農林業問題研究
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個別報告論文
戦後東北地方における生活改善普及事業の推進方策
―宮城県を中心に―
中間 由紀子内田 和義
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2017 年 53 巻 2 号 p. 84-91

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1. はじめに

戦後,GHQの指示の下,農村民主化のための諸施策が実施される.その一つに農林省が主管した協同農業普及事業(以下,普及事業)がある.普及事業は,農業改良普及事業,生活改善普及事業,青少年教育からなっていた.本稿が対象とする生活改善普及事業(以下,生改事業)についてはさまざまな分野からアプローチがなされているが,その多くは事業の担い手である生活改善グループ(以下,生改グループ)や,その指導に当たった生活改良普及員

(以下,生改普及員)の活動内容に関する研究が中心である1.これに対して我々は市田知子の研究(市田,1995)に触発されて農林省の生改事業の方針を検討するとともに2,農林省の方針に対する自治体の対応について中国地方の三県(鳥取,島根,山口)を事例に考察した.農林省の事業目的は農家生活の改善とともに家庭や農村を民主化することにあった.そのための受入組織として自主的な生改グループを育成することを方針とした.上意下達的な性格を有する婦人会を利用してはならないとした.鳥取県は農林省の方針に従い,自主的な生改グループの育成を図った(中間他,2008).島根県は農家生活の改善を優先し,効率性を重視して婦人会を通じたグループ育成を行った(中間・内田,2009).山口県は公式には自主的なグループの育成を掲げたが,実際には婦人会を事業の担い手として利用した(中間・内田,2010).対応に差異がみられた要因として,各自治体の農林省との人的交流の深浅,事業担当者の出自等が関わっていることを明らかにした.

さらに我々は,中国地方と比べてより保守的な農村社会を有する東北地方の自治体の対応を検討するとともに,そうした対応をとった要因を探った.東北地方と中国地方を比較することにより,農村社会の性格の違いが生改事業にどのような影響を与えたのかを明らかにするためである.これまで青森県および岩手県を対象に研究を行い,両県が「生活改善指定部落」制度を導入し,事業を推し進めたことを明らかにした.「生活改善指定部落」制度は,事業を管轄する農業改良課(青森)・農務課(岩手)が,生活改善の意欲のある部落(ムラ)を選定し,当該部落に対して生改普及員が集中的に指導を行い,その成果を周辺地域に波及させるというものであった(内田・中間,2015中間・内田,2015).中国地方の三県が,最初から女性組織を「受入」対象として事業を進めたのに対し,東北地方の二県は,農事研究会等の男性組織が活発に活動している部落(ムラ)を対象として事業を開始したのである.

本稿では,宮城県が農林省の方針に対してどのように対応したのかを考察する3.また,その要因についても検討する.宮城県が青森県や岩手県と同じ対応をとったのか,或いは異なる対応をとったのかにも注目したい.なお考察の対象とする時期は,戦後改革期を中心とした昭和20年代とする.

2. 宮城県における生活改善普及事業の方針

(1) 主務課の設置と事業理念

1948年8月,「農業改良助長法」の施行により普及事業が開始される.これに伴い農林省内に担当部局として農業改良局が新設(8月6日)される.同月20日には,農林次官から各都道府県知事に対し「新農業普及制度確立促進の件」に関する「重要通牒」が発せられる.通牒の趣旨は主務課新設の要請であった.「新制度の専任職員は供出割当,配給取締,検査等の行政事務を厳にとめられて」おり,あくまでも普及事業に専念すべきであるとされた.そのため,食糧の供出等を担当していた既設の農務課ではなく,新たに普及事業の専任課の設置が求められたのである.新設課の名称は,農林省内に新設された農業改良局の名称に応じて「農業改良課」とすることが「適当」であるとされた(農林省農業改良局普及部,1949:p. 4).

宮城県は,1948年9月30日に経済部内に普及事業の主務課として「農業改良課」を設置する.初代農業改良課長には志賀政敏が就任する(MMGT, 1949: p. 5).志賀は,戦前・戦中の一時期,農林省の試験場に勤務していた.翌1949年2月には「農業普及技術員資格試験」が実施される.生活改良普及員資格試験には9名が合格した(宮城県,1949:p. 8).そのうち4名が宮城県初の生改普及員として採用(農業改良普及員は134名)された(宮城県,1958:p. 1).生改普及員はそれぞれ大河原,仙台南,古川,石巻の各地区農業改良事務所に配属された.初年度の担当領域は,大河原地区が3郡,仙台南地区が2市4郡,古川地区が5郡,石巻地区が1市4郡であった(宮城県農業改良課,1949d:p. 3).さらに,生活改善担当として農業改良課に配属されていた2名の女性が生改普及員の活動を支援した(宮城県総務部人事課,1949:p. 30).

1949年6月28日,県経済部長室で「生活改良普及員打合会」が開催される.その際,「生活改善の根本方針」について協議が行われ,「農村婦人の自覚を深めて日常生活に科学を取入れて家庭を運営する技術と能力を高めると共に,家庭の民主化」(傍線筆者,以下同じ)をはかる事が「緊要」だとされた(宮城県農業改良課,1949e:p. 19).

1950年代になると普及事業と「農村の民主化」が結び付けられるようになる.例えば,経済部長の山尾三千雄は,宮城県の普及雑誌『五城農友』の1950年5月号の巻頭言において,農村の民主化について農地改革に絡めておおよそ次のように述べている.

農地改革の「真義は農村を民主化し,生産力の増大」をはかることにある.それを実現するためには「創設された自作農家」の自立と「農業技術の飛躍」が必要である.「そうでないと農村民主化も形だけのものに終る」危険性がある(山尾,1950:p. 9).

農村の民主化を確固としたものにするためには,農家の自立(特に小作をしていた農家の自立)と農業技術の発展が必要だというのである.農家の自立と農業技術の発展を促す役割を担うのが普及事業であることは言を俟たない.

1951年には,農業改良課は普及事業について次のように述べている(宮城県農業改良課,1951:p. 1).

農家の自主的な経営の中に広く農業と生活の改善を発展させようとする改良普及事業は相手が多分に保守的傾向の多い農民であるだけに,もともと容易な業ではない.

とかく主動的に馴れて来た指導者,受動的に引きづられてきた農民であつて見れば,この改良事業はなかなか勝手が違つてお互に戸惑いすることも多かろうが,改良事業は農家の自主的立場を尊重し農家の自発的向上心を啓蒙しそこに適切なる方途を講じて合理的な農業経営と改善された農家生活を営む生産力の高い豊かな農家を作り上げるにあることは動かない既定の方針であり,栽培技術の改善も,能率的農法の導入も,台所や食生活の改善も所詮はその方途であり,公共の福祉に貢献することはこのような立派な農家が出来上ることによつて齎される当然の成果である

戦前は,農会(後,農業会)の技術員によって上から技術指導が行われた.時には農民に対して強圧的な指導が行われることもあった.それに対して,ここでは農家の自主性を重んじて普及事業を推進しなければならないということが強調されている.

農家の自主性を重視する考えは,普及事業を象徴する「考える農民」という言葉を生みだした農業改良局長の小倉武一の考えに通ずる.小倉は,農民の「自主性の確立は,とりもなおさず自我の確立であり,民主主義の根底をなす」という認識を持っていた(小倉,1981:p. 331).農家の「自主性の確立」によって農村の民主化が達成されると考えていたのである.

(2) 生活改善普及事業の推進方策

国民の栄養状態を把握するため,厚生省は1946年から「国民栄養調査」を実施する(厚生省,1951:p. 1).宮城県衛生部公衆保健課(1950年,公衆衛生課に改称)はこれに「同調」して,同じく1946年から「県民栄養調査」を開始する(宮城県公衆衛生課,1958:p. 37).1948年11月には,県下20ヶ町村で「栄養食糧基礎調査」が実施される.調査結果に基づき名取郡生出村が栄養改善の「モデル地区」に選定され,公衆保健課が中心となって栄養改善の指導が行われることになる.公衆保健課,宮黒保健所,農業改良課,県農協厚生連がそれぞれ生出村内の部落(ムラ)を分担し,「主婦の栄養講習」,「生活指導」を実施することになったのである(宮城県公衆衛生課,1951:pp. 18–19).当時,普及事業は発足したばかりであった.農業改良普及事業とは異なり,指導の歴史を持たない生改事業の指導方法は確立されていなかった.そのために農業改良課は公衆保健課の事業に協力する形で生活改善を実施して行くことになる4.1949年3月,農業改良課は生出村において「栄養改善」に関する「生活改善講習会」を実施する(宮城県農業改良課,1949a:p. 16).さらに4月には同村を「生活改善指定村」に選定し,村内の北赤石部落を対象として本格的な指導に着手する(太田,1952:p. 73).

生出村での指導を通じ,農業改良課は生改事業の推進方策を確立して行く.すなわち,生改事業の指導に適した村(指定村)を選定し,さらにその村の中からいくつかの部落(ムラ)を選び,集中的に指導するという「生活改善指定村」(以下,指定村)制度である.今のところ,実際に指定村として選定されたことが資料で確認できるのは,生出村と「志田郡高倉村」(MPED,1950b:p. 7)の二つの村である5.生出村と高倉村は,いずれも明治期に「模範村」に選出された村である(野田,1903:pp. 60–69).特に生出村は,静岡県賀茂郡稲取村,千葉県山武郡源村と並ぶ日本三大模範村の一つであった(山田,1905:p. 2).生改事業は戦後アメリカから導入された新しい事業であった.これまで国や県の事業を受け入れたことのない村が実践するには,かなりの困難を伴う事業であることが予想された.そのために,過去に農事改良や農業教育に熱心に取り組んできた実績のある村が選ばれたのである.

1949年6月6日,宮城県農業試験場において「農業改良事務所主任者会議」が開かれる.会議では「生活改善指導部落設置」に関する具体的な協議が行われ,「生活改良普及員数その他の都合で本年度は大河原,仙台,古川,石巻の四区内に設けたい」という方針が定められる(宮城県農業改良課,1949b:pp. 2–3).「生活改善指導部落」(以下,指導部落)を設けたいとされた区域は,生改普及員が配置された4つの事務所管内である.この4つの区域において農業改良課が指定村を選定し,そのあと生改普及員が村の内部を巡回して廻り,生活改善に意欲のある部落(ムラ)を選出することとなる.指導部落選定後の指導については,先の「生活改良普及員打合会」において次のように規定されている(宮城県農業改良課,1949e:p. 20).

1,指導部落の決定.

2,役場農協,婦人会,青年団,学校,保健所との連絡.

3,部落の実情とその原因をよく調べる(経済事情,習慣,迷信等).

4,取上げるべき問題を部落の人達と討議決定する.

5,親しく個人接触により個々の問題を巡回指導する.

6,巡回指導日記は問題,指導,結果まで判然と記して参考とする.

7,農閑期に講習講話会を開く.

生改普及員は指導対象の部落(ムラ)を選んだ後に関係各所と連携をとり,当該部落の実情をより詳しく調査すべきであるとしている.さらに調査結果を踏まえ,部落(ムラ)の人々と話し合いを行い「取上げるべき問題」を決めるよう指示している.生改普及員が上から問題を設定するのではなく,あくまでも指導部落の人々の意志を尊重する形をとっていることがわかる.

(3) 対応の要因

宮城県は,農林省の指示に従い普及事業の主務課として農業改良課を設置した.また「農家の自主性の尊重」,「農村の民主化」という言葉に象徴される農林省の事業理念を受け入れた.しかし一方で,その理念に反するような「生活改善指定村」制度という上からの指導方法を取り入れた.その要因はどこにあったのであろうか.

宮城県が農林省の事業理念を受容した主な要因として,農業改良課と農林省とのつながり,とくに初代農業改良課長を務めた志賀政敏との繋がりをあげることができる.志賀は1907年に福島県相馬郡飯豊村の地主の長男として生れ,1930年に東京帝国大学農学部農学実科を卒業し,農林省農事試験場鴻巣試験地に奉職する.1941年に農林省を退官し,宮城県農業試験場長,宮城県経済部農務課長,農業改良課長,農林部次長等を歴任する.1959年には農林省の調査員に採用され,デンマークに農場事情の視察に赴いている(「志賀さんを偲ぶ」刊行会実行委員,1976:pp. 3–5,59).志賀は1941年に農林省を退官しているが,1959年に農林省の調査員に採用されていることからもその繋がりは戦後も続いていたと考えられる.

もう一つの要因が軍政部(後民事部)の存在である.軍政部は,地方庁が占領政策を着実に履行しているかどうかを監視するために,占領軍が地方単位および都道府県単位に設置したものである(竹前,1983:p. 55).1946年7月,仙台市に「宮城軍政部」および東北各県の軍政部を統括する「東北軍政部」が設置される(阿部,1983:p. 16).1949年7月,軍政部という名称は「直接の「軍政」を意味するかのように誤解される」として民事部に改称されることとなり(河北新報社,1949a:p. 1),「宮城軍政部」は「宮城民事部」に,「東北軍政部」は「東北民事部」になる.同年11月30日,都道府県民事部は廃止されることになる(河北新報社,1949b:p. 1)それに伴い宮城民事部は廃止され,引き続き仙台市に置かれた東北民事部が東北各県の監視に当たることになる.

東北民事部の職員は,宮城県下で実施された生改事業の講習会等に度々視察に訪れている.例えば,1950年1月17日に伊具郡丸森町峠部落で開催された実技講習には,経済課天然資源係のカール・F・デリカ6が参加している(MPED, 1950a: p. 3).またデリカは,同年6月12日に仙台市七郷六丁ノ目部落で開催された生活改善の会合にも参加している.その際,集まった女性達の顔ぶれを見て「これはオシユウトサンばかりだ,どうしてオヨメサンたちが来ないのでしよう」と苦言を呈している(河北新報社,1950:p. 1)7.ただ形式的に視察をするのではなく,農村の民主化にとって不都合な状況を発見すれば,ただちにそれを指摘するということも行うのである.このような東北民事部の厳しい監視下において,具体的な推進方策はともかく,農林省が掲げる事業理念を拒絶することは難しいことであったと考えられる.

他方,宮城県が「生活改善指定村」制度という上からの指導方法を取り入れた要因は,当時の農村の実情にあった.戦後,「日本の民主化」という占領方針の下,女性の解放が強く叫ばれたものの,東北の農村は未だ男性中心の社会であった.農林省は女性の有志の組織が自主的に結成されることを想定し,それを受入組織として事業を進めることを目論んでいたが(農林省農業改良局普及部,1948:p. 16),東北の農村で最初からそのようなことを期待するのは無理なことであった.そのことは,福島県の農村出身であった志賀課長もよく理解していたと思われる.そのために農業改良課は部落(ムラ)を生改事業の「受入」対象としたのである.ただし,指定村および指導部落の選定に関しては上から行われたが,実際の改善内容に関しては当該部落の人々の要望を聞いて実施する等,自主性を重んじた指導方法をとっている.宮城県は,農林省の普及事業の精神を取り入れつつ,県の実情に合わせた方法を用いて生改事業を推し進めていったのである.

3. 「生活改善指導部落」における生活改善―名取郡生出村北赤石部落の事例―

宮城県は「生活改善指定村」制度によって生改事業を推し進めて行く.前述したように,指定村に選ばれた村の一つが生出村である.生出村のなかで指導部落に選定されたのが北赤石部落である.ここでは北赤石部落で行われた生活改善について詳しく見て行くことにする.

生出村は名取郡の北部に位置する山がちの村である.平野部に比べると気候は冷涼であり,耕地は狭小であった.農業をするにはあまり良い条件とは言えなかった.しかし,明治期には長尾四郎右衛門(1854~1910)という優れた指導者が出現し,村長として養蚕を奨励し,農事改良を積極的に押し進めた.その結果,生出村は日本三大模範村の一つに選ばれる(野田,1903:pp. 60–66;山田,1905:pp. 88–118).昭和戦前期には「農山漁村経済更生計画樹立町村」に指定(1932年)され,「産業組合の新設」,「農事実行組合・養蚕実行組合の設立普及」,「漆栽植組合の新設」,「開田・開畑・湿田改良・田区整理・客土などの施行」,農産物の増産,「改良和牛の繁殖育成,緬羊の飼育」,杉や檜の造林,家計簿の普及,「台所・浴場の改善」,「社交・冠婚葬祭の改善」等を掲げた更生計画書を作成している(仙台市,1997:p. 518).すべてが実行に移されたわけではなかったが,掲げられた項目のいくつかは戦後の普及事業につながるものであった.

生出村は,戦後になると1949年に公衆保健課によって「母子衛生指導模範地区」(宮城県公衆衛生課,1950:p. 1),「栄養改善模範地区」(宮城県公衆衛生課,1954:p. 22)に指定される.そして農業改良課によって「生活改善指定村」に選定されるのである.

生出村の生活改善は,当初農業改良課が公衆保健課の事業に協力する形で実施される.1949年4月1日,村に「栄養改善会」が結成され,会長には村長の太田太蔵8が就任する(宮城県公衆衛生課,1951:p. 19).各部落(ムラ)には「栄養改善会」の「支部」が設置される.農業改良課は12ある部落(ムラ)のうち北赤石9の担当となり,毎月生改普及員が「栄養料理の実地指導」を行うことになった.

北赤石では支部長の太田たいせ10を中心として栄養改善が実施される.しかし,活動は順調には進まなかった.ムラの女性達は「最初は面白半分に受講」していたが,「月重なるにつれて受講者の出席率が低下」するようになる.欠席した会員にその理由を聞くと「主人」に反対されたから,という答えが返ってくる.夫の側の言い分を聞くと,「忙しくて猫の手も借りたい様な時,料理の講習になつても一度も家では料理して喰べさせられないから習はせてもだめだ」という答えが返ってくる.太田は,「如何に熱心な講師の指導を仰いでも,如何程栄養価の高い料理の講習も,一般家庭の台所に利用されなければ」,「論語読みの論語知らす」だということに気付くのである.そこで「その後の会合にはお互に意見をのべ合つて,材料は家にあるものを使つて,受講後は必ず料理を作り,子供達を喜ばせ野良へ出て働く人方を慰める」という方針に転換する(太田,1952:p. 73).その結果,次第に出席者も増え,ムラの女性達は栄養改善を中心としたさまざまな活動に熱心に取り組むようになるのである11.例えば1950年9月には,農繁期の保存食(ふりかけ,油みそ等)の調理実習(MPED, 1950c: p. 1)を行い,同年12月14日にはおせち料理の調理実習に加え,東北民事部のプランク女史による「アメリカの農村女性の生活」に関する講話が行なわれた(MPED, 1950d: p. 2).また,北赤石の女性達の活動は地元の公民館の建設にも貢献した.栄養改善の活動を始めた当初は,「隣組単位に場所を輪番制」にしていたが,講習の度に各人が料理の材料や鍋や釜等を持ち寄らなければならなかった.担当の家にも負担を強いることになるため,「部落の中央にある共同作業場を改造利用」することを決める.女性達は杉皮運搬の共同作業で資金5,411円を捻出し,ムラの男性のもとへ持参して共同作業場を改造利用したいと要望する.男性は女性らの申し出を承諾し,北赤石公民館が建設される.1951年3月21日に落成式が執り行われた.

同時期,県による2年間の栄養指導が終了する.「今までの県の指導を手本とし,更に金がかゝらない栄養料理を研究して一般家庭に普及徹底し,家庭経済の負担を軽くし明るい家庭,明るい村を築き上げ五穀の神を祀り食物に感謝の念を捧げつゝ毎日の生活を楽しく過したい」という趣旨のもと,太田を中心とした「中年婦人層」12によって「家庭栄養研究会」が結成される.会長には太田たいせが就任する.研究会は年に定例会を2回,臨時会を1回開催することとし,「栄養料理の研究発表」,「試食会」,「懇談会」等の活動を行うことになった.1951年11月23日の定例会は,会員53名と「各方面の婦人会員」,「アメリカ軍の視察団」を迎えて実施された(太田,1952:pp. 73–74).

北赤石の女性達は,初めは県の指導に従って栄養改善に取り組み,それが一段落した後は独自に研究会を結成しさまざまな活動を展開していった.活動を通じて自主性を体得していったのである.

4. おわりに

宮城県は農林省による「農業改良課」設置要請を受け入れた.また農家生活の改善と農家の自主性の確立ひいては「農村の民主化」という事業理念を受け入れた.しかし事業を進めるに当たり自主的な女性組織を「受入」対象とするという方針はとらなかった.「生活改善指定村」を選定し,その村の中から「生活改善指導部落」を選び,集中的に指導を行うという指定村制度を採用した.

宮城県が,農業改良課の設置要請や農林省の事業理念,とりわけ農家の自主性を尊重するという事業理念を受け入れた要因として,初代農業改良課長の志賀政敏の存在が挙げられる.志賀は農林省の出身であった.宮城県に転出後も農林省との繋がりは強く,そのために同省の事業理念を受け入れたのではないかと考えられる.さらに,もう一つの要因が宮城県内に設置されていた東北軍政部(後民事部)の存在である.東北軍政部・民事部の役割は,東北地方の自治体が占領政策を遅怠なく遂行しているかどうかを監視することにあった.天然資源係のデリカをはじめ職員が度々生改事業の視察を行った.そうした厳しい監視の下,宮城県が農林省の方針に背くのは困難なことであった.特に民主化に関わる事業理念を拒否することは不可能であったろう.しかし上述したように具体的方策においては,宮城県は農林省が推奨する方法を採用しなかった.農林省は生活改善の担い手として,女性中心の自主的な生改グループを想定していたが,宮城県は部落(ムラ)を担い手として事業を開始する.その要因として生改普及員の絶対数の少なさをあげることができるが,当時の宮城県の農村の実情も重要な要因のひとつであった.戦後になっても農村は未だ男性中心の社会であり,最初から女性中心のグループを対象とすることは難しいと県は判断したのである.そのために農業改良課は,部落(ムラ)を生改事業の指導対象とする方法をとったと考えられる.

我々の研究によれば,青森県も宮城県と同様の対応をとった.農林省の指示に従って農業改良課を設置し,農民の自主性を重視した指導を実施しようと試みた.岩手県は,農業改良課の設置を拒み,農務課の主導で生改事業を推し進めようとした.ただし,両県とも宮城県の方法に類似した「生活改善指定部落」制度を採用した13.これは県内の5つの地区にそれぞれ「生活改善指定部落」を設置し,そこを集中的に指導して周囲への波及を狙うという方法であった.そうした対応をとった背景には,生改普及員の数の少なさとともに,先に述べたように,男性中心の家父長制社会が根強く残る農村の実情があったのである(内田・中間,2015中間・内田,2015).

東北地方の三県は,部落(ムラ)を直接の受入組織として生改事業を推進して行った.ただし,青森・岩手両県が最初から部落(ムラ)を指定しているのに対し,宮城県はまず村を指定し,ついでその村の中からいくつかの部落(ムラ)を指定するという二段階の選定方式をとった.宮城県がそうした方法をとった理由は,生改普及員が直接村の中を歩き回り,生活改善に対する意欲と能力のある部落(ムラ)を見極めることにあったと考えられる.二段階の選定方式は時間と労力を要する方法であるが,宮城県は面積が比較的狭く,交通の便も良かったことからそうした丁寧な選定方法が可能になったのである.

青森・岩手両県の生改事業では当初部落(ムラ)の男性が担い手の中心であったが,宮城県では比較的早い段階から部落(ムラ)の女性が担い手となって活動している事例が散見する.そうした違いが生れた要因の一つとして,事業発足当初の改善内容の違いがあった.例えば岩手県は,当初目に見える改善を優先し,台所改善が生活改善の中心であった.しかし台所改善は多額の費用を要した.そのために事業の発足当初は,財布のひもを握る男性が担い手の中心となったのである(内田・中間,2015).他方,宮城県の生改事業は公衆保健課の栄養改善に協力する形で始まった.その影響からか,宮城県の生活改善は栄養改善が中心となった.そのために宮城県では,家の中で料理を作る女性が担い手の中心となることがあったのである.ちなみに岩手県でも栄養改善が取り上げられるようになると,担い手は男性から女性へと移っていくのである(内田・中間,2015).

1  生活経営学(例えば天野,1995),歴史学(例えば大門,2003),民俗学(例えば安井,2006)などが生改事業を研究対象としている.

2  市田知子は,生改事業を主管する農林省生活改善課の「生活改善の理念」について検討している(市田,1995).市田の研究に対する我々の立場については,中間他(2008)中間・内田(200920102015),内田・中間(2015)を参照されたい.

3  分析の際に主に用いたのは,宮城県農業改良課(和文,英文),宮城県公衆衛生課,宮城軍政部発行の資料である.宮城県農業改良課(和文)および公衆衛生課発行の資料は宮城県図書館,宮城県農業・園芸総合研究所,東北大学附属図書館所蔵である.宮城軍政部,宮城県農業改良課(英文)発行資料は国会図書館の所蔵である.

4  農業改良課長の志賀政敏は,『東北経済』第690号(1949年5月8日)の「農業改良課は何をしているか」という記事において,「生活改善指導」は「保健所と協同」して実施することになると述べている(東北経済通信社,1949a:p. 6).保健所は衛生部所属である.

5  当初,指定村として予定されたのは「仙台市高砂村」,「名取郡生出村」,「刈田郡白石町郡山」,「黒川郡大衡村」,「志田郡荒雄村」,「本吉郡津谷町表山田」,「牡鹿郡渡波町」(東北経済通信社,1949b:p. 5)の7ヶ所であった.

6  カール・F・デリカは1947年に宮城県に来県し,宮城軍政部(後民事部)で教育関係の業務に携わる.1949年11月30日に宮城民事部が廃止された後,東北民事部で約半年間農業問題を担当し,朝鮮戦争の勃発を契機にアメリカに帰国している(Drlica, 2005: p. 18, 111).

7  デリカの苦言に対して部長の庄子かほるは「これは生活改善のための会なのでしぜん一家の切り盛りをする地位にある婦人が集まる結果となるのです」と答えている(河北新報社,1950a:p. 1).

8  太田太蔵は1895年1月26日に生出村門野に生れる.戦後,公選初の生出村長となり,村財政の建て直し,農産業の開発等に尽力した(地方人事調査会,1976:p. 31).

9  1950年8月現在の北赤石の世帯数は98,人口は649人である.1949年4月の指定村選定時もほぼ同様の状況であったと推測される(宮城県公衆衛生課,1951:p. 3).

10  太田たいせは生出村の出身である.実家は裕福な家であり,女学校(朴沢松操学校カ)を卒業している(太田明宏氏からの聞き取り,2016年3月15日,仙台市にて).

11  北赤石が「生活改善指導部落」として選定された年月は不明である.しかし,農業改良課が1950年4月に提示した「昭和二十五年度事業実施計画」には「生改指導部落指導」,「生改指導部落講習会」という文言があるため,指導部落の選定は1949年度中であった可能性が高い(宮城県農業改良課,1950:pp. 11-17).

12  当時,太田の年齢は30代半ばであった.「家庭栄養研究会」は太田と同年代の女性達によって構成されていたと思われる.

13  1949年6月15,16日,岩手県で「農業普及事業東北ブロツク会議」が開催され,各県の主務課長,農事試験場長,生活改善係等の職員,農林省農業改良局普及部の技官が出席し,普及事業に関する話し合いが行われた.会議では「生活改良普及員」に関する討議も行われ,「啓蒙宣伝して存在を認めさせると共にモデル村を作るなど活動促進する外養成講習会を開きたいと思つている」と結論付けられる(宮城県農業改良課,1949c:p. 3).「モデル村」は指定村を連想させる文言である.志賀課長,あるいは宮城県の生改事業の担当者が指定村制度について触れた可能性がある.青森県および岩手県はそれをもとにして1950年に「生活改善指定部落」制度を導入したのではないかと考えられる.

引用文献
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