農林業問題研究
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書評
秋津元輝・佐藤洋一郎・竹之内裕文編著『農と食の新しい倫理』
〈昭和堂・2018年5月〉
池上 甲一
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2019 年 55 巻 1 号 p. 71-72

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1. 本書の概要

本書は2010年に始まる共同研究の成果であり,多分野にわたる考察が農と食の倫理という方向性の下にうまく配置されている.編著者たちは,とくに学生,院生といった若い世代に訴えたいとしているが,中堅以上の研究者にとっても「目からうろこ」の新しい発見に満ちている.

まずは,本書の構成を確認しておこう.本書は2部構成で序と終章を含めると12章からなっている.第1部はこれまでに日本の国内外で行われてきた「農と食をつなぐ試み」の総括であり,その意義と課題を抽出している.第1部では,食から「農とのつながりを粘り強く構築していくこと」が,食と農を取り巻く困難に対する現代的処方箋の基本であるとする第1章の提起を受けて,その処方箋のための事例がいくつか示される.第2章では「食の地域回帰」の実現を目指す「有機農業の経済学」の必要性,第3章では協同組合間提携における「品質・価格の共創メカニズム」の意義と課題,第4章では市民参画で地元の食政策を協議するフードポリシー・カウンシルを例に,「消費者」から「市民」への主体転換が論じられている.

第2部では,食と農を結ぶ倫理を,食文化の「型」,「失われた食育」,採集と狩猟といったやや異質に見えるかもしれない世界から抉り出そうとしている.第2部の総論である第5章の後,第6章では文化の「型」としての和食と反省的倫理の重要性が,第7章では多様なアクターをつなぐ場として機能し始めている「自分たちでつくる食育」が,第8章では採集食における食の自由度や能動性が,第9章ではことに動物を殺して食べることの根源的な意味が,第10章では工業的農業生産の根拠となる産業的農業哲学とそれに対置するアグラリアン農業哲学の系譜が考察されている.

終章は本書の講評として位置づけられる.大事なポイントは,①世界的な視野でみると農と食の一体性は自明ではなく,そこには原理的な対立が存在する,②農と食の倫理にあっても絶対的な価値観は存在しない,③農と食の倫理を一体的に扱う学問は応用科学でしか追求できない,④新しい時代の研究者は「社会と双方向発信」を「矜持」として持つ覚悟がいる,などの諸点である.

2. 農と食の倫理をめぐるいくつかの論点

農と食の乖離が問題視され始めてからすでに20年以上が過ぎようとしている.この間に,日本では食品偽装などの諸問題が相次いで発覚し,食に対する不信が増幅されてきた.このため,経済倫理のあり方が問われることになったが,大半はコンプライアンスにとどまり,食のあり方に迫ることはなかった.ましてや食の背後にある農にまで視野を広げ,さらに食と農を結びなおすための倫理について正面から取り組むことは全く抜け落ちてきた.本書はこの難題に取り組んだ意欲的な労作である.

この労作から多くのことを学ぶことができる.ここでは2点だけ指摘したい.ひとつは,「よく生きること」あるいは「よくあること」,つまりウェルビーイングについての理解である.評者は農の福祉力の観点からこの問題を考えたが,食と農の視点からとらえることも有効だろう.もうひとつが「いのち」についての理解である.農と食は畢竟「いのち」そのものである.人は生きるために動物であれ植物であれ,他の生命を殺さざるを得ない.生と死は連続的なのである.この逆説から目を背けることは生を死から切り離し,「生きる」ことからの撤退だという指摘は重い.

評者は,おおよそ本書の基本認識に賛同する.そこで,食と農の新しい倫理をさらに発展させ,社会に埋め込むにはどうすればいいのかという面から,2つの論点を指摘することで書評にかえることとしたい.

第1に,「いのち」を食との農の倫理の中にどう位置づけていくのか.死が忌避されている現代において,「いのちの交換」をいかにリアリティのあるものにするのか.鶏をさばいて食する「いのちをいただく」授業は残酷とかかわいそうだという理由で避けられるのが通常である.この現状を乗り越える糸口としていのちの循環性という論点が有効かもしれない.人を含め,いのちあるものは必ず死ぬ(個体としての不可逆性)が,次の世代を生み出すことで種という集合体は循環的に継続していく(生命の循環).このことは,畜を含む農という営みにおいてよりよく実感できるのではないか.農が農たる所以は有機的生命体の育成に関与するという1点にあるからである.この点からすると,いのちという視点から農の本質をより深く掘り下げる作業が必要だろう.

第2の論点は,食と農の新しい倫理を仕上げるための方法論である.もとより,一挙に農と食を包括する「新しい倫理」を仕上げることは難しい.これまでに多くの論者が積み上げてきた「農の倫理」と「食の倫理」を批判的に継承しつつ,その上に新しい視角を積み上げるしかないだろう.その際に終章で佐藤が指摘しているように,「食べる人」と「育てる人」の双方の参画が不可欠となるだろう.そこで問題になるのは,その糸口をどこに求めるのかである.

食の安全・安心に関心をもつ消費者は多い.しかし,消費の社会的責任を意識する消費者は数少ない.評者がこれまでに実施した日仏比較の意識調査(2005~06年,2013~14年)によると,消費者の社会的責任に賛同する回答者はどちらの年度もフランスでは多数派を占めるが,日本ではごくわずかである.食べることに伴うさまざまの責任には環境負荷だけでなく,自分たちの食べるものを生み出す人たちへの責任も含まれる.ところが,「よいものを安く」という選択原理は依然として根強く,その意味では「食と農の対立」を解きほぐすのは容易ではない.こうした日本の現状を鑑みると,いくつかの希望は生まれつつあるものの,全体として,道はいまだ険しいと言わざるを得ない.

最後に,第2の論点とも関連するが,食と農をめぐる世代間ギャップの存在である.インドネシアのFebriamansyah氏によると,1999年以降に生まれた世代はジェネレーションZとして捉えることができる(2018年9月4日,インドネシア・アンダラス大学で開催のASICシンポジウムでの報告).その特徴はIT(ウェブ,アプリ)に精通し,PCよりもスマホを使い,SNSどっぷりの暮らしで,言葉より絵文字やスタンプでコミュニケーションをとるといった点にある.つまり,二重三重の仮想空間を通じて社会と接しているのである.今後社会の中心として登場してくるこうしたジェネレーションZにどう訴えかけるかは真剣に考えなければならない課題のように思える.

倫理は頭の中だけの問題でなく,肉体に支えられた実感が大事だと思う.食と農の新しい倫理も「身体化」が果たされてはじめて実践につながる.そのためには息の長い対話が求められるだろうが,問題は対話が成立しない可能性のある世代および「産業的農業哲学」が体の芯まで染みついている主流派とのコミュニケーションである.実践的にはこのことが大きな課題として浮上するだろう.

 
© 2019 地域農林経済学会
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