2015 年 51 巻 1 号 p. 44-49
戦後改革期における主要な農業政策の一つに,協同農業普及事業(以下,普及事業)がある.戦後アメリカから導入され,1948年に開始された普及事業は,農業改良普及事業,生活改善普及事業,青少年教育の3つで構成される.
本稿が対象とする生活改善普及事業(以下,生改事業)は,農村女性を主たる対象として実施された事業である.生改事業については,生活経営学(天野,1995),歴史学(大門,2003),民俗学(安井,2006)など様々な分野からアプローチがなされている.しかしその多くは,事業の担い手である生活改善グループ(以下,生改グループ)およびその指導に当たった生活改良普及員(以下,生改普及員)の活動事例に関する研究である.これに対して市田知子は,生改事業の主管である農林省生活改善課の「生活改善の理念」について検討している(市田,1995).
筆者は市田の研究に学びながら,新たな資料を用いて農林省の生改事業に対する基本方針を検討した.さらに,農林省の方針に対し,自治体がどのように対応したのかについて中国地方の3県(鳥取,島根,山口)を事例に考察した.農林省の生改事業の目的は,農家生活の改善とともに農村を民主化することにあった(農林省,1972:p. 1076).そのための受入組織として,女性による同志的な生改グループの育成を行うことを方針とした.上意下達的な性格を持つ婦人会を利用してはならないとした(農林省,1948:pp. 15–16).鳥取県は,農林省の方針に忠実に従い,自主的なグループの育成を行った.しかし,当時は女性が自主的にグループを作るのは難しく,結果的に婦人会が事業を担う形になった(中間他,2008).島根県は農家生活の改善を優先課題とした.効率性を重視し,婦人会を通してグループ育成を行った(中間他,2009).山口県は公式には自主的なグループの育成を掲げたが,実際には婦人会を利用した(中間他,2010).自治体によって対応が異なった要因は,農林省との人的交流の深浅,事業担当者の出自等にあったことを明らかにした.
本稿では,中国地方とは異なる農村社会を有していた東北地方を対象に,農林省の基本方針に対する自治体の対応について考察する.さらに,そうした対応をとった要因についても追究する.東北地方の自治体を考察の対象として取り上げるのは,生改事業を導入・遂行するに当たり,農村社会の性格が事業に何らかの影響を与えたのではないかと考えるためである.本稿では,東北地方のなかでも「他県に比し封建的慣習の残存が甚し」(青森県,1952:p. 2)いとされた青森県を事例に考察を行う.
1948年8月の「農業改良助長法」の施行により,普及事業が発足する.同月6日,農林省内に担当部局として農業改良局が設置される.同月20日には,農林次官から各都道府県知事宛に「新農業普及制度確立促進の件」に関する通牒が出される.通牒の主旨は,主務課の新設にあった.既設の農務課ではなく,新たに普及事業の専任課を設置して業務に当たるべきだとしたのである.当時,農務課の主要な業務は食糧の供出にあった.普及事業担当の職員は,こうした行政事務に関与してはならず,あくまでも普及事業に専念すべきであるとされた.そのために,主務課の新設が強く要請されたのである.課の名称は,「農林省に新設された農業改良局の名称」に応じて「農業改良課」とすることが適当だとされた(農林省,1949:p. 4).
青森県は,1948年11月1日,経済部内に普及事業の主務課を新設する.名称は農林省の指示に従い「農業改良課」とした(青森県,1958:p. 5)1.農業改良課の設置と同時に,青森県において普及事業が開始される.
(2) 生活改善普及事業の方針生改事業は戦後日本に導入された新しい事業であり,受入側の農村の人々にとっては,全く馴染みのないものであった.そこで青森県は,生改事業とくに指導に当たる生改普及員の存在について周知を図るため,1948年に資料を発行している.文中には,生改普及員の役割は「農村生活」を「向上」させることにあると述べられている.その方法は,上からの指導ではなくあくまでも「婦人のみなさんとともに考え」ることであるとされている(青森県,1958:p. 3).
上述したように青森県の生改事業の主要な目的は,「農村生活」の「向上」にあったが,もう一つの重要な目的が農村の民主化,自主的な農民の育成であった.農業改良課長の村越信夫は,「若い改良普及員」に向けて次のように述べている(村越,1950:p. 3).
この改良普及事業が始つてから,恰度一ヶ年になつたばかりであるから,まだ農民の頭を民主的思想にきりかへて自主的に働きだせるようにするまでには,時間がかかると思ふ(中略)改良普及員は農家の農業技術への案内役であり,時には先生であり,又時には同僚でもあるから,先づ何より第一に農業や農村生活に深い理解をもち農民に信頼され親しまれる人柄をもたねばならぬ.同時に農業経営について充分理解し親心をもつて農家の相談相手になる心持が大切である.
村越は,自主的な農民,当時よく使われた言葉でいえば「考える農民」2の育成を重視していた.ただし,その実現には時間がかかるということを認識した上で指導に当たらなければならないとしている.さらに,普及員はあくまでも「農家の相談相手」でなければならないとも述べている.村越が従来の上からの指導ではなく,農民の自主性を重視する普及事業について理解していたことがわかる.このように,普及事業の主要な目的は,自主的な農民の育成ひいては農村の民主化にあったのである.農村の民主化,「考える農民」の育成という考えは,現場の普及員にも徐々に浸透していく3.
青森県は,1950年に「生活改善指定部落」(以下,指定部落)制度を導入する.制度の目的は,「重点的な指導によつて生活の合理化を図り,そして生活文化の育成向上に努めて,模範的なモデル部落」を育成し,「以て他部落の水準となす」ことにあった(坂本,1950:p. 24).指定部落として選定されたのは,東津軽郡小湊町盛田,南津軽郡石川町森山,北津軽郡松島村悪戸,上北郡浦野舘村大浦,三戸郡猿辺村葛子平の5つである(坂本,1951a:pp. 32–36,坂本,1951b:pp. 28–30).津軽地域から3つ,南部地域から2つの集落が選ばれている.「選定の基準」は,「部落民の人的和のよくとれたところであつて,協力的且つ積極性のあるところで,しかも改善の意欲の旺盛なところ」とされた(坂本,1950:p. 24).指定された部落には,活発に活動する農事研究会などの男性の組織があり,生改事業の受入組織となった.
青森県は,農家生活の改善,農村の民主化という農林省の生改事業の目的を受け入れる.しかし,女性ではなく既存の男性組織を受入組織とする指定部落制度を導入したのである.
(3) 対応の要因青森県は,農林省の基本方針を受け入れようとした.とくに,農村の民主化という考えを受け入れた要因として第一にあげられるのは,農業改良課長・村越信夫の存在である.村越は,1896年に神奈川県に生まれ,1921年に北海道帝国大学を卒業する(満蒙資料協会,1941:p. 155).卒業後すぐに満州に渡り(村越,1965:p. 319),農事試験場に勤務する.在職中,ウィスコンシン大学に留学し,1930年に同大学を卒業している(Berge,1939:p. 370).注目すべきは,村越が普及事業の発祥の地であるアメリカの大学を卒業しているという点である.留学により,民主主義に直に触れ,それに対する理解を深めたのではないかと考えられるからである.また,アメリカの普及事業は,州立大学を中心とするところに特徴がある.村越が留学したウィスコンシン大学ももちろん普及事業に深く関与していた(Mclntyre,1962).村越は同大学で学ぶ過程で普及事業に触れる機会があったと推測される.そのため,戦後日本に導入された際も違和感なく受け入れることができたのである.アメリカ流の民主主義と普及事業に深い理解のある村越の存在は,青森県の事業方針に強い影響を与えたと考えられる.
2つ目の要因は,軍政部とのつながりである.終戦後,地方自治体は,アメリカ陸軍の下部組織である軍政部の管理下に置かれる.その役割は,地方自治体においてGHQの施策がどのように実施されているかを監視することにあった(竹前,1983:p. 56).軍政部との折衝は,英語が堪能な村越が当たった.担当官の多くは,ウィスコンシン大学の卒業生であり,村越の後輩であった(林,1958:p. 9).そのことが青森県と軍政部との結びつきを強めた可能性がある4.担当官は,同窓の村越を通じて普及事業の方針を徹底させようと試み,村越もそれに応じたのではないかと推測される.
一方で,指定部落制度を導入したのはなぜであったのだろうか.第一の要因として,当時の農村の実情があげられる.青森県は「本州の最北端」にある関係上,農業生産の条件不利地域であった.農家は貧しく,「凶作」,「青田売」,「身売」に象徴される「東北農業の宿命的な惨めさ」を生み出すことにもなった.農業における「自然的,経済的後進性」は,農村社会の性格にも影響を与えた.「農村の多くは民主的構成とははるかに遠い社会環境」下に置かれていた(青森県,1952:p. 2).このような状況において,家や社会の中で低い地位を強いられていた女性が初めから事業の主体になるのは非常に困難であった.ましてや,女性を成員とする組織の育成は不可能であった.そのために,やむなく既存の男性組織に頼らざるを得なかったのである.
第2の要因は生改普及員の不足である.青森県に生改普及員が配置されたのは1949年である.当時の指導地区30に対し,生改普及員数は5名であった(青森県,1958:pp. 15–17).当時の普及体制では「到底県下全般に亘つて,生活改善の普及効果を収めること」は困難であった(坂本,1950:p. 24).指定部落を選定し,集中的に指導を行い,そこから周囲に波及させることが生改事業を県下に広める最も効率的な方法であったといえる.
第3の要因は,1949年6月15,16日に岩手県で開催された「農業普及事業東北北海道ブロック会議」である.会議には各県の主務課長等が出席し,普及事業に関するさまざまな議論が行われた.生改普及員に関する議論では,「啓蒙宣伝して存在を認めさせると共にモデル村を作るなど活動促進する外養成講習会を開きたい」という結論が出された(宮城県,1949a:p. 3).この中で注目すべきは「モデル村を作る」という箇所である.「模範的なモデル」となる地域を育成するという点で指定部落制度の内容と一致している.また,会議の出席者である宮城県は,同月6日の時点で県内に「生活改善指導部落」を設置することを決定していた(宮城県,1949b:pp. 2–3).議場で同県の現状について触れたことは想像に難くない.指定部落制度の導入は,ブロック会議の議論および宮城県の先例を参考にして実施された可能性がある5.
青森県は,農林省の基本方針を受け入れようと試みた.しかし,実行段階においては農村の実情および現行の普及体制を考慮し,やむを得ず現実的な対応をとったのである.
1950年,青森県は「模範的なモデル部落」を育成すべく,盛田,森山,悪戸,大浦,葛子平の5集落を指定部落として選定する.指定部落では,生改普及員および農業改良普及員(以下,農改普及員)の協力の下,生活改善が実践される.本稿では,一例として三戸郡猿辺村葛子平を取り上げる.
葛子平は,旧国鉄三戸駅から徒歩2時間という「五つの指導部落のうちで,地域的にも一番不便なところ」(坂本,1951b:p. 29)にある「戸数二十一戸」の「山間僻地と云うにふさわしい一小部落」であった(高木,1952:p. 4).「昔から農業経営から見ても生活の面から見ても最低以下の生活」を送らざるを得ない状況下にあった.それに追い打ちをかけたのが,1947年4月に発生した火災である.この火災によって「十七戸が一物もなく焼失」し,人々の暮らしはますます苦しくなっていった.当時,満州から復員したばかりであった佐々木政吉6は,「此のまゝでは駄目だ,なんとかしなければならない」と考え,集落の同年代の青年らと話し合いを行う.この話し合いにより,「農業経営の合理化と生活の様式の改善を図るのが先決問題であるということに意見が一致」する.佐々木らの意見に賛同した十数名の同志により,1948年4月,「農業研究会」が結成される(高木,1952:p. 4).
同年11月,青森県において普及事業が開始され,三戸地区にも農改普及員3名,生改普及員1名の計4名が駐在するようになる.赴任挨拶をかねて初めて葛子平に足を踏み入れた普及員らは,「なる程ひどい処だと感じ,普及事業の手始めにこの部落から手をつけよう,そして少くとも経営,生活の両面を三戸平坦地方の農家の水準までに引上げよう」と考える(田中,1953:p. 22).1949年5月頃,猿辺村の下田小学校に於いて,生活改善専門技術員の坂本静枝を講師に「生活改善講演会」が開かれる.坂本の話を聞いた佐々木らは,「農業経済の立直しは農業経営の改善と共に生活の改善も併せてやらなければその効がないことを自覚」する.講演会を契機に,生活改善に関する知識を得るため,度々普及所に赴くようになる.三戸地区の主任であった田中治五郎は,佐々木らの熱意に着目し,「その様に一生懸命やる意欲があるなら今県では生活改善の指定部落をつくるんだがやつたらどうか」と話をもちかける.生活改善に対して強い意欲を持っていた佐々木らは,喜んで指定部落の話を受ける.葛子平は,三戸地区普及所の強い後押しを受け,県から指定部落として選定されるのである(高木,1952:p. 4).
選定後,最初に行った活動は「月一回の布団干の励行」と「万年床の廃止」であった.経済的に貧しい葛子平では,生活改善に金をかける余裕は無かった.そのためにまず「金の掛らぬことで最もやりやすいこと」から着手したのである.布団干は心掛け一つで誰にでも出来るということから,「皆喜んで実行」した.次に実施したのが「共同吸上げポンプ井戸」の設置である.葛子平のほとんどの家は川の水を飲料水として利用しており,「不衛生極まりない状態」であった.また,川から水を汲むのは女性の仕事であり,その負担は非常に大きかった.衛生面および女性の労働面から,飲料水の改善は集落の喫緊の課題であった.この状況を改善すべく,県の助成を得て,集落の11ヶ所に「共同吸上ポンプ井戸」を設置する.井戸が出来たことにより,集落の人々は綺麗な水が使用できるようになる.水源が近くなったため,水汲みの負担が軽減され,「労力的にも又精神的にも非常に楽になつたと主婦達から喜ばれ」た.さらに,集落に2戸しか無かった風呂が10戸の家に新設された(高木,1952:p. 8).一連の活動の成功を機に,「食生活の向上」,「住生活と衛生の改善」,「くらしの共同化」など様々な活動が行われていく(坂本,1952:pp. 22–24).なかでも特筆すべきは,女性による「生活改善の研究会」の結成である.葛子平には,「田植え終了後四五日休み,その外に草刈休み,花見休み,正月休み,お盆休みと年を通しては一ケ月位たゞ食べて遊」ぶ「テンノリ」という習慣があった.しかし,貴重な休みを無駄にせず,有効活用すべきではないかと集落の人々は考えるようになる.そこで「此の休みを振向けて」,男性は毎月1日に「農事研究会」の例会を,女性は15日に「生活改善の研究会」の例会を開くことに決める(高木,1952:pp. 8–9).葛子平の生活改善の担い手は,佐々木ら男性から女性へと移っていくのである.
青森県は,農林省の生改事業の基本方針を受け入れようと試みた.事業の目的は,農村生活の「向上」と自主的な農民の育成とした.ただし,事業の遂行に当たっては,既存の男性組織を受入組織とする指定部落制度を取り入れた.
青森県が生改事業の目的,とくに「農村の民主化」を受け入れた第一の要因は,農業改良課長の村越信夫の存在にあった.村越はウィスコンシン大学に留学経験があり,アメリカの民主主義および普及事業について深く理解していた.そのため戦後,日本に普及事業が導入された際,事業目的や内容を違和感なく受け入れることができたのである.村越の存在は,生改事業の方針に影響を与える.第二の要因は,軍政部とのつながりである.東北軍政部の担当官は,ウィスコンシン大学の卒業生で村越の後輩であった.そのことが農業改良課と軍政部との結びつきを強め,事業の方針に反映されたのである.
青森県は,農林省の基本方針を受け入れつつ,指定部落制度を導入した.その要因は,農村の実情,生改普及員の不足,東北北海道ブロック会議への参加にあった.なかでも一番重要な要因が農村の実情である.これまで筆者が考察してきた中国地方の3県では,自主的な女性グループの結成こそ困難であったが,婦人会等の女性組織が事業の受入組織となった.しかし,青森県では,農村社会の閉鎖的な性格から自主的な組織をつくることはおろか,女性だけで活動を行うことすら難しい状況にあった.そこで既に農事研究会などの男性組織が活発に活動していた地域を指定部落として選定し,それらを事業の受入組織とした.女性組織の育成は断念したのである.ただし,指定部落の多くは,本稿で取り上げた葛子平のように,生活改善を本当に必要としていた地域が選ばれている7.生活改善の内容に関しては,普及員が上から押しつけるのではなく,集落側が本当に必要としていた項目から着手している.農民の自主性を重視する生改事業の精神が生かされていたといえよう.また,指定部落選定は,女性が表に出る機会を与えた.葛子平では当初,男性が生活改善の担い手であったが,活動が本格的になると女性が「生活改善の研究」のための集まりを持つようになる.新たに女性組織が結成される場合もあった.上北郡の大浦集落は,「婦人の組織がなく,婦人の活動は全く見られなかつた」が,指定を機に「婦人会」が集落内に新たに結成されている(坂本,1951b:p. 28).「婦人会」は農村の全戸を対象とする網羅的な組織であり,自主的な組織ではない.しかし,女性だけの組織が存在しなかった地域に新たに女性組織がつくられたということは,非常に画期的であったといえよう.
指定部落の設置は農村の実情に応じてやむなく取られた方法であった.しかしそれは,本来生改事業を担うべきとされた女性を表舞台に引き出すという意味で重要な役割を果たしたといえる.指定部落の活動は,周辺地域にどのような影響を与えたのであろうか.青森県における生改事業の詳細を明らかにするためには,この点について考察する必要がある.