農林業問題研究
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個別報告論文
在来作物の種子保全をめぐる社会学的考察
―大和高原の雑穀栽培を事例に―
鶴田 格藤原 佑哉
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2015 年 51 巻 1 号 p. 50-55

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1. はじめに

アワ,キビ,モロコシ(タカキビ)などの雑穀は日本で古くから栽培され,とくに山間部で重要な食料源となってきた.しかし雑穀栽培は明治期以降衰退の一途をたどり,戦後はほとんど生産されなくなり各地で消滅していった.近年の雑穀ブームなどにより需要が増え,岩手県など一部では商業栽培がおこなわれているが,一般には従来型の自給的雑穀栽培はほとんど消滅しているといってよい.

奈良県の大和高原地域でも戦後のコメ生産の進展により雑穀栽培はほとんど姿を消した.ところが,現在でもごく一部の地域でモロコシ,アワ,キビが細々と栽培されている.こうした雑穀類は明治期まではコメ・ムギとともに主食の一角を担っていたと思われるが,現在では主食用に栽培されているわけではない.モロコシの場合は,穀粒の赤い品種が栽培され,もっぱら赤飯の着色用にのみ使われている.穀粒の皮に含まれる色素を利用して,小豆を使った通常の赤飯よりも鮮やかな赤色に染めることができるのである.またアワ,キビに関しては神社の新嘗祭の神饌用に栽培されている地域がある.

日本の雑穀栽培についてはこれまで主として民族植物学的あるいは民俗学的な視点からの研究や報告がなされ,大きな成果をあげてきた(阪本,1988増田,2011など).しかし従来の研究においては,雑穀栽培が絶滅寸前にまでに追いつめられたにも関わらず,なぜこれまで細々とながらも続けられてきたのか,といった点に関して十分な考察がなされていなかったように思われる.その原因のひとつは,雑穀栽培・種子継承に関するこれまでの研究が,村落内に働く社会的な力学にあまり注目してこなかったことにあるのではないだろうか.また,筆者の知る限り,大和高原の雑穀栽培については,これまでほとんど報告されていない.

そこで本論文では,奈良市旧都祁村A地区と隣接する同市旧田原村B地区のふたつの地域におけるモロコシ栽培の事例をもとに,大和高原の雑穀栽培の現状について報告するともに,これらの地域で雑穀種子が現在に至るまで継承されてきた背景について,社会学的な視点から考察する.

2. 大和高原における雑穀栽培

奈良県の雑穀栽培・雑穀食に関しては,吉野山地についての報告はたくさんあるが,大和高原のそれに関する資料ははなはだ少ない.都祁村の前身である旧都介野村および旧針ヶ別所村のそれぞれの村史には,雑穀の記述はほとんどでてこない.わずかに『針ヶ別所村史』に「アワとキビを少しずつつくっていた」という記述があり,また食品の「アカメシ(赤飯)」の項では「モチ米に小豆を混ぜて蒸す」とありモロコシには一切言及されていない.この記述が本論文でとりあげるA地区での聞き取りに基づくことを考えると,モロコシに言及されていないのは奇妙なことである(針ケ別所村史編纂委員会編,1969:pp. 379–380;都介野村史編集委員会編,1955).また『都祁村史』においても,戦前はコメとオオムギをまぜる麦飯が主食であり,またコムギやアワを栽培し粉にして団子にして食べた,という記述があるのみである.また『都祁村史』で赤飯について述べた箇所ではモロコシによる着色に関する記述はない(都祁村史編集委員会編,2005:p. 270).同様に『田原村史』にも雑穀の記述はないに等しいが(田原村史編集委員会編,1959),1915年に調査された資料に基づく『田原村風俗誌』にはトウキビ(モロコシのこと)を使って赤飯を着色する旨の記述が見られる(奈良縣添上郡田原村,n.d.).

また奈良県の伝統食を詳細に記述した『聞き書 奈良県の食事』では大和高原の伝統的な食事の代表的事例として調査地に隣接する山添村のある村の事例を詳細に報告しているが,雑穀についてはほとんど触れられていない.ただトウキビ(モロコシ)について「実を石うすでひいて団子にする」「赤飯をたくときにトウキビの殻で着色をすることがある」との記述がみられる(藤本ほか編,1992:pp. 145, 149).以上のように関連文献に雑穀に関する記述がほとんどでてこないことは,大和高原では明治期において雑穀はすでに非常にマイナーな存在になっていたことを意味すると考えられる.

1は旧田原村での1916年時点での主要な穀物生産量をあらわしたものである.これをみると,調査地周辺では20世紀の初頭ですでに雑穀が(コメ類・ムギ類に比べ)微々たる量しか生産されていなかったことがうかがえる.

表1. 旧田原村における主要穀物生産量(1916年)
カテゴリー 内訳 収量(石)
コメ類 ウルチ米 5,327.8​
モチ米 527.3​
陸稲 3.6​
ムギ類 裸麦 285.8​
小麦 39.1​
大麦 0.2​
雑穀類 アワ 11.9​
キビ 1.7​
トウキビ(モロコシ) 9.0​

出典:奈良縣添上郡田原村編(1917:pp. 205–206).

筆者による旧都祁村や隣接する山添村での聞き取りによれば,雑穀類は戦時中まで主食を補完するために食べられていた.高地であるためコメの生産量が不安定だったという条件に加えて,戦時中はコメやムギなど主要な穀類が供出させられたという事情もあったようである.モロコシやアワ,キビなどを製粉したあと,(場合によってはモチ米とまぜて)団子にして食べていた.都祁村ではモロコシ団子とコウタケと煮込んだものを「ぬくめ汁」と呼んでいた.

こうした雑穀栽培は戦後急速に廃れていったが,現在では旧都祁村から(隣接する)旧田原村にかけて,赤飯の着色にモロコシを使用する地域が残存している.これらの地域では,モロコシは上記の山添村の場合と同様に「トウキビ」とよばれている.赤飯がつくられるのは,おもに結婚式,棟上げ式,誕生日,成人式,入学式,七五三,全快祝いなどの様々な祝い事の機会である.とくに大量の赤飯が必要なのは結婚式などにおけるお祝い返しにおいてである.たとえば結婚式のばあい,現在では式場で結婚式を行った翌日に,祝儀をくれた家々に「お返し」として赤飯とタオルケットや鰹節などの引き出物とが配られる.モロコシをつかって赤飯を着色すると(小豆の煮汁より)鮮やかな色がでて,香りもよい,と村人は考えている.またアワ,キビに関しては山添村の少なくとも二つの地区で神社の新嘗祭の神饌用に現在でも栽培が続けられている1.以下,モロコシの栽培世帯数が比較的多い旧都祁村A地区ならびに旧田原村B地区の事例について検討したい.

3. 旧都祁村A地区におけるモロコシ栽培の事例‍2

(1) モロコシ生産の現状

旧都祁村のA地区は70世帯から成る.そのうち3割ほどの世帯で,現在でも赤飯の着色用にモロコシが栽培されていると推定される.

A地区におけるモロコシ栽培の特徴は,その多くが村内にある農産物加工所兼直売所Sのメンバーによって栽培されている点である.筆者がA地区で行ったアンケート調査(70世帯中38世帯から回収)により村内のモロコシ栽培者の比率をみると,直売所Sのメンバーは10名の回答者のうち全員がモロコシをほぼ毎年欠かさず栽培しているのに対し,A地区の他の住民(回答者28名)のうち2013年にモロコシを栽培したのは5名つまり18%にすぎない.非栽培者がモロコシ栽培をやめてからたった年数をみると,20年以上12名,11~20年が4名,6~10年が1名というふうに,大半が20年以上前にモロコシ栽培をやめていることがわかる.種子については,栽培者のほとんどは自家採種をしている.またモロコシの栽培や保管,加工については女性(とくに高齢女性)が中心的な役割を果たしている.

表2. 祝い事における赤飯の調達方法
モロコシ栽培者 非栽培者
基本的に自宅で作る 5​ 21) 7​
自宅でも作るが外注が多い 0​ 6​ 6​
基本的に外注 0​ 13​ 13​
5​ 21​ 26​

出典:筆者アンケート調査による.

1)このうち1名は赤飯にモロコシを使用しない.

次にモロコシ栽培と赤飯の調達方法の関係についてみてみよう.表2は,加工所Sのメンバー以外の住民における赤飯の調達方法をみたものである.これをみると,モロコシ栽培者5名に関してはすべて自宅で赤飯をつくっているのに対して,非栽培者は外注する者が多いことがわかる.全体的に現在では祝い事の際に自宅で赤飯を作るよりも,加工所Sやその他の村内外の事業者に赤飯づくりを外注する傾向が強くなっていることがうかがえる.

(2) 農産物加工所Sの運営

A地区の農産物加工所Sは1998年ころに設立された.当初は16名ほどメンバーがいたが,いまは実質10名にまで減少した.メンバーはすべて女性であり,年齢は56歳から88歳まで幅があるが,ほとんどが70歳以上の高齢者である(平均年齢77歳).加工所は直売所を兼ねており,毎週土日および祝日に欠かさず加工品を販売している.月に2回ほど奈良市内の観光案内所などでの出張販売も行っている.また村祭りなど地元の年中行事や定期市,奈良市内で不定期に行われる各種イベントなどへも出店している.

商品の主力は赤飯・山菜おこわ・ちらし寿司・モチ・草餅・エビ団子の6種で.このほか,各メンバーが家でとれた野菜や果実,自家製の梅干し・漬物などを包装して随時販売している.商品の値段はすべて一律に100円となっている.

販売当日の早朝,まだ暗いうちからメンバーが加工所に集まりそれぞれ担当の商品を作る.朝7時ごろ開店し,加工品に関してはおおむね昼ごろまでに完売してしまう.村内よりも村外からの客の方が多い.近くに複数あるゴルフ場にくる客のほか,奈良・大阪・京都などからわざわざ買いに来る固定客もあ‍る.

表3. 加工所Sの月別販売収入(2014年)〔単位:円〕
売上げ計 1日当平均 一人当収入(月)
6月 444,900 55,613 37,989
7月 427,360 47,484 35,681

出典:加工所S提供資料.

赤飯と山菜おこわなど主要加工品については二人一組で準備し,材料は担当者が各自で調達する.赤飯の担当になった場合は,多くの場合自分で栽培したモロコシや小豆を使うのである.モチ米については多くの場合購入している.

3にあるように,直売所では一回に4~5万円,月に40万円程度のうりあげがある.つまり一回に400~500品程度の商品が準備されていることになる(うち赤飯のしめる割合は20%程度).各担当者ごとのうりあげの1割を直売所の運営費(電気代,ガス代など)にまわし,あとの9割は各人の収入となる.つまり月3~4万円程度のこづかいが各メンバーにはいることになる(表3).ただしここからモチ米代など各自が負担する材料費を差し引くと,手元にはいくらも残らないことになる3

赤飯は通常の土日の販売以外でも,祝い事用にまとまった量の注文をうけることもある.たとえば結婚式の引き出物として赤飯の大パック(1,000円)を30~50パックなど大口の注文が入ることがある.そういうときは複数のメンバーが協力しあって準備する.

こうした注文に応じるためには一定量のモロコシ生産が必要である.メンバーたちは加工所のしごとをするようになってから自家消費分をはるかに超える量のモロコシを生産するようになった.こうして加工所Sの存在がモロコシ生産の強いインセンティブとして働いている.

表4. 加工所Sメンバーのモロコシ生産量〔単位:升〕
メンバー 2013年度 2014年度
A 3 3
B 3 3
C 5 5
D 5 8
E 3 5
F 3 5
G 8 3
H 5 5
I 1) 2
J 1) 3
一人平均 4.4 4.2

出典:筆者調査.

1)前年度のモロコシが余っていたため作付せず.

下の表4は,加工所Sのメンバーの2013年および2014年のおおよそのモロコシ収穫量を個人別にあらわしたものである.これをみると,前年度に生産したものが余っている場合を除いて,どのメンバーも毎年3~5升を恒常的に生産していることがうかがえる.これに対して,加工所Sのメンバー以外の住民で5升以上を収穫した者は皆無であった.非メンバーは基本的にモロコシを自家消費すると思われるが,加工所Sのメンバーにおいては自家消費分よりも加工所での赤飯作りに投入する部分がずっと大きい.赤飯の担当者の手持ちのモロコシが不足した場合はメンバー内で融通しあう.自家消費,加工所での使用以外に,隣人で家で祝い事があるがモロコシを栽培していない人に贈与する場合もある.

(3) モロコシと赤飯をめぐる社会関係

ここではモロコシ生産と赤飯を巡る社会関係について,加工所内部の関係,村民どうしの関係,という二つの側面から考えてみたい.

加工所Sは創業以来毎週土日と祝日に営業を続け,これまで1度しか休んだことがないという.またA地区や他の近隣村の村祭りなどで供されるモチなどの特別注文も多く,地域コミュニティに欠かせない存在となっている.高齢女性たちがそこまで奮闘する理由は何であろうか.収入そのものは微々たるものであるし,メンバーの発言をみてみると,経済的な目的以外の動機が女性たちの活動を支えているように思われる.つまり加工所Sは,高齢女性のこづかい稼ぎの場であるというより,生きがいの場を提供しているという側面の方が強いと考えられるのである.メンバーの言葉をそのまま借りると「私らはボケ防止のつもりでやっている」「あそびのつもりでやっている」といった個人的な動機の表明もあるが,同時に「店番をしているとなじみのお客さんが来てくれたりしてやりがいを感じるし,たのしい」「土日祝日は必ず営業というので期待してくるお客さんも多いので頑張って休まずやっている」などの表現にみられるように,顧客との社会的な関係に支えられたやり甲斐,義務感などが加工所継続の大きな動機となっていることがうかがえる.

またメンバーの多くはA地区出身であり,居住地はA地区内のひとつの垣内(カイト)とその周辺に集中している.お互いが本家・分家関係にある者,血縁関係にある者も含まれるが,そうでないメンバーも含まれており,親族的紐帯に基づく集団というよりは,隣近所にすむ親しい者どうしから成るグループとみた方が正確であると思われる.気のおけない仲間だけでやっているので,(仮に誰かが引退するとしたら)その娘が継ぐということがない限り,よその人間をメンバーとしてうけいれるのは難しいという.こうして親しいメンバーで共同の事業をやる,ということが加工所存続の原動力になっており,その延長上にモロコシ栽培の存続があると考えられる.

他方で,赤飯のやりとりをめぐる村人間の関係については,「もしお祝い返しにアズキの赤飯をもらったら,口ではおいしいというが内心がっかりするだろう」という発言に表れているように,(とくに高齢者の間では)モロコシによる着色がのぞましいという一種の規範があるように思われる.やりとりされるのは赤飯そのものだけでなく,種子もまた贈与される.モロコシを栽培していない世帯が赤飯を作ることができるのは,ひとつには隣人どうしで穀粒を融通しあう習慣があるからである4.また赤飯をつくるような祝い事の予定はとりあえずないけれども,家(あるいは地域)で受け継いできたタネを絶やさないために(「タネツギのために」)毎年植えている家もある.こうした行為は家や村の共有財産をめぐる一種の(今は亡き祖先や将来世代を含めた)世代を超えた社会的な関係の反映であるともみることもできる.また知り合いから分けてほしいといわれるから,自分で必要な量以上に生産している人もいる.そこで収穫されたモロコシは(自家で使わないとしても)隣人の祝い事で使われる可能性がある.

4. 旧田原村B地区におけるモロコシ生産5

(1) モロコシ生産の現状

次にA地区のような農産物加工施設・直売所が存在しない事例として,山を隔てて隣接するB地区におけるケースを検討してみよう.B地区は上下二つの垣内にわかれており,上B区が12世帯,下B区が8世帯の計20世帯からなっている.このうち2014年現在でモロコシを栽培している世帯は上が7世帯,下が3世帯となり,全体では半数の10世帯がモロコシ生産を続けていることになる.A地区と同様に,モロコシの栽培や加工には高齢女性が主導権を握っているケースが多い.モロコシを栽培していない残りの10世帯のうち少なくとも3世帯は高齢男性のひとり暮らし世帯,また他の2世帯は2~3年前までモロコシを栽培していたということを考えると,かなりの比率でモロコシ栽培が残存してきたといってよい.ただし,A地区と対照的に,B地区における各世帯のモロコシ生産量は概して少ない.2014年度の生産量が判明した8世帯についてはすべて2升未満しか生産していなかった.赤飯にトウキビを使い続ける理由については,A地区と同様に,鮮やかな赤色がでるから,という回答がほとんどであった.

(2) モロコシ・赤飯をめぐる社会関係

B地区においてもかつては結婚式,棟上げ式などのお祝い返しとしてモロコシで色づけした赤飯が欠かせなかった.高齢化・過疎化が進みこうした祝い事を実施する機会が減少している中,モロコシ生産が細々と続けられているのはなぜだろうか.

なかには単に食べたいからつくるという家もあるが,多くは誕生日などのちょっとした祝い事に赤飯を作るためにモロコシ栽培を続けているとみられる.たとえば同居する孫の誕生日に赤飯を炊き,近所におすそ分けをする世帯がある.また都会に住んでいる孫の誕生日に赤飯を炊き,(近所には分けずに)孫に届ける世帯もある.お祝いごとがなくても,たまたま赤飯をたくさん炊いたときなどに,近所におすそ分けをするケースもある.

またある女性は,奈良市に住む(田原村出身の)友人や親せきの家を訪問するさいに,市販の加工品とちがい100%モチ米をつかってモロコシによって色付けした赤飯をつくっておみやげとして持参する場合があるという.この地域の出身者には小さいころに食べた赤飯の味を懐かしく思う人もいて,奈良市内の市民農園でモロコシを栽培したいというので,タネを譲ったこともあった.

また興味深いのは村の神事のためにモロコシを栽培したという上B区のある家のケースである.この家では現在はモロコシを栽培していないが,2年前に神社祭祀の世話役である「当家(トウヤ)」の順番にあたったときにモロコシを栽培した.というのは上B区では秋祭りの前日(宵宮)の区内住民の会食の際に赤飯のうえにヒラキサンマを載せたものを供する,というしきたりがあったからである6.残念ながらこの習慣は2014年から廃止されたが,それまでは当家がこうした食事を準備しなければならなかった.こうして村の神事での当家としての義務を果たすためにモロコシを1年だけ栽培した.この家ではまた最近孫娘の結納があり,このときは近所の人にモロコシを譲ってもらって赤飯を炊いたという.こうしたタネの贈与は日常的な隣人間のもののやりとりの一環として意識されている.こうしてB地区では,家族内,または村内外の社会関係を維持するうえで,モロコシを使った赤飯が一定の役割を果たしてきたといえる.

5. 結論

ここまで二つの村落を事例として,大和高原のモロコシ栽培とその利用について検討してきた.A地区においては,戦中までは主食の一角を担っていたと思われるモロコシが,現在では赤飯の着色用にのみ栽培されている.モロコシを使った赤飯は,結婚式,誕生日,棟上げ式などさまざまな祝い事の際に作られ,香りもよいことから好まれている.しかしA地区におけるモロコシ生産は,単なる自家消費向けにとどまっているのではない.地区内には農家主婦を中心とする農産物加工所兼直売所があり,そこが赤飯生産の拠点となっており,また加工所のメンバーを中心にモロコシが多く栽培される傾向がある.地区内外から祝い事用に大量の赤飯の注文が入ることも多く,加工所で働くことは高齢女性に対してある種の生きがいを提供している.

A地区に隣接するB地区においては,こうした加工所は存在しないが,いまだに半数の世帯で自家消費用にモロコシ栽培が続けられている.現在における赤飯の主要な用途は誕生祝いなどに限られているが,それは家族内や村内の社会関係のみならず,村内の人間と都会へでていった子ども・孫・友人たちとの関係をもつなぐひとつの文化的な道具として機能していた.

このように大和高原でモロコシ栽培が細々とながらも存続してきたことは,一定の文化的嗜好(モロコシで着色した赤飯を好むという)の持続性を示すと同時に,モロコシや赤飯を媒介として形成される多様な社会関係が種子保全に重要な役割を果たしてきたことを示している.その社会関係は様々なレベルで観察される.第一に,お祝い返しの義務や日常的な贈与交換(赤飯やタネのおすそ分け)にみられる村人どうしの互酬的・双務的な性質の関係である.次に,村落共同体の一員としての役割と関わるものがあり,神社の当家としての義務を果たすためにモロコシを栽培した事例がこれにあたる.さらに隣人間や共同体の義務とは関わらない家族内の社会関係や,純粋な友人関係の表現手段としてモロコシや赤飯が利用されるケースもあった.また加工所Sの事例は村内外からの顧客と村人の関係が重要な役割を果たして事業として成功した事例である.こうした重層的な社会関係のなかでモロコシと赤飯が結節点として機能し,結果的に雑穀種子の保全につながってきたのだと考えられる.

謝辞

本論文作成にあたっては,A地区・B地区の住民の方々のほか,都祁地域おこし協力隊の加納孝恵氏ならびに都祁在住の自然農法家國吉賢吾氏の多大なご協力を得た.記して謝意を表したい.

1  大和高原における神饌用の雑穀栽培については,別稿で詳細に論じる予定である.

2  本節の記述は,筆者によるA地区での現地調査(2014年4月~11月のあいだに10回程度実施,住民へのインタビューと加工所Sでの参与観察など)ならびに地区全体を対象に実施したアンケート調査(2014年8月)によっている.

3  赤飯のケースを考えると,仮に小豆とモロコシは自家のものを使いモチ米だけを購入したとすると,一回の売上(およそ37~38パックで3,700~3,800円)に対してコスト(モチ米2升分=1,200円と仮定)が少なくとも3割程度を占めることになる.

4  JAならけんの都祁経済センターが運営する販売施設では,A地区および隣接する他地区の生産者2名が栽培したモロコシを販売しているので,近年はここで購入する住民もいる.

5  本節の記述は,筆者が行ったB地区での悉皆調査(2014年11月15~17日)によっている.

6  この習慣は同じB地区内の下B区や隣のA地区ではみられない.

引用文献
  • 阪本寧男(1988)『雑穀のきた道』日本放送出版協会.
  • 田原村史編集委員会編(1959)『田原村史』 田原地区自治連合会.
  • 都介野村史編集委員会編(1955)『都介野村史』.
  • 都祁村史編集委員会編(2005)『改訂都祁村史 中巻(地理・民俗編)』.
  • 奈良縣添上郡田原村編(1917)『奈良縣添上郡田原村是』.
  • 奈良縣添上郡田原村(n.d.)『田原村風俗誌』(手稿資料).
  • 針ケ別所村史編纂委員会編(1969)『針ケ別所村史』.
  • 藤本幸平ほか編(1992)『聞き書 奈良の食事』農山漁村文化協会.
  • 増田昭子(2011)『雑穀の社会史』吉川弘文館.
 
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