明治以降に制定されていく文部省唱歌を読んでいると,「ふるさと」にとどまって暮らしていこうという歌が一曲もないことに気がつく.すべで「ふるさと」を捨てる歌である.立身出世をめざして「ふるさと」から出ていく.ただし気持ちはいつも「ふるさと」を思っている.そんな歌ばかりである.近代日本における立身出世とは,役人や軍人になるのであれ,学者や企業人になるのであれ,お国のために役に立つ人間になることを意味していた.それをめざして「ふるさと」を捨てるのである.
有名な唱歌「ふるさと」は大正初期の作品であるが,これもまた「ふるさと」を思いながらも捨てる歌である.最後に「志をはたして,いつの日にか帰らん」とあるが,これも晩年には「ふるさと」で暮らそうという意味ではない.立身出世をとげて,故郷に錦を飾るという意味である.作詞者は現在の東京芸大の教授となった高野辰之であるが,彼は長野県の中野市,旧豊田村の出身であった.晩年に短期間「ふるさと」に帰っている.そのときには村人が駅から生家までの提灯行列で迎えた.故郷に錦を飾ったということなのだろう.
近代日本の建設とは,農村を軸にした社会から都市を軸にした社会への転換であった.農村を基盤にした分散型社会から,都市に権力や経済力が集中した中央集権型社会への転換であったといってもよい.もちろん江戸時代には,城下町を軸にした一種の中央集権型社会の建設が全国的にめざされている.古代から都市の建設とは,権力の都市への集中と裏腹のものであったといってもよい.しかしそれは近世期までは十分には実現できなかったのである.その理由は生産力の多くが農山村に依存していたことと,それぞれの農山村が自律的な共同体をつくり,そこに「我らが《国》」を築いていたことにあった.それを解体し,都市を軸にした中央集権型社会を建設する,そこに近代日本の歩みがあったといってもよい.
この過程で農山村の役割は,軍人を含む労働力の供給基盤と食糧の供給基盤になっていった.戦後の高度成長期には,その総仕上げのような時期が展開し,それは農山村の著しい衰退を招くことになった.広い視野でとらえるなら,農山村の衰退は日本の近代化の必然的結果だったのである.すなわちこの近代日本の構造を前提にした「地方創生」は,それ自身が自己矛盾に満ちているといってもよい.
さらに今日では食糧の供給基地としての農山村の役割も変化してきている.TPPに象徴されているように,食料もまた国際商品として扱われるようになった.とともに,たとえ農村で生産されるとしても,農村社会を基盤として生まれるものから企業型農業によって生産されるものに,農産物を変えていこうとする動きが強まってきた.農村あっての農業ではなく,企業型経営が生産する農産物へと転換しようと誘導しはじめたのである.
こうして農山村社会の維持は目的ではなくなっていった.とするとこの先にみえてくるのは,公共的負担の大きい地域の消滅と居住地域を集約していくコンパクトシティ構想の推進になっていくだろう.外側に通勤型の企業的農業を展開させ,居住地は集約していく.そういうものが目指されながら,農山村の解体が進行していくことになるだろう.
労働力の供給基地としての農山村の役割はすでに終焉している.もちろんいまでも若者の都市への流出はつづいているが,その数はかつてのような日本の屋台骨を支えるというようなものではなくなった.さらに現在の農山村の少子化の動きをみれば,この面での農山村の役割はなくなっていくといってもよい.とともに農業と農山村の関係も変える方向で誘導されている.とするとこのような現実のなかでの「地方創生」は,農山村を解体していく過程と一体化した「地方創生」になるだろう.
だがこの動きだけが現在の農山村の動きだけでもまたないのである.農山村には地域継承を目指す新しい動きもまた存在する.ある意味では現在とは,ふたつの「地方創生」が展開し,そのことが「地方創生」という言葉を複雑化させているといってもよい.この現実をとらえるために,はじめに私の村の家がある群馬県の山村,上野村について報告しておく.
一九七〇年代に入った頃,私は偶然この村を訪れた.主な目的はヤマメ釣りだったから,調査のために足を伸ばしたわけではない.何となくこの村が気に入り,村の家を譲ってもらって東京と村を往復する生活を四十年余りつづけている.村では畑や裏山も所有している.そんなかたちで関わってきた村である.
上野村は明治の町村制の成立とともに発足した村で,以降一度も合併したことがない.律令制下での上山郷が上野村で,ヤマトタケル伝説があるところをみても,かなり古くから都の方で認識していた村なのだろう.ただし村には歴史的に水田がなく,戦後の食糧難の時に無理してわずかな水田をつくったという例外の時期はあるが,江戸時代の主産業は養蚕と和紙の生産だった.明治中期からは山に天然の栗の木が多かったことから鉄道の枕木生産が活発化し,それは満鉄の枕木にまでなっている.さらに明治後期からは炭の生産が拡大した.といっても専門の炭焼きの人々は山を「借り」て炭を焼く,村外からきた山子の人たちがほとんどだったから,村の人は傍ら炭も焼いていたくらいに思っていただければいい.
村の九十五パーセント程度が森林の村だが,明治の途中から枕木生産と炭焼きがはじまったという程度で,伝統的には林業の村ではないのである.人工林は戦後に植えたものが三十パーセント程度あるが,村外の大山持ちがもつ三千ヘクタールの人工林を除けば,多少は人工林もあるというくらいの天然林の多い村である.戦後の自動車時代に入ると道路事情が悪く,山奥の取り残された村のようになった.養蚕や和紙の生産が維持できなくなってからは,一時蒟蒻の生産が順調だった時期もあるが,農産物の主力はキノコの生産で,平坦地がないだけに農業振興とも縁のなかった村である.
一見すれば村中が限界集落のようなところなのだが,戦後の高度成長期からさまざまな村を守る努力を重ねてきたのが上野村でもある.現在の人口は一千三百人ほどで,その二十パーセントはIターン者になっている.小中学生などの子どもの割合は十五パーセント弱と東京並みで,昨年(二〇一五年)の新生児数も十人を超えているから,群馬県内では持続可能な村だと思われている.
地域づくりという点での上野村の特徴をあげれば,そのひとつは村人の結束力が高いということにある.前記したように古代上山郷がそのまま現在の上野村であり,明治以降いかなる合併もおこなっていない.また農協,森林組合も合併拒否で,いまもなお上野村農協,上野村森林組合である.村づくりは役場,農協,森林組合,(内水面)漁協=上野村漁協,それらの出資による第三セクターが役割分担するかたちですすめられていて,それもまた結束力の高い村であるからこそ可能な方法であるといってもよい.
第二の特徴は,道路整備や過疎債の発行などを除けば,戦後の国による地域振興策と無関係な村だったことがあげられる.農地がほとんどないから,村人の言葉をつかえば,「農政は村を素通りしていった」.人工林が少なく,山も急峻なことから林業政策も上野村に適合してはいなかった.もちろん工場誘致などが可能な場所ではないし,特に観光名所があるわけではない.そういう場所だから,村の振興策は,村自身が考え,村自身の手で実現させていく以外にありえなかったのである.ところがそのことが自立心の高い村をつくることになった.村は自分たちの生きる世界だという共同体的雰囲気がいまも色濃く残っていて,昨年の中学生の意識調査でも,将来どこで暮らしたいかという質問に対して,「村で暮らす」と答えた中学生の割合が百パーセントとなっている.この数字には村人も「信じられん」と笑っているが,そういう雰囲気のある村であることは確かである.
第三の特徴は,かつて黒澤丈夫村長が四十年間村長をつづけ,いまもその後継者が村長であることに表現されているように,時代に迎合しない自主独立の村をつくろうという姿勢をぶれることなくつづけてきたことにある.
そういう特徴を持ちながらも,上野村の悲願は,森を活かした村をつくっていくことにあった.農地がきわめて少なく,九十五パーセントほどが森林なのだから,森とともに生きる村を築かないかぎり,持続的な村は形成できないのである.
上野村では一九七〇年代半ばに,木工業を新規創造する試みがおこなわれた.村の希望者二名を役場職員として採用し,産地で修業をさせるところからはじまっている.その後にも村営の木炭工場や,低質材を堆肥化する工場をつくったりしてきたが,現在では次のようになっている.森林労働にたずさわっている者が約二十五名,彼らの主な仕事は人工林,天然林を問わず間伐である.伐採した材は全量森林組合の製材工場に運び,ここで柱材,板材などとともに広葉樹の良質材は木工用の原料材にされる.この過程で十五名程度が働いている.利用できなかった材や製材の過程で出た端材などはペレットの生産工場に運ばれ,ほとんどはここでペレット化され,一部はチップとして村の特産品であるイノブタの畜舎の敷き藁代わりに使われる.このチップは後に糞尿とともに回収され,堆肥工場に運ばれる.ペレットは二名程度でつくっているが,その利用法としては村の四カ所の温泉の加熱ボイラー用,村の暖房用,さらにペレット発電用になっている.現在村の学校など大型の建物の暖房はペレット暖房化されており,いまは村の補助金附きで一般民家へのペレットストーブの普及を図っている.
村の主力産品のひとつに椎茸があるが,ペレットの生産工場でコナラなどはオガクズ化され,それが菌床として利用されるはずだったが,いまは福島の原発事故の影響を避けるためにこの原料は九州から入れている.キノコは農家生産のものもあるが,主力は第三セクターが運営するキノコ生産施設からのもので,この施設の横でペレット発電がおこなわれている.キノコの生産施設ではおよそ九ヶ月ほどが冷房を使っているが,この冷房用エネルギー源として,発電から出る廃熱の回収利用をおこなうためである.発電機はペレットをガス化してエンジンを回すドイツ製のものであるが,廃熱利用と重ねることでエネルギーの利用効率は極めて高くなっている.なおこのキノコ生産施設では六十五名ほどが働いている.
上野村では森林の持続的利用を,このような多様な形態で結ぶことによって実現させようとしているのである.また現在の上野村は年間二十万人強が訪れる観光地でもあるが,上野村を訪れる人は森林と源流の川によって生まれている豊かな自然と,伝統的な村の雰囲気に惹かれてくる人たちがほとんどであり,観光の面でも,天然林の保全と利用の一体化が重要になっている.村にはシオジの原生林,天然ヒノキ,さらに森林セラピーの森=健康増進をかねて森林を楽しむ場所などの広大な保護林もあるが,それらを訪れる人たちも年々増えてきている.宿泊施設や村の物産の販売場所,日帰り温泉施設,森や山にはいる人たちのためのインストラクターの体制なども整備されており,民間の旅館や民宿などを含めて百人ほどの人たちがこの部門で仕事をしている.
現在の上野村の産業はこのようなものが軸になっているが,ここで確認しておくことは,村は経済発展を目指してはいないことである.そうではなく,目標は持続可能な村の労働の系の創造にある.昨年(二〇一五年)から木工関係の職人さんが後継者育成をかねて新規に人を雇った場合,就労者に月額十五万円,雇った親方に指導料として月額七万円を支払う制度が動き出しているが,そういうことも含めて良好な森林を維持し,かつ多様な関連労働を持続可能なかたちでつくりだす,それが上野村の目標である.
ゆえにそれは,観光もしているしキノコの生産やペレット発電などもしている,ということではない.すべてが森林関連労働として有機的に結ばれ,そのひとつひとつをそれぞれの人たちが担っていくことによって,将来に向けた村の軸ができていく.そういう村づくりをしていると思ってもらえばよい.さまざまな経済活動があって村が活力をもつという方向性ではなく,持続可能な村の労働の系があり,その一部を村人たちがそれぞれ担うことによって,その結果として多様な村の経済活動が成立する.個人の経済の前に,共同体の経済があるということである.そういう考え方を定着させることによって,この村を訪れる人たちにも,伝統的な安らぎが上野村にはあると感じてもらう.それが上野村の観光を持続させる道でもある.
これまで人々は,経済発展や産業振興がなければ地域は活力をもたないという観念に,縛られすぎたのではないかと思う.もちろん地域を持続させていく産業基盤は必要だろう.だがそれは結果でしかない.むしろ課題は地域を持続させていく労働の系の創出の方にある.
たとえばかつての農村は農村的な労働の系とともに展開していた.その労働の系のあり方は,その地域の自然によって異なっている.稲作労働が中心になる地域もあれば,畑作中心の地域もあった.さらにはそれだけではなく山菜採りや茸狩り,冬の職人仕事や山仕事などが多様に組み合わされ,そこに生まれた労働の系が地域社会を支えていた.
そしてそのひとつひとつは,そこで暮らす人々にとっては産業とか経済という概念ではなかった.労働の系とともに生きることが,暮らしの世界の再生産であるにすぎなかったのである.
さらにその労働の系は共同体の労働の系とともにあった.その地域の風土に合った労働の系という意味でそれは共同体とともにあり,共同体的な水管理や道普請,屋根の葺き替えなどとともにあるという意味でも,共同体の労働の系とともに展開していたのである.そしてだからこそ労働の系は,共同体の祭りや年中行事,伝統芸能などとも不可分のものであった.すべてが一体的な関係を築き上げていたのである.ゆえに生活や地域文化などを含めて,そのすべてを地域の労働の系と言ってもかまわないし,一体的な暮らしの世界と考えてもいいだろう.経済とか産業という独立した概念で切り取れるものではなかったのである.
ところが社会が近代化していくと,ふたつの変化が生じた.ひとつは産業や経済が独立した概念でとらえられるようになったこと,もうひとつはそれらが個人の営みとして共同体から独立したことである.そしてこのふたつの変化が,共同体を蝕んでいくことになった.
産業や経済が独立したものとして営まれるのなら,農山村社会は必ずしも好都合な場所とはかぎらない.市場規模も小さいし,おこなえる業種も限定的である.それでも農業や林業は農地や林地なしには実現できないが,といってもすべての農山村がそのための良い条件を備えているわけではない.たとえば私の村である上野村をみれば平坦な農地はほとんどないし,山の傾斜地につくられた農地もきわめて狭い.森林が九十五パーセントという村だから森林面積は広いが,山が急峻で林道,作業道などをきめ細かく入れるのには適していない.普通の林業をおこなおうとすれば,条件は決して良いとはいえないのである.
経済や産業の基盤として農山村をみれば,農業や林業でさえ,必ずしも良い条件をもっているわけではない.とりわけ今日のように農産物の国際商品化が進めば,たとえばアメリカの農地条件を基準にすれば,日本の農民は超零細農民でしかないのである.
つまりこういうことである.経済を独立したものとしてとらえる近代のあり方は,伝統的な産業で暮らしてきた地域には適したものではなかった.仕事,労働と暮らし,文化,土着的な信仰などが地域と個人を一体的に結んでいるかたちこそが,農山村のあり方だった.だからこのかたちが崩れ,経済だけを独立してとらえるようになれば,農山村は少しずつ衰退していく.
とすれば,経済が発展すれば地域は活性化するという考え方は幻想でしかない.もちろん短期的にはリゾート開発に成功してその地域が活性化することも,産地化の推進によってえた経済的成功が農山村を元気にすることもあるだろう.だがそれはほとんどの場合は長期的な基盤にはなりえないし,そうやってえた活性化が逆に農山村的基盤を崩し,経済力はあっても農山村的力はない地域をつくりだしてもしまうのである.
だが農山村を維持するためには,それを可能にする経済や雇用が必要だと誰もが言うだろう.もちろん私もそれを否定しているわけではない.私が言いたいのは,経済を独立したものとしてとらえてはいけないということだ.そしてだからこそ重要なのは,労働の系の構築をとおして地域維持を考えていく視点なのである.
地域にはさまざまな労働がある.収入を得るための労働もあるが,家庭での生活を再生産するなかにも多様な労働が含まれている.今日ではボランティアとか助け合いと呼ばれているものもまたひとつの労働であり,上野村なら山菜採りや茸狩り,狩猟,ときに釣りといった労働もこの地域を支えている.さらに結としておこなわれるさまざまな労働もあれば,祭りや年中行事などを守っていく労働も存在する.そのなかの,たとえば狩猟をみても,もともとはそれは労働であり娯楽であった.しかし最近では害獣被害が大きいことから,地域を直接的に守る大事な労働にもなっている.さらに大型動物が対象になり,チームを組んで猟をするようになったことから,そのチームに村外や都市の人たちが加わり,交流拠点としての役割も果たすようになった.すなわち狩猟ひとつをとっても,それはさまざまな要素が組み合わされた労働という性格をもっているのである.
私は賃労働などの収入を得るための労働を狭義の労働,生きる世界と共におこなわれていくさまざまな労働を広義の労働と位置づけてきたが,この分け方のなかでは狭義の労働もまた広義の労働の一部である.
かつて人間たちはさまざまな労働とともに生きていた.ところが近代に入ると狭義の労働だけが労働化され,それ以外の労働はたとえば家事とか地域活動とか,ボランティアなどと別の概念を与えられるようになっていった.そしてそのことが労働の系とともに展開していた共同体社会を壊したのである.経済が独立したものとしてとらえられる社会とは,別の視点から述べれば,狭義の労働だけが労働化され,それが独立したものとしてとらえられるようになった社会のことである.
だが農山村的社会では,今日もなお多くの地域で広義の労働が地域を支えている.上野村の狩猟もそのひとつであるが,結,祭り,年中行事などが維持されている地域の方が,地域としての活力は残されているといってもいいだろう.とすれば必要なのはこの労働の系なのである.
そしてこの労働の系のなかに,いかに収入を生む労働をも組み込み,創造していくかが地域継承と「地方創生」の課題だといってもよい.
前記したように上野村では森林を活用した地域の労働の系をつくりだそうと努力してきた.山での労働からペレット生産と発電,キノコ生産,観光などを有機的に結んでいくことによって,地域の持続が可能な収入を得るための労働の系もつくりだしていく.とともにその労働の系は,村で展開する広義の労働の系とも矛盾なく一体的に展開する.そういう労働の系をつくりだすことによって,持続できる村をつくりだそうとしてきた.
もちろん収入を念頭におく労働では,それが安定的な収入源になるように努力していかなければならない.その意味では安定的な経済活動になっていなければならないのである.だがその考え方は,広義の労働のなかの一部を安定的な経済活動にしていくというものであって,経済をつくって雇用場所を創造するということではない.発想は逆なのである.村の条件をいかした労働をつくり,その労働に経済性を付与するにはどうしたらよいのかを考えていくということである.視野に収められているのは,地域を継承していける広義の労働の系であり,そのなかにどのような労働の系を内蔵させたらそれが安定的な経済活動にもなるのか,である.
だから,たとえば観光という考え方でも,直接的な経済活動としての観光は,村の宿泊施設や温泉,旅館,民宿,売店,レストラン,上野村にある鍾乳洞などの施設で展開することになる.だがその背後では,天然林の多い森を活用しながら維持していく人々の労働や,その労働を可能にしている製材からペレット,キノコ生産までの労働があり,さらに山村らしい景色を守っている農業労働が存在している.祭りや年中行事が当たり前のようにおこなわれている雰囲気もまた村の観光を支えている.村の観光は直接的な観光労働にたずさわっている人たちだけで実現できるものではなく,村の広義の労働の系に支えられてこそ実現されているものなのである.そしてこのかたちこそが継承可能な村をつくっていく労働の系である.
これからの社会をどうつくっていったらよいのか.このように問われたら私は「伝統回帰」と答える.農山村だけではなく,都市をも含めて,である.
たとえば今日の社会のなかでは,コミュニティづくりということが盛んに言われ,また模索されている.コミュニティとともに暮らす,結び合いをもちながら暮らすということは,そのような暮らし方をしていた過去の時代に戻るということだ.個人がバラバラになって生きる時代から結びあう時代へという意味で,それは伝統回帰なのである.
もちろん働き方も暮らし方も,さらには地域のあり方も変わっているのだから,昔と同じかたちのコミュニティをつくろうとすれば,逆にコミュニティなどつくれなくなってしまうだろう.だからかたちとしては新しいコミュニティのあり方を創造しなければならない.だがコミュニティをもちながら暮らすという意味では,それもまた伝統回帰なのである.
上野村がすすめている地域電力もまた伝統回帰だ.かつては村人たちは地域資源をエネルギー源にして暮らしていた.その大半は薪だった.だからその時代に戻ろうということである.ただし薪以外は使ってはならないなどといったのでは,伝統回帰もできない.だから薪を現代的に使いやすいものにするためにペレットを生産し,それを使って発電もはじめた.最終的には小規模水力発電を入れることによってエネルギーの地域自給を考えているが,地域資源で暮らす村に戻るという意味で伝統回帰を目指しているのである.さらに森林の多様な利用形態をつくり,森と結んだ労働の系を創造しようとしているのも伝統回帰である.上野村にはまだ伝統的なコミュニティや伝統文化などが残っているから,こちらはそれを守っていくことによって伝統の継承をしていけばいい.
今日の社会の課題になっている自然とともに生きる社会をつくるというのも伝統回帰だし,また今日急速に生まれてきているソーシャルビジネスの動きも伝統回帰だ.なぜなら社会のなかで役に立とうとして新しい仕事を始めたところから,伝統社会における「ビジネス」は発生したのだからである.
一見すれば新しい試みのようにみえる.しかしよく考えてみれば過去に展開していたものを現代的なかたちで再創造しようとしている.そしてこの動きがこれからの時代のあり方を指し示している.私たちはいまそんな時代を生きているのだと思う.
そしてそのような視点に立つとき,私たちはその考え方がいま生まれたものではないのだということに気づく.たとえばカール・ポランニーを読んでみよう.彼の代表作である『大転換』(邦訳,東洋経済新報社)が刊行されたのは一九四四年である.そのなかでポランニーが主張していたことは,近代以前の世界においては経済は社会のなかに埋め込まれていたということだった.経済は独立した事象ではなかったということである.今日でいうところの市場経済も非市場経済も社会のなかに埋め込まれていて,いわば社会活動として展開していた.そういうありようが崩れ経済が自立的展開をとげるようになったのが近代という時代である.ポランニーはその異常さをとらえていた.
同じようにすべての要素が一体的に展開していた社会が壊れ,経済が暴走しながら社会を壊していく現実をみていた人に,シルビオ・ゲゼルがいる.一九二〇年に代表作『自由地と自由貨幣による自然的経済秩序』(邦訳,ぱる出版)が発表されているが,彼は経済をもう一度社会のなかに埋め戻すために土地所有の禁止と「劣化する貨幣」の創造を提起した人としても知られている.
人間たちが暮らす一体的な社会がさまざまな要素に分解し,その一要素にすぎなかった経済が独自の歩みをすすめながら社会も,文化も,さらには人間たちの精神や感性までをも壊しつづけていく.この視点をもちながら研究を進めていた人のなかには最近亡くなったレヴィ=ストロースもいたが,近代社会をすべての要素が一体化した社会の崩壊としてとらえる視点は,かなり以前から提起されてきたことでもあった.私たちがそれを自分たちのものにできなかっただけである.
そしてこの視点が正しいとするなら,長期にわたって継承可能な農山村をつくるためには,もう一度社会と経済,文化や土着的な信仰などが一体となって展開する地域を再創造する試みが必要だということになる.つまりその意味での伝統回帰が必要なのである.
もちろん現代のなかの農山村である以上,地域を持続させられるだけの経済は必要だろう.だがそれを経済として独立的にとらえた瞬間に,私たちは農山村を衰退させてきた近代の罠にはまる.そうではなく,どのような労働の系があれば,その地域が持続可能になるのかを見つけだすことだ.そしてその労働の一部が所得という面でも成立するようにするにはどうしたら良いかを考えていくことである.目的は広義の労働の系の再創造の方にある.ただしそれは結果としては経済活動としても成立していなければならない.
上野村は移住者の多い村だと述べたが,その移住者も,残念ながら自分は村の労働の系のなかにいるということをつかみ取れなかった人は,結局村を去っている.村で自分だけの仕事がしたいというだけでは,やはり村にはなじめないのである.
もうひとつ上野村の特徴を述べると,この村には村外の協力者がかなりいるということが上げられる.村の出身でもなく,たとえば東京で暮らしているけれど,上野村をふるさとのように感じていて,必要なときには村のために協力してくれる人たちである.ペレット発電機を導入していく過程でも,新しいキノコの生産体制を確立していく過程でも,その人たちが大きな役割をはたしてくれた.今日の村は村に住んでいる人だけのものではないし,村づくりも定住者だけでおこなうものでもない.
そしてこのかたちもまた,私は伝統回帰だと思っている.かつては村の道をさまざまな人たちが歩いていた.僧侶や修験者たちもやってきたし,さまざまな問屋や仲買人たちも現れた.その人たちのなかには定期的に訪れる人もいて,そういう人たちが多様な知恵や知識,アドバイスを残していった.そういうことをとおしてかつての村はつくられていた.
その役割をいま外部の人たちが村の協力者として果たしてくれている.とすればこれもまた伝統回帰だ.
現在の農山村には,さまざまな負の景色がある.過疎化,高齢化,耕作放棄地,….だが他方では移住者たちが現れ,農山村的な暮らし方に関心をもつ人たちもふえてきている.その人たちは農山村の何に魅力を感じているのか.そのことの解明のなかに,農山村地域を継承していくヒントが隠されている.
彼らは決して大きな事業を立ち上げようとしているわけではない.最近では農山村にデザイン工房をつくったりする動きもでているが,その人たちも決して事業の拡大のためではなく,豊かな発想がわく場所として農山村を選んできている.
農山村の魅力は経済にあるのではない.経済だけを考えるのなら,都市の方が魅力的だといってもよい.とすると何が人々を惹きつけはじめているのか.
本稿ではそれを,労働の系という視点から検討した.労働の系とともにある地域,そしてその労働の系が自然や地域文化などとも結ばれている社会.それを求めて農山村に関心をもつ人々がふえているのである.
とすればこの農山村にある質に目を向けながら地域づくりをすすめていくことが,持続可能な農山村をつくることになるのではないだろうか.そのためには経済発展が地域を活性化するという観念を,私たちは一度捨て去る必要があるのだろう.いま私たちは,ここから出発しなければならない.