年報カルチュラル・スタディーズ
Online ISSN : 2434-6268
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(想像できない)ユートピアへ向けて
Arthur C. Clarke, Childhood’s End、三島由紀夫『美しい星』、 冷戦期反ユートピア主義
宮永 隆一朗
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2017 年 5 巻 p. 59-

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抄録

本稿はアーサー・C・クラーク『幼年期の終わり』(1954) と三島由紀夫『美しい星』(1962)の比較分析を通じて、リベラリズムのイデオロギーによって囲い込まれた私たちのユートピア的想像力の限界とその外部の可能性を省察する。50年代SFを代表する『幼年期の終わり』とそれに対する応答として書かれた『美しい星』は、共にユートピアに対する強い懐疑を特徴とする。本稿は両作品が共有する反ユートピア主義を、自らを脱イデオロギー的なものであると提示する冷戦期リベラリズムの文化的・心理学的ロジックの現れであると位置づけ、これを同時代の文化社会批評、知識人/大衆という感情構造、心理学、第三世界言説、SF作品の文学化=心理学化という複数の領域の絡み合いから分析する。『幼年期の終わり』においては、冷戦反ユートピア主義はリベラルで安全な反植民地主義として現れる。だが実のところ、植民地主義を構造的搾取ではなく文化の問題に還元することで批判する本書は、アメリカを第三世界が真似すべき健全な成長を遂げた兄と表象するようなリベラルな第三世界言説と共犯関係を取り結んでおり、その意味でリベラリズムのイデオロギーを規範化しその外部の可能性を否定するものである。『美しい星』においてもユートピアの可能性はナラティヴの二重性というテキストの形式によってアイロニー化される。しかしテキストは同時に、「七北田村」という執筆当時既に存在していない地名を用いることで、近代における内的衝突の場としての入会闘争の歴史性を不在の形で刻み込む。これによりテキストは、アメリカによる戦後日本の地政学的再配置を批判すると同時に、私たちが辿った近代化の道のりの内的な裂け目を衝突の形でテキストに差し込み、ある種の未来へと拓かれた「歴史」を私たちに提示する。

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© 2017 カルチュラル・スタディーズ学会
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