as well as among the provincial governments persists in Pakistan. Because the GOP failed to build mutual trust and consensus on the KBD throughout the country, it is difficult to overcome these factors. (2) The Pakistani military, which has a history of intervening in politics, has great interest in water-infrastructure projects and has supported the KBD project in the past. However, in recent years, they have prioritized other water-infrastructure projects.

  はじめに

Ⅰ インダス川の開発とKBD建設計画の展開

Ⅱ 水資源専門委員会の活動

Ⅲ KBD計画批判への対応

Ⅳ KBD計画の膠着

Ⅴ おもな政党の立場

Ⅵ 水問題への関与を深める軍

  おわりに

 はじめに

国土の大半が乾燥帯に属するパキスタンでは,生活・産業用水,農業,発電をインダス川とその支流(以下,「インダス水系」と呼称)に負っている。2009年のインダス川の年間流量は支流であるジェラム川とチェナーブ川と併せて年間約1736億トンだが,ハリーフ期(4月中旬~10月中旬の夏作期)にうち75パーセントが,ラビー期(10月中旬~4月中旬の冬作期)で残り25パーセントが流れていた。そして,ハリーフ期に60パーセント,ラビー期に40パーセントが使われた。このようにインダス川の水量は冬に減少するので,インダス水系の水を貯え,冬作に備える必要が生じる[Devasher 2016, 209-210]。発電に関しても,21世紀に入り脱炭素化の動きと人口増加に伴う電力需要の上昇により,水力発電量は2006/07~2020/21年度にかけ53パーセント増加した(注1)。インダス水系の水の有効活用はこの国の死活問題である。

このパキスタンで,インダス川本流にカーラーバーグ・ダム(Kalabagh Dam: KBD)という治水・灌漑・発電を目的としたダム建設の是非をめぐって議論が長年繰り返されてきた。カーラーバーグとは首都イスラーマーバードから南西に約160キロメートル,パンジャーブ州ミアーンワリー県(district)にある都市名である。厳密に言えばダム建設予定地はカーラーバーグ中心部から12キロメートル,インダス川を上流に遡ったピール・バーイー地区にあり,ハイバル・パクトゥーンハー州(Khyber Pakhtunkhwa: KP州。2010年までは北西辺境州)にも近接している。

水利権を発電,灌漑,飲料等の用途に国家が必要な範囲で流水を継続使用する権利とするなら,インダス川のような国際河川にダム建設が計画されるとき,しばしば他の流域国との水利権争いが生じる。他の河川に目を転じると,エチオピアによる青ナイル川でのダム建設がエジプト・スーダンとの緊張を生んでいる事例,トルコ・シリアのユーフラテス川でのダム開発によるイラクでの水量減少の事例がある。これらは上流国のダム開発が下流国に影響を与えたものである。この種の問題には国際社会でも解決が試みられ,たとえば1966年に国際法協会が採択した「国際河川の水利用に関するヘルシンキルール」の第4条では「各流域国は,その領域内で国際流域の有効水利用についての合理的かつ衡平な配分を受ける権利を有する」とし,国家間の水資源紛争解決の際の原則と位置づけられた[村上 2003, 35]。これらのルールはあくまで国家間の争いの原則として扱われていて,具体的な内容は当事国同士の交渉に任されているので水利権の主体が国家に限定されている印象を受ける。

しかし,水争いは国家間だけの問題ではなく,国内の各地域の利害も絡んでくる。KBD建設はパキスタン国内のインダス川上流域と下流域の間の水の分配に影響を与える可能性があることから論争を生んでいるのだが,KBDには国家間の原則は適用されないため,有効な調停も行われないまま今日に至っている。

現在のKBD建設計画は2005年12月12日,当時のパルヴェーズ・ムシャッラフ大統領が水資源専門家委員会(後述)の報告書を受けて「パキスタンの大きな利益という観点から,必ずこのダムを建設する」(注2),と宣言した際の計画を基本としているが,カーラーバーグ周辺にダムを建設しようという構想は,1947年のパキスタン独立直後からあった。1960年代に工事着工が予定されたが実現せず,1980年代後半には機材搬入等が行われたものの直後に中断した。21世紀に入りムシャッラフ軍政下で再度調査が行われ,建設が始まるかと思われたが結局は至らず,以後は停止し,建設の是非が現在も議論され続けているのである。パキスタン国内で大型プロジェクトが途中で放棄される事例は珍しくないが,これほど長期にわたり計画のままとどまっているのは異例である。

このKBD建設問題に分析を加えた研究は少ないが,そのなかではまず水不足と既存ダムの貯水能力の現状から考えれば,将来の水資源確保のため新しいダムを建設するしかない,とするものがある。一例としてパキスタンの農業用水確保と工業向け水力発電の需要からKBDの必要性を説くスーフィーの著作があるが[Sūfī 1998],スーフィーは1990年代にナワーズ・シャリーフ政権下でKBD建設の推進を試みた人物であり,パキスタンの水力電力公社(Water and Power Development Authority: WAPDA)の公式的な立場ともおおむね重なる(注3)。また,逆にKBD建設で予想される弊害を理由に反対する議論があり,多くはインダス川下流域での水量減少を懸念するスィンド州の立場に沿っている。その典型的な例としてはスィンド民族主義の立場からKBD建設はスィンドの水を枯渇させるとして反対するパリージョーの著作が挙げられよう[Palijo 2003]。このようにKBDに関する研究といえば国家の経済発展もしくはスィンド州の利益のいずれかを優先させる議論が展開されることが多かった。そのようななか,KBD建設は土壌劣化を招き不適切であるとし,水管理・利用効率の改善を主張するラフィー・ハーンの研究があり[Khan 2003],独自のKBD批判になっている。しかし,ここまで挙げた3例はKBD建設への賛否を論じる方向へと収斂しており,KBD建設計画の歴史を検討し,現在の膠着状態に至った背景を整理したものは皆無と言ってよい。これまでの研究状況下では,同計画の進捗を阻んできた政治・社会的背景が照射されてこなかったと言える。

水資源確保の重要性はパキスタン全土で理解されており,KBDはそのための施設であると繰り返し強調されてきた。それでもKBD建設に国民的合意が形成されない状態が続く理由には,同計画の内容だけでなく,計画を推進しようとする諸組織の在り方や手法に対する批判があると考えられる。小論は従来の先行研究が課題としたKBD建設の技術・経済的妥当性を考察するのではなく,計画が膠着した政治・社会的背景を明らかにすることを目的とする。そのために,まずこれまでの同計画の展開を振り返った上で,KBD建設反対の意見に対する推進支持派の対応を検討する。とくに,パキスタン政府のKBD建設推進姿勢が顕著であったムシャッラフ軍政期(1999~2008年)の取り組みとその後の軍の水利事業への姿勢に注目する。その際,連邦・州間の利害対立という側面が強かったKBD論争に,政党,さらにパキスタン政治に大きくかかわりを有する軍がどのように臨んでいったか,またこれらのアクター間の関係はどうであったかという視点から検討していきたい。このような作業を行うのは,KBD計画にはパキスタンの国民的合意形成の困難性とともに,パキスタン政治を動かすさまざまな主体間の力関係が凝縮されていると考えるからである。

Ⅰ インダス川の開発とKBD建設計画の展開

1. KBD構想の胎動

パキスタンの経済発展に大規模な発電所が不可欠との見解は,早くも1948年に同国商工会議所が提起した[Dawn 1948, 15 March]。さらに第1次印パ戦争時,インドが自国内のインダス水系にある取水堰からパキスタンへの送水を制限したため,パキスタン政府にとって安定的な水資源確保は急務となった。「建国の父」ムハンマド・アリー・ジンナーも水問題を重視し,死去直前の1948年7月にすら「ミアーンワリー付近のインダス川にダムを建設して発電を賄う計画」の立案指令を出した[Dawn 1998, 17 July]。実際にパキスタン政府は1953~54年にカーラーバーグ周辺調査を,さらに1956年に実行可能性調査を行った。これがKBD構想の源流と考えられ,1961年までは「ミアーンワリー・プロジェクト」と呼ばれていた[Sūfī 1998, 103]。カーラーバーグの位置関係は図1のようになる。

図1 インダス川とその支流の位置関係概念図

(出所)Mulk[2005]の表紙を加筆修正して筆者作成。

インダス川の水利権をめぐるインドとの争いに一応の区切りをつけたのは,アユーブ・ハーン軍政下の1960年に世界銀行(世銀)の仲介で締結されたインダス川水利協定である。同協定締結実現の背景には,この問題が南アジアの不安定要因になることを危惧する米国の外交努力があった。同協定によりインダス川本流とその支流5川のうち,西部3川(インダス川,ジェラム川,チェナーブ川)にパキスタンの,東部3川(サトレジ川,ベアース川,ラーヴィー川)にインドの水利権がそれぞれ認められた。じつは1960年以後もパキスタン政府はインドによる協定違反を指摘しており,インドとの論争は今日まで続いている。しかし,曲がりなりにもインダス川水利協定により印パ間の水資源分配の枠組みが定められた。同協定にもとづいてパキスタン政府は西部3川中心の水利用体系への転換に着手し,貯水池や西部3川から東部3川に水を補給する連結水路の建設に乗り出した。以後,アユーブ軍政下で設立され,ラーホールに本部をおくWAPDAが水利事業施工者の中心を担っていく。

インダス川水利協定にもとづく水利事業の実行可能性調査が世銀によって行われ,1967年の報告書では,1967年にマングラー・ダム(ジェラム川),1971年にチャシュマー堰,1975年にタルベーラー・ダム,1982年にセーヘワーン堰,1986年にマングラー・ダム拡張,1992年にKBDをそれぞれ完成させるという長期的見通しが述べられ,ここにKBD建設計画が具体像を結び始めた(注4)。KBDは単独のダムではなくこれら一連のダム建設の一環として計画されていた。1965年の第2次印パ戦争で海外援助が一時停止されたものの,マングラー・ダムは1967年に完成した。その総貯水量は約72億トンで,1万平方キロメートルを超える土地が灌漑可能となった。同ダムには水力発電所も設置され,発電量は1ギガワットであった。

つぎにインダス川に建設されたタルベーラー・ダム(1968年工事開始,1976年完成)は,総貯水能力約137億トンと規模も拡大され,水力発電施設も追加整備された[小林 1979, 89]。しかし同ダムは春から夏の雪解け水による浸食作用が強まる時期の土砂堆積の多さが問題視されていた。当時の年平均流入土砂量は181.4トンで,2009年までに30パーセントの減少が予想され,他のマングラー・ダム,チャシュマー堰と併せた3ダムの合計貯水力は約3分の2に減少するとの予想もあった[Mulk 2005, 235-237]。タルベーラー・ダムには1974年の貯水開始時に貯水率調整トンネルで損傷事故が起きるなど技術的問題も指摘され,不断の状況観察と補修によって築堤崩壊を阻止していた。結局,1986年までの補修作業に(1989年の固定価格で)15億ドルが投入されたという[マッカリー 1998, 141-143]。

このタルベーラー・ダムとKBDのいずれを優先着工するかが議論になったことがある。その時,パキスタン政府内では「KBDよりも多くの水や電力を確保でき,多くの土砂を収容できる」と規模の大きさが決め手となりタルベーラー・ダムが優先された(注5)。また,1973年までKBDは基本的に灌漑貯水池だとされていたが,第1次石油危機後のエネルギー費用上昇により,発電ダムとしての必要性が高まった[Subzwari 2006, 40]。以上,当初発電が期待され,その後灌漑目的が中心になり,再度発電目的が付与されたように,大規模事業でありながらKBDの役割は最初から固定されていたわけではない。ここから,当時のパキスタン政府が自国の開発計画におけるKBDの位置づけを明確にしていなかったこと,さらには水資源利用に関し一貫した計画を有していなかったことも読み取れよう。この後,KBD計画では発電能力の2.4ギガワットから3.6ギガワットへの上方修正や,コンクリート構造物の追加といった変更が加えられている。1966年にパキスタン政府は専門家を派遣してカーラーバーグで土砂堆積に関する調査を行い,WAPDAも当初のKBD予定地より約3キロメートル上流で地盤調査を行った。ズルフィカール・アリー・ブットー率いるパキスタン人民党(PPP)政権期の1972年にはWAPDAが指名した国内調査会社がKBDの実行可能性調査を行った。この時,それまでの候補地よりも上流に,より建設に適した場所が見つかり,以後のKBD建設計画はこの新候補地で進められた。そして,国連開発計画の支援(世銀が監督)も得て,1984年3月にダム建設のための事務手続は完了し,パキスタン側の施工者はやはりWAPDAとなった。ここまではほぼ1967年の世銀報告書の順序どおりであった(注6)

2. KBD建設計画への異議

インダス川水利協定によってパキスタンの水利権の範囲が明確化された後は,パキスタン国内の水分配に争点が移ったため(注7),KBD建設への反対の動きも強まることになった。争点の中心はスィンド・パンジャーブ両州間にあり,インダス川上流に位置するパンジャーブ州で取水が増えれば,下流に位置するスィンド州は水不足に陥るだけでなく,河口からも海水侵入が生じるというものであった。また,1971年のPPPのズルフィカール・アリー・ブットー政権の成立は第3次印パ戦争での敗戦による軍の威信の失墜を背景としていた上,PPPの有力支持基盤がスィンド州にあったことは,軍政が支持したKBD計画にとって逆風となった。

1973年7月3日,「1972年チャシュマー・ジェラム連結水路開業に関する暫定協定」がスィンド・パンジャーブ両州とパキスタン政府の間で署名された。これはインダス川の流量が多い夏季に連結水路を通じてインダス川本流の水をパンジャーブ方面に暫定的に移転することを認める内容であり(注8),両州の歩み寄りがみられた数少ない事例である。しかしそのわずか3カ月後,スィンド州政府がパンジャーブ州政府に対して「連結水路は……他の水路と同じく,今後も運用を続けていくために建設されたのだ」と(注9),パンジャーブ州政府が今回の措置の固定化を企図しているとみなす書簡を送ったことで両州関係が悪化したため,協定は無実化し,両州間の不信感の根深さが改めて示された。

石油危機のパキスタン経済への影響は長期に及び,パキスタンにエネルギー自給化の課題を突きつけた(注10)。そのなかで多方面から異議を受けつつも1987年にはKBD建設現場への機材搬入,作業員詰所の設置,立ち退きを迫られる住民のための居住区建設が着手された[The Nation 1997, 2 June]。しかし,ここでもスィンド州政府がパンジャーブでのインダス川の水の利用実態を調査しようとして妨害を受けたことを契機に両州間の緊張感が高まり(注11),ズィアー・ウル・ハック軍政下で指名された首相ムハンマド・ジュネージョー(スィンド州出身)はこれを無視できなくなった。ズィアーが翌年航空機事故で死亡し,その後の総選挙でスィンド州内陸部に支持基盤を有するPPPが勝利すると,KBD建設計画への風当たりが強まり,建設工事は停止した。

それでもズィアーの後を継いだグラーム・イスハーク・ハーン大統領はKBD建設計画継続の意思を示していた。だがパキスタン政府がKBDの調査研究のために投じた予算は1987/88年度の5166万ルピーから1990/91年度の548万ルピー,1996/97年度の119万ルピーへと急減した[Ghausi 1998]。これらは為替変動を反映させた数値ではないが,この頃KBDの政策的優先度はかなり低くなっていたとみられる。

3. 州間調整の試み

紙面の都合上多くの字数を割くことはできないが,パキスタンとともに英領インドから独立を果たした隣国インドもやはり国内の水争いに苦慮している。英領インド下の1935年インド統治法では河川の水をめぐる紛争が州間で生じた場合,植民地総督が委員会の調査にもとづいて決定・命令を下すという解決の手順が定められていた。独立後のインド憲法もこの規定を部分的に踏襲し,水利用の権限を州に認めつつも州間で紛争が生じた場合は連邦政府が関与する仕組みを残したが,独立後の政治変動のなかで機能不全に陥っていった[多田 2005, 37-39, 159]。

対してパキスタンでは,最初の憲法(1956年)で,灌漑・水力発電を含めた水利用を州管轄事項とした。同第129条では連邦と州との間に紛争が生じた場合に最高裁の関与を可能とする旨も定めていた。しかし1955年の時点で西パキスタン一州化がなされ,西パキスタン州構成諸地域の利害は反映されなくなっていた。このように,インドとは異なりパキスタンには1935年インド統治法の州間水争いの枠組みが継承されなかった。しかも1958年の軍事クーデターによって憲法は停止されて州自治は大きく制限された。1970年の西パキスタン統合州解消時には旧西パキスタン諸州が復活しただけでインドのような州再編は行われなかった。さらに1971年のバングラデシュ独立を経て1973年憲法第153条で国内諸州間の利害調整を担当する共通利害評議会(Council of Common Interests: CCI)が設置されたものの,開催機会は少なかった。これはパキスタンが連邦の形態をとりつつも,州自治の発達には消極的で,州への権限付与に抑制的であったことを示している。

KBD建設計画に対する各州政府の立場をみると,まず人口最大のパンジャーブ州は工業・農業用水の需要,また安定的な電力供給のためにKBD建設を支持したが(注12),そのなかでインダス川の河口部でアラビア海に流入する水を「浪費」とみなし,「浪費」分は本来パキスタンの灌漑地拡大に用いられるべきだとした。

スィンド州内ではコートリー堰(インダス川の水利施設としては最も下流に所在)から下流域のインダス川の水量減が著しく,スィンド州内陸部の住民がインダス川上流でのさらなる取水に危機感を覚えたとしても無理はない。モンスーン期に一定の降水があるパンジャーブとは異なり,スィンドの降水量は年間平均127ミリメートルという少なさである。さらにパンジャーブではチューブウェル(動力揚水式鉄管井戸)による地下水を汲み上げが可能な一方,スィンドの地下水には多くの地域で塩分が混入しているという水質上の問題もあった。1970~80年代にスィンド州で民族主義的な活動が顕在化すると,同州の同意抜きでのKBD建設着手はパキスタン政府に一層困難になった。

スィンド州が水の喪失を恐れたのに対し,北西辺境州で懸念されたのは水没予定地が広いことやノーシェラー(ノーハール)地区での漏水である。同地区は1929年に大水害を被った歴史がある上,タルベーラー・ダム建設時に周辺で発生した漏水事故がこの地でも起きるのではないかとの懸念がある。バローチスターン州はKBD建設が同州にもたらす利益の少なさや,同州が利用できる水量の減少への懸念が反対の理由になっていた。こうして,建設予定地のあるパンジャーブ州政府だけが賛成し,他州政府は反対の決議を出した。この状態は現在も続いている。

インダス川水利協定締結後,パキスタン政府は1968~83年に4度「水資源配分委員会」を設置して国内の水配分問題への対応を試みたが,解決策を導き出すことはできなかった[近藤 2019, 13-14]。その後,1991年3月にパキスタン国内の4州首相が合意してインダス水系の水資源の州間割り当て協定が表1のように合意された(注13)

表1 1991年のパキスタン州間協定でのインダス川水資源の分配比

(出所)Water Apportionment Accord 1991.

州間割り当て協定では,コートリー堰より下流域でのインダス川の流量確保など,スィンド州の立場への一定の理解が示され,同協定の実施と関連土木事業担当機関としてインダス水系局(Indus River System Authority: IRSA)が設立された。そして,コートリー堰より下流の最低必要流量については,「国際的な調査団による独立した研究」の結果を待つことになったが(注14),実際にその研究がなされたのは14年後の2005年のことになる。

州間割り当て協定は,パキスタン諸州間の協議が生んだ成果ではある。しかし,その履行はなかなか進まなかった。インドでは議会制民主主義の原則を遵守しない政党や議会外での運動が水問題解決の機能を不全にさせたとされるが[多田 2005, 159],インダス水系以外の水源に乏しいパキスタンでは州間の調整の難しさに加え,調整が行われたとしても国家がその履行の牽引役を十分に果たせず,結局はインドと同様に執行力の弱さが浮き彫りになっていた。

4. 水問題の深刻化とパキスタン軍の利害

1990年代後半,パキスタンの人口急増や地球温暖化の進行を背景に,将来の水不足への懸念が高まった。人口最大のパンジャーブ州の灌漑局も,1990年代は地表から6.1~12.2メートルを地下水掘削可能水位としていたが,2010年代は同243.8メートルとの見解を示した[Devasher 2016, 212]。国内有数の乾燥地域バローチスターン州ピスィーン周辺では,1978年は地下水位が51.8メートルだったのが1999年には152.4メートルに下がった。そこで地中深くから水を汲むためのチューブウェル設置が進み,さらに地下水位の下降を招く悪循環に陥っていた(注15)

同時期にマングラー・ダム,タルベーラー・ダムの老朽化と貯水池湖底への土砂堆積など,既存のダムの機能不全が目立ち始めた(注16)。当然その影響は電力に及び,1977年のタルベーラー・ダム稼働開始時に国内での水力対火力の発電比が57対43であったのが,1990年代半ばには同41対59と,火力が上回った。建設しやすい火力発電所によって電力需要を賄おうとしたためであるが,火力への依存は電力料金の上昇を招いた[Naqvi 1998]。都市部での盗電が深刻化したのもこの時期である。

1997~2001年にパキスタンは世界ダム委員会(World Commission on Dams: WCD)に参加している。WCD設立の趣旨には「ダムによって影響を受ける人々の事情」の聴取が含まれていたが(注17),パキスタンが参加した目的のひとつに,KP州アトック近郊で予定されていたガージー・バローター水力発電所事業への世銀の借款を得ることがあった。というのも世銀は借款拠出の条件のなかで,以前のタルベーラー・ダム建設で移住を強いられた人々への補償の杜撰さを指摘し改善を求めていたからである[Subzwari 2006, 128]。そこでパキスタン政府としてはWCDに参加することでこの問題に真摯に取り組む姿勢を示しておかねばならなかった。WCD参加はパキスタン政府が再びダム建設を重視し始めた証左で,KBD計画の前進に期待が集まることになった。

パキスタン・ムスリム連盟(PML)が主導するナワーズ・シャリーフ政権下の1998年5月9日,ようやくCCIが開かれたが,当初ナワーズはKBD建設を積極的にCCIに諮らなかった。しかしパキスタンは同28日インドに続いて核実験を行って非常事態を宣言し,6月11日にはラジオ・テレビを通じKBD建設を「国家的アジェンダ」と訴えた。この一連の流れは,ナワーズ政権がKBD建設を容易にするために核武装によって高揚した国民感情を利用したとも説明されている[Naqvi 1998]。

核実験後の8月,WAPDAはKBD建設の必要性を訴える報告をパキスタン技術者フォーラムで行った。ここではKBDのみならず,北方地域(現在のギルギット・バルティスターン州)での「バーシャー・ダム(現在のディアーミル・バーシャー・ダム)」の建設の必要性も説かれた(注18)。翌年5月からは公共部門開発計画(Public Sector Development Program)を窓口としてこの地域の大型プロジェクトの計画が活発化していく[Nasīm 2007, 87-88]。

1988年のズィアー軍政の終結から1999年のムシャッラフによるクーデターまでの文民政権期は,アフガニスタンからのソ連軍撤退により米国からの対パキスタン援助が減り,パキスタン経済の停滞期であった点にも注目したい。ここへ核実験強行を非難する国際社会からの経済制裁が重なり,今回もパキスタン政府はエネルギー自給率向上を迫られていた。1998年にWAPDAが作成したKBDに関する報告は,既存のダム湖底への土砂堆積,20世紀末から頻発していた洪水への備えと,洪水貯水施設の不備により1976年からの20年間にコートリー堰から下流で年間平均471.2億トンの水が海に流失した点が指摘された。これらは従来の議論どおりであった。その上で,仮にダム建設が実現すれば同量の貯水が見込め,食糧増産,電力供給拡大,「国内後進地域の繁栄」も可能になる旨述べていた(注19)

1990年代後半,WAPDAを含むパキスタン公営企業の経営難が問題になっていた。経営悪化の要因はベーナズィール・ブットー首相の政策にあったものの(注20),パキスタン政府は1997~98年にWAPDAの送電・配電部門の分社化に追い込まれ,1999年1月にはWAPDAの経営改善のため軍の協力を求めた。これに対し当時の陸軍参謀総長ムシャッラフは3万6000人の兵士を投入し[Musharraf 2008, 135],WAPDA管轄区域の電気メーター検針,請求書配布,料金徴収,盗電監視を徹底し経営を改善させた。1999年10月12日にムシャッラフはクーデターを起こして軍政を敷き,その後大統領に就任するが,軍への権力集中を通じ,WAPDAとともにダム建設,水力発電の拡大に乗り出していった。

パキスタン軍は過去3度クーデターを起こすなど,政治への介入を繰り返してきた。その目的には腐敗や権力闘争によって混乱した政治の収拾という側面があったことは否定できない。しかしそこには軍の利益を守るという動機も絡んでいたと考えられる。軍の利益としては,軍幹部の指名権,防衛予算の確保,軍人給与の維持,防衛予算使途の秘密維持,国有地の使用権などが列挙できる。また,パキスタンでは軍が自ら国家予算に計上されない営利事業に携わって利得を上げ,それによって軍人・軍属の福利厚生から活動資金にまで充当し組織の求心力や政治的影響力の浸透を図ってきた点は見逃せない。公共事業体であるWAPDAはこれらのなかでも最大規模であるだけでなく(注21),設立以来多くの退役将校の天下り先となってきている。こうした事業はmilbus(以下,「軍主導営利事業」と訳す)と呼ばれ(注22),WAPDAの他にも不動産,建設(建材供給を含む),港湾運営の分野で事業を展開し,軍全体の結束力や社会的影響力維持のための経済的利得を生み出してきた。軍用地を灌漑農地や住宅地として貸し出すのは最も一般的な例で,課税減免措置が適用されることも多い。パキスタン軍指導部は国防や治安維持活動を通じた国家への貢献の見返りとして,その特権を正当化してきた[Haqqani 2005, 148]。パキスタン国内で随一の統一的組織を有するだけに,軍の利益に抵触するような介入を行えば,国の統一そのものに危機が及ぶとの危惧が歴代政府に共有されてきたことが,軍の特権が残されてきた理由にあるのかもしれない。軍からみれば,WAPDAの経営難は政府の拙い政策が既得権益を損ねているとの危機感を深めた出来事であったと考えられる。

それまでの歴代のパキスタン政府はKBD建設に関する合意形成ができなかった。しかし地球温暖化や人口急増に,核実験後の経済制裁が加わって再びダム建設計画が着目され,構想にとどまっていたKBD建設計画も検討されるようになった。加えて,電力供給体としてのWAPDAに役割増大が見込まれることは,クーデターによって政権を掌握した軍の既得権益維持という観点からも好都合であった。

そして,2001年の米国同時多発テロ事件と対アフガニスタン攻撃は,米国主導の多国籍軍にとって基地としてのパキスタンの重要性を再び高め,核実験以来の経済制裁の撤回をもたらした。一転して米国や日本からの経済援助が開始され,中国もこの時期,バローチスターン州のグワーダル港開発等でインフラストラクチャー整備に関与を強めるようになった。こうしてパキスタン政府にとって大型プロジェクトを推進しやすい条件が整いつつあった。ムシャッラフは軍事クーデターによって民政を停止したが,KBD建設計画は放棄されることなく,意欲的に継承されていく。国内州間の河川水利用の調整に苦悩しているのは隣国インドと似ているが,そこに軍も関与してくるところにパキスタンのひとつの特徴が認められる。

Ⅱ 水資源専門委員会の活動

ムシャッラフ政権下の2000年に策定された「2000~2025年の国家水資源開発プログラム」では,多目的ダム計画を提案し,「これはKBDを含むパッケージである」としていた[Subzwari 2006, 49]。「パッケージ」という表現が示すとおり,ムシャッラフ政権もまたKBDを他のダムと併せたより大規模な水資源開発計画の一環に位置づけていた。

ムシャッラフは2003年8月25日に水問題や農業の専門家をスィンド州知事公邸に招集し,水管理や分配,将来の貯水池建設,灌漑計画,水の利用可能性,海への流出量その他に関する協議を行った。そして11月15日,この会議の参加者から水資源専門委員会(Technical Committee on Water Resources: TCWR)を指名し,水問題への対応策と貯水方法の選択肢を連邦政府へ提示するよう求めた。ただ,TCWRの活動は指名時点では公にされなかった。委員の内訳は表2のとおりである。全員が水利問題の専門家であり,議長以外は各州から2人ずつ選ばれていた。議長に選ばれたのはA.N.G.アッバーシーで,以前スィンド州政府閣僚を務め,パンジャーブ州が灌漑用水の州間分配で不正を働いていると批判したことがあるなど,それまでのスィンド州の立場に近く,KBD建設に積極的な人物ではなかった[Ali 2015, 85]。北西辺境州のシャムスル・ムルクはKBD建設を強く支持する工学者だったが,同州の公式の立場とは異なっていた。

表2 TCWRの委員の内訳

(出所)TCWR Report. Part Ⅰ, 1-2. を参照して筆者作成。

(注)※は「7人メンバー」。

2004年3月のTCWR初回会合では1991年の州間割り当て協定遵守およびWAPDAの基礎データの尊重,という2点が確認された(注23)。その後2005年2月まで計8回の会合が行われ,最終報告書が2005年8月25日付けでムシャッラフ大統領およびショーカット・アジーズ首相に提出された。同報告書はパキスタン政府によるKBD関連調査としては最後であり,今日もKBD計画の基本資料として参照される点で重要である。

TCWRは活動開始にあたり,まずパキスタン政府内の計画開発委員会と協議した。そこからは有限な水資源の効率的利用のためには貯水池が必要であり,「どのプロジェクトを優先して行うかは状況次第」という曖昧な見解が示されただけであった。つぎにTCWRはWAPDAとも協議を行い,WAPDAからはダム予定地を考える上で「余剰水を最大限に貯水可能なこと」が判断材料であるが,「サトレジ川,ベアース川,ラーヴィー川,チェナーブ川には,パキスタン領内にふさわしい貯水池の建設場所がなく,ジェラム川のマングラーは,すでに最大限の利用がなされ」ているため,「カーラーバーグ,ディアーミル・バーシャー,スカルドゥ,アホーリー(パンジャーブ州アトック)など」が適地として示されたという。そしてKBDには「これ以上の実行可能性調査は必要ない」とし,さらに「実行可能性調査,設計,入札書類は準備できている……。このプロジェクトは早急に着手できる。建設には6年かかり,2010年に完成する見込みである」と,着工は即時可能との見通しを示した(注24)

計画開発委員会とWAPDAへの聴取後は,パキスタン水資源開発の全体像に関するTCWRの見解を作成する予定であったというが,委員の1人であったイクバール・アリーは後にTCWR内の対立の存在を著書で明かしている[Ali 2015, 85-88]。アリーはスィンド州出身ながらKBD推進の立場をとっていた人物で,彼によればKBD建設に慎重であった議長アッバーシーが報告書の作成作業を「独占」し,2005年1月14日の会合時には,委員のうち7名(表2の※印をつけた人物。以下「7人メンバー」と略記)に対しても作業内容を秘密にしたため,アッバーシーが代表者として議会内の関連委員会に参加することに抗議したという(注25)。また,サルダール・アフマド・ムガルもインダス川支流からの流入量や海水侵入量の計算において他の委員と見解が異なっていた。

7人メンバーは「KBD建設の準備は終了しており着工可能で,バーシャー・ダムと並行して建設できる」という立場であった。したがって7人メンバーはKBDに関する調査を不十分とみなすアッバーシーがバーシャー・ダムの先行着手とKBDの追加調査を勧告することによってKBD着工が遅延させられる可能性を懸念していた[Ali 2015, 88]。そこで2005年2月に7人メンバーが集まり,独自の報告書を作成し,「既存のKBDに関する調査は,WAPDAの保有データにもとづいているが,7人はWAPDAのデータを信頼し,KBDに関する調査は十分と考える」と述べてWAPDAに同調する姿勢を示した。その上で,7人メンバーはKBDとバーシャー・ダム建設の早急かつ同時の開始を勧告した[Ali 2015, 174-177]。こうした背景があり,TCWR最終報告書は,本文に加えて7人メンバーとアッバーシーの見解が併記され,さらに付属文書として7人メンバーの報告書が添付されるという形で提出された。

提出されたTCWR報告書には,7人メンバーの見解としてKBDとバーシャー・ダムの承認と,前者の着工を遅らせてはならないとの立場が明示された(注26)。これに対しアッバーシーは「WAPDAが行った調査を更新する必要はなく,理解できないわけでも,受け入れ難いわけでもない」ものの,「労賃や,……住民の移住にかかわる費用も非常に多くなっている……。費用の試算が現状の価格にもとづいて算定されねばならない」と述べ,いまだ調査の余地があるとの姿勢を崩さなかった。アッバーシーがダム候補地として挙げたのはカーラーバーグ,バーシャー,さらにスカルドゥのカトラザーであるが,3カ所に優先順位はつけなかった(注27)。TCWR内の意見の隔たりが埋まらなかったことは明らかである。

TCWR報告の内部不一致を認めつつも,ムシャッラフは2005年12月の国民向け記者会見で「アッバーシー氏を含む9名の誰もKBDに反対せず,KBDを含む追加的な貯水池建設を受け入れた」と述べてKBD建設支持を表明した。委員間の意見の隔たりが言及されたものの,ただ「誰もKBDに反対しなかった」と扱われたのである。委員にはKBDに批判的なスィンド州の人物も含まれていたが,全体では推進派の人物が多数派であり,各州の従来の立場を反映した人選になっていなかった。また,人選過程も明らかにされなかった。この辺り,TCWRにはムシャッラフ政権がKBDをはじめとする水利開発に積極的な政策を打ち出していくために,各州から平等に意見聴取したとの形を作り出しつつ,全体としてはダム建設への前向きな材料を提示する役割が期待されていたとみられる。州間の平等を保ちながら,KBDを明確に拒否する人物もいなかった委員構成がそれを裏づけている。

ムシャッラフはさらに,「私は指導者としてスィンドを,そしてパキスタンを自滅させることはできない。……もしここでカーラーバーグ,バーシャー,スカルドゥのカトザラーという3つのダムを建設すれば,約186億~248億トンの水不足を充足できる」と述べ,ダム建設がスィンドの利益にも資するとしてKBDを含むダム建設に理解を求めた(注28)

バーシャーと同様,スカルドゥのカトラザーも北方地域の峻険な渓谷地帯に位置する。このことが示すように,同ダム計画の主目的は灌漑よりも発電にあり,水は川に戻される。これら2つの候補地が挙げられた背景には,建設への批判が少ないと予想された点が大きい。ただし,ムシャッラフはカトラザー・ダム建設の可能性を示しながらも,その場合にはスカルドゥの町の一部や,周辺のカルポチョー城等の歴史的遺産が水没しうる点を指摘して,当面カトザラーを対象外とした。

ムシャッラフは会見後の質疑応答において,「私はダムに反対するところはなく,信頼の欠如があるだけだと考える。不幸にして政府や指導者が勇気をもって相互に対話をしてこなかったか,不勉強のゆえに理解を欠いていたのである」と述べ,州相互間の不信がKBD建設の障害になっていると認めた(注29)。しかし「対話」をどう行うかについては触れなかった。

この会見で出された「過去に灌漑のためのインフラストラクチャーが建設されたが,1州にしか利益をもたらさなかったのではないか」という指摘に対して,ムシャッラフは「スィンド,パンジャーブで多くの人々が利益を得ている。これらの土地の水はマングラー・ダム,タルベーラー・ダムから来ている。これらがなければこの地域は砂漠になっていた」と反論した。ここでは過去のダム建設でパキスタンが利益を得たと主張するばかりで,ダムが不利益をもたらしうるという指摘には回答していない。次いで,インダス川の水量自体が減少している状況への認識を問われると,ムシャッラフは前年に北西辺境州で起きた河川氾濫に言及し,「それらはタルベーラー・ダムより下流を流れているので(さらに下流の)カーラーバーグで貯水するしかない。……氾濫した水はすべて無駄になり,海に流れた」とし,「水があるときはダムに貯め,干ばつ時には使わねばならない」とした(注30)。ここでも,インダス川の流量減少については十分に回答せず,洪水に備える貯水池の意義のみが語られている。インダス川河口からの海水侵入が懸念されているにもかかわらず,海に流入する水を「無駄」扱いしているところも当該地域の苦悩への理解を欠いている(注31)。さらにムシャッラフは「ダム建設による最大の利益はスィンドに向かうべき」と述べ,スィンド州がこれまで水資源へのアクセスにおいて不利な立場にとどめられてきた点への配慮を示したが,これは州間割り当て協定の立場の繰り返しにすぎない。

とはいえ,TCWR報告書によってKBDのダムとしての概要は固まり,表3のようになって現在に至っている。2000年代初頭,カーラーバーグでの年間平均流量は1103.6億トンであり,72パーセントがインダス川,25パーセントがアフガニスタン領内から流入する支流カーブル川,3パーセントがやはり支流のサワーン川から流入していた。75.6億トンという有効貯水量は当時の年平均流量の7パーセントに相当した。

表3 KBDの概略規模

(出所)Subzwari[2006, 50-51]

こうしてKBD建設による効果として,①既存水利施設が土砂堆積によって失った貯水能力の補填,②1991年の水割り当て協定にもとづく,ハリーフ期の追加的なインダス川の水分配の実施(注32),③インダス川の洪水抑制(注33),④スィンド州農村部での灌漑拡大,⑤増大する産業・家庭内消費電力需要への安価な電力供給,⑥輸入燃料への依存軽減,⑦建設関連事業に伴う3万人の雇用創出,が掲げられた[Subzwari 2006, 51]。パリージョーのようなスィンド民族主義者は,ムシャッラフのKBD建設に対する姿勢を「ナワーズ・シャリーフやブットー,ベーナズィールのような指導者も望まないか,あえてしなかったことをパンジャーブの既得権益のためにできると示そうとしている」と以前から警戒していた(注34)。そこへきてこの会見は,彼らの失望を深めたであろうことは想像に難くない。対照的に,インダス川開発を積極的に支持する人々の間からは「KBD建設を,国家の重大計画だと常に優先事項に入れていた」,「我々は,(ムシャッラフを)パキスタンでの緑の革命の唱道者として記憶する」とおおむね支持された[Subzwārī 2006, 42]。

Ⅲ KBD計画批判への対応

つぎに,各方面から出されるKBD計画への批判を,1998年のWAPDA報告,2005年のTCWRの報告書は具体的にどのように取り扱っていたのか検討してみたい。なお,WAPDA報告は,それまでKBD建設計画に対し向けられてきたいくつかの批判に回答する項目を設けていたが,TCWR報告書はそのような形はとっていない。そうした形式上の違いはあるものの,双方でともに扱われている部分を探し,引用・比較してみる。

1. スィンド州からの批判に対して

繰り返しになるが,KBD建設計画に最も批判的なのがスィンド州である。この問題に対し,同州内陸部に支持基盤をもつPPPや,スィンド民族主義政党によって反対運動が展開されたことがある。同州都市部に支持基盤を有し,1980~90年代にPPPと激しい抗争を繰り広げた統一民族運動(Muttahida Qaumi Movement: MQM)ですら,KBD建設に対しては批判的であった。同州からのKBD建設への批判に対する,WAPDA,TCWRの各報告書の方針をまとめると,表4のようになる。

表4 スィンド州からの批判への対応

(出所)WAPDA Reports 1988. およびTCWR Report. Part Ⅱ and Elaborations, 34-38, 83-84. を参照して筆者作成。

表4の①について,WAPDA報告は以前のダム建設によって水の供給量が増えたのでKBD建設への懸念は不要としているが,これを裏づけるデータを示さずに建設の妥当性を訴えている問題点がある。TCWR報告書には内部不一致を反映して2つの立場が併記されたが,7人メンバーはWAPDAの調査を尊重する傾向が強く,その見解はWAPDAと大差がない(注35)。アッバーシーは「インダス川の本流はこれ以上の取水に耐えられない」と述べ,これはスィンド州内に広がっていた懸念と一致していたにもかかわらず,記載されるだけにとどめられた。アッバーシーの姿勢が警戒されたのか,彼はWAPDAから十分な数値データの情報提供を受けられなかったという(注36)

また④の,TCWR報告書で言及された「国際調査団による研究」とは,オランダに本社をおく調査会社が行ったコートリー堰より下流の流量の最低必要量についての調査を指し,1991年から14年を経てようやく実現した形となった(注37)。同調査はそれまで指摘されてきたインダス川のコートリー堰より下流の流量不足,河口部での海水侵入,インダス川からの土砂供給減少を確認し,その原因は灌漑のための取水であると述べている。その一方で,必要流量の継続的な検証・確保のためにはインダス川に「追加的な貯水能力が必要」とも記している(注38)。同調査は流量の確保が必要と述べつつ,「追加的な貯水能力」の必要性も述べているために,KBD建設支持派・反対派の双方の主張を補強するような玉虫色の内容になっていた。結局,国際調査団の調査ではKBD建設の是非に対する明確な方向性は示されなかった。それにもかかわらずムシャッラフ政権が積極的にインダス川開発推進の姿勢を示したことには,強引さが否めなかった。

2. 北西辺境州(現KP州)からの批判に対して

KBD建設計画に対しては北西辺境州からも懸念が出されてきた。以下,スィンド州と同様にKBD建設計画への批判とそれへの対応を列挙してみると表5のようになる。

表5 北西辺境州からの批判への対応

(出所)WAPDA Reports 1998. およびTCWR Report. Part Ⅱ and Elaborations, 30-40, 86-87. を参照して筆者作成。

スィンド州に比べ,北西辺境州についてTCWR報告書が多くを語っていないことがわかる。表5①のノーシェラー周辺への被害の危惧に関して,7人メンバーはコメントを避けている。その後,アリーは自著でKBDの堤頂標高278.9メートルに対しノーシェラーの最低地点が同287.1メートルであることを根拠に,ノーシェラーに水害が及ぶ可能性を否定した[Ali 2015, 75]。これがもし7人メンバーの①に対する認識を代表しているとすれば,10メートル未満の差だけで水害の可能性を否定している点への疑問は残る。対するアッバーシーはアフガニスタン方面から合流するカーブル川にも言及し,同川からのダムへの土砂堆積に懸念を示した。同川の水は泥土を多く含む水質で,土砂堆積を加速させやすいという別方面からの指摘もあった(注39)。それへの回答がないのも不十分な印象を与える。

移住を迫られる人々への補償に関しても,パキスタン政府は1991年6月の通貨価値で57億3100万ルピーを計上するなど以前のよりも充実した補償を掲げていたが[Subzwari 2006, 46-47],WAPDA・TCWR両報告はタルベーラー・ダム建設で移住を求められた人々への補償の不十分さを世銀にまで指摘された過去をふまえていないようにみえる。これらの人々は遠くスィンド州のグッドゥー堰周辺を移住先に指定され,気候や文化も異なる土地に馴染めず,土地を売却して去る人々が続出したのであった[Memon 2003, 180-181]。

3. 環境問題上の懸念に対して

タルベーラー・ダム等のダム建設開始以後,インダス川河口域に広がるインダス・デルタ地域では,流水減少による海水侵入,ダムへの土砂堆積によるデルタ地域への土砂供給減少・水中養分減少により土壌・植生の減少が生じた。これが同地のマングローブ群に大きな影響を与え,そこに生息する生物相の破壊や海岸線浸食も招いていた(注40)。マングローブ群の周辺では木材生産や漁業が営まれているが,マングローブ林の減少はこれらの先細りだけでなく,防潮堤の建設費といった公共支出の増大を招く可能性もある。

1998年のWAPDA報告では,KBD建設によるマングローブ群への悪影響の懸念に対し,「95パーセントのマングローブは塩分に耐えうる植物種に属する」としつつ,「海水侵入よりも1932年のサッカル堰操業開始による淡水減少の方がマングローブ群減少の原因としては大きい。また,カラーチーの人口増加によって無秩序な伐採が進んだこともある」とし,これを否定した上で,マングローブ群の耐塩性の高い種への植え替えを提案した(注41)。要するに,独立後に建設された水利施設の影響こそ認めないが,サッカル堰の影響はあったとして,水利施設の建設が淡水減少を招く可能性を認めてしまっているのである。しかも安易にマングローブの植え替えを提案するなど,いったん破壊された生態系の再生の難しさを考慮に入れない,問題認識の甘さが垣間見える。

パキスタンの水問題に関する議論をみていくと,「水確保=ダム建設」と安易に結びつけられており,他の水管理の手段の検討が不十分ではないかとの疑問が浮かぶ[Mahsud 2018]。新規ダム建設以外の対策としては,既存ダム内の堆積土砂の撤去によるダム再生[Khan 2003, 175],用水路保全や整地を通じた水利用効率の改善・汽水域での塩分に強い作物の導入・雨水収用努力・点滴灌漑の普及への提案[Chaudhry 2006, 23-25]が挙げられてきた。さらに,「20世紀末以降多発する洪水によって,KBDに貯水できるだけの水が十分にあるという誤った感覚が国内に広まっている」という問題提起もある。これによれば洪水が発生すると貯水ダムには一気に大量の土砂が堆積してしまうので,「必要なのは貯水ダムではなく,川をせきとめることなく,川が氾濫したときだけ貯水できる調整ダムである」という[Kazi 2003, 187]。これらは水管理の方法を改善しようとするものである。しかし新規貯水ダム建設こそが水問題の打開策とみなされるなか,十分な検討はされていない(注42)。パキスタンが直面する水問題や経済開発の課題が強調されるなかで,下流域への影響や漏水への懸念といったKBDに関する技術的視点は埋没させられ,ダム建設という方向へと結びつけられている。

Ⅳ KBD計画の膠着

以上みてきたようにTCWR報告書には問題が散見され,KBD建設反対派の理解を得るのは困難であった。報告書提出後,IRSAはKBDの実行可能性を支持した。しかしこれは国内の反発が強かったため,憲法に従ってCCIに付託されたものの決定が出ず,最終的に連邦の水力電力担当大臣が2008年までこの事業を中断する決定を下した。

2006年4月26日にムシャッラフはディアーミル・バーシャー・ダムの起工式を行った。これはムシャッラフが反対の声が少ないダムの建設を先行させたとも解釈できるが,ダム設計が未完の時期に建設予定地からかなり離れた場所で起工式が行われたことから,ムシャッラフの大統領再選に向けたパフォーマンスにすぎなかったとの見方もある[Ali 2015, 83]。いずれにせよ,その後のムシャッラフの大統領再選の試みは,軍政長期化に反発するパキスタン国内での民政移管要求の高まり,軍統合参謀総長兼任に対する批判,9・11事件以後の米国主導の「テロとの戦い」への参加に批判的な勢力との対立,そして司法に対する人事介入への反発を受けて挫折し,自らは退陣に追い込まれた。KBD着工に向けて奔走したムシャッラフ政権も,結局建設を進めることはできなかったのである。

その後,2012年12月13日にラーホール高等裁判所がKBD建設を支持する評決を出したため,再びKBD建設計画が議論を呼ぶようになった。2018年成立のイムラーン・ハーン政権はインダス川の開発を積極的に進め,「一帯一路」構想を進める中国からの経済支援も得て,2020年にKBDよりも後から計画されたディアーミル・バーシャー・ダム(発電量4.5ギガワット)の建設工事に着手,さらにダーソー・ダム(同4.32ギガワット)の建設も始めるという新たな動きを示した。ダム建設とは別に,水力発電能力に恵まれたキルギスとタジキスタンの余剰電力をアフガニスタン経由でパキスタンに供給する中央アジア・南アジア電力プロジェクト(The Central Asia –South Asia Power Project: CASA-1000)も世銀の融資も受けて2016年5月に起工され,タジキスタン領内からパキスタンのノーシェラーまでを高圧直流送電で結ぶ工事が進められている。パキスタン政府はKBDよりも反対の声が少ない他ダムの建設と海外からの電力供給によって,電力供給源の多角化を試みている。

KBD計画のパキスタンにおける優先順位は下がり,後発プロジェクトへの注力が進んでいるようにみえる。しかしディアーミル・バーシャー・ダムにも予定地の周囲4200戸の立ち退き問題があり,ダーソー・ダムでは2021年7月に中パ両国の建設労働者が乗るバスが襲撃を受けるという,ダム建設を標的にしたとみられる事件が発生している。対外債務の問題はもちろん,2021年にターリバーンが復権したアフガニスタン内でのCASA-1000の将来も予断を許さない。そもそも,これらのプロジェクトには峻険な地形を越える長大な送電設備の建設・維持という技術的課題を抱えている。

Ⅴ おもな政党の立場

パキスタンの諸政党にとってもKBD建設計画は軽視できない問題のはずである。2018年7月の総選挙で発足したパキスタン公正運動(Pākistān Tehrīk-e-Insāf: PTI)主導のイムラーン・ハーン政権はインダス川水系開発を推進する姿勢を示した。この総選挙は,国民議会(下院)において人民全国党(ANP)をはじめKBD反対派が議席を減らしたため,KBD建設支持派にとって好ましい結果となった[Warrāich 2018]。同月ISI(Inter-Service Intelligence: 統合情報局)広報部はダム建設のための基金を設置し,パキスタン軍が2日分の賃金を寄付すると発表した(注43)。イムラーン政権のダム推進を後押ししたのは軍だけでなく,当時のパキスタン最高裁判所長官も同基金に100万ルピーを寄付した[Daily Times 2018, 10 July]。ただこの基金は,7月4日の最高裁判所によるディアーミル・バーシャー・ダム,モフマンド・ダムの2つのダム建設を優先させる命令に応じたものであり,KBDは直接の対象ではなかった。そしてイムラーン政権は2020年7月,KBDより先にディアーミル・バーシャー・ダム建設に着手した。同政権の議会問題担当大臣アリー・ムハンマド・ハーンは「州がKBDに反対しているので,皆が前向きになるまではKBDは建設されない。……しかし首相はすべての問題について議論を望んでおり,KBDも議論されるべきである」と述べた[The Express Tribune 2020, 20 July]。こうしてイムラーン政権はKBD建設を継続審議とし,結論を先送りした。

2022年4月,イムラーンに代わり首相となったシャフバーズ・シャリーフが所属するパキスタン・ムスリム連盟ナワーズ・シャリーフ派(PML-N)は,1998年の核実験後,ダム建設に積極的であったが,「スィンドの同意が得られなければKBDは建設できない」という立場である。その後2023年8月にパキスタン国民議会は解散となり,選挙実施までは当面変化は考えにくい。

PPPは表向きKBD建設に反対の立場を強く示しているが,同党が与党の座にあった1970年代,当時のズルフィカール・アリー・ブットー首相は,KBDを国際的な支援を獲得して行う優先計画に位置づけ[Subzwārī 2006, 40],KBD関連の調査を繰り返していた。また,ズィアー軍政が1985年にKBD建設へのスィンド州内の合意形成を試みた際,PPPは公然とKBDに反対はしなかったとされる。そのPPPはズィアー没後の1988年の選挙で反KBDを掲げた[The Frontier Post 2019, 16 February]。スィンド州出身のPPP政治家ニサール・クフーローもKBD反対運動に従事した人物だが,彼もPPP政権期の1994/95~1996/97年度に別の水力発電プロジェクト向け資金の一部をKBDの調査に用いたという[Ghausi 1998]。このように細かくみればPPPのKBDに対する姿勢にも矛盾が認められる。PPPは2008年8月にはANPやスィンド人民運動とともに反KBD運動を展開したが[The News 2008, 2 August],PPPとしては直後の大統領選挙向けの行動であったとみられる。PPPは2018年の選挙綱領で海水淡水化施設導入をはじめ水問題への積極的な提言を掲げたが,KBDに関しての言及は抑えていた(注44)。発電用途が中心のディアーミル・バーシャー・ダム建設に関しては「資金確保に注力する」と意欲を示したが(注45),支持基盤であるスィンド州内陸部の利益を揺るがしかねないKBDについては党としての姿勢の明確化を避けているようである。

こうした状況下,KP州に基盤を有するANPは一貫してKBD建設に反対している。同党はパキスタン政府主導の開発への抵抗感が強く(注46),TCWRについても,同州出身の2名を「州政府が指名した人物ではない」として拒否した。しかしANPの主張のなかには「カトザラー・ダムができれば,スカルドゥ空港などは水没するだろう。しかしスカルドゥのような遠く,荒涼とした,人口の少ない地よりも,カーラーバーグのような人口密集地域では問題がずっと深刻になる」と(注47),カトザラー・ダムをKBD拒否の「代償」として容認している一面もある。

このほか,KP州を基盤のひとつとする宗教政党イスラーム協会(Jamā‘at-e-Islāmī: JI)は,KP州総裁ムハンマド・イブラーヒームが2010年にKP州を襲った洪水で80名超の死者が出た事例を引き,KBD建設を控えるべきとの立場を示したことがある[Dawn 2015, 16 October]。2000年代にJIも含む宗教諸政党が連合した統一行動評議会(Muttahida Majlis-e-‘Amal: MMA)は「新貯水池は建設されねばならない」が,「連邦を損ねるあらゆる状況を避けねばならない」として各州の合意抜きのKBD建設には反対の立場を表明したが,この点はPML-N等と大きな違いはなかった。その後,2005年12月にはMMAが3州のKBDへの非協力的姿勢を変更させるため「既存のKBD案を変更する必要性」を唱え,KBDへの態度を軟化させたこともあった[Business Recorder 2005, 20 December]。MMAはその後分裂し,2017年にJI不参加のまま再結成されたが,KBDに対する政策の独自性は薄い。宗教政党にとって,水の問題は支持層の関心を喚起しにくい問題であるのかもしれない。

ANPはKBDに一貫して反対しているが,他の政党は明確な態度を示していない。とくに全国政党を標榜する諸政党は,国内全土で水資源確保を行わねばならない全国政党としての立場と,支持基盤を有する州の利益を守る立場との板挟みになっている。

Ⅵ 水問題への関与を深める軍

パキスタン史において,軍は政治への介入と静観を繰り返して自らの利害を国政に反映させてきたが,2008年に最高裁判所がムシャッラフの憲法停止行為を訴追する構えをみせて彼を辞任に追い込み,次のザルダーリー文民政権も軍事クーデターを国家反逆に値するとみなしたことで,軍指導者にも法の裁きが及ぶ可能性が生まれた[山根 2015, 55-56]。このような変化を背景に,以後軍は一歩引いて国民の批判を受けるリスクを避けつつ,政府に背後から影響力を行使して利益の維持を図る手法に転じたようにみえる。しかし,政党は軍部への批判を展開しても,批判の対象は特定の軍人とその周囲にとどめている。加えて選挙で選ばれたパキスタンの諸政権は軍の歓心を得ることで政権の安定と野党への牽制を行おうとする傾向があり,ムシャッラフ辞任後でもナワーズ政権による首都一等地の提供,PPPによる支持基盤であるスィンド州の土地の提供など,軍への便宜供与競争を政党が繰り返していた事実がある[Siddiqa 2022, 38]。軍と政府の間にこのようなもたれ合いが存在するので,軍の利害もかかわるKBD建設問題には,政党が政権の座を得た際には踏み込むことを避けるようになると考えられよう。

その成立に際し軍の支持があったと度々指摘されるイムラーン政権下では,コロナ禍にもかかわらず軍人の給与は上昇した上,コロナ禍に対処する中枢機関として設置された国家司令・運営センター(National Command and Operation Center)は軍関係者が参加しており,これまで純粋に民生分野とみなされていた分野にまで軍が進出するようになった[Siddiqa 2022, 38]。

ここで,KBD計画に対するパキスタンの言説に目を向けてみることにする。まず,KBD建設支持派は,スィンド州内の反対派に対し強く批判を加えてきた。たとえば元パキスタン海軍提督アフザル・ターヒルは「いんちきなスィンドの利害の擁護者らはなぜ,インドによるダム建設に反対しないのか」と述べた[Tahir 2015, 192]。スィンドによるKBD計画への批判を不当とする退役軍人の主張だが,このなかではアユーブ軍政期にインダス川水利協定締結がスィンドの頭越しになされた事実が考慮されていない。

そのスィンド州内陸部のインダス川沿岸には肥沃な氾濫原が広がる地域があり,ワデーラーと呼ばれる大地主が小作者に土地を貸して収入を得ているが,氾濫原内での営農は課税を免れる場合も多い。ワデーラーからのKBD建設反対の声は強いが,建設支持派はその理由を「(ワデーラーが)自らの支配力に影響が出るのを恐れているため」と批判する[Ali 2015, 78-79]。この批判はスィンド州内陸部の社会構造の問題を突いているようだが,抜本的な農地改革を求める声はKBD建設支持派の間からもほとんど出てこなかった。

さらに,「KBD建設反対派の背後に小刀をちらつかせたラーム神(インドのこと,筆者)がいる」[Nawaiwaqt 2011, 9 March],「インドはKBD計画でパキスタン国内に分断を起こし……,KBD建設反対派の政治家や数十万の人々に資金提供している」というように[Shāhid 2019],KBD批判の動きをインドの手先と決めつける,「インド陰謀論」とでも呼ぶべき言説がある。だが,これらの新聞記事はいずれも根拠を示していない。

こうした言説は一部の扇動的な勢力だけの話でなく,TCWRの委員を務めたアリーですら「他のダムに反対する意義もKBDと同じであるのに,外国の機関はバーシャー・ダムや他のインダス川のダムへの反対運動にかかわってこなかった。それは,KBD予定地がパンジャーブにあるので,スィンド・パンジャーブ間の水をめぐる対立を煽ることができるからだ」と述べたことがある[Ali 2015, 82]。「外国」がインドを指すのは明らかで,インドがKBD問題を利用してパキスタン国内の分断を煽っているとの意だが,根拠は示されていない。アリーはKBD建設で移住を求められる人々についても,「中国の三峡ダムでは80万人の人々が移住した。これに比べ8万3000人という数は取るに足りない」と述べて(注48),移住を求められる人々を軽視するかのような態度を露見させている。

インド陰謀論と近似しているが,スィンドの水問題の原因をパキスタン建国運動期以来の「ヒンドゥー支配」スローガンと結びつける言説がある。たとえば,「ラージャー・ダーヒル(注49)は,ムルターン,カシュミールに至る広範な地域を支配したが,水の管理をうまくできなかったことが原因で,これらの地域は衰退した」というものがある[Khān 2018, 179]。

このように現在の社会問題にコミュナリズムを持ち込む手法は問題の本質を隠してしまう。ただし,インドが2007年からパキスタンが水利権を有するジェラム川上流でキシェンガンガー水力発電計画に着手したように(注50),インド政府の行動が「インドによるパキスタン水利権の侵害」という言説に説得力を与えてしまっている点は付言しておきたい。

以上,水問題に関連する言説には,水資源問題の解決をダム建設に求め,インドの指嗾(しそう)を指摘する傾向がある。しかし言説の問題は発信者の問題に限定せず,パキスタン政府と軍の関係のなかで考察していくべきかもしれない。既述のようにWAPDA経営への進出を通じ,水利事業は軍の一大権益となっている。そしてパキスタン軍の特権的立場は印パ対立のなかで正当化されてきた。印パ対立はパキスタン軍の集団利益の核心であるため,パキスタン軍は印パ関係の抜本的な改善を望んでいないとさえ言われる[Nasr 2005, 191]。言説拡散へのパキスタン軍の直接関与があるかは不明だが,仮に「インドがKBDを含むインダス水系開発計画の進展を妨害している」という見方が広まれば,パキスタン軍やインダス水系開発計画への支持は高まり,軍の組織全体にとって好都合となることだけは間違いない。

中国の「一帯一路」政策の一環をなす「中国・パキスタン経済回廊(China-Pakistan Economic Corrido: CPEC)」のパキスタン側事業担当局(CPEC Authority)(注51)の初代議長にはパキスタン軍の退役将校アーシム・サリーム・バージュワが就任した。「一帯一路」の実施にはパキスタン軍による治安維持活動は不可欠な上,CASA-1000の実施にもターリバーンとかかわりの深い3軍統合情報局(ISI)の関与は不可避とみられる。これらのなかでパキスタン軍の果たす役割は拡大していくと予想される。

その後の軍とイムラーン政権の関係悪化は2022年4月の同政権不信任の要因となり,改めて軍の政治的影響力の強さが示された(注52)。後継となったシャフバーズ・シャリーフ政権はPML-Nに加えPPPも参加する連立政権だったが,閣内の意見調整の困難さや,軍との流動的な関係性ゆえに,インダス水系の開発計画に大きな影響を与えることはなかった。

 おわりに

KBD建設計画は長い歴史をもつが,今日まで着工されずに計画段階にとどまっている。ムシャッラフ政権は軍と9・11事件後の国際関係を背景にKBD計画を推進しようとしたが,実現しなかった。

デヴァッシャーによればKBD計画が進まない要因は「小さな州がパンジャーブ州に対して抱いている不信感が問題であり,パンジャーブ州が他州の権利を踏みにじるのではないかという過去の経験にもとづいた懸念が背後にある」という[Devasher 2016, 221]。州間の不信感のみに問題の原因を求めることはできないが,やはりその比重は大きく,パキスタンの国家統一を揺るがしうる問題だけに,軍政であってもKBD建設の強行はできなかったというのが実情であろう。KBD計画が膠着した背景には反対派の不安をふまえた回答をしないパキスタン政府の態度,連邦-州,州間相互の不信感に加え,公正で民主的な手続きを通じた不信感の除去がなされなかったことがある。IRSAやCCIも機能を果たせていない。歴史的に蓄積された相互不信のもとでは,KBDによって確実な貯水が可能なのか,また仮に可能だとしても公平に水が分配されるのかというスィンド州側の疑念を容易には払拭できないだろう。もはや貯水の必要性や貯水能力の向上という必要性の議論だけではKBDの是非を論じることはできなくなっているのである[Dawn 2008, 28 May]。そして,政党やマス・メディアもその溝を埋める役割を担ってこなかった。

KBD問題には独立後70年以上国内の利害調整に苦闘し,国家全体の利益とスィンド州を中心とする地域的な利益が二項対立的に受け止められる状況を克服できないパキスタンの現実が影を落としている。本来KBD建設のような国民生活を大きく左右しうる問題において国内対話と信頼醸成が促進されれば,多民族国家パキスタンに作用しているさまざまな遠心的要因を克服する契機になり得るのだが,かかる動きは今のところ実現していない。

人口増加が進む状況のなかで,KBDをはじめ国民生活を大きく左右する水分野にパキスタン軍が関与することは,今後のパキスタン政治における軍の影響力の保全に直結する。水問題へのパキスタン軍の積極的な関与に先鞭をつけたのはムシャッラフ政権だが,彼の辞任後は他の分野への関与を強めて新しい形での政治的影響力の維持を図っているとみられる。そのなかでパキスタン軍はKBD計画推進の立場は堅持しつつ,少しずつ水利事業への姿勢を変えてきた。すなわち,KBD計画が停滞するなか,タルベーラー・ダムやディアーミル・バーシャー・ダム水力発電ダムが先行着手されるという展開がみられた。それを中国の「一帯一路」構想という外在的要因が後押ししたのは言うまでもない(注53)。KBDに関する議論の行き詰まりをよそに,他のダム建設が進められているのである。その意味で確かに,現在パキスタンの水利計画全体におけるKBDの地位は相対化している。軍がKBD以外にも水利計画を推進できる選択肢を得て,州間対立の再燃を招きかねないKBD計画を無理に提起する必要がなくなったことが計画膠着の大きな背景にある。

それでもなお,これまでKBD計画の存在がインダス川水利開発についての議論をパキスタン国民の間に広げてきたことは事実である。2021年2月には首相在任中だったイムラーンが食糧増産のためのKBD建設の意義を強調した[The Express Tribune 2021, 19 May]。さらに,2022年6月からパキスタンを襲った大洪水はパキスタンの3分の1を冠水させる大きな被害をもたらした。被害が大きかったのはパキスタン南部だが,小論で言及したノーシェラーも被災地となった[Jang 2022, 30 August]。大洪水の背景には地球温暖化もあるため,ダムだけでは洪水対策とはならないのは自明であるが,今後治水ダムの必要性が叫ばれ,KBDが再び注目される可能性もある。軍の政治的影響力を受け続けているパキスタン政府が今後ダムや水利事業の計画を進めようとするとき,それを正当化するための象徴的なプロジェクトとして,KBD建設計画は俎上に載せられると考えられる。

(東京福祉大学留学生教育センター特任教授,2021年10月21日受領,2023年6月9日レフェリーの審査を経て掲載決定)

(注1)  パキスタン統計局によれば2020/21年度では,同国の電力源の内訳は火力が62パーセント,水力27パーセント,原子力7.7パーセント,風力・太陽光等3.1パーセントである。Pakistan Bureau of Statistics July 2022, Trends in Electricity Generation 2006-07 to 2020-21, 3. 火力発電の燃料はほぼ半分が天然ガスで,残りの半分が石炭・石油である。

(注2)  President’s Press Conference: KBD, 12 December 2005(以下, President’s Press Conference: KBD). これは[Subzwari 2006]の巻末資料に収められている。同書はKBD建設の必要性を強く説いているが,巻末にKBDをはじめとするダム関連の調査報告書を収めていて,史料集としての価値を有する。小論も同書所収の史料を参照する。

(注3)  [Subzwari 2006]もスーフィーとほぼ同じ立場で書かれている。

(注4)  Report to the President of the International Bank for Reconstructure and Development as Administrator of the Indus Basin Development Fund 1967. “Study of the Water and Power Resources of West Pakistan.” Volume Ⅱ. July 28, 1967, 183.

(注5)  Comments by Saiyid Naqvi, 11 February 2000 to World Commission on Dams(WCD)Case Study. Tarbela Dam and Related Aspects of the Indus River Basin Pakistan. Final Report. November 2000, Annexes and Appendices.

(注6)  前身の全国人民党以来,KBD建設に一貫して反対してきた人民全国党(Awami National Party: ANP)は,「1975年(ママ)にタルベーラー・ダム事業が終了して以来,WAPDAはKBD建設に道筋をつけるため,すべての水や発電プロジェクトを拒否してきた」と,KBD建設はWAPDA内で引き継がれてきた意志であるとみなしている。なお,WAPDAには買弁行為への関与も指摘される。米国の援助も得て建設されたマングラー・ダムの建設工事をWAPDAが担当した際,現場労働者の「健康管理」と称して検尿や採血を行い,米国の製薬会社の検体用に提供していたとの告発がある[Hasan 2016, 44]。https://anp.org.pk/(最終アクセス2022年4月14日)

(注7)  この背景については[近藤 2019]を参照。

(注8)  Interim Accord Opening of Chashma-Jhelum Link during 1972.

(注9)  Government of Sindh 1973. No. GS/B/173, dated October 16.

(注10)  石油輸入額は1972/73年度の64億9100万ルピーから1981/82年度の180億4620万ルピーへと大幅に上昇した[Akhtar 1983, 443]。

(注11)  当時のパンジャーブ州首相はナワーズ・シャリーフであった。

(注12)  なお1999年の試算によれば,KBD建設によってパンジャーブ州で移住を迫られる人々の数は7万8000人であった[Subzwari 2006, 46]。

(注13)  この協定は通称Water Apportionment Accord 1991と呼ばれ,法律ではなく,あくまでパキスタン4州の合意という扱いであった。正式名はApportionment of the Waters of the Indus River System between the Provinces of Pakistanである。

(注14)  [Subzwari 2006]の巻末資料,Government of Pakistan, Report of Technical Committee on Water Resources including Report of Seven Members of the Committee with Comments of the Chairman(以下,TCWR Report). PartⅡ, 39-40.

(注15)  地下水位上昇は塩害の原因となるので,チューブウェルは農村での塩害対策に用いられていた。しかしその濫用が地下水枯渇を引き起こすことは言うまでもない。

(注16)  Report of Pakistan Human Rights Commission 2000, 262-263.

(注17)  https://www.edf.org/media/world-commission-dams-build-consensus-out-dam-controversies(最終アクセス2022年12月31日)。

(注18)  WAPDA Reports 1998. これらのダムによる水力発電により,当時の年間発電能力2.4ギガワット中54パーセントが賄えると述べられている。

(注19)  [Sūfī 1998, 30-41]の巻末資料,WAPDA Reports 1998: Pakistan Engineers Forum. 21 August, Lahore(以下,WAPDA Reports 1998).

(注20)  1994年3月にベーナズィールは向こう10年間,海外の投資者に1キロワット時の電力使用料を0.65米ドルという低価で認める政策を導入したが,これが不正に権利転売されてWAPDAの経営を圧迫することになった。

(注21)  WAPDAはパンジャーブ州以北で水利事業と水力発電を行い,この地域における独占的な電力供給体となっており,海外からの支援が入るインダス川でのダム建設施工主はほぼWAPDAであった。

(注22)  2003年にボン国際軍民転換センター(Bonn International Center for Conversion: BICC)は,軍が行う組織的な営利活動をmilbusと呼んだ。militaryとbusinessを組み合わせた造語である。軍や防衛省庁が直接関与する場合もあれば,軍団単位で行われる場合もあって運営形態は多様である。[Siddiqa 2017, 161-202]は,パキスタン軍の政治的影響力の増大期が営利事業の成長期と並行していることを論じている。

(注23)  TCWR Report. PartⅠ, 1-5.

(注24)  TCWR Report. PartⅡ, 74.

(注25)  アリーは「なぜ権力の側がアッバーシーを議長に指名したのかは謎」と述べている。[Ali 2015, 87]。こうした内部対立もあり,アッバーシー自身は少なくとも2度辞任を申し出たが,ムシャッラフが撤回させた。TCWR Report. PartⅠ, 6-13.

(注26)  TCWR Report. PartⅡ, 77.

(注27)  TCWR Report. PartⅡ, 73-76.

(注28)  President’s Press Conference: KBD.

(注29)  President’s Press Conference: KBD.

(注30)  President’s Press Conference: KBD.

(注31)  President’s Press Conference: KBD.

(注32)  綿花はパキスタンの重要な外貨獲得源だが,4月中旬~6月中旬のハリーフ前期は,もともと大量の水を消費する綿花栽培のなかでも,とくに多くの水が必要になる時期である。

(注33)  WAPDA Reports 1998. 洪水防止による間接的な経済的利益が毎年14億4000万ルピーと見込まれていた。

(注34)  [Palijo 2003, 131]。パリージョーはスィンド人民運動(Sindh Awāmī Tehrīk.現在はAwāmī Tehrīk)を率いた指導者である。

(注35)  2003年のTCWRの委員指名は,カラーチーのWAPDAレストハウス内で行われた。これ自体がパキスタンの水関連事業におけるWAPDAの関与の深さを物語る。この時のWAPDA議長ズリフィカール・アリー・ハーンも退役軍人であった。

(注36)  TCWR Report. PartⅠ, 9.

(注37)  TCWRはこの調査の進行内容を知ることが可能な立場にあった。

(注38)  [Subzawari 2006]の巻末資料,Gonzalez, Fernando V, Thinus Basson, and Bart Schultz. Final Report of IPOE (International Panel of Experts) for Review of Studies on Water Escapages below Kotri Barrage. Delft, the Netherlands, 20th November 2005, 1-2.

(注39)  https://balochistanvoices.com/2018/06/the-case-against-kalabagh-dam/(最終アクセス2022年4月13日)。

(注40)  2005年の国際調査団の研究は,この問題を「国家の責任で考慮すべき」とした。

(注41)  WAPDA Reports 1998.

(注42)  そもそも,2000年にパキスタンがWCDでタルベーラー・ダムの事例研究報告を行ったとき,報告のなかでは同ダム建設後に栽培に多量の水を必要とするサトウキビ栽培がスィンド州で増加し,水の需要量がかえって上昇したと述べられていた。貯水だけで水不足解決に直結するとは限らないことは,かつてのパキスタン政府も認めていたのである。[Subzwari 2006]の巻末資料,Final Report November 2000, “WCD Case Study: Tarbela Dam and Related Aspects of the Indus River Basin of Pakistan.”, 99.

(注43)  寄付はパキスタン中央銀行の全支部で受付可能で,ナショナル・バンクをはじめとする指定銀行でも可能となった。海外からの寄付も受付られるようになっていた。

(注44)  Pākistān Pīplz Pārtī kā Intekhābī Manshūr 2018.[パキスタン人民党2018年選挙綱領],19.

(注45)  [パキスタン人民党2018年選挙綱領],44.

(注46)  KBDに関する議論をパキスタンの国語であるウルドゥー語で行うことを忌避したこともある[Dunyā 2012, 9 December]。

(注47)  https://anp.org.pk/(最終アクセス2022年4月14日)。

(注48)  [Ali 2015, 76]。1999年にパンジャーブ州だけで7万8000人の移住が見込まれた。その後の人口増やKP州からの移住も考えると,この数はさらに大きくなるとみられる。

(注49)  スィンド最後のヒンドゥーの支配者で,712年にウマイヤ朝に敗れて死亡した。

(注50)  パキスタン政府はこれをインダス川水利協定への違反として常設仲裁裁判所に提訴したが,訴えは退けられた。

(注51)  同局はパキスタン政府の計画・開発・特別イニシアティヴ省内に設けられている。

(注52)  軍との関係悪化の背景について,イムラーンは当時の陸軍参謀総長カマル・ジャーヴェド・バージュワの任期延長希望の申し出に自分が耳を貸さなかったことが一因であるとしている[The Nation 2023, 2 February]。

(注53)  ただし,中国のダム建設支援は発電に直結する対象に限定されており,生活・農業用水確保や治水のためのダム建設にはさほど積極的ではないように見受けられる。

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