アジア経済
Online ISSN : 2434-0537
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論文
1980年代後半の日本の対南アフリカ政策――追加規制の導入過程の検討――
牧野 久美子
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2024 年 65 巻 3 号 p. 37-60

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《要 約》

本稿の検討対象は,アパルトヘイト政策をとる南アフリカに対する国際社会の非難が最も高まり,また南アフリカの主要貿易相手国である日本に対する批判も高まった,1980年代後半の日本の対南アフリカ政策である。1980年代後半,日本は3段階にわたって対南アフリカ規制措置を追加した。この日本の対応は,先行研究においては「外圧」への反応として理解されてきたが,本稿では,3段階の追加規制のうち第2段階までは「外圧」というより西側諸国との横並びの協調として解釈することが妥当であり,第3段階にあたる1988年の貿易自粛措置については,米国の包括的反アパルトヘイト法に基づく対日制裁の脅威を背景としており,「外圧」の影響を認められることを,外交史料の検討を通じて明らかにした。また解放運動組織という非国家主体ながら積極的な「外交」を繰り広げていたアフリカ民族会議(ANC)との接触・関係構築が,日本の対南アフリカ政策に与えた影響について検討した。

Abstract

This article examines Japan’s foreign policy toward South Africa in the late 1980s. This was a period when international condemnation of South Africa’s racist apartheid policies was at its highest, and criticism directed toward Japan, one of the major trading partners of South Africa, increased as well. In the late 1980s, the Japanese government strengthened its regulatory measures against South Africa in three phases. In the literature, such Japanese responses have been generally characterized as passive reactions to external pressure from the international community. This article argues that it is appropriate to characterize the first and second phases of additional regulations in the context of policy coordination within the Western bloc, while in the third phase, Japan tightened trade restrictions as a direct response to external pressure from the United States, which was considering introducing sanctions against Japan under the Comprehensive Anti-Apartheid Act. The paper also examines the influence of Japan’s engagement with the African National Congress, which was then a liberation movement organization, on the formulation of Japan’s foreign policy toward South Africa. In this analysis, Japanese diplomatic documents that have recently been made public in accordance with the “30-year rule” were examined, along with archival documents housed by universities in South Africa and Japan.

 はじめに

Ⅰ 先行研究の検討

Ⅱ 冷戦文脈下のアパルトヘイト問題

Ⅲ 対南アフリカ規制措置の段階的強化

Ⅳ ANCとの接触・関係構築

 おわりに

はじめに

国連総会は〔1988年12月〕5日〔中略〕,南アフリカ共和国のアパルトヘイト(人種隔離)政策を強く非難,特に同国との最大の貿易相手国である日本に対しては,名指しで貿易関係を断絶するよう求めた厳しい内容の制裁決議を,賛成国123,反対12,棄権19で採択した。日本側は,アパルトヘイトに反対する政府の対南ア姿勢を説明し,「名指しは不適切」と主張したが,聞き入れられなかった。総会決議に強制力はないものの,南アの人種差別政策への国際的非難が高まっている中で,「経済大国・日本」への風当たりが強まることは避けられず,日本としては経済界をも含めて対南ア政策の再検討を迫られていくことになろう(以下,亀甲括弧内筆者,丸括弧内原著)[朝日新聞 1988]。

アパルトヘイト(apartheid)として知られる南アフリカにおける一連の人種差別政策の廃止は,国際連合(以下,国連)においてその設立後の早い時期から取り組まれた課題であった。国連文書のデジタル・データベースによると,タイトルに「アパルトヘイト」という単語を含む国連総会の決議・決定は1952年から1994年までに合計293件採択された(注1)。人種別三院制議会の導入を機とする国内の抗議運動の高まりに対して,南アフリカ政府が一部地域に非常事態宣言を発令した1985年には,国連の安全保障理事会(以下,安保理)において,南アフリカへの新規投資停止など広範囲にわたる経済措置を講じることを加盟国に要請する決議が採択された[United Nations 1985]。この決議に法的拘束力はなかったものの,1980年代後半には国連総会において毎年20件以上,ピーク時(1989年)には年間36件もの関連決議が採択されるなど(注2),アパルトヘイト問題は国連の主要議題のひとつとなっていた。1980年代後半,アパルトヘイト政策を続ける南アフリカに対する国際社会の非難は一段と高まり,同時に南アフリカへの経済制裁に消極的とみなされた国に対する国際社会からの批判も強まった。1980年代後半に南アフリカの最大の貿易相手国となった「経済大国・日本」は,そうした批判の主要なターゲットとなり,冒頭に示した新聞記事が報じた国連総会での日本の名指し非難決議採択に至った[United Nations 1988]。

本稿が注目するのは,国際社会の南アフリカに対する圧力が最も高まり,また南アフリカの主要貿易相手国である日本に対する批判も高まった,1980年代後半の日本の対南アフリカ政策である。1985年の国連安保理決議以降,日本政府は数度にわたり,南アフリカに対する追加的な規制措置を発表したり,南アフリカとの貿易額を減らすべく,経済界への働きかけを行ったりした。本稿は,こうした動きが,日本の外務省内のどのような情勢認識や判断に基づき形成されたのかを,一次資料に即して検討しようとするものである。分析には主として「30年ルール」に基づき近年公開された日本の外交史料を活用し,あわせて南アフリカの解放運動アーカイブ(Liberation Movements Archives, University of Fort Hare),日本の反アパルトヘイト運動関連資料(立教大学共生社会研究センター),およびデジタル化されインターネット上で利用可能な諸外国の政府や議会の資料を補助的に用いる。

以下,本稿では,先行研究の検討と本研究の視角の提示(第Ⅰ節),冷戦文脈下での日本を含む西側諸国のアパルトヘイト問題への対応の概観(第Ⅱ節)を行った上で,1980年代後半の追加的な対南アフリカ規制措置の導入過程(第Ⅲ節),および同時期のアフリカ民族会議(African National Congress: ANC)との接触・関係構築の影響(第Ⅳ節)を順に検討する。

Ⅰ 先行研究の検討

アパルトヘイト体制の南アフリカに対する日本の外交政策に関する先行研究のアプローチは,その説明において「外圧」を重視するものと,日本の経済的・戦略的利害を重視するものとに大きく分けられる。

「外圧」を重視する議論の土台となるのは,カルダーの「外圧反応型国家」(reactive state) 論である。カルダーは日本の対外政策について,経済大国であるにもかかわらず能動的(proactive)な外交を行わず,外部,とりわけ米国からの圧力がかかってはじめて対外政策に変化が生じる特徴があると論じた[Calder 1988]。カルダーの議論はもともと日米貿易摩擦を背景とする貿易政策の変化を念頭においたものであったが,その後,政府開発援助(ODA)など,対発展途上国の政策についても「外圧反応型国家」論の枠組みが応用され,同概念をめぐる論争を通じて日本の対外政策研究は深化してきた[オアー 1993; Miyashita 1999; 宮下 2004a; 保城 2017]。

「外圧反応型国家」の議論は,日本の対アフリカ政策の説明にもしばしば援用され,それがアフリカとの二者間の関係に関する長期的な視野に基づいて形成されるというより,欧米諸国や国連など,アフリカ以外の第三者のそのときどきの動きへの反応として理解されるべき点が多いことが強調されてきた[佐藤 2007; 高橋 2010]。1980年代後半に日本が対南アフリカに対する規制措置を追加したことについては,佐藤誠は「南アの現状以上に日本が世界一の南アの貿易相手国となったことで急激に高まった欧米諸国や国連での日本批判への対処策としてとられた側面が強い」[佐藤 2007, 9]と述べている。また高橋も,貿易自粛要請などにも踏み込んだ1988年当時の外務省の対応について,「タイミングから言っても明らかに虐げられた人々への連帯感と言うよりも,むしろ米国をはじめとする第三者への『反応』だった」としている[高橋 2010, 18-19]。冷戦後にはアフリカ開発会議(Tokyo International Conference on African Development: TICAD)開催や国連平和維持活動への自衛隊派遣などを通じて,単なる「反応」にとどまらない,日本の対アフリカ外交の「理念」の立ち上がりが観察されているが[遠藤 2013; Shirato 2022],冷戦期の日本の,対南アフリカ政策を含むアフリカ政策については,総じて「反応」的な性質のものとして理解されてきたといえる。

他方で,アパルトヘイト期の南アフリカ-日本関係に関する先行研究においては,日本の対南アフリカ政策を規定してきた要因として,政府・与党(自民党),および経済界の経済的・戦略的利害を重視する議論も提示されてきた。すなわち,南アフリカが日本の経済発展に欠かせない鉱産資源の供給国であり,また日本と南アフリカが冷戦文脈においてともに西側世界の一員であったという事情と,冷戦期の南アフリカ白人政権と日本政府・経済界のあいだの良好な関係とが結びつけられて論じられてきたのである[森川 1988; Morikawa 1997; Ampiah 1997; Osada 2002; Alden and Hirano 2003; Cornelissen 2018]。このような研究視角は,冷戦期の南アフリカ-日本関係について一貫した説明を与える一方で,1980年代後半,日本政府が限定的とはいえ対南アフリカ追加規制措置を導入したり,ANCと接触し,黒人支援を強化したりしたことについては,国際社会および国内からの批判をかわすための表面的な取り繕いにすぎないと,そこに何らかの実質的な変化を見出すことに否定的となる傾向がある。そうであればこそ,政策の変化に着目する場合には,変わらぬ経済的・戦略的利害のなかでも「状況対応的に矛盾を残したまま」[高橋 2010, 17]変化が起きることが,「外圧」概念を援用して説明されてきたという側面がある。

これらの先行研究は日本の対アフリカ政策,対南アフリカ関係の性質を理解する上で大変有益である。しかし「外圧」に注目する研究は,日本の対アフリカ政策全体を解釈する枠組みとして「外圧反応型国家」論を援用しており,対南アフリカの表に現れる政策的対応に至るまでに政府内で実際にどのような議論が行われたのかが十分に検討されてきたわけではない。日本の外交政策が「外圧」の影響を受けやすいという一般的な傾向が認められるとしても,特定の事例についての「外圧」の有無やその中身については,個別具体的な歴史分析が不可欠であり[保城 2017, 142],日本政府が対南アフリカ政策に関して「外圧」を受けたといえるのかどうか,「外圧」をどのように認識し,対処したのかを一次資料に即して検討する余地は大いにあるだろう。他方,日本の経済的・戦略的利害に注目する研究は,表面的な変化にもかかわらず一貫して存在し続ける両国間関係の構造を強調するあまり,反アパルトヘイトの国際世論の高まりや解放運動との接触が対南アフリカ政策に何らかの実質的な変化をもたらしたのかどうかを十分に検討してこなかった(注3)。そこで本稿は,1980年代半ばから後半(おおむね 1984~88年)の日本の対南アフリカ政策が外務省内のどのような情勢認識や判断に基づいていたのかを一次資料を用いて検討することで,これらの研究ギャップの一部を埋めることを試みる。

分析にあたっては,以下の2点にとくに留意する。第一に,宮下は,カルダーの研究を発端とする日本外交の受動性と自主性をめぐる論争を整理するなかで,日米の利害が対立する事例において日本が米国の要求通りに行動すれば「外圧」の影響力を確認できるが,日米のあいだで利害の対立がない場合には,米国の要求どおりの政策を日本がとったからといって,そこに「外圧」がどれほど影響したかを判断できないと論じ,「外圧」の分析において日本の利害に十分な注意を払う必要性を指摘している[宮下 2004b]。この指摘をふまえ,本稿では,対南アフリカ関係に関する日本の利害が,米国や他の西側諸国の利害と一致していたのか,対立があったのかに留意する。結論を先取りすれば,米国での包括的反アパルトヘイト法の成立(1986年10月)以前には,日本と米国を含む他の西側諸国とのあいだに対南アフリカ政策に関する大きな利害の対立はなく,日本の対南アフリカ政策は西側諸国間の協調に特徴づけられていた。しかし,米国で包括的反アパルトヘイト法が成立し,米国企業に代替する形で南アフリカとの貿易を伸ばす日本への批判が米国内で高まると,対南アフリカ政策に関して日米のあいだでの利害の対立が生じ,日本は米国からの「外圧」を強く受けることとなった。

第二に,本稿では,従来の研究で「外圧」の主たる源泉とみなされてきた欧米諸国とりわけ米国との関係だけでなく,解放運動組織からアパルトヘイト後には政権与党となったANCとの接触・関係構築が,検討対象とする時期の日本の対南アフリカ政策の方向性,とりわけ経済制裁をめぐる対応にどのようにかかわったのかに留意する。当時のANCは,非国家主体でありながら,国連やアフリカ統一機構(Organisation of African Unity: OAU)において南アフリカ人民の代表としての正統性を認められ(注4),南アフリカの白人政権を国際的に孤立化させ,自らの解放運動への支援を動員するための「解放の外交」[Thomas 1995]を積極的に繰り広げていた。近年,南アフリカ政治史・外交史研究において,解放運動組織時代のANCの外交の研究が蓄積されてきているが[Thomas 1995; Pfister 2003; Ndlovu 2004; Graham 2015],それらの先行研究において,日本については「西側諸国」の一部として周縁的に扱われる以上のことはこれまでほとんどなかった。しかし,1980年代後半のANCが対南アフリカ経済制裁を,反アパルトヘイトの国際世論を動員し,各国からの解放運動への支持をとりつけるための「切り札」として重視していたことを考えれば[Crawford 1999, 15; Graham 2015],南アフリカとの貿易額を年々増加させ,ついには世界第1位にまでなった日本への対応は,ANCにとっても無視できない重要性をもっていたと考えられる。解放運動組織時代のANCと日本政府のあいだの接触や関係構築が南アフリカ-日本関係に及ぼした影響は,先行研究において十分に掘り下げられてこなかった主題であり,この点に注目することによって本稿は,この時期の両国関係をより立体的に浮かび上がらせることを試みる。また,ANCからの働きかけが日本の政策変更(追加的な規制措置の決定)に影響を与えた可能性を探ることは,「外圧」とそれに対する日本の反応についての,米国や西側諸国との関係性以外を含めたより多角的な理解にも資するであろう。

Ⅱ 冷戦文脈下のアパルトヘイト問題

国連による南アフリカのアパルトヘイト政策の問題への取り組みは,その設立からまもなく始まった。南アフリカにおける人種差別的な法規制導入は19世紀末から20世紀初頭にかけてのインドなどアジアからの移民流入が重要な契機となっており[山本 2022],国連で最初にアパルトヘイト問題に関する問題提起をしたのは,南アフリカにおけるインド系住民に対する人種差別的な扱いに懸念を有していたインドであった[Dubow 2008]。1960年前後に多くのアフリカ諸国が植民地支配からの独立を果たし国連に加盟すると,アフリカ諸国もアパルトヘイト政策の廃止を強く主張した。1962年の国連総会決議に基づき設立された国連反アパルトヘイト特別委員会(United Nations Special Committee against Apartheid)(注5)は,解放運動組織やグローバルな反アパルトヘイト運動とも連携しながら,国連加盟国に対する経済制裁の要請や情報キャンペーンなど,国連におけるアパルトヘイト問題に関する活動を中心となって促進し,人種平等の国際規範形成に重要な役割を果たした[Konieczna 2019; Klotz 2002]。1974年には国連総会への南アフリカ代表の参加資格が停止され[DIRCO 2019],他方で亡命ANCの指導者オリバー・タンボ(Oliver Tambo)は1976年,同年6月のソウェト蜂起の悲劇から間もないタイミングで国連総会に招かれ「南アフリカ多数派人民の代表として」スピーチを行い解放運動への支援を訴えた[Reddy 1991]。1977年には国連安保理が強制的な措置としては初めてとなる武器禁輸を決議し[United Nations 1977],翌1978年は「国際反アパルトヘイト年」と定められるなど,解放運動への国際社会の支持を獲得するための国連を舞台としたANCの「外交」努力は,1980年までに一定の成果をあげた[Graham 2015, 67]。

しかし同時に,1975年に独立したモザンビークとアンゴラにおける社会主義政権樹立に伴い,冷戦文脈下の南部アフリカに対する東西両陣営の戦略的利害は高まっていった。西側諸国では保守政権の成立が相次ぎ,1979年にマーガレット・サッチャー(Margaret Thatcher)がイギリス首相に就任し,1980年には米国でロナルド・レーガン(Ronald Reagan)が大統領選に勝利した。人権外交を展開し南アフリカ政府に批判的だったジミー・カーター(Jimmy Carter)政権からレーガン政権への交代により,米国の対南アフリカ政策は「建設的関与」(constructive engagement)へと大きく転換した[Nesbitt 2004, 111-113]。サッチャー,レーガンとも,アフリカ大陸におけるソ連の影響力への対抗上,南アフリカとの関係を重視した。冷戦の文脈が西側諸国の南ア政策を方向づけていたのがこの時期の特徴であり,ソ連の支援を受けていたANCに対する米国,イギリス,フランスなどの西側諸国政府からの対応は冷淡なものであった。

日本政府の南アフリカ情勢の認識や対応も,こうした冷戦文脈のなかで形成されていた。日本のアフリカ外交を「ホワイト・アフリカ」政策と「ブラック・アフリカ」政策の二元外交として整理した森川は,1970年代半ば以降の日本のアフリカ外交について,ブラック・アフリカとの対話や援助を強化して友好関係を演出しつつ,「ソ連の急速な軍拡とそれを背景とした第三世界各地への進出による西側世界への脅威の増大」,また日本の国力増加を背景として「西側世界の共通利益擁護のために日本のいっそうの貢献」が必要という「政策決定者の冷戦史観的な状況認識」に基づき,実際には親プレトリア政策を展開したことを指摘している[森川 1988, 124-125]。加えて,南アフリカ-日本関係の歴史を両国間の貿易関係と外交政策の関連に着目して論じる先行研究が指摘してきたように,南アフリカで産出される稀少な鉱産資源は,日本経済の発展にとって欠かせないものであるとみなされてきた[Ampiah 1997; Osada 2002]。二階堂進,石原慎太郎ら,南アフリカとの関係強化・国交正常化を目指す自民党議員らにより1984年6月に結成された「日本・南アフリカ共和国友好議員連盟」(以下,友好議連)の趣意書には,「高度な産業製品を輸出することで成り立っている日本経済にとって,南アフリカ共和国が埋蔵し産出する稀少金属は〔中略〕致命的な意味を持って」おり,南アは「日本並びに西欧先進国の命脈を握っている」とあり,このような利害認識が如実に現れていた(注6)

政府の表向きの公式見解は,与党議員による友好議連結成への見解を社会党の井上一成議員から国会で問われて安倍晋太郎外務大臣(肩書は当時,以下同じ)が答弁したように,「南アのアパルトヘイト政策に強く反対」で,「一貫して国連等の場においてこの基本的態度を表明してきて」いるというものであった(注7)。また,同じ答弁において安倍外務大臣は,南アフリカとの関係について,「我が国は領事関係にとどめ,外交関係は有していない」と述べ,友好議連が南アフリカとの国交正常化を目的として明確に掲げていたのとは距離をおいた(注8)。友好議連には森山眞弓外務政務次官が名を連ねていたが,1984年末に「誤解を招く」として同議連から退会した[毎日新聞 1985a(注9)

しかし,外務省内においても,省内の議論においては,冷戦文脈における西側陣営にとっての南アフリカの重要性を強調し,南アフリカとの関係を強化しようとする意見が強かったことが1983年度アフリカ大使会議の様子からみてとれる。1983年9月に開催されたアフリカ大使会議において,熊谷直博在プレトリア総領事は次のように述べている。

南アについては,その人種差別政策だけが強調され,他の面,つまり日本を含めた西側の安全保障にとって重要な国であるという面が忘れられがちであるので,この点を強調したい。我が国の対南ア政策については,勿論ブラック・アフリカ諸国,第三世界の反応をみることは必要であるが,ナミビア独立の機会を待つことなくできる分野から緩和を検討していくべきである。〔中略〕南アのアパルトヘイト政策を人種差別政策と翻訳しているのは,誤りであり,正しくは種族ごとに分離発展させていく政策ということである。南アの白人自身が生きるか死ぬかの問題としてやっており,その動機,理由,内容についてもっと理解すべきである(注10)

出席していた他の大使からは,日本だけがスケープゴートにされないよう慎重に対応していくべきだ,といった意見も出されたものの,全体的にはスポーツ,教育,文化交流などの分野で「出来るところから緩和につき検討していくべきであるとする意見が強かった」と記録されている(注11)

また1984年1月の管内情勢報告において熊谷総領事は,南アフリカの「東西対立のコンテクストで見た場合の南アの世界戦略上の重要性」を指摘し,「ANCを支援して南アの白人支配を崩壊せしめ」ようとする「ソ連の意図と脅威」に触れ,「西側自由主義陣営にとって南アは手放すことのできない極めて重要な国」であると記している。そして国連における各種の対南アフリカ制裁決議に関しては,西側諸国は「大義名分及び第3世界との係り合いからこれに真向から反対することができ」ないが,「このように南アを弱体化させることが果して西側にとって長期的に見て利益であるのかどうか」と記している(注12)。これが熊谷総領事の個人的な意見であるにとどまらず,南アフリカとの関係強化への積極姿勢が外務省内で共有されていたことは,たとえば1984年4月,駐日南アフリカ総領事が外務省を離任挨拶に訪れた際の,「両国関係は不幸にして制限されてはいるが,良好である」旨の松永信雄外務次官の発言にもみてとれる(注13)。同年には,実現には至らなかったものの南アフリカのピック・ボータ(Pik Botha)外相の訪日と安倍外務大臣との会談の準備がすすめられ,日本・南アフリカ両国間で正式な外交関係の樹立といった公然たる政策変更を伴わない形での投資規制の事実上の緩和の可能性も探られていた(注14)

1970年代末から上記のアフリカ大使会議開催や友好議連結成などがあった1983~84年にかけては,カラードおよびインド系(アジア系)住民に選挙権を拡大する三院制議会導入を軸とする新憲法を制定するなど,南アフリカ政府が「改革」姿勢を国内外にアピールしている時期であった[Welsh 1984]。反アパルトヘイト市民団体「アフリカ行動委員会」が送付した公開質問状に対して,友好議連が回答書において次のように述べているように,そうした「改革」は,日本と南アフリカとの関係強化の試みを正当化する理由づけに用いられた。

アメリカ合衆国においても,黒人がその地位を獲得するのに長い時間を必要としましたし,現在でもこの問題を完全に払拭できた訳ではありません。同様に,南アフリカ共和国においても,黒人の労働組合権を認め,アジア人,カラードの国民議会への参加を認めるなど,ようやく改革への第一歩を踏み出したところです。改革には,永い時間と数々の困難の克服が必要でしょうが,私達は,日本と南アフリカ共和国の議員の交流等を通じて,こうした改革の実現を実質的に促していき,より深い両国の友好関係を目指して努力していきたいと思います〔引用文中の改行は筆者が削除した〕[アフリカ行動委員会 1985, 38]。

しかし,三院制議会導入はカラードとインド系住民に対して選挙権を拡大するものであったものの,人口の大部分を占めるアフリカ系黒人の政治的排除は変わらず続いた。そのため南アフリカ国内ではアパルトヘイトに反対する労働組合,学生組織,教会組織などの国内勢力を結集した「統一民主戦線」(United Democratic Front: UDF)が結成され,抗議行動が激化した。南アフリカ政府が主導する「改革」への国際社会への悲観は,1985年8月にP. W. ボータ(Peter Willem Botha)大統領が行った,いわゆる「ルビコン・スピーチ」において表明された改革の不十分さによって決定的となった。「ルビコン・スピーチ」の前月,1985年7月に採択された国連安保理の対南アフリカ経済措置の決議は,イギリス・米国が同意しなかったため,強制力のないものにとどめられた[United Nations 1985]。しかし,「ルビコン・スピーチ」は南アフリカ政府主導の改革による事態打開への西側諸国の期待を急速にしぼませることになった。西側諸国のなかでもとくに親南アフリカの姿勢が鮮明であったイギリスのサッチャー首相でさえ,「ルビコン・スピーチ」は「期待はずれ」であったという失意表明の書簡をボータ大統領に送ったことがイギリスの外交文書公開によって明らかになっている(注15)。「ルビコン・スピーチ」の後,西側諸国の経済制裁の動きが一気に加速化することになる。

Ⅲ 対南アフリカ規制措置の段階的強化

「ルビコン・スピーチ」の後,日本の対南アフリカ規制措置は3段階で強化された。まず1985年10月9日,安倍外務大臣談話により,(1)南アフリカの軍隊,警察等アパルトヘイト執行機関の活動に資する電子計算機の輸出禁止,(2)クルーガーランド金貨その他の南アフリカ産金貨の輸入自粛要請,(3)黒人の地位向上のための南部アフリカに対する人造り協力拡充,(4)南アフリカに事務所を有する企業に対する平等かつ公正な雇用慣行の遵守要請,の4つの追加的な措置が表明された(注16)。次に規制措置が追加されたのは1986年9月で,(1)銑鉄・鋼材の輸入禁止(既契約分を除く),(2)南アフリカ国民に対する観光査証発給停止と日本国民の南アフリカ観光の自粛要請,(3)南アフリカとの航空機相互乗り入れ停止,(4)国家公務員の南アフリカ航空機国際線使用禁止の4点の追加措置が後藤田正晴官房長官談話の形で発表された(注17)。さらに1988年には,外務省および通商産業省(以下,通産省)から民間企業に対して対南ア貿易自粛要請が行われた(注18)

第1段階の1985年の安倍外務大臣談話は,「ルビコン・スピーチ」の後,1985年9月から10月にかけて米国,欧州共同体(European Community: EC),英連邦が限定的な経済制裁を導入したのとほぼ同時期に出されたものであり,「諸外国との協調の下に南ア政府に対しアパルトヘイトの撤廃を促すべく」発表されたものとされた(注19)。また,第2段階の1986年の後藤田官房長官談話は,同年6月,ソウェト蜂起10周年を目前にして全国に非常事態宣言が発令され,国際社会から南アフリカに対するさらなる非難や追加制裁が相次ぐなか,9月のECの追加措置発表のすぐ後に日本も追加的な規制措置を発表したものであった[Levy 1999, 417]。

1986年9月の追加措置の導入にあたっては,その発表直前に「追加制裁措置については,我が国が置かれている国情,国際社会における責任等を総合的に勘案し,真に効果的な限定制裁を米・ECと協力して行う」(注20)とする日本の立場が確認されているように,西側諸国としての協調と横並びが強く意識されていた(注21)。1986年9月の追加措置については,石炭輸入禁止が入るかどうかがひとつの焦点であった。石炭をめぐっては,鉄鋼業界から外務省に対して対南アフリカ措置に石炭輸入規制を含めないことを求める陳情が行われたが,これに対する外務省の柳谷謙介事務次官の応答は,通産省や業界団体とのやりとりを通じてその問題を十分に認識し,外交努力を重ねているとしつつも,「日本以外の西側主要国が一致して石炭輸入規制に踏み切った場合,日本のみが石炭を除外しうるか」ということについて,中曽根康弘首相が「国際協調は重要」と述べていることに言及し,「最終的には総理のご判断を仰がねばならないことも排除できない」というものであった(注22)。外務省は,「EC並びに米が石炭の禁輸を打ち出した場合,我が国としても石炭を含めざるを得ない」(注23)との覚悟を決めていたが,最終的にEC諸国内での合意が成立せずECの追加制裁措置から石炭禁輸が外れたことで,日本の追加的規制措置からも石炭輸入制限が外れることとなった。

その翌月の1986年10月には,米国で大統領拒否権を覆して包括的反アパルトヘイト法(Comprehensive Anti-Apartheid Act of 1986)が成立した。同法には,この法律に基づく制裁や禁止措置から利益を得る第三国に対して輸入制限を行う権限を大統領に与え,また同法の制裁措置により南アフリカでの経済活動の中止や縮小を余儀なくされる米国民に対して,同措置から利益を得る外国企業や個人に対する訴訟を起こす民事訴訟権を付与する条項が含まれていた(第402条および第403条)(注24)。これらの条項について外務省内では,米国と並び南アフリカの最重要貿易相手国となっていた日本の企業行動を強く意識した項目であると理解され,米国から日本への圧力が高まるという予期が形成された(注25)

同法には1年ごとに追加規制を検討することを定める条項があり(第501条),同法成立から1年後の1987年10月から11月にかけて,米国議会(連邦議会上院・下院)で南アフリカ問題に関する公聴会が開催された。これはちょうど日本が米国を抜いて南アフリカの貿易相手国1位となることが確実となったタイミングと重なった[Auerbach 1987]。上院公聴会では,包括的反アパルトヘイト法によって米国企業が南アフリカ関連のビジネスを縮小するなか,その間隙を突く形で南アフリカとの貿易を伸ばしていた日本の問題が取り上げられ,証言者の1人からは「日本の企業で南アにおいてまたは南アと事業を行っているものの製品の対米輸入を禁止する立法を打ち出す」点を含む勧告が出された(注26)。議会外でも,たとえば「サリヴァン原則」で知られるレオン・サリヴァン(Leon Sullivan)牧師が日本の企業と政府を強く批判し,米国黒人による日本製品のボイコット運動の可能性を示唆していた[Auerbach 1987]。同時期の1987年11月に首相に就任した竹下登首相への外務省作成のブリーフィング資料には,米国の包括的反アパルトヘイト法との関係で日本の対南アフリカ貿易が米国内で問題化していることが南アフリカ問題に関する日本外交の「当面の問題点」として,次のように書かれていた。

米国の反アパルトヘイト法の効果浸透に伴い,これまで常に1位を占めていた米国の対南ア貿易が減り,我が国の対南ア貿易が相対的に目立つこととなった。我が国は,1986年11月通産省を通じ関係業界に対し,米国等がとった対南ア規制措置の効果を損なうことのないよう対南ア貿易の自粛要請を行ったが,円高の影響もあり,ドル=ベースで日・南ア貿易は1位を占めるに至った。国際社会の非難が高まりつつある他,米国内では,我が国企業が米国企業の穴埋めをしているのではないかとの観点から問題化しつつあり,今後の推移如何によっては,日本製品がアメリカ市場から規制されることも排除し得ない(注27)

1988年1月に日本のドルベースでの対南アフリカ貿易額が前年と比べて大きく伸びたことが公式統計からも明らかになると,同月末には外務省の恩田宗中近東アフリカ局長が経済団体連合会(経団連)を訪問し,南アフリカとの貿易の自制を経済界に求めた(注28)。これは通産省の頭越しに行われたものであったため(注29),通産省が強く反発し,南アフリカとの貿易自粛をめぐる両省間の対立が新聞で報じられるなど,政府内の足並みの乱れが顕在化した[高橋 2010, 17(注30)。しかし,米国議会のおもに黒人議員から構成される「ブラック・コーカス」(Black Caucus)が竹下首相に抗議の書簡を送るなど,対日制裁の可能性も含めた米国内の圧力が高まるなか,2月末までには外務省だけでなく田村元通産大臣も南アフリカとの貿易自粛への支持姿勢を明らかにした[Schoenberger 1988]。

以上より,これらの対南アフリカ規制措置は,先行研究が指摘するように,タイミングにおいてもその内容においても,アフリカ以外の第三者,とりわけ欧米の西側諸国との関係性のなかで形作られたものであったことが一次資料からも裏づけられた。ただし,1986年9月の後藤田官房長官談話の段階では,日本だけが他の西側諸国と比べて国際社会からとくに厳しい非難を受けていたわけではなく,西側諸国のあいだで,「南ア問題の平和的解決」のために「緊密な協議」に基づき「西側諸国が一致して行う」ものとして追加措置が検討されたのであった(注31)。先に,1986年の追加措置について「真に効果的な限定制裁」という方針のもとで策定されたことをみたとおり,ここで西側諸国が「一致して行」ったのは,企業活動に大きな影響を与える包括的制裁ではなく,南アフリカ政府に対話を促す政治的シグナルとして必要最小限の限定制裁であった。すなわちこの第2段階までは,日本と他の西側諸国のあいだに対南アフリカ政策に関する利害の対立はなく,限定的な追加措置の決定は,「外圧」の影響によるものというよりも,西側世界の一員としての,横並びの協調として理解するのが適当であるように思われる。

他方,第3段階の1988年2月の貿易自粛要請については,1986年に包括的反アパルトヘイト法が成立した米国からの制裁の脅威という「外圧」が深くかかわっていたといえる。先に引用した竹下首相へのブリーフィング資料では,南アフリカに対する経済制裁について「アフリカ諸国を中心とした国際社会は,対南ア全面的経済制裁を我が国を含む西側諸国に求めている」が,「我が国は,経済制裁が国内企業に与える影響も考慮して,部分的経済規制(投融資規制,部分的貿易規制)に止めている」(注32)との説明がなされており,日本政府として,経済的国益の観点から,これ以上の規制の追加を望んでいなかったことは明らかである。にもかかわらず貿易自粛要請に踏み込んだのは,米国による対日制裁の脅威があったからであり,米国からの「外圧」によって日本政府が自らの利害認識に反する対応をとるに至ったと考えられる。

対南アフリカ政策について日本と米国のあいだの利害対立が生じた背景には,米国内の反アパルトヘイト運動の高まりがあった。米国政府はもともと包括的反アパルトヘイト法案には反対で,南アフリカへの経済制裁には消極的であった。包括的反アパルトヘイト法の成立を可能にしたのが米国内の人種問題への取り組みとも結びついた反アパルトヘイト運動であったことを考えれば[Klotz 1995a; 1995b; Nesbitt 2004],グローバルな反アパルトヘイト運動の主張や人種平等規範が無視できない重みをもつようになったことが,「外圧」となって日本政府を貿易自粛に動かしたとみることもできるだろう。

Ⅳ ANCとの接触・関係構築

前節でみたように,1985年から1988年にかけて,日本の対南アフリカ規制措置が段階的に強化された。その動きと並行して外務省内では南アフリカの解放運動との接触と関係構築が模索された。本節では,南アフリカの解放運動のなかで当時最有力であり,民主化後には南アフリカ政権与党となるANCと日本政府とのあいだの接触・関係構築の過程を跡づけ,それが南アフリカ-日本関係に何らかの変化をもたらしたのか,もたらしたとしたら,それはどのような点においてであったのかを検討する。

管見の限り,ANCとの接触・関係構築を外務省内で最も早い段階から提言したのは黒河内康タンザニア大使で,同氏は1985年9月に本省に送った意見具申において,ANC,PAC等の解放運動団体との接触要領を見直し,積極的接触をすすめることを提言した(注33)。黒河内は外務省内でアフリカ課長を含めアフリカ関連の業務に長く携わってきた人物で,タンザニアに赴任する以前のローマ勤務時代に,亡命ANCのローマ事務所の駐在員と「何かの席で立ち話などしてそれなりに興味を失わないように」[黒河内 1988, 24]する程度に,すでに交流があった。タンザニアは南アフリカの解放運動勢力の主要な亡命拠点国のひとつであり,タンザニア大使館はANCやPACの動向をよくフォローし,頻繁に情報を本省に送っていた。

1985年11月には,タンザニア・モロゴロにある亡命ANCメンバーの子弟のための教育機関「ソロモン・マシャング解放学校」(Solomon Mahlangu Freedom College: SOMAFCO)の学生,バルンギレ・シェンベ(Balungile Shembe)が来日した。シェンベを招いたのは国連青年年をきっかけとしてつくられた大阪の市民団体(国際青年年大阪推進協議会)であり(注34),外務省が直接関与したわけではなかった。しかし,毎日新聞の取材に対してシェンベが「もし日本政府が認めてくれればANCの事務所を東京に開設したい」という発言したことが報じられると[毎日新聞 1985b],外務省内ではANC東京事務所設置に関する内々の検討が行われ,過去にアルジェリア国民解放戦線(Front de Libération Nationale: FLN)の極東代表部が東京に設置された際の経緯をふまえ,ANCが日本国内に事務所を開設するのに政府の許認可を受ける必要はないこと,および,それぞれ外務大臣と法務大臣の自由裁量行為である査証発給や在留資格付与が認められれば,ANCメンバーが日本に滞在してANC事務所の活動を行うことに法的な問題がないことが確認された(注35)

1986年1月に外務省はANCと非公式に接触する方針を固め,実施に移した。1986年1月8日に外務大臣宛に送った文書のなかで,瀬崎克己在プレトリア総領事は,自身が1985年末に南アフリカ外務省幹部と面談した際,日本政府がANCとハイレベルで接触することについて異議を唱えないと伝えられたことをふまえ,亡命ANCが本部をおくザンビア・ルサカにおいて,大使レベルでの接触を検討するよう本省に対して意見具申した(注36)。その5日後の1月13日には,本省からザンビア大使館宛に,同月中に予定されていたアフリカ第二課長の出張時にANC要人とのアポイントメントをとるよう指示が出された(注37)。それまでは,「ANCが南ア政府により非合法化(1960年)されていることに鑑み」(注38)日本政府としてのANCとの接触を控えてきたとされていることから,日本政府のANCとの接触を南アフリカ政府が容認する姿勢を示したことは,この方針転換を後押しする材料となったと考えられる(注39)

こうして1986年1月20日,ルサカのANC本部において,初めて日本政府とANCの非公式の会談が行われた。会談において日本側(天木直人アフリカ第二課長ら)は,日本の「アパルトヘイト反対の一貫した基本姿勢と南ア制裁措置等」について説明するとともに,ANCに対して「テロ行為を止め話合いによる解決に向けて努力する」よう要請した(注40)。それに対してANC側(パロ・ジョーダン〈Pallo Jordan〉情報局長ら)からは,日本が南アフリカと太い経済関係をもち結果的に南アフリカ政府を利していることを残念に思っており,貿易規制を求めたいという趣旨の発言が行われた。また平和的解決を求めるという日本側の発言に対しては,ANC側は長年にわたる非武装運動が効果を上げないことが明白となったための「最後の手段」として暴力に訴えているのであり,無差別に人命を犠牲にするのではなく攻撃対象を「真の敵」に限定していると応じた(注41)

この会談は,その後の1987年4月のANCタンボ議長来日,1988年5月のANC東京事務所の開設へとつながる,日本政府とANCのあいだの政策対話の第一歩となった[天木 2004, 130-132]。1987年4月のタンボ議長来日時には,形式的にはアフリカ協会の招聘という形であったが,倉成外務大臣との会談に加えて,先進主要7カ国(G7)の首脳のなかでは最初となる中曽根首相との面会もセットされ,日本の各界とANCのあいだの「相互理解の深まり」[天木 1987, 9]が演出された。日本におけるANC事務所開設の要請にも,外交特権は与えられないが,事務所をおくことは問題ないという前向きな回答がなされ,翌年のANC東京事務所開設への道が開かれた[アフリカ協会 1987]。

しかし,ANCが求める貿易規制を伴う経済制裁に関しては,日本政府とANCの立場のあいだの大きな隔たりは埋まらなかった。日本側は40万ドル規模の南アフリカ黒人支援などの方針を示す一方で,南アフリカにとって当時世界で2番目の貿易相手国であった日本に対してタンボ議長が貿易規制について「大胆な一歩を踏みだして欲しい」と求めたのに対して[アフリカ協会 1987],日本側は「貿易以外のあらゆる関係において制限的措置を講じて」おり,南アフリカとの貿易についても関係業界への自粛指導を行い「確実に制限的になってきている」という日本政府の見解を説明するにとどめられた(注42)。ANCのジェリー・マツィーラ駐日代表は,1989年3月に作成した報告書(ANC本部向けと思われる)において,1988年5月のANC事務所開設からの10カ月間に5回にわたり外務省と会合をもったが,「アパルトヘイト体制に対する意味のある制裁」を求めるANC側の要求に対して日本政府側が「具体的なことを何もしない」というフラストレーションを率直に綴っている(注43)。1990年2月,ネルソン・マンデラ(Nelson Mandela)釈放直後にまとめられた対南アフリカ政策に関するメモには,早くも「南アに対する制裁解除の検討」が項目に含められており(注44),民主化交渉を解放運動に有利に進めるためにも経済制裁の継続・強化が必要であるというANCの主張とは裏腹に,日本政府が制裁解除に前のめりであったことが窺える。マンデラの初訪日を控えた1990年10月にANC東京事務所からANC本部国際局に送られた報告書には,日本政府は経済的な封じ込め(economic muzzle)によって他国の政策を変えようという気がなく,「制裁を信じていない」(Japan does not believe in sanctions)と書かれており(注45),経済制裁をめぐる日本政府とANCの立場の隔たりは,最後まで埋まることはなかったのである。

経済制裁の効果や是非をめぐっては,賛否さまざまな見解が同時代的に存在していたが(その後も現在に至るまで論争は続いている)(注46),日本の外務省内においても対南アフリカ経済制裁をめぐり異なる意見が存在していた。天木は自身の著書でアフリカ第二課長時代を振り返り,「アパルトヘイト撤廃を南ア政府に本気で考えさせるには,もはや国際社会の一致した圧力の強化と,その手段としての経済制裁の強化しか残された道はない」との思いを強めていったと記し,「もし白人たちや日本人が,黒人の人権,生命を,われわれのそれと同じ尊さのものであると考えるのであれば〔中略〕傍観的態度は決してとれないはずである」と,経済制裁に関する自らの考え(政府内で必ずしも支持を得られなかった)を説明している[天木 2004, 110]。対して瀬崎在プレトリア総領事は,経済制裁によって南アフリカの白人社会の「孤立化をはかることは逆効果であり,積極的に幅広い対話を行うことが肝要」(1986年2月の意見具申)(注47)であるという考えを示していた。瀬崎は1987年の管内情勢報告では,「良識ある筈の西側主要国までが,制裁強化こそアパルトヘイト解消のための妙薬として,対南ア制裁措置を強化したが〔中略〕制裁は薬効を表すどころか,白人の団結を呼び掛ける格好の攻撃材料に逆利用されているのが実情である」(注48)と所見を記している。

タンボ来日に際して作成された中曽根首相および倉成外相向けに準備された応答要領で,「包括的強制制裁」の要請がなされた場合に「南ア問題の解決にとって包括的経済制裁が真に建設的かつ効果的役割を果たしうるか疑問」という回答が用意されており(注49),外務省としての経済制裁に関する公式的な立場は,上記の瀬崎総領事の見解に近いものであったといえる。瀬崎は「歴代の日本の駐プレトリア総領事のなかで,最も精力的に南アの黒人各層との政策対話に努めた」[天木 2004, 133-134]人物と評され,黒人指導者・ジャーナリスト・学生の日本招聘などの南アフリカ黒人支援を積極的に推進した。白人ばかりをゲストとして招いてきた天皇誕生日レセプションのあり方を改めることや(注50),「政府が対南ア貿易の振興を間接的に支援していることに他なら」ない日本貿易振興会(ジェトロ)の南アフリカ事務所の閉鎖を検討することなども提言していた(注51)。しかし同時に,南アフリカを国際社会でさらに孤立させるような制裁強化は望ましくなく,南アフリカ政府,ANCや他の黒人勢力を含め,全方位的に対話を深めることこそが大事であるという考えであった。前節でみたように,日本政府が対南アフリカ経済規制を限定的なものにとどめようとした背景には,日本企業への影響という経済的利害への考慮があった。しかし,上に引用した瀬崎総領事の意見具申は,外務省の制裁強化への消極姿勢が,単に日本の経済的利害の観点からだけでなく,南アフリカ現地情勢の分析に基づく,対話による平和的解決の促進という観点から導かれたものでもあったことを示唆するものである。

以上みてきたように,ANCからの働きかけは日本の対南アフリカ規制措置の強化にはつながらなかった。ただし,ANCとの接触が南アフリカ-日本関係に何の変化ももたらさなかったというわけではない。ここでは,日本の対南アフリカ政策における冷戦文脈の規定性が後退していったことを補足的論点として指摘しておきたい。

第Ⅱ節でみたように,1983~84年ごろには,ANCの背後にソ連の脅威をみてとり,それゆえに西側陣営に属する南アフリカの白人体制を擁護する議論が外務省内で公然と行われていた。日本政府にとってANCとソ連や共産主義との関係は重大な関心事であり,日本政府側はANCと接触するなかで,ソ連や共産主義との関係を繰り返し問うていた。1986年1月のルサカでの最初の会談において,日本政府の立場の説明と,それに対するANCの応答が一巡した後,日本側は「ANCと共産主義の関係」について問い,それに対してANC側はメンバーのなかに共産主義者が含まれること,また共産圏諸国からの支援を受けていることを認めつつ,「このことをもつてANCを共産主義集団とみるのは全くの誤りであり,ANCをおとしめる目的の宣伝である」と答えたと記録されている(注52)。また,1987年4月の倉成外相とタンボANC議長との会談用の発言要領にも,「国際社会の中にはANCを共産主義と結びつけて懸念を有するむきもあるので,今後ANCの言動においてかかる懸念が払しょくされるよう留意されることを希望する」との文言が含まれていた(注53)。タンボは会談後の記者会見で,この点が外相との会見で話題になったことに触れた上で,「ANCがソ連のコントロール下にあるとか〔中略〕ANCは南アフリカ共産党に支配されているとかいう」印象をしばしばもたれることについて,「そうでないことをあらゆる機会に説明して」きたと述べている[アフリカ協会 1987, 9]。また,タンボは日本の経済界の幹部らとも意見交換を行い,ANCの将来の経済政策について民間部門の役割を認める混合経済の路線を明確に示した[アフリカ協会 1987, 9;天木 1987, 10-11]。このようにタンボ議長が共産主義との関係についての懸念払拭に努め,ANCの経済政策について柔軟性を示したことは,日本政府と経済界に好意的に受け止められ(注54),以後のアパルトヘイト体制後を見据えたANCとの関係作りの土台となった。1988年5月にANC東京事務所が開設されると,駐日代表のマツィーラは,事務所の開設や運営を支援してきた共産党や社会党などの左派野党に加え,与党自民党とも積極的に接触した(注55)。1989年11月には自民党議員を含む超党派の反アパルトヘイト議員連盟が発足し,設立総会には自民,社会,公明,民社,共産,社民連の各党議員のほか,外務省中近東アフリカ局長,マツィーラANC駐日代表らが出席し祝辞を述べた[河上 1994, 211]。

このように日本政府がANCとの関係を深めることに,南アフリカ政府は不快感を隠さなかった。ANC東京事務所開設を数日後に控えた1988年5月,南アフリカ外務省幹部が堀内伸介在プレトリア総領事に対して,「ここ2-3年,在京南ア総領事館の日本国外務省へのアクセスが極めて限定され」ていることに言及し,「タンボANC議長が訪日した際には総理を含む政府首のうと会談したが,暴力を容認するANCにはかかるハイ・レベルでの接触を認め,正規の国交を有する南アの総領事が主管局長にすら満足に会えないというのは,どう考えてみてもおかしい話ではないだろうか」と強い不満を表明したと記録されている(注56)。このように,対南アフリカの規制措置に関しては,ANCの要求に応じる形で政策を変更することはなかったものの,タンボ議長招聘をはじめ,ANCとの政策対話の機会が重ねられ,関係構築がなされる一方で,日本政府と南アフリカ政府との距離は広がっていったことは,ANCとの接触・関係構築によってもたらされた南アフリカ-日本関係における重要な変化であったといえるだろう。

おわりに

1985年の「ルビコン・スピーチ」により,南アフリカ政府による「改革」可能性への失望感が西側諸国に広がるなかで,日本政府も他の西側諸国と協調しながら追加的な経済制裁を実施し,解放運動との接触・関係構築を行った。本稿ではその間の,対南アフリカ規制措置の追加や解放運動との接触・関係構築に関する日本政府の対応を,外交文書等から跡づける作業を行った。

日本政府のアパルトヘイト問題への対応について,「一貫してアパルトヘイトに反対」という日本政府の表向きの立場は本稿が検討した期間を通じて変わらなかった。しかし,「ルビコン・スピーチ」以前には外務省内でも南アフリカとの関係を強化すべきという意見が優勢であったのが,1985年後半以降,あからさまな親南アフリカ姿勢は後退し,南アフリカに対する追加的な規制措置が段階的に導入された。それまでは控えられていたANCとの接触と政策対話が始められ,1987年のタンボANC議長の訪日時には,倉成外相だけでなく,中曽根首相との会談をも実現させたのは,西側諸国のなかでも一歩踏み込んだ対応であった。日本は南アフリカ政府との距離を一方で広げつつ,ANCとの関係構築や黒人支援の強化をアパルトヘイト後の両国関係を見据えて徐々にすすめていった。

ただし,経済制裁に関しては,日本が南アフリカと太い経済関係を有していることを問題視して貿易規制を再三求めたANCの要求に日本側が応じることはなかった。段階的な規制措置の追加は,ANCとの接触・関係構築を契機としたものではなく,西側諸国との関係性のなかで形成されたものであった。本稿のこの知見は,アフリカ以外の第三国・地域,とりわけ欧米諸国との関係のなかでアフリカ政策が形成されるという先行研究の見解と重なるが,本稿は日本の利害に注意を払いながら「外圧」の影響を分析した結果,3段階で行われた日本の対南アフリカ規制措置強化のうち,第1,第2段階については西側諸国間の協調,第3段階については米国内の対日制裁論の高まりという「外圧」により説明することが適当であるという結論を得た。すなわち,米国での包括的反アパルトヘイト法の成立以前には,日本と米国を含む他の西側諸国とのあいだで対南アフリカ政策に関する利害の一致がみられ,西側諸国間での協調のなかで日本の対南アフリカ政策が形成された。しかし,米国で包括的反アパルトヘイト法が成立し,米国企業に代替する形で南アフリカとの貿易を伸ばす日本への批判が米国内で高まると,米国内で対日制裁論が高まり,対南アフリカ政策に関して日米のあいだでの利害の対立が生じ,日本は米国からの「外圧」を強く受けることとなったのである。

日本が南アフリカの貿易相手国第1位となったことが広く知られるようになった1988年には,日本政府や経済界に対する国際社会や国内の反アパルトヘイト運動による批判が最高潮に達した(冒頭で紹介した国連総会決議は1988年12月)。反アパルトヘイト運動の一環としての消費者ボイコットや制裁違反行為の告発などを受けて,1988年以降,スーパーマーケットが南アフリカ産製品の取り扱いをやめたり,電力会社が南アフリカ占領下のナミビア産のウラン輸入を取りやめるなどの動きが相次いだ[下垣 2007; 上林 2022]。しかし,これらは企業レベルでの対応であり,1988年はじめの貿易自粛要請の後は,政府による目立った追加規制はとられなかった。そのことからも,本稿の検討時期における日本の対南アフリカ政策が,単純に国際社会からの批判が高まったから規制措置を追加する,というようなものではなかったことが裏づけられる。

[付記]

本稿は,科研費基盤研究(C)「反アパルトヘイト国際連帯運動の研究:日本の事例を中心として」(JP26380227,2014~18年度),および日本貿易振興機構アジア経済研究所研究会「アパルトヘイト体制末期の南アフリカ―日本関係の重層的変容」(2020~21年度)の成果の一部である。2名の匿名査読者から,大変有益なコメントをいただいた。記して感謝申し上げる。

(アジア経済研究所地域研究センター,2023年3月22日受領,2024年2月9日レフェリーの審査を経て掲載決定)

本文の注
(注1)  United Nations Digital Library(https://digitallibrary.un.org/ アクセス日:2023年3月13日)による。

(注2)  United Nations Digital Library(https://digitallibrary.un.org/ アクセス日:2023年3月13日)による。

(注3)  近年,政財官への注目に偏っていた南アフリカ-日本関係研究のオルタナティブな側面として,市民による反アパルトヘイト運動に注目する研究も行われてきたが,これらの研究は反アパルトヘイト運動の社会運動としての性質におもに注目するものであり,それが南アフリカ-日本関係にどのような影響を与えたかに踏み込んだ分析は行われてこなかった[牧野 2022; 2023; Makino 2018; 2019; Makino and Tsuyama 2018]。

(注4)  1959年にANCから分離して設立されたパン・アフリカニスト会議(Pan-Africanist Congress: PAC)も,ANC同様,南アフリカ人民を代表する解放運動として国際社会に認知されていた(国連総会文書における南アフリカ人民の代表としてのANCとPACへの言及について,たとえばUnited Nations[1988]を参照)。筆者が閲覧した外交文書にはPACとの接触の記録も一部含まれているが(「本邦外交政策/南アフリカ(アフリカ民族会議及びパン・アフリカ会議との接触)」2020-0188,外交史料館ほか),その歴史を通じてPACメンバーが日本に常駐したことがなく,日本の政財官および市民社会との関わりがANCと比べて相対的に薄いことから,本稿では検討対象をANCに限定する。

(注5)  設立当初の名称はSpecial Committee on the Policies of Apartheid of the Government of the Republic of South Africaであり,1974年にこの名称に変更され1994年まで存続した。国連反アパルトヘイト特別委員会の資料は以下を参照。United Nations Special Committee against Apartheid Reports, Struggles for Freedom: South Africa, JSTOR(https://www.jstor.org/site/struggles-for-freedom/southern-africa/united-nations-special-committee-against-apartheid-reports/ アクセス日:2023年3月13日).

(注6)  「趣意書」の内容を含め,友好議連の設立とそれに対する反アパルトヘイト市民運動からの公開質問状送付など抗議の一連の動きについて,アフリカ行動委員会[1985]および,こむらどアフリカ委員会「COMRADE Anti-Apartheid News」66号,1984年10月10日発行(反アパルトヘイト運動関連資料・下垣桂二氏寄贈分,立教大学共生社会研究センター,R09)を参照。趣意書のテキストは森川[1988, 187-188]にも採録されている。

(注7)  第101回国会衆議院決算委員会議事録第15号,昭和59年7月20日,国会会議録検索システム(https://kokkai.ndl.go.jp/ アクセス日:2023年3月13日)。

(注8)  第101回国会衆議院決算委員会議事録第15号,昭和59年7月20日,国会会議録検索システム(https://kokkai.ndl.go.jp/ アクセス日:2023年3月13日)。

(注9)  同じく「誤解を招く」という理由で,南アフリカ駐在経験者の親睦団体「スプリングボック・クラブ」に加入していた現役外務官僚やOBが1985年2月に同クラブから退会した。第102回国会衆議院予算委員会議事録第11号,昭和60年2月16日,国会会議録検索システム(https://kokkai.ndl.go.jp/ アクセス日:2023年3月13日)。

(注10)  中近東アフリカ局 アフリカ第一課 アフリカ第二課「昭和58年度アフリカ大使会議討議概要(58.9.8~12 於 東京)」昭和58年9月,2019-1430,外交史料館。

(注11)  中近東アフリカ局 アフリカ第一課 アフリカ第二課「昭和58年度アフリカ大使会議討議概要(58.9.8~12 於 東京)」昭和58年9月,2019-1430,外交史料館。

(注12)  プレトリア総領事発外務大臣宛「管内情勢報告の提出(所見,政策提言)」昭和59年1月6日,2020-1167,外交史料館。

(注13)  外務大臣発プレトリア総領事宛「ボータ総領事の次官表敬」昭和59年4月23日,2016-0266,外交史料館。

(注14)  プレトリア総領事発外務大臣宛「フオンハーシュバーグ副次官とのこん談(日・南ア関係)」昭和59年7月2日,2016-0266,外交史料館,および,プレトリア総領事発外務大臣宛「ハタノ中近東アフリカ局長の当国訪問」昭和59年8月20日,2016-0266,外交史料館。

(注15)  “Letter from UK Prime Minister Thatcher to South African President P.W. Botha,” October 31, 1985, Wilson Center Digital Archive, Available via margaretthatcher.org/archive. Included in “Southern Africa in the Cold War, Post-1974,” edited by Sue Onslow and Anna-Mark Van Wyk (https://digitalarchive.wilsoncenter.org/document/118367 アクセス日:2023年3月13日). P. W. ボータから1989年に大統領職を引き継ぎ,アパルトヘイト体制最後の大統領となったF. W. デクラーク(Frederik Willem de Klerk)は,後に「ルビコン・スピーチ」を振り返り,「サッチャーや他の西側世界の指導者は殻を打ち破るようなスピーチを待ち望んでいた。しかしそのスピーチは大失敗に終わった」と述べている。 Beeld, 12 November 2007, cited in Giliomee[2008]

(注16)  「南アフリカ共和国のアパルトヘイト問題に関する安倍外務大臣談話」1985年10月9日,外務省『外交青書 我が外交の近況』1986年版(第30号)所収(https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bluebook/1986/s61-shiryou-212.htm アクセス日:2023年3月13日)。

(注17)  「南アフリカ共和国のアパルトヘイト問題に関する内閣官房長官談話」昭和61年9月19日,2020-1167,外交史料館。

(注18)  アフリカ第二課「我が国の対南ア規制措置」平成2年2月14日,2021-0529,外交史料館。

(注19)  「アフリカ地域」外務省『外交青書 我が外交の近況』1986年版(第30号)第1部 第3章 第1節 第8項(https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bluebook/1986/s61-1030108.htm アクセス日:2023年12月2日)。

(注20)  アフリカ第二課「対南ア措置に対する西側主要国の態度」昭和61年9月10日,2017-0030,外交史料館。

(注21)  当時,西側諸国の動きをにらみながら追加規制措置の内容詳細が検討されていたことについて,天木[2004, 91-95]も参照。外交史料館で筆者が閲覧した戦後外交史料ファイルには,さまざまな時点での西側各国の制裁内容を一覧表の形にまとめた資料が多く含まれており,規制措置の内容を他の西側諸国と揃えることが強く意識されていたことが窺える。

(注22)  アフリカ第二課「我が国の対南ア制裁措置(石炭輸入規制に関する新日鉄副社長の事務次官に対する要請)」昭和61年9月16日,2017-0123,外交史料館。

(注23)  プンタ大使宛「事務連絡」昭和61年9月17日,2017-0123,外交史料館。この文書は本省の天木直人アフリカ第二課長から,関税及び貿易に関する一般協定(General Agreement on Tariffs and Trade: GATT)の閣僚会議出席のためウルグアイ・プンタデルエステ出張中の倉成正外務大臣に随行していた東郷和彦秘書官に宛てたものである。

(注24)  “Text - H.R.4868 - 99th Congress (1985-1986): Comprehensive Anti-Apartheid Act of 1986.” Congress.gov, Library of Congress, 2 October 1986. (https://www.congress.gov/bill/99th-congress/house-bill/4868/text アクセス日:2023年3月13日).

(注25)  アフリカ第二課「米国議会の対南ア制裁法の成立について」昭和61年10月3日,2017-0030,外交史料館。

(注26)  米国松永大使発外務大臣宛「南ア問題(上院公ちよう会)」昭和62年10月23日,2020-0072,外交史料館;アフリカ第二課「南ア問題に関する米国上院公聴会」昭和62年10月26日,2020-0072,外交史料館。

(注27)  アフリカ第二課「南ア問題(新総理ブリーフ用資料)」昭和62年10月30日,2020-0023,外交史料館。引用文中の改行は筆者が削除した。

(注28)  大臣官房報道課「政策ガイドライン」第12号,昭和63年1月30日,2020-1167,外交史料館。

(注29)  この対応について記者懇談の場で質問に答えた宇野宗佑外務大臣は「通産省は,企業を守る立場であるから簡単に外務省の主張に同意するかどうかわからない」と述べている。大臣官房報道課「政策ガイドライン」第12号,昭和63年1月30日,2020-1167,外交史料館。

(注30)  このとき通産省から批判された外務省内の当事者の視点からの回想として,天木[2004, 102-104]

(注31)  「中曽根総理と西側首脳との親書・メッセージの交換」2018-0092,外交史料館。本文書には日付が記されていないが,文書の内容から1986年(昭和61年)7~8月頃に作成されたものと思われる。

(注32)  アフリカ第二課「南ア問題(新総理ブリーフ用資料)」昭和62年10月30日,2020-0023,外交史料館。

(注33)  アフリカ第二課「南ア問題と我が国のとるべき方途(在外公館長よりの意見具申)」昭和61年2月25日,2017-0121,外交史料館。

(注34)  その中心となったのは大阪の部落解放同盟の青年部であり,関西の反アパルトヘイト運動と連携しながらシェンベの招聘準備を行った[佐竹 2018]。

(注35)  アフリカ第二課「ANC東京事務所設置問題」昭和60年11月19日,2016-0317,外交史料館。

(注36)  プレトリア瀬崎総領事発外務大臣宛「南アのアパルトヘイト問題(ANCとの接触)」昭和61年1月8日,2020-0188,外交史料館。

(注37)  外務大臣発ザンビア大使宛「南ア問題(ANC幹部との接触)」昭和61年1月13日,2020-0188,外交史料館。

(注38)  外務大臣発ザンビア大使宛「南ア問題(ANC幹部との接触)」昭和61年1月13日,2020-0188,外交史料館。

(注39)  南アフリカ政府が日本政府とANCの接触を容認したのは,南ア政府は対話に前向きであるにもかかわらず,対話を拒否しているのはANCであるということを強調する文脈においてであった。プレトリア瀬崎総領事発外務大臣宛「南アにおけるアパルトヘイト問題」昭和60年12月30日,2020-0188,外交史料館。

(注40)  外務大臣発ザンビア大使宛「南ア問題(ANC幹部との接触)」昭和61年1月13日,2020-0188,外交史料館。

(注41)  天木[2004],およびザンビア太田大使発外務大臣宛「南ア問題(ANC幹部との接触)」昭和61年1月20日,2020-0188,外交史料館。

(注42)  アフリカ第二課「オリバー・タンボANC議長と倉成外相との会談(発言・応答要領)」昭和62年4月,2019-1068,外交史料館。天木[1987],および近ア局アフリカ第二課「タンボ・アフリカ民族会議(ANC)議長の中曽根総理表敬用資料」昭和62年4月17日,2019-1068,外交史料館も参照。

(注43)  “Tokyo-Office Report,” ANC Archive, Japan Mission, Box 6, Folder 19, Liberation Movements Archives, University of Fort Hare. 本文書には日付が書かれていないが,内容から1989年3月作成の文書と推測される。

(注44)  アフリカ第二課「対南ア政策(討議用メモ)」平成2年2月21日,2021-0529,外交史料館。

(注45)  From ANC Tokyo Office to Department of International Affairs, “Japanese Government Views and Our Comments – ANC Japan Mission,” 1990-10-04, ANC Archive, Japan Mission, Box 1, Folder 4, Liberation Movements Archives, University of Fort Hare.

(注46)  経済制裁をめぐる論争の整理としてCrawford[1999],対南アフリカ経済制裁の効果を考える上で,南アフリカが被った経済的コストよりも政治的コストが大きく重要であったことについて岡部[2001],米国内の経済制裁をめぐる多様な意見について竹野[2022]を参照。

(注47)  アフリカ第二課「南ア問題と我が国のとるべき方途(在外公館長よりの意見具申)」昭和61年2月25日,2017-0121,外交史料館。

(注48)  アフリカ第二課「現地から見た南ア情勢」昭和62年2月20日,2020-1167,外交史料館。

(注49)  近ア局アフリカ第二課「タンボ・アフリカ民族会議(ANC)議長の中曽根総理表敬用資料」昭和62年4月17日,2019-1068,外交史料館;アフリカ第二課「オリバー・タンボANC議長と倉成外相との会談(発言・応答要領)」昭和62年4月,2019-1068,外交史料館。

(注50)  プレトリア瀬崎総領事発外務大臣宛「てん皇たん生しゆくがレセプション」昭和61年3月7日,2017-0120,外交史料館。

(注51)  アフリカ第二課「南ア問題と我が国のとるべき方途(在外公館長よりの意見具申)」昭和61年2月25日,2017-0121,外交史料館; アフリカ第二課「現地から見た南ア情勢」昭和62年2月20日,2020-1167,外交史料館。

(注52)  ザンビア太田大使発外務大臣宛「南ア問題(ANC幹部との接触)」昭和61年1月20日,2020-0188,外交史料館。

(注53)  アフリカ第二課「オリバー・タンボANC議長と倉成外相との会談(発言・応答要領)」昭和62年4月,2019-1068,外交史料館。

(注54)  アフリカ協会刊『月刊アフリカ』1987年7月号特集「African National Congress オリバー・タンボ議長初来日」を参照。

(注55)  遅くとも1989年3月までにはANC東京事務所は山口敏夫衆議院議員を窓口として自民党とコンタクトをとっており,超党派の反アパルトヘイト議員連盟の構想について,それを主導した社会党(河上民雄衆議院議員ほか)と,自民党の双方から聞いていた。“Tokyo-Office Report,” ANC Archive, Japan Mission, Box 6, Folder 19, Liberation Movements Archives, University of Fort Hare.

(注56)  プレトリア堀内総領事発外務大臣宛「わが国の対南ア政策(南ア外務次官との会談)」昭和63年5月18日,2019-1568,外交史料館。

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