アジア経済
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書評
書評:杉田映理・新本万里子編『月経の人類学――女子生徒の「生理」と開発支援――』
世界思想社 2022年 302ページ
岩佐 光広
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2023 年 64 巻 4 号 p. 63-66

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Ⅰ 月経をめぐるグローバルな動向のなかで

2010年代中頃から,月経(生理)をめぐって市民,企業,国家,NGO/NPOなどによるさまざまな活動が世界規模で展開されるようになった。そのうねりは2020年代に入った現在,ますます大きなものになっている。月経を取り巻く環境は,世界的に大きな変化を迎えているといえる。

本書では,そうした月経をめぐるグローバルな動向のなかでも,特に国際開発の文脈において「解決すべき課題」として認識されるようになった月経への対処行動,すなわち「月経衛生対処(Menstrual Hygiene Management: MHM)」に焦点が置かれている。国際開発の課題としてのMHMとは,「女性と思春期の女子が経血を吸収する清潔な生理用品を使い,それをプライバシーが確保される空間で月経期間中に必要なだけ交換でき,石鹼と水で必要な時に体を洗い,使用済みの生理用品を破棄するための設備にアクセスできること」(23ページ)である。2015年の持続可能な開発目標(SDGs)の採択をひとつの契機として,開発途上国や新興国において国際機関や各国の開発支援機関,国際・ローカルNGOなどがMHMに関するさまざまな活動を展開している。

本書の第1の目的は,MHMをめぐる国際的な動きが急速に広がるなかで,開発途上国における月経を取り巻くローカルな文脈とそこで人びとが行う「日常的な実践」としての月経への対処行動(以下,月経対処),特に各地の学校に通う女子生徒の月経対処の現状を,文化人類学の視点と手法を用いて記述することである。そして,文化人類学の知見や方法を国際開発に応用する開発人類学の視点に立ち,第1の目的のもとで記述された内容を比較することで,国際開発の現場でのMHM支援に対して示唆を与えることが第2の目的とされる(12~13ページ)。

本書は人類学者の手によるものであるが,第2の目的に示されているように,おもな読者として想定されているのは国際開発にかかわる人たちや関心をもつ人たちと考えられる。また,本書については,佐藤寛氏による開発学および開発人類学の立場からの簡にして要を得た書評[佐藤 2022]もすでに発表されている。とはいえ,タイトルが『月経の人類学』である以上,文化人類学の立場から本書を評することも的外れの作業ではないはずである。そこでこの書評では,文化人類学において重要な作業であり,また本書でも繰り返し言及されている「相対化」という観点から本書を評してみたい。

Ⅱ 本書の構成と内容

本書は3部構成である。序論と11の章に加えて,各章のあいだには,多面的な現象である月経をいろいろな角度から考えるための手がかりとして,月経に関連するさまざまなトピックを取り上げたコラムが配置されている。また巻末には,月経に関する文化人類学を中心とする研究書,一般書,中高生向けの本をまとめた基本文献リストも載せられている。ここでは,各章の内容を中心に,3つの部に分けて本書の構成と内容を概観することにしよう。

まず第Ⅰ部「グローバルな開発課題となった月経」では,国際開発の課題としてのMHMの内容とそれが国際的な課題となっていく歴史的な経緯の概説(第1章)と,文化人類学における月経研究のレビュー(第2章)が行われることで,本書の前提となる知識が提供される。

続く第Ⅱ部「各地域のローカルな文脈と月経対処」では,本書の第1の目的と対応して,各地域の月経を取り巻くローカルな文脈とそこでの女子生徒による月経対処について記述されていく。取り上げられている地域は,オセアニアのパプアニューギニア(第3章),東南アジアのインドネシア(第4章)とカンボジア(第5章),南アジアのインド(第6章),東アフリカのケニア(第7章)とウガンダ(第7章,第8章),中米のニカラグア(第9章),そして東アジアの日本(第10章)である。各国の特定の地域を対象とした現地調査をもとに,それぞれの地域の月経に関する考え方や規範,知識,月経教育の内容や実施方法,生理用品の流通状況,トイレなどの月経対処に関連する施設や水環境,使用済みの生理用品の廃棄の仕方など幅広いトピックと関連づけながら,女子生徒たちが日常的に行っている月経対処の現状が描かれる。

そして第Ⅲ部「MHM支援の実践にむけて」では,本書の第2の目的と対応して,第Ⅱ部の各地域の記述を整理しながらMHM支援に対する示唆が示される。そこでは,MHMに関する取り組みを行う上で考慮すべき点が,地域ごとに異なりうる6つの「変数」というかたちでまとめられている。すなわち,(1)月経や経血や月経中の女性をどうみているのか,捉えているのかという観念を示す「月経観」,(2)対象国が実施している月経対処に関連する「政策」,(3)学校を中心に行われている「月経教育」のカリキュラムや内容,(4)「生理用品」の取り扱い方や交換の頻度,(5)使用済みの生理用品の「廃棄」の仕方と設備,(6)生理用品の交換や破棄の場としての「トイレ」である。そして,これらの変数を意識しながら当事者の声を聞き,現地の月経を取り巻く状況を把握することが,MHMあるいは月経対処について支援をする上で肝要であることが主張される(第11章)。

Ⅲ 世界を経由して日本を見つめ直す

このように本書は,現地調査にもとづく8カ国の月経対処の事例を一冊にまとめており,この点が他書にはみられない本書の強みといえるが,おもしろいのは開発途上国とともに日本の事例が含まれていることである。たとえば,保健医療関係の本であれば,日本の月経の事例は,「先進国」とされる欧米諸国の事例とあわせて示されそうであるし,通常の人類学の本であれば,この地域のラインナップのなかに日本の事例を加えることはあまりないように思う。編者の一人である杉田は,「現地調査が一段落して本書を企画する時期になって,改めて,月経をめぐる問題は途上国特有のものではなく,日本でも課題が多いことに気づき,日本についての章も立てることにした」(13ページ)と述べている。

加えて杉田は,「日本を含めることで,本書の読者の方々にも日本と各地の状況の類似点・相違点を相対化してとらえていただけるのではないかと考えている」(13ページ)とも述べている。それを促すための仕掛けとして本書では,パプアニューギニアから西回りで各地の事例を並べ,最後に日本の事例を配置するという構成がとられている。こうした章構成は,国立民族学博物館(みんぱく)の地域展示の手法を思い起こさせる。みんぱくの地域展示は,オセアニアを出発して東回りにアメリカ,アフリカ,ヨーロッパ,アジア各地域をめぐり,最後に日本展示に至る展示構成となっている。それを通じて「日本の文化を世界のなかでみる」という相対化の意図がそこには込められている。本書もまた,事例を通じて開発途上国の月経対処の現状を学ぶとともに,その上で日本の事例を読むことで,ヨーロッパや北米の事例を経由した場合とも異なるかたちで「日本の月経対処の現状を世界のなかでみる」ことを促す構成になっている。複数の国や地域を取り上げるというだけでなく,こうした章構成の妙もまた本書を特徴づけている。

このように本書は,途上国の月経対処の事例を通じて,国際開発の現場でのMHM支援に対して示唆を与えることとともに,読者に対して日本の月経対処をめぐる状況を相対化することも意図されている。その点で本書は,国際開発に関係する者や関心のある人だけでなく,幅広い人たちにとって一読に値する一冊である。

Ⅳ 月経をめぐるジェンダー意識を相対化する

筆者が本書を通読して一番感じたことを率直に述べれば,それは自分が月経対処についていかに無知であったかということであった。男性の人類学者である筆者にとって,その無知さには2つの面がある。1つは,筆者は東南アジアのラオス人民民主共和国の低地農村部でフィールドワークを行ってきたが,調査地において月経対処がいかに営まれているのかについてほとんど知らないという面である。第Ⅱ部の各章の記述を読みながら,自分がラオスのフィールドにおいて,そもそも月経対処に関して知ろうともしてこなかったことを痛感させられた。もう1つは,日本の月経対処の現状についてもほとんど知らないことに加え,MHMという観点から日本の状況を考えてみるということもなかったという面である。たとえば,第10章の中学校のトイレ環境の記述のなかで,「トイレの個室のなかには棚がなく,ナプキンを一時置く場所が全くない」(256ページ)という指摘があるが,そうした観点からトイレ環境を考えたことはなかった。

しかし,単に無知であることを痛感しただけでもない。こうした月経についての無知への気づきは,同時に,本書で述べられていることに留まらず,開発途上国でも日本でも月経対処についてもっと知るべきこと,考えてみるべきことがまだまだあることにも気づかせてくれるものであった。その点で,筆者にとって本書は,月経対処をめぐる認識を「無知から未知へ」と変えてくれるものだった。

筆者個人の読後感を述べることは,書評において避けるべきことかもしれない。しかしそれでもこうしたことを述べたのは,筆者が感じた月経対処についての無知さは,少なくない読者が共有するものではないかと考えるからである。1つ目の点については,きっと人類学者をはじめとするフィールドワークを行う研究者の多くが,そして2つ目の点については少なくない男性が,程度の差はあれ感じることではないだろうか。だとすれば本書は,広くフィールドワークを行う研究者に,そして特に男性の研究者に手にとってほしい一冊であるといえる。

ただ,この点との関連でいえば,本書の著者の大半が女性であるという執筆陣のジェンダー構成について,本書のなかで意識的に議論する必要があったのではないだろうか。なぜなら,女性研究者が各地域の女性をおもな対象として,女性の研究者が月経対処を調査し論じるという本書の基本的な構図は,第7章の椎野とカルシガリラの表現を借りれば「「月経は女のこと」というジェンダー分化した意識」(187ページ)を言外のメッセージとして読者に与えてしまう可能性があるからである。そしてそのことは,男性の読者に対して,「女性のことである月経を女性が論じること」を,その外側からみるという構図を生み出してしまう。つまり,男性の読者を「他者化」してしまう危険性もあるのである。本書で取り上げている月経対処は,特にこうした事態が生じる可能性の高いテーマではないだろうか。

こうした印象を読者に与えることは本書の意図するところではないだろう。であるならば,女性研究者を主とする執筆陣の構成について,それが意図的なものであれ意図的でないものであれ,本書の論点のひとつとして取り上げる必要があっただろう。それは,本書の著者自身が自分たちのジェンダーについて相対化する作業といえる。こうした著者側による相対化の作業を示すことは,上述したリスクを回避するというだけでなく,読者の側にも月経をめぐるジェンダー分化された意識を相対化してみる契機を生み出すという積極的な意味ももつであろう。

Ⅴ 「私たち」を相対化する

最後に,MHM支援に対する本書の意義を,相対化という観点から簡単に述べておきたい。ロバート・チェンバース(Robert Chambers)は,参加型開発や参加型調査法のように国際開発における住民参加の重要性を主張してきた論者として知られているが,同時に開発実践者である「私たち」について批判的に問い直すことの重要性も強く主張してきた[チェンバース 2000]。開発プロジェクトの問題の多くは,住民側よりも,「私たち」のバイアスによって生まれていると考えているからである。そのバイアスは,「私たち」の社会的立場や専門性とともに,「私たち」が暮らす社会の価値観や規範などによってもたらされるものであり,それらのことに無自覚なままでは適切かつ意義のある開発実践は実現できない。「私たちこそが問題であり,問題解決の鍵は,私たち自身の変化に求められなければならない」[チェンバース 2000, 38]のである。まさに,開発実践者側の相対化の重要性を説いているのである。

このチェンバースの指摘は,MHM支援においてもあてはまる。開発途上国でのMHM支援を実践においては,本書で主張されているように,対象地域の月経をめぐるローカルな文脈を適切に理解し,当事者の声に耳を傾けることが大切である。だが同時に,支援を実施する側の「私たち」の月経に関する認識を批判的に,そして継続的に見直すこともまた重要なのである。そのためには,支援を実施する側の社会的立場や専門性だけでなく,日本社会の月経をめぐる価値観や規範,慣習,月経対処の現状,月経を取り巻く環境について知り,そのなかで構築されている「私たち」の月経に関する認識を批判的に考えてみることが求められる。その点で,開発途上国の月経対処の現状を記述すると同時に,それを通じて日本の状況を相対化することも試みている本書は,MHM支援にかかわる人たちにとって必読の一冊である。

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