農林業問題研究
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研究論文
宇根豊の減農薬稲作から農本主義への思想展開
大石 和男
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2020 年 56 巻 3 号 p. 81-92

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Abstract

Agrarian thoughts are a type of social thought, but their characteristics are not sufficiently clear. One reason is that some thoughts that share the same keywords are given different names. This might show that the originalities of these thoughts are not based on their ideal novelty but on how to combine contemporary issues with agrarian affairs. To consider this point, this paper focuses on two concepts based on less (no) chemical methods: Y. Une’s method for reducing chemicals; and general organic agriculture. These ideas have been developed with a similar viewpoint with regard to social change, but they were not integrated. Therefore, they should not be understood as having a linear relationship simply because both involve reducing the volume of chemicals. A hypothesis in this paper is that they have different images of social change as goals. To compare them, a tetrahedron model was adopted that has four vertices, each assigned to one element. The four vertices represent human, technology, social system, and nature. Une is a thinker who produced a method of growing rice while reducing pesticides and has developed this process as a social thought. Finally, he reached the ideas of agrarianism, integrating over 40 years of considerations. His goal was to establish a new agrarian norm against modernity. This distinguishes Une’s thoughts from general organic agriculture, which prioritizes social extensions.

1. はじめに

(1) 農的思想の研究が抱える弱点

農的思想を考えるに際して,倫理をめぐる近年の顕著な動向(たとえばSDGsの推進)は気になる存在である.その理由は,倫理の掲げる目的(ここでは「善」の探求と簡潔に設定しておく)が,社会変革を目指す農的思想としばしば重なり合ってきたにも関わらず,両者の違いについてこれまであまり意識されてこなかったからである.異同に関する考察が手薄となっている理由は,少なくとも思想研究の側において2点考えられる.

まず1点目は,それぞれの形態の違いに起因する.一般的にみて農的思想では,変革方向を抽象的に示した理念に加えて,その具体的かつ社会的な投影像である実践についても強く意識を向けることが多い.つまり農的思想の特徴は,理念と実践が不可分の関係を形成している点にあり(たとえば「自給」の思想),思想を考察する際には,これらの結合様式を通じて理念が具体化されていく道筋についても注意を払う必要がある.それに対して倫理ではもっぱら善悪の基準に関する形而上の思考を得意としているため,双方を素朴に対照させることの困難性を指摘することができる.

2点目は研究者の姿勢に関する点である.農的思想の場合,研究者が思想や社会運動の賛同者となってその流れに棹差す立場をとることも少なくない.つまり思想の発展と普及に多少なりともコミットしようとする研究が,一定の地歩を築いているのである.このことは思想そのものから距離を置く研究が少ないことを意味しており,思想の比較分析に向けた方法論が未熟である一因となっている.

そこで本論文では農的思想の相対的評価法の欠如という問題を念頭においたうえで,「減農薬稲作」で著名な福岡の宇根豊の思想に目を向ける.そしてこの思想を起点としながら他の思想との異同を浮かび上がらせることのできる視角を提起し,その有効性を確認するとともに,類似思想との比較によって見えてくる思想間の差異の意味について解明を試みる.なお本稿では農的思想を,その特質に基づいて,理念と実践の二面性をもつものとして扱っていく.

(2) 研究の課題

宇根豊を取り上げる理由は2点ある.第1の理由は,農法変革を起点にして開始された彼の思想が,有機農業等の相対的位置を考えるための好素材となっている点である.高度経済成長期以降(以下,現代と表記)これらの農法は,社会変革思想としての性格を帯びながら,慣行の農業・食料に対するオルタナティブな存在を目指すことで社会的支持を伸ばしてきた.本稿が農法と農的思想を同一視して扱うのもそのためであり,とりわけ1970年代以降の農的思想は,有機農業等から直接・間接的に影響を受けたものが大半であるといっても過言ではない.

とはいえ同じく70年代に登場した宇根思想は,農薬に否定的な態度をとりながらも,他方で有機農業とは敢えて一線を画す立場をとってきた.このことは,減農薬思想が約40年にわたって深められてきたことを踏まえるならば,いささか奇妙なことにも思える.農薬の削減を突き進めていった終着点が無農薬であることは,ある意味自明だからである.

後述するように宇根は日本有機農業学会に深くコミットし,改善策について積極的に意見を寄せながらも,〈良き隣人〉としての立場を崩そうとはしなかった.それゆえに,宇根は減農薬農法と有機農業の間に思想面で大きな違いを見出していると予想せざるを得ない.その理由を探ることが本稿の1点目の課題となる.

第2の理由は農的思想全般に見られる特徴,すなわち異なる名称を掲げた種々の思想間で,しばしば鍵概念の共有現象がみられることと関係する1.この現象は宇根についても当てはまり,技術的観点から出発した彼の減農薬思想が,次第に「自給」や「農本主義」といった諸概念を取り込んでいく様を確認することができる.では概念の共有現象はいったい何を意味しているのであろうか.結論を先に述べるならば,これは宇根が農本主義に辿り着いたことと深く関係している.そこで2点目の課題として,宇根が「農本主義」に込めた意味内容について明らかにすることで,農的思想における各種の鍵概念と「農本主義」との関係について考察する.

2. 先行研究

宇根思想の比較対象として有機農業系の農法を持ち出すことの利点は,農的ジャンルへの関心が決して高いとは言えない思想研究の全体動向の中で,例外的に多くの研究蓄積を見いだせることによる.そこで次に,有機農業の直面する課題を先行研究から探りつつ,分析のための視角を考えてみたい.

昨今の日本の有機農業運動が抱える伸び悩みの理由について,1つの示唆を与えているのは原山浩介である.原山は有機農業の法制化(1999年の改正JAS法等)が進む状況を踏まえ,技術と制度ばかりに議論が進む一方で,「社会の問題としては展開されなくなってしまっている」点を指摘する.そして「産業社会批判や文明批判」といった発想と強く結びついた「周縁性」が失われ,「問題の立て方」に「硬直性」が生じてしまっていると述べる(原山,2008:p. 170).本稿ではこの見解を踏襲しつつ,別方面においても「硬直性」が生じている可能性を指摘しておきたい.

そこで取り上げたいのが,草創期の有機農業に着目しつつ,長年にわたって学術面から運動の発展に貢献してきた桝潟俊子の「〈持続可能な本来農法〉」という文言である(桝潟,2017).この内容は,有機農業の理念を純粋に表現したものとしては十分に妥当性を有している反面,社会運動における理念を相対的に捉える研究がいくつも登場している中で,「本来」の内容を静的に捉えることが果たして適切なのかという若干の疑問が湧かないでもない.

かつて谷口吉光は,提携運動の内部に存在する対立や葛藤の原因を探ることで,「提携運動が絶えず変質し,完結などしない運動」となっていることを見いだし,「目標達成を志向する運動ではない」と結論づけている(谷口,1989:p. 92).さらに大石和男は思想が運動や実践へと転化される際に発生する理念と実践の差異に着目し,そこに動的かつ有意味な関係の存在することを述べる(大石,2017).すなわち思想の理念が具体的な実践形態へと翻訳されていく過程においては,内容の吟味や再解釈が避けえず,それが参加者に理念の意味を問い続けさせ,実践を産出させ続けることに繋がるとする研究である.つまり両者とも,高尚な理念分析に留まるのではなく,理念と実践との差異の調整に目を向けることの重要性を主張するのである.

もう1点論じておきたいのは,複数の農法間における発展段階論的な理解についてである.たとえば投入資材の量といった観点から,減農薬農法を有機農業よりも劣る農法として位置付ける理解は段階論的理解の代表例である(たとえば桝潟,2017:p. 16).

その一方で歴史的にみるならば,藤井平司は1970年代に有機農業の主張する有機物施用を批判して無投入の天然農法を唱えており(藤井,1983:p. 15),この観点にしたがえば昨今の有機農業は天然(または自然)農法化してきていると言えなくもない.だが,有機農業は自然農法等に向かうための過渡的な農法だとする見解を耳にすることはあまりない2.自然農法を有機農業の範疇に含めながら,他方で有機農業は低投入に向かっていると述べる中島紀一にもこのことは当てはまる(中島,2013:p. 13).

したがって有機農業論には,単線的な把握法に基づく農法の優劣問題だけに帰着させることのできない別種の価値基準が暗黙理に設定されていると考えるしかなく,このような実態を十分にすくい取れていない分析視角もまた硬直性を抱え込んでいるように思われる.

実はこの問題を乗り越える視点をもった研究も少しずつ生まれている.谷川彩月は「慣行農家による減農薬栽培の導入プロセス」に目をむけ,「多様な価値の『ズレ』を積極的に評価し,それを内包させていくような環境保全のあり方」を考える必要性を指摘している(谷川,2017:p. 116).ここには単一の思想理念に収斂しようとしない実践者たちの価値観に目を向け,十把一絡げに理念への同化を迫るのではなく,多様性をもった意識や実践の中から積極的意義を汲み取っていこうとする視点が見られるのである.これは,理念の絶対視とは異なる経路から思想や運動の姿を捉えていこうとする点で,本稿の視角と重なっている.

3. 分析視角

(1) 理念を巡る思惑の違い

日本の有機農業は,いくつかの先駆的な事例3のあとをうけつつ,1971年の(日本)有機農業研究会の誕生をもって本格化していった.結成趣意書に挙げられた大きな論点は,1.農業者の農薬中毒,2.消費者の食の安全(「食品公害」),3.生態系の破壊,4.環境汚染,5.農地の地力減退であり,これらへの対応として構想されたのが有機農業であった(有機農業研究会,1972).そして80年代に入ると,生産者および消費者を一体化した提携運動の取り組みによって運動の普及に弾みがつくようになり,2000年代以降は有機JAS法や有機農業推進法を押し進めることで,法律や認証基準による制度化の道を辿っていった.

ただし当初に意識されていた問題群のうち,農業者の健康問題(農薬被害)や生態系への配慮については,省農薬運動(石田,2018:pp. 107–142)や兵庫県豊岡市でのコウノトリプロジェクト(中村,2009)といった別種の活動が次第に存在感を増すようになる.ここで有機農業研究会の結成に多少関与した自然農法提唱者の福岡正信に触れてみよう.

この会(=有機農業研究会―引用者)の名前を,有機農法にするかどうかというときに,相談を受けて,私は…「自然農法」ではだめなのか,と言ったら,これはやっぱり宗教くさいから…有機農法という言葉を使った.…しかし私はそのとき…危惧はもったんです.…有機農法は…西洋哲学の考えに出発し,科学農法の一部にすぎないのではないか,と.…最終の目標っていうものは…人間完成のための農法になってなきゃいけないんだ(福岡,1975:pp. 164–166,傍点および改行省略,…は引用者による中略,以下同様).

一樂照雄らが展開した有機農業と福岡正信の主唱した自然農法とは,それなりに近い関係にあったものの,結局の所,両者は統合されることなく別々の道を歩んでいく.その理由は,根幹をなす理念の位置づけに大きな違いがあったからに他ならない.したがって思想間の差異を検証するにあたっては,単に技術的距離だけにとどまらず,農法に込められた理念の方向性にも目を向ける必要があるといえる.

(2) 農法比較に向けた分析視角

そこで本稿では比較対象として有機農業を念頭におきながら,思想相互の比較を可能とする枠組みを設ける.ただしそれぞれが掲げる主張は多岐に渡るため,網羅的な内容の比較は困難である.そこで思想間の違いを浮き立たせるために,四面体型の独自の分析モデル4を図1に提示してみたい.

図1.

四面体型の分析モデル

このモデルの特徴は,4つの要素を各頂点に配置し,思想に登場する概念や実践を,2要素の結合体である6つの〈辺〉に位置づけて理解しようとする点である.その上で,思想ごとの指向性の違いについては,最も強調されている〈面〉の違いとして捉えていくこととする.つまり分析モデル上の〈辺〉→〈面〉の順に要素間の関係を眺めていくことで,それぞれの思想の性格を模式的に理解し,思想間の相違点の把握へと繋げていきたいのである.

なお分析の出発点となる4つの要素については,事例の特性を踏まえ,それぞれ〈人間〉〈自然〉〈技術〉〈制度〉を割り当てることとする.

4. 宇根豊について

(1) 経歴

宇根の経歴を表1に示しておく.彼は長崎県島原地方の農家に生まれ,少年期より実家の生業である養鶏に親しみを感じつつ,他方で農業の近代化に伴って規模拡大に突き進むこととなった経営スタイルに嫌悪感も抱いてきた.

表1. 宇根豊の経歴
事項
1950 長崎県島原市の養鶏農家に生まれる.
1973 九州大学農学部卒業後,福岡県筑紫農業改良普及所に勤務.
1977 桐谷圭司『害虫とたたかう』に出合う.
1978 八尋幸隆(農家)と減農薬稲作の実験を開始.
1979 筑紫野減農薬稲作研究会発足(参加者15名).
虫見板の誕生.
山下惣一らと第1回九州百姓出会いの会を開催.
1982 除草剤CNP(商品名MO)事件,農水省より圧力を受ける.
1984 『減農薬稲作のすすめ』を自費出版.
1985 西日本でウンカ大発生による減収,減農薬田の被害は軽微.
1989 糸島郡二丈町(現糸島市)にて新規就農(勤務も継続).
『田の虫図鑑』を出版し「ただの虫」という視点を提唱.
1994 糸島環境稲作研究会を結成.
1999 大学院に社会人入学.
2000 福岡県庁を退職.
「NPO法人 農と自然の研究所」を設立.
2001 田んぼの生き物調査を開始.
2003 亀井善之農水大臣に「日本版デ・カップリング」を提言.
2010 「NPO法人 農と自然の研究所」を解散.

資料:佐藤弘(2008)をもとに筆者作成.

大学(農学部)卒業後に福岡県で農業改良普及員の職を得た彼が転機を迎えたのは,ある農業者から発せられた「農薬を使わせ過ぎる」の一言である.この批判は従来型の普及指導への見直しを宇根に迫ることとなり,彼は農業者と共に研究を開始し(1978年),翌年には減農薬稲作の象徴たる「虫見板」も誕生した.

この農法が脚光を浴びるようになったのは1985年である.一般的な普及指導に従って農薬を使用していた水田がウンカの大発生によって軒並み甚大な被害を受ける中,世間の予想に反して減農薬稲作田では軽微な被害に留まったのである.この出来事は減農薬の効果をまざまざと見せつけ,人々の評価を一躍高めることとなった.

その後もこの農法の技術確立と普及に情熱を燃やした宇根は,2000年に県庁を早期退職し,NPOを設立して減農薬運動に身を捧げることを決意する.そして多くの仲間と共に田んぼの生き物調査を実施し,5,470種からなる「田んぼの生きもの全種リスト」を完成させ,著述作業にも精力的に取り組んでいく.2010年には公約通りNPOを解散するものの,その後も個人としての活動は継続している.

(2) 分析資料

宇根には2018年までに少なくとも450点以上の論考が確認でき,その大半は雑誌への寄稿である.著書も主要なもので約30点を数える.これらの中から連載記事や著名雑誌への寄稿を中心に,重要度の高い著作約400点を分析対象とした.

5. 「減農薬稲作」の思想と実践

本節では論考内容および経歴の変化をもとに4期からなる時期区分を設定し,各時期における思想の流れを整理する.まずはこれまでの論考について,鍵概念の登場頻度を時期ごとに整理したものを表2に掲げておく.

表2.

鍵概念の時期的変遷

資料:宇根の主要かつ重要な著作401点をもとに筆者作成.本文4.(2)も参照のこと.

1)1点の著作から複数の鍵概念を抽出している場合がある.

(1) 第1期:減農薬稲作確立期(1977~92)

虫見板を用いた害虫観察と農薬施用量の自主決定を組み合わせることで減農薬稲作を確立し,それを福岡県下に普及せしめた点で,宇根を特色づける重要な活動成果の生み出された時期である.技術的な取り組みが中心であり,著作数は少ないものの,「農薬をふると,かえって虫が増える」(宇根,1984)というリサージェンス現象の確認は,彼が自然界に深く目を向けるきっかけとなった.

もうひとつの重要な点は,農業者にとって技術とは何かを問う姿勢がすでに見られることである.減農薬を標榜する直前に書かれた「『手入れ』としての技術を問う」(宇根,1977)では,技術の導入によって農業者の「手入れ」の気持ちが崩壊することへの危惧と,技術に対する農業者の主体性回復の必要性が述べられており,宇根の「百姓」論の原点となっている.ここで彼が発起人となった「九州百姓出会いの会」の呼び掛け文を掲げておこう.

出会いを百姓の手で創りだすことができないだろうか…私たちの全く知らない所に,会いたくなるような百姓が,もっともっといるだろうと胸を震わせるのです.…百姓を続けることがすでに一つの運動であらねばならない時代に一人一人の想いを聞いてみたいものです(佐藤弘,2008:p. 122所収).

この文章に端的に示されているように,彼にとって「百姓」とは単なる農業従事者ではなく,志を胸に秘めながら能動的に農と社会の関係を作り替えていく希有な存在であった.理念的存在としての「百姓」に対する強い希求を,この時期から見て取ることができよう.

(2) 第2期:視点拡張期(1993~99)

宇根の視点が飛躍的な拡大を見せるのは93年からである.従来の論点であった減農薬稲作にまつわる技術とその普及といった生産的観点を越えて,農を取り巻く環境や生態系に幅広く目が向けられるようになるのである.このことは「いきもの」「自然」「環境」という鍵概念の登場に示されており,減農薬運動の意義をより社会的な見地から捉えていこうとする変化の生じていることが理解できる.

やっと百姓の運動と自然保護運動が出会ってきました.百姓の側,有機農業運動,減農薬運動の側も,田んぼの生きものを豊かにしていく農法を作り上げる過程で,自然保護の人たちと出会うべくして出会いつつあるのが現状です(宇根,1993:p. 51).

「ただの虫」という用語が頻出するようになるのは96年である.彼は第1期においてすでに害虫でも益虫でもない虫の存在を認識しており,これをさらに概念として鍛えあげたのが「ただの虫」であった(宇根,1996).この概念によって,彼は一面的な価値基準のみに立脚した「近代化技術」に対する批判の橋頭堡を手に入れ,「『自然』だと思いこんでいるものの本質」(宇根,1998a:p. 22)へと切り込んでいくことになる.

同時にその作業は,農業中心のまなざしからの脱却にも繋がっていった.「稲作は赤トンボを田んぼで育てる,ことでもあります」(宇根,1994:p. 24)との記述にも示されているように,農業にとっての自然の価値,および自然にとっての農業の価値という,双方向性をもった視点が確立し,これによって脱生産主義的な思考へと舵を切る土壌が形成されていくのである.

さらに,減農薬稲作の社会的普及という観点から,「環境支払い」や「デカップリング」に着目し始めるのも第2期であり,後に全国に先駆けて福岡県で実施された「環境支払い」(2005~)へと道を拓くこととなった(宇根,2005a:pp. 161–167).

(3) 第3期:認識論指向期(2000~2010)

50才を目前にした宇根は,農業の生みだす非経済的な価値を共有できる社会づくりに身を捧げる事を決意し,県職員を早期退職する.この転身による変化は,「虫見板」および「ただの虫」への言及が急減(それぞれ7.9%,10.0%に低下)していることに表れており,農業改良普及員として稲作農家に技術論を語る初期のスタイルを脱し,世間一般の人々を対象とする社会思想家へと立場を移行させていることが読み取れる.

転身後の彼は,自ら結成した「農と自然の研究所」の代表者として,以前にも増して精力的に活動に取り組んでいく.そこでの目的は,主として「カネにならない“めぐみ”」の解明および「田んぼの生きものの全国調査」とされた(農と自然の研究所,2020).

これらの活動を大別すると,ひとつには生物データの蓄積によって得られる説明力を背景にして,現実世界での社会的影響力を高めようとする路線が浮かび上がる.もうひとつの路線は,生産効率に代表される手段合理的な価値基軸に対する異議申し立てと,日常生活に内在する「豊かさ」を探り出し評価の俎上に上げること(=まなざしの涵養)であった.

前者の具体例として,2000年度から開始された農業者等への直接支払い制度に,「生きもの」等の観点の導入を目論む論考が挙げられる(「多面的機能」論や「生物多様性」論).制度化というプラグマティックな評価体系の構築も,ひとつの有効な手段として位置づけられたのである.ただし彼の思想は,政治的威光によって自説の強化を狙おうとする短絡的な思考とは,明らかに一線を画すものであった.

現在「公益」だと言われ始めたものは,かつては「私益」として,かえりみられなかったものばかりである.…ホタルが交尾しやすいようにと残した小川の横の茂み(私益)は,生産効率を上げるための圃場整備の邪魔になるといって,伐られてしまった.…いつから,どういう理由で「私益」は,「公益」に格上げされたのだろうか.釈然としないままである(宇根,2000:p. 10)

行政用語の色彩が濃い「多面的機能」は,そのままでは生産に従事する「百姓」の実感からかけ離れているとした上で,宇根は「百姓」の皮膚感覚に基づいたボトムアップ型の視点の確立を唱えていた.

「風景」や「まなざし」にも触れておこう.これらは「自然」や「生きもの」といった概念によって表象される非経済的な価値を踏まえ,それらを日々の暮らしの中でどのように認識し,生活の中で体現していくかについて思索を巡らせる中で登場した用語である.

たとえば「風景」は,守られるべき外在的価値としてのみならず,日々の生活の中で感じ取り,働きかけることのできる対象としても描かれていた.つまり「百姓」との相互作用を経ることで動的に生成される価値,と考えられているのである.その前提には,「風景」を見つめ,そこに積極的な意義を与えようとする「まなざし」の存在があった.

百姓にとっては風景は価値ではなく,百姓仕事の表出と認識されている.だからこそ,風景が荒れてきたのは百姓仕事が手抜きになっているからだ,と不愉快になる.…百姓仕事の評価を「風景」として,情感を込めて表現する習慣を打ち立てられないだろうか(宇根,2008a:p. 1).

この時期の宇根は,農的価値の認識・体現・共有にまつわる総合的な体系化をめざして,各種概念を導入しつつ思考を巡らせていたのであった.

(4) 第4期:総括期(2011~)

「虫見板」のように途中から登場頻度の急減する用語がある一方で,一貫して高い登場率を保っている用語に「百姓」が挙げられる.この事実は,宇根思想の軸足のひとつが「百姓」に置かれてきたことを如実に物語っている.

その際,第1期では技術と主体的に関係を取り結ぶアクターとしての役割が期待されており,減農薬稲作は,生産者の行政指導に対する盲従姿勢を改めさせるために打ち出されたものに他ならなかった.それが第3~4期になると,「百姓」は自然の恵みを受容すると同時に創り出す立場として描かれるようになる.すなわち「自然」と「百姓」の相補関係という捉え方の登場である.

百姓仕事は赤トンボを育てることを目的にしているわけではないけれども,百姓仕事は自然のめぐみを引き出すものだから,稲だけを引き出すわけにはいかないことは誰でも知っています.「稲植え」とは言わないで「田植え」と言うのがその名残です(宇根,2011a:pp. 3–4).

そこで描かれる「百姓」とは,積極的に「自然」との互恵関係に身を委ねることで豊かさを受け取り,味わい,再生産に寄与する存在であった.そしてこの循環を認識し,能動的に関与していこうとする人物のことであった.むろんそれは,宇根自身の希求する理念的世界の体現者としての姿に他ならなかった.宇根は常に「百姓」に仮託する形で,自らの思想を表現し続けてきた.

そしてこの時期の最大の特徴は,なんといっても3冊の単行本(2014–15年)の主題となった「農本主義」への傾倒である.理念的存在としての「百姓」像をさらに強化しようとする試みの中で着目された「農本主義」については,次節でさらに論じたい.

6. 宇根思想の特質

これまで述べてきたように,宇根は減農薬稲作の確立・普及という枠組みから出発しつつ,さまざまな概念を取り込んでいくことで,論じる領域を広げていった.彼の特質を浮き彫りにするために,ここでは「有機農業」5および「農本主義」について考えてみたい.

(1) 「有機農業」との距離感

宇根はかねてより「有機農業」と深い関係を有しており,結成に関与した日本有機農業学会(1999年~)について次のように述べている.

有機農業学会は有機農業を研究対象にしているが,その目的は有機農業の振興にあるのではない.…近代化農業によって失われた「農」の本質を再発見することにある.…私は「生産」の定義をカネにならないものまで広げ…その理論化を提言している(宇根,2003a:p. 2).

ここからは有機農業の振興策の追求ではなく,形而上学的な観点から「農」や「生産」の「本質」に迫っていこうとする意気込みが伝わってくる.とはいえ,学会設立に際して共通見解の到達に2年の時間がかかっていること6,および当初掲げられた「活動方針(案)」の過半にプラグマティックな事項が見受けられることから(足立,2001:p. 220),参加者にとって振興策も関心事項のひとつであったことは否めない.

したがって思惑の違いが存在していたからこそ,宇根は「有機農業」の信奉者ではなく,意見者としての立場を崩さなかったものと思われる.「有機農業」に対する期待がどのような内容であったかについては,以下の文章が端的に表現している.

有機農業は近代化農業への深い懐疑から生れ落ちた.ところが,「農薬や化学肥料を使わない」農業…という定義を採用すると…生産性を向上させることに,何ら疑問も抱かない有機農業もあり得る…有機農業よ頑張るな.経済性という価値観や,安全という当然すぎる価値とは違う…価値を求めて歩こう(宇根,2003b:p. 2).

宇根は,彼自身の抱く理念と「有機農業」の間にズレのあることを早くから自覚していた.そして後者について,世間からの要請に素直に応じるだけでは不十分であることを嗅ぎ取っていた.次の文章は「有機農業」の弱点を乗り越えていこうとする彼自身の決意表明としても読むことができる.

有機農業は広がらないとぼやく百姓がいる.…それはその百姓の「運動論」が狭量だからだろう.…地域に身を沈めて,地域を表現する新しい言葉を有機農業は生みださなければならない(宇根,1998b:p. 51).

「新しい言葉」の具体的内容は,第2期以降に登場する「自給」「風景」といった鍵概念を見れば明らかである.さらに宇根は「地域を表現する」だけでなく,そのための方法論にまで視野を広げていく.そして登場したのが「まなざし」であり,「有機農業」はこれを回復するための有益な方策であるとされた.つまり彼にとって「有機農業」とは,理念世界そのものではなく,「近代化農業が失った世界認識(自然へのまなざし)を取り戻す」(宇根,2011b:p. 52)ための手段だったのである.

ここで興味深い一文を掲げておこう.自然農法の福岡正信が宇根の琴線に触れたとする内容である.

科学への深い懐疑は,有機農業には見られない.そして,(自然農法には−引用者)自然への限りない畏敬と没入がある.…「近代」への懐疑と言ってもいい.昨今の有機農業にも,もう少し「科学」への根源的な疑いがあってもいいのではないか(宇根,2005b:p. 2).

宇根は若い頃,実家の養鶏業が「近代化」していくことに失望して家業継承を断念した経緯をもっており(佐藤弘,2008:pp. 22–24),「近代」や「科学」に対する批判的な「まなざし」は,実のところ,彼の青年期からの最も基礎的な視点であった.

それだけに宇根は,農や食だけにとどまらず「近代」や「科学」にまで視野を広げ,それを批判対象として認識できるか否かという点に深くこだわっていた.この点に関して,「有機農業」との間に譲ることのできない立場の違いが認識されていたからこそ,彼は減農薬思想を「有機農業」と一体化させようとはしなかったのである.

むろん有機農業を標榜する人々の中にも批判精神を発揮する人物は存在しており,とりわけ運動初期の1970–80年代には多くの論者が存在していたことは留意せねばならない.たとえば自給農場運動である「たまごの会」で活躍した高松修は「科学」に対する批判を繰り返し表明しており(高松,1980),医師として有機農業運動に携わった梁瀬義亮も,人々の健康という観点から「近代医学」や「近代農学」を批判してきた(梁瀬,1975).

だがこのような人物は参加者の拡大と共に次第に少数派となり,「提携」運動や有機JAS規格の制定といった社会的普及に主眼をおいた取り組みへと,運動の重心が移っていったことは否めない.宇根の求める方向性は,時代が下がるにつれて相対的に優先順位を下げていったのである.

そして宇根は,減農薬思想を昇華させた先に広がり,自らの思想を仮託できる概念を探し求めた結果,ある概念へと辿り着く.それが「農本主義」である.

(2) 「農本主義」への着目

「農本主義」が登場するのは第3期である.これは同思想に対する従来の学術的理解7の範囲を飛び越えて,現代版の「農本主義」を新たに樹立しようとする動きとして立ち現れた8

「百姓仕事」とか「自然」とか「共同体」とか「地域」とか「感性」とか,「公益的機能」などと様々に呼び名してはいるが,それらをひとくくりにする概念がまだ熟していない.ただ「新農本主義」としか呼びようのないモノは,こうして確実に生まれ,育ってきている(宇根,2002:p. 2).

やがて戦後の人物を「農本主義」と関連づけた論考が出現する.登場するのは熊本の松田喜一,京都の松井浄蓮,佐賀の山下惣一などであり,彼らの活動は「労働」や「仕事」という観点から評価されていく.その意味で「農本主義」は,宇根の肯定できる働き方を多分に包含した概念となっていた.

若い頃の私は(松田喜一について―引用者)「精神論じゃないか」と近づけなかったが,百姓し始めてから,理解できるようになった.…決して「労働」という言葉が出てこないのだ.たしかに,「労働」という言葉で語るようになった途端に,何かが見えなくなるのである(宇根,2006:p. 107).

やがて明治~昭和初期の思想実態にも目が向けられていく.焦点の当てられた人物は,「兄弟村農場」の創設者で「五・一五事件」にも関わった橘孝三郎である.だがこれらの人物は,結局のところ宇根を満足させるには至らなかった.

私の関心は,橘の著作を読みながら,次第に移っていった.…社会主義革命と対極にあった農本主義革命が輝いて見えるかもしれないという期待は,見事に裏切られた(宇根,2010:p. 74).

だが宇根は,先駆者への追随を諦めながらも,「農本主義」論そのものを断念しようとはしなかった.この概念は,長年育んできた減農薬思想に拠り所を与え,より高次の内容へと引き揚げてくれる可能性を秘めていると考えたのである.宇根は第3期以降,それまでに提唱してきた様々な鍵概念の統合を試みていた.その代表例として,宇根の独自性がよく示されている「自給」論を見てみよう.

食べものの自給は,じつは農の自給なのであり,村の自給であり,自然の自給であり,家族の自給であり,遊びや喜び…つまり人生の自給であった.…その中から食べものだけを「自給」の代表に抽出した時から,それ以外が見えなくなった(宇根,2008b:p. 61).

やがて彼は「自給こそ農本主義の源」(宇根,2008c:p. 72)であると考え,「自給」を介在させる形で「農本主義」を構築することを試み始める.

買った方が安いのに,田畑を耕して自給するのはなぜだろう.国家の経済成長よりも,在所の自然と土と仕事が愛しいからである.ここにカネ(経済)に対抗できる有力な思想がある.…私は静かでたおやかな原理主義である新・農本主義を構想したい(宇根,2009:p. 43)

このように宇根は,経済合理性という名の下で否定され消滅しかかっている存在をすくい取るために,「農本主義」によってそれらを表象しようとした.彼の「農本主義」論は,2014–15年に出版された3部作によって集大成を迎える.これらの著書では,減農薬思想を唱えて以来,彼の議論の俎上に上げられてきた領域が,ほぼ網羅的に取り上げられていた.

簡単に3冊の違いを述べておこう.まず『農本主義への誘い』(宇根,2014a)では,減農薬思想に端を発した各種概念が「農本主義」という名の下に統合されていく道筋を描いており,いわば理論編である.次に『愛国心と愛郷心 新しい農本主義の可能性』(宇根,2015)では,効率性という捉え方を生み出す元凶として,自給率概念に内在するナショナリズムが断罪され,生きものとの交感に根ざしたカネにならない価値を守るために,パトリオティズムという「まなざし」の重要性が説かれる.3冊目の『農本主義が未来を耕す 自然に生きる人間の原理』(宇根,2014b)では,これらの思想を日々の生活の中で体現する理念上の人物像,すなわち「百姓」のあるべき姿が描かれる.なお2016年には,これらを新書版に読みやすくまとめた『農本主義のすすめ』が出版され,「伝統」の創出に向けてさらなる決意が述べられる(宇根,2016).

ここからわかることは,宇根は「農本主義」を厳密な定義をもった用語としてではなく,複数の鍵概念に統合化をもたらす〈メタ概念〉として扱っている点である9.繰り返しになるが,彼の思索は農法論から「自給」「百姓」にまで及ぶ広範なものである.それゆえに現代の農的思想から,宇根の意を汲むことのできる包括的概念を引き出すことは困難であった.そこで彼は,貨幣換算の困難な価値を守ろうとする主張と親和的な存在を探し求めた結果,古典的な「農本主義」概念へとたどり着き,これに現代的な意義を与えつつ再整備を試みたのであった.

7. 現代版「農本主義」の意義

最後に宇根が「農本主義」を選んだもうひとつの理由について考えてみたい.

まず減農薬思想と「有機農業」の相違点を浮き彫りにするために,宇根の各種実践および鍵概念を前掲のモデル図(図1)に沿って配置させたものが図2である.なお議論の簡略化のため,取り上げる実践や鍵概念は重要なもののみに限定した10

図2.

宇根思想の展開方向

1)辺上のゴシック体は実践,明朝体は鍵概念.

その結果,宇根思想では4つの辺上に実践および鍵概念の濃密な展開がみられ,とりわけ〈自然〉についてはそこを起点とする3辺すべてに該当事項が存在していることから,特に重要度の高い要素とされてきたことがわかる.逆に〈制度〉は1つの辺のみに事項が存在しており,関心はさほど高くない.これらのことから〈自然〉〈人間〉〈技術〉の3要素によって囲まれる三角形の面(図の灰色部分)が重視領域であると判断できる.

ではこの領域をどのように解釈すればよいであろうか.この疑問を解くためには宇根思想を相対化する作業が不可欠である.そこで1990年代以降の有機農業についても軽く触れてみたい.その際,昨今の有機農業では特定の人物を思想の代表者として抽出することが困難なため,便宜的に著名な実践展開に限定して配置することとした(図3).その結果,こちらでは〈制度〉〈人間〉〈技術〉の3要素が浮かび上がることとなった.

図3.

有機農業の近年の展開方向

1)辺上に実践のみを示した.

さらにそれぞれの重視領域を取り出して並べたものが図4である.両者とも〈人間〉および〈技術〉に重きをおく点で共通性を見せつつ,異なる点として宇根は〈自然〉を,有機農業は〈制度〉を選択しており,明確な路線の違いを見て取ることができる.この違いは,さしずめ有機農業では社会普及に向けた実践として,宇根思想では新たな価値規範の創出として理解できるように思われる.

図4.

宇根思想と有機農業の展開方向の違い

というのも宇根は「有機農業」を批判する際に,価値論に対する関心の低さを根拠としてきたからである.その一方で彼は,日常でのあらゆる活動における「自然」との関係性を価値規範の源泉と見なし,その内面化の実現を主張の柱に据えてきた11.それゆえに「有機農業」が普及にむけて社会基盤の確立に邁進してきたことと,宇根が「自然」に由来する価値観の(個人での)内面化を唱えてきたこととは,働きかけのベクトルが大きく異なっているのである.

さらに言えば,「百姓」は宇根の思い描く理念像の体現者に他ならず,彼は青年期からこの「百姓」のあるべき姿を表現しようと試み続けてきた.そこで必要とされたのは,各種の農的要素を包括的に含み,社会変革に向けた信念を内包する鍵概念であった.「農本主義」は,まさにこの課題に対する彼なりの回答ではなかったかと思えるのである.

最後に付言しておくと,大正~昭和初期の「農本主義」が,社会変革に向けた価値認識論としての意味を強く持つことは重要である.一見すると宇根の思想は,旧来の「農本主義」の理解を大きく越えた内容になっているものの,実は自己と「自然」をめぐる関係性を価値の源泉に据えようとする思考法は,岩崎正弥が明らかにした大正期の「〈自然〉委任型」の事例を強く彷彿させるものであり(岩崎,1997:pp. 354–355),この主題が時代を超えて通底する可能性を垣間見せている.

その際,「自然」とより真摯に向き合った「農本主義」者は,宇根が好んで取り上げた昭和恐慌期の橘孝三郎よりも,むしろ大正期に活躍した「〈自然〉委任型」(岩崎,1997:p. 13)の石川三四郎たちであることを最後に付言しておきたい.

1  たとえば自給を掲げた運動がやがて有機農業へと辿り着いた「農産物自給」運動が挙げられる(佐藤喜,1991).

2  畑俊八と久松達央には,有機農業を絶対視することの弊害と共に,それを乗り越えていこうとする視点の備わっていることがわかる(畑他,2017).

3  安藤孫衛「食品公害から命を守る会」(福岡),梁瀬義亮「慈光会」(奈良),大平博四(世田谷)などが挙げられる.

4  x-y軸型の平面モデルが2組の対立軸を用いる分析法であるのに対し,四面体型モデルでは4点からなる独立した要素を,対立関係を用いることなく分析できる利点をもつ.

5  宇根の鍵概念として表記する際はカッコを付し,一般的な意味の有機農業と区別しておく.

6  「『こだわり』が有機農業研究における『価値観の相違』となって表面化し,意思疎通の障害になることもあった」(足立,2001:p. 217).

7  舩戸修一(2009)による整理を参照のこと.

8  宇根の「農本主義」を批判的に分析した小林一穂は,「農本主義をイデオロギーとして位置づけ」(p. 3)ることで視点を限定して分析を開始しながら,途中で「農本主義は…現実から遊離したイデオロギーとして成立」(p. 233)と述べて,概念の全体規定へと転化させようとする(小林,2019).これは明らかにトートロジーであり,農本主義研究に時折みられる古典的な誤謬に陥っている点を指摘できる.

9  同じく「新しい農本主義」に可能性を見いだす中島紀一は,宇根とは逆に有機農業に〈メタ概念〉としての機能を持たせており(中島,2013:pp. 111–113),両者の間に類似した論理構造を見て取ることができる.

10  表2に掲げた鍵概念のうち,「自然」「環境」「技術」は4要素と重複するため,また「自給」はこの図では説明困難であるため省略した.また「百姓」は減農薬稲作に取り組む以前からの重要課題であり,この概念の方向性を1つに絞り込むことは難しいため,「百姓」のみ2方向に配置した.

11  自然と人間との関係を重視する姿勢は,かつて「やぼ耕作団」を主催した明峯哲夫(2016)にも通じる.

謝辞

文献の提供を賜った宇根豊氏,ならびに丁重なる審査とコメントを頂戴した査読者・編集委員会の皆様に感謝申し上げます.

引用文献
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  • 足立恭一郎(2001)「〈資料〉日本有機農業学会の設立までの経過」日本有機農業学会(編)『有機農業―21世紀の課題と可能性』年報1:217–232.
  • 石田紀郎(2018)『現場とつながる学者人生―市民環境運動と共に半世紀』藤原書店.
  • 岩崎正弥(1997)『農本思想の社会史―生活と国体の交錯』京都大学学術出版会.
  •  宇根  豊(1977)「『手入れ』としての技術を問う」『日本作物学会九州支部会報』43:65.
  • 宇根 豊(1984)『減農薬稲作のすすめ』擬百姓舎(自費出版).
  •  宇根  豊(1993)「農を変える減農薬運動」『地球環境・アジアNGOフォーラム報告書(2)―持続可能な農業分化会―』25:42–51.
  •  宇根  豊(1994)「環境は百姓の掌中にある」『公庫月報』42(8):24–27.
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  •  宇根  豊(2009)「あたりまえの農に向かって 新・農本主義の時代へ」自治研中央推進委員会(編)『月刊自治研』601:36–43.
  • 宇根 豊(2010)「橘孝三郎の内と外」山崎農業研究所(編)『耕』120・121:74–76.
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  • 宇根 豊(2011b)「生きものへのまなざし―百姓仕事の新しい評価方法としての『環境支払い』を求めて」横川洋・高橋佳孝(編著)『生態調和的農業形成と環境直接支払い 農業環境政策論からの接近』青山社:49–117.
  • 宇根 豊(2014a)『農本主義へのいざない』創森社.
  • 宇根 豊(2014b)『農本主義が未来を耕す 自然に生きる人間の原理』現代書館.
  • 宇根 豊(2015)『愛国心と愛郷心 新しい農本主義の可能性』農山漁村文化協会.
  • 宇根 豊(2016)『農本主義のすすめ』ちくま書房.
  •  大石 和男(2017)「藤本敏夫の『自給』構想にみる〈理念距離〉の意味」『ソシオロジ』62(2):21–38.
  • 小林一穂(2019)『農本主義と農業者意識―その理念と現実―』御茶の水書房.
  • 佐藤喜作(1991)『農業が築く自給自立運動―秋田県・仁賀保町農協の実践―』家の光協会.
  • 佐藤 弘(2008)『宇根豊聞き書き 農は天地有情』西日本新聞社.
  • 高松 修(1980)『石油タンパクに未来はあるか』績文堂出版.
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  • 中島紀一(2013)『有機農業の技術とは何か 土に学び,実践者とともに』農山漁村文化協会.
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  • 原山浩介(2008)「喪失の歴史としての有機農業―『逡巡の可能性』を考える」池上甲一・岩崎正弥・原山浩介・藤原辰史『食の共同体―動員から連帯へ』ナカニシヤ出版:119–176.
  • 藤井平司(1983)『甦えれ!天然農法』新泉社.
  • 福岡正信(1975)『自然農法・わら一本の革命』柏樹社.
  •  舩戸 修一(2009)「『農本主義』研究の整理と検討」『村落社会研究』16(1):13–24.
  •  桝潟 俊子(2017)「有機農業運動の展開にみる〈持続可能な本来農業〉の探求」『環境社会学研究』22:5–24.https://doi.org/10.24779/jpkankyo.22.0_5.
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  • 有機農業研究会(編)(1972)「有機農業研究会結成趣意書」『たべものと健康』No. 1:表紙裏.
 
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