農林業問題研究
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書評
山口道利著『家畜感染症の経済分析―損失軽減のあり方と補償制度―』
〈昭和堂・2015年2月28日発行〉
飯國 芳明
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2015 年 52 巻 2 号 p. 83-84

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本書は,家畜感染症の経済分析という新たな学問領域を切り開こうとする意欲的な著作である.この領域は獣医学と経済学の境界領域にある.この種の学際的な研究対象は,刺激的な課題を研究者に与えてくれる一方で,課題にアプローチするための枠組みや手段が見いだせず研究が散発的になりやすいという難しさがある.本書は,この難問に対して,契約理論やフードシステム論という分析ツールを足掛かりにしながら果敢に挑戦している.

その内容は大きく2つに分けることができる.一つは,家畜感染症の発生時に政府がいかにして,その拡大を防ぐかに焦点を当てたコントロール問題である.もう一つのテーマは,家畜感染症が終息した後に家畜の取引を容易に回復できる条件を生産者・卸売業者・小売業者の関係性から解明することにある.

構成は3部からなる.すなわち,上の2つのテーマに先行研究のレビューを加えた3部である.まず,第1部「家畜疾病コントロールの経済学的側面」では,これまで獣医経済疫学と呼ばれる分野の国内外の文献のレビューがなされる.レビューからは,1)家畜疾病の経済的損失が金銭的な評価に留まり,市場参加者の効用への配慮が欠落している点や2)疾病対策を各経済主体の行動の変化から捉える動態的な視点が不足している点,さらには,3)公的介入のあり方に関する理論的・実証的分析が十分でない点が指摘されている.これらの指摘は後の分析の布石となっていく.

第2部「事業者の行動誘因を考慮した公的な制度設計」は2つの章から構成される.このうち,第3章「家畜防疫上の補償制度に関する理論分析」では,生産者の家畜疾病に対する行動を適切に誘導するための制度の設計がテーマとなっている.冒頭に述べた一つめのテーマに答える章である.

家畜感染症が発生した初期段階では,発生情報は生産者にしか知り得ない.この情報を都道府県に届け出ると,生産者は全頭処分などの多大な損失を被りかねない.そこで,生産者は,発生情報を伏せたまま事態の収束を図ることがある.このとき,その感染症が終息せず拡大することになれば,社会的には甚大な損失が発生しかねない.したがって政府の立場からみれば,すべての生産者が届け出ることが最適である.しかし,これは必ずしも生産者の最適な行動は一致しない.

第3章では,この矛盾を解消・緩和する制度の設計が試みられる.分析は,生産者の意思決定をその順番に沿って次の3つの段階に区切り,それぞれの段階ごとに分けて罰金や補償金といった政府の介入(制度)のあり方と生産者の意思決定の関係を考察する形で展開される.3つの段階とは,平常時に家畜疾病の発生防止にいかに努力するかを決定する第1段階,疾病が発生したときに,疾病の発生を家畜衛生保健所などに届け出するかどうかを決定する第2段階.そして,疾病が発生したのちの事後処理のあり方を決める第3段階の3つであ‍る.

他方,政府は農業経営の意思決定に対して届け出をしなかったときの罰金及び届け出した場合の補償金の2つの手段で生産者の行動をコントロールする.

著者の関心は,政府の課す罰金と補助金の水準を変化させて,生産者が疾病発生時に届け出し,また,疾病の予防や後処理の努力を促す制度をどのように設計するかにある.

詳細な紹介を割愛するが,分析は契約理論を用いて厳密に展開されている.分析からは,1)第2段階の届け出を促すためには一定以上の補償金(下限)が必要であり,その水準は破産制約と呼ばれる罰金の実質的な上限によって決まること,2)しかし,他方では事前・事後の生産者の努力水準を引き上げるためには,補償金に上限をつける必要があること,3)上の2つの条件から導かれる補償金の上限と下限を同時に満たす補償金が必ず存在するとは限らないことが導かれている.

続く第3部の3つの章では,第2のテーマの解明が試みられる.すなわち,生産者と流通業者の継続的な取引がどのようにして成立するかに注目し,家畜感染症の発生の際に取引がどのような関係性の下で維持しうるかを検討している.この分析で中心となる概念は関係準レント(取引によって蓄積される技能や資産から発生する準レント)である.第5章では,鶏卵取引を事例として,その取引を卸売業者の有無と特殊卵かレギュラー卵かで分類し,それぞれの市場の特徴をこの関係準レントの視点から整理している.また,第6章では,鶏卵生産者が需給のアンバランスを調整しあう仕組み(セーフティーネット)が成立する条件を検討している.鶏卵では衛生管理の方法が統一されていないため,スポット取引が難しく,こうした仕組みが必要となる.この仕組みがうまく機能するための条件として,卸売業者が品質の維持向上や衛生点検を担って,上下流の業者との取引において関係準レントを持つことやその関係の維持することが指摘される.

以上が本書の概要である.

本書は新規性に富む分析を数多く展開しているが,なかでも,最も魅力的な分析は,第3章で展開されている家畜感染症の届け出を促す制度設計の分析である.家畜感染症に関わる生産者の意思決定はすでに見たように多段階に渡り,しかも,不確実性に富む環境の下で行われる.また,本書は生産者の効用を意思決定分析に取り込んでいるため,生産者の行動を定式化することは容易な作業ではない.しかし,著者は契約理論を用いてその難題を見事にクリアしており,この成果は日本の家畜感染症の経済分析の水準を大きく引き上げる業績となっている.

また,後半の継続的な取引関係の分析では,市場における企業行動を考えるという産業組織論的な分析が展開されている.この分析は,第3章の組織の経済学的な分析との統合も意図している.こうした統合は経済学研究においても着手されたばかりの課題であり,本書はそうした経済学のフロンティアに立つ分析としても位置づけることができる.

以上のように本書の見どころは尽きないものの,紙面の関係もある.最後に評者のコメントを整理して本書評を閉じたい.コメントのすべては評者が本書の核となると考えている第3章に関わる.

その第1は,分析の手順に関するものである.第3章では,すでに述べたように政府の罰金と補償金の水準によって生産者の行動がどのように規定されるかを分析対象とする.その際,生産者の意思決定は3つの段階に区分されている.こうした多段階の意思決定を解く場合には,最後の段階から逆向きに解を求めるのが一般的である.しかし,本書では,第2段階の意思決定を分析した後に,第1段階,第3段階へと分析が進んでいる.この手法で解析が容易になっていると思われる反面,分析が前後し読者にとっては混乱を起こしやすく読みづらい展開となっている.また,分析を段階ごとに独立させるで,統一的な視点からの意識決定分析ができなくなっているなどの難点が残る.今後の改良が望まれる部分といえる.

第2は政策変数の選び方である.第3章の主な結論のひとつは,政府が罰金と補償金を調整しながら,事前の努力,発生時の届け出,発生後の事後処理の努力を促そうとしても,それらを同時に促す組み合わせが存在しないかもしれないというやや絶望的なものである.この結論は理論的な帰着として興味深い.また,その状況を直視した制度設計の必要性も明らかである.しかし,政策を罰金や補償金に限らず,ほかの手段も検討することでこの絶望的な結論を回避できるかもしれない.例えば,政府による生産者への直接・間接的な点検回数を増やすことで,届け出をしなかったことが発覚する確率が高まるのであれば,上に述べた解の存在確率は高まる可能性はある.また,事後努力(第3段階)の分析では,事業停止による損失を損失額の一定割合で補償するとしているが,この補助金を一定額に切り替えるだけでも,事後努力のインセンティブを促す仕組みをより効率的に作れるかもしれない.著者がクロスコンプライアンスとして注目している生産者の行動に条件づけられた補助金を用いることも含めて今後研究を深めるべき課題のように思われる.

 
© 2015 地域農林経済学会
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