年報カルチュラル・スタディーズ
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特集
投稿論文
  • ホーソーンの「火を崇める」とメルヴィルの「私と私の煙突」を中心に
    林 姿穂
    2025 年13 巻 p. 21-42
    発行日: 2025年
    公開日: 2026/09/30
    ジャーナル フリー
    アメリカン・ルネサンス期を代表する作家ナサニエル・ホーソーンとハーマン・メルヴィルは人類共通の感情である怒りや憎悪をテーマに作品を書いている。ホーソーンは「火を崇める」(1843)の中で、新型ストーブとして当時一般家庭に普及した気密性ストーブへの嫌悪感を綴っている一方で、メルヴィルは「私と私の煙突」(1856)の中で、古い煙突と開放型暖炉を壊して居住空間を広げ気密性ストーブを設置したい妻や娘たちと、それに徹底抗戦を挑む夫の心情を描いている。気密性ストーブやそれに付随する小型の煙突は、当時は文学のテーマになるほど画期的な文明の利器であったといえる。
    本研究では、暖炉が人々の心理や人間関係に及ぼす影響力についてアメリカ文学の中ではどのように描かれているかを分析した。本論文ではまず19世紀のアメリカ人の暖炉に関する思想を概観しながら、暖炉の心理的影響力や社会的影響力について考察した。次に両作家の諸作品を分析しながら、火が人間の心理に及ぼす様々な影響力や火の性質の両義性がどのように描かれているかについて論じた。特に「火を崇める」と「私と私の煙突」では、気密性ストーブの普及により人々がより個人主義的になり、家族(人間同士)の連帯感が脆弱になったことが描かれている。登場人物のストーブに対する嫌悪感や、文明の利器を受容する人々への怒りは、文明の進化がもたらす人間関係の変化や深刻な社会問題を読者に気づかせる役割を果たしている。
    現代のアメリカの一般家庭では、セントラルヒーティングを設置しつつも、インテリアとして古い開放型暖炉を置き、その周りで団欒する光景が時折見られる。アメリカにおける開放型暖炉の普及率の高さに着目すると、アメリカ人の暖炉に関する思想は19世紀を生きた作家のホーソーンやメルヴィルの思想と通じるものがあり、彼らの思想が現代のアメリカ人の中に根付いているとも言えるだろう。
  • 「ラメラ」の神話の分析に基づくラカン的主体理論の再構成
    客本 敦成
    2025 年13 巻 p. 43-63
    発行日: 2025年
    公開日: 2026/09/30
    ジャーナル フリー
    神分析の四基本概念』に登場する「ラメラ」(lamella)の神話の内容を分析することを通じて、「生贄」(sacrifice)をモデルとしたラカン的主体理論を提示することである。先行研究においてラメラの神話はラカンにおいて重要な議論だと考えられていなかったが、本論文はラメラの神話を、器官の水準で作用する欲動の運動を語るものとして解釈することによって、積極的に評価する。そして同時に、この解釈を通じて、ラメラの神話に基づくラカン的主体理論を、ラカンの記述から再構成する。
    具体的な作業としては、まず基礎作業として、ラカン的主体理論の基本的な構成要素である「シニフィアン」、「疎外」および「分離」の理論を概観し、ラカン的主体理論の基本的なアイデアを示す。次に、ラカンの欲動論と「欲動と欲動運命」におけるフロイトの欲動論を比較し、ラカンがフロイトにおける対象aの不在を批判していることを示す。そのうえで、ラメラの神話が、このフロイトの欠点を補いつつ、フロイトの欲動論同様に、各器官に内在する欲動の運動を語るものであることを示す。最後に、ヘーゲル『精神現象学』における「奴隷」モデルの主体理論と対照するかたちで、「生贄」をモデルとするラカン的主体理論を提示する。
    ただし、ラカン自身は精神分析家の立場を堅持し、あくまでこの「生贄」の主体とは批判的に対峙した。そこで斎藤環の「おたく」論と比較することによって、この理論の文化研究における応用可能性を示す。
  • ストリートバスケットボールのエスノグラフィから
    松本 淳也
    2025 年13 巻 p. 65-90
    発行日: 2025年
    公開日: 2026/09/30
    ジャーナル フリー
    本稿は神戸市中央区「みなとのもり公園」におけるストリートバスケットボール実践を対象としたエスノグラフィ研究である。
    ストリートをめぐるこれまでの研究は、この空間を多種多様な人々が出会い折衝する場として考察してきた。そこでは従来の枠組みにはとらわれない創発的な政治的実践が生まれているとされ、特にその公共的性質や非言語的性質が指摘されてきた。一方で、既存のストリート研究における記述の不十分さも指摘されており、ミクロな調査に基づく詳細な研究が期待されている。この問題は既存のバスケットボール研究にも通底しており、文化本質主義的な分析を越えて具体的な身体の運動に立ち返り、その社会性を記述することが求められている。
    こうした状況を踏まえ、本稿では身体と空間に着目したストリートバスケットボール実践の記述と分析を試みる。特に、屋外の公園で行われるストリートバスケットボールと体育館で行われる制度的なバスケットボールとの対比を重視し、前者に独特な公共性と非言語的な政治性を明らかにする。
    明確なルールもなければ、審判も監督もいないストリートコートは、誰でもアクセスできる開放性によって基礎づけられ、その空間は一種の公共圏として機能している。また、そこでの身体は勝利や経済的利潤といった行為の結果として得られる目的のための手段とはならず、行為の過程自体に属する楽しみや一体感に重点が置かれている。特に、コートを共有する不特定多数が一体となって「流れ」を生み出そうとするピックアップゲームでは、身体と空間との相補的な関係―空間的身体―が実現されている。
    本稿ではストリートバスケットボールにみられるこうした実態を、近代社会において抽象化された空間、および断片化された身体をつなぎ直し、身体と空間の主体性を再建する非言語的な政治性の発露として論じる。
  • 『STAND BY ME ドラえもん』から見るドラえもんの声優と中国における吹き替え
    趙 爽
    2025 年13 巻 p. 91-112
    発行日: 2025年
    公開日: 2026/09/30
    ジャーナル フリー
    本稿では、『ドラえもん』を中心に、アニメが国境を越える際における声の流通と受容を 検討する。特に、2015年に中国で公開され、5.29 億人民元の興行収入を記録した3DCG映画『STAND BY ME ドラえもん』(2014)の興行的成功に注目し、「子供時代の記憶」を呼び起こす要素として声優の役割に焦点を当てる。中国では『ドラえもん』に複数の吹き替え版が存在するが、同映画では1991年に中国中央テレビでドラえもんの声を担当した劉純燕が起用された。劉純燕の再起用は、単に彼女が以前ドラえもんの声を担当していたからではなく、彼女が中央テレビ局の子供向け番組の司会者「金亀子」としてテレビ出演していた背景と相まって、大人観客の感情的共鳴を引き起こす狙いがあったものと考えられる。
    これまで声がトランスナショナルな流通と受容における媒介的役割を果たしていることが注目されることは少なかった。この点を踏まえ、本稿では、石田美紀(2020)やRayna Denison(2017)などの声優に関する研究、Thomas Lamarre(2018)やAlexander Zahlten(2019)によるアニメとメディアの連関性に関する研究を参照するとともに、岩渕功一が論じる「現地化」(2001) やインターアジア的参照(inter-Asian referencing, 2017)というアプローチを取り入れながら、声優がアニメのトランスナショナルな流通において果たす役割を再考する。本稿では、吹き替えが果たす役割が単なる言語の変換にとどまらず、視覚と聴覚の複雑な関係を通じてアニメの受容に大きな影響を与えることを明らかにし、また声優の個性がアニメのトランスナショナルな流通においてメディア環境や観客との相互作用の中で意味を持つことを示す。
    要するに、ドラえもんの吹き替えにおける声優の役割を分析することで、アニメの越境的流通と受容における「声」の重要性を捉え、現地化とメディアの関係性を再考する。これにより、アニメ作品の越境的流通における文化的、政治的意義を、「声」という新たな視点から捉えることができる。
  • 村西とおるのアダルトビデオにおける作為の開示
    小田 視希
    2025 年13 巻 p. 113-133
    発行日: 2025年
    公開日: 2026/09/30
    ジャーナル フリー
    本論はAV監督・村西とおるの作品に見られる、独自の真正性の演出を検討する。先行研究によれば、作為と現実のあわいを描くジャンルであるアダルトビデオでは、さまざまな撮影技法や特殊な性行為の描写によって、映像の真正性が追求されてきた。しかし村西作品では、たしかに「私的エロス」と呼ばれる価値観に基づいて真正性が追求される一方で、そこに演出の恣意性を露呈させる描写が入れ込まれている。本論はこうした作為を開示する手法を「ショーイズム」と定義したうえで、それがSMポルノ映画の流行や女性の社会進出といった同時代の文化的社会的状況を想起させることで、かえって作中の出来事や女性像の真正性を高める手段であったと明らかにする。
    そのために、第1-2章では本論の問題意識と先行研究における真正性の議論を確認する。第3章では村西の初期作品から、その手法や価値観が形成される足跡を追う。第4章では村西の代表作である『SMぽいの好き』(1986)を取り上げ、私的エロスをめぐる演出と同時代の女性像の関係を論じる。第5章では『すすり泣きの女』(1990-1992)シリーズの検討から、村西の手法が限界を迎える過程を跡付ける。
  • プロバンドマンの表現戦略を事例に
    新山 大河
    2025 年13 巻 p. 135-155
    発行日: 2025年
    公開日: 2026/09/30
    ジャーナル フリー
    クリエイティブ産業は、脱工業化社会における成長産業として社会的な影響力を拡大させている。カルチュラル・スタディーズや社会学は、クリエイターによる創造的労働の不安定性について知見を重ねてきた。しかしこれらの研究は、創造的労働における文化的価値と経済的価値の追求を二者択一的に捉える傾向にある点で課題を有している。それゆえクリエイターが創造的労働を生業として継続し、実際に生活を送る在り方が看過されてきた。本稿の目的は、クリエイターが文化と経済のジレンマをいかに緩和し、創造的労働を継続しようとするのかを明らかにすることにある。プロバンドマンの表現戦略を対象としたインタビュー調査を行った結果、次の三点を明らかにした。
    第一に、バンドマンは文化と経済のジレンマにおいて、裁量の縮小・コンスタントな納期に直面し、アイデンティティクライシスに陥っていた。第二に、バンドマンは主たるバンド活動と並行して、独創性を追求するべくソロ活動等に従事したり、他アーティストへの制作を請け負うことで生計の維持・スランプの打破をしたりしていた。バンドマンは表現媒体を多様化させ、文化と経済のジレンマを緩和しようとするのである。最後に、バンドマンは表現媒体を多様化させる過程で創造的労働における柔軟性を高め、ジレンマの止揚を試みていた。また職業的自認を抽象的に再構築することで、生業としての創造的労働を継続していた。
    本稿の意義は、文化的/経済的価値の追求を二者択一のものとするのではなく、創造的労働によって生活を形作っていくクリエイターの観点から、彼ら/彼女らの不安定就労を再検討したことにある。本稿はクリエイターによるキャリアの継続性の内実を明らかにしていくことで、クリエイティブ産業における労働問題を検討する必要性を示唆した。
  • 立原正秋作品の悲劇的主人公とその読者受容に関する考察
    松田 卓也
    2025 年13 巻 p. 157-176
    発行日: 2025年
    公開日: 2026/09/30
    ジャーナル フリー
    立原正秋による小説の中で、日本と朝鮮半島にルーツをもつ混血の主人公を描く作品として最もよく知られているのは「剣ヶ崎」(1965) である。しかし、立原はこの作品の前後にも同様のルーツをもつ主人公を描く作品を執筆しており、この混血のモチーフを継続して扱っている。本稿では、これまでの研究や批評で指摘されてきた立原自身の出自――混血ではなく純粋な朝鮮人としての出自――を踏まえた上で、混血を扱う作品を改めて整理・分析する。つまり、立原自身は純粋な朝鮮人でありながら、小説では混血の主人公を描いていた事実に着目し、この作家と作品の間に存在する乖離について考察する。本稿全体としては、混血の主人公を描くなかで、朝鮮半島の植民地支配や太平洋戦争の歴史を経由した悲劇性を主人公にまとわせ、彼を作者自らの投影として読者に提示することで、立原が独自の作家像を確立していたと主張する。
    理論的枠組みとしては、アフリカ系アメリカ人作家W.E.B.デュボイスが提唱した「二重意識 」の概念を援用する。デュボイスは、アメリカで人種差別を受けるアフリカ系アメリカ人の意識にある、相入れない二重性を指摘した。この二重意識の概念の援用により、立原の混血の主人公もまた、日本人と朝鮮人の二重の視点を内在化させている点を指摘する。さらに本稿では、彼の作品を読者受容論に接続し、作者像の変容・確立に影響を与えた読者の役割を検討する。立原は、キャリアの最初期には日本による統治下の朝鮮半島を舞台にした社会的な小説を書いているが、その後、在日朝鮮人文学とは一定の距離を取りつつ、悲劇という審美性を備えた作品の執筆に専念した。この審美主義的な「混血」作家像は、作品のみならず、立原自筆の年譜や、作品の文庫本の巻末に付けられた批評家の解説などの作品外の要素とも結び付き、複合的に構築されたと考えられる。
  • 丸木俊の裸体表現における脆弱性の表現としての「死」
    チョ ヘス
    2025 年13 巻 p. 177-195
    発行日: 2025年
    公開日: 2026/09/30
    ジャーナル フリー
    本論文は、《原爆の図》が公開された初期に批判の対象となった「裸体表現」に焦点を当て、それが官能性やエロティシズムとは異なる価値、つまり他者を理解するための試みとして機能していた可能性を考察するものである。その手がかりとして、丸木俊による《原爆の図》以前の作品や他の制作活動を検討し、《原爆の図》をめぐる協働制作における彼女の役割と影響力を明らかにする。とりわけ本論文では、丸木俊の「自己自身」へのまなざし、なかでもセクシュアリティと身体的脆弱性への意識に注目し、それが身体表現としてどのように結実し、いかに自己と他者の境界を探求する試みとなったのかを分析する。具体的には《原爆の図》の後半部に現れる「哀悼されない他者」のための表現をめぐる位置づけを考察し、女性作家の身体表現を媒介とした死の表現がいかにして死をめぐる共同体としての哀悼へと展開していくのかを考察する。
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