農林業問題研究
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大会講演
「ふるさとの味」をめぐる調理リテラシーの普及過程と生活世界
―長野県上伊那郡における地域資源の発掘と利用―
湯澤 規子
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2022 年 58 巻 1 号 p. 10-17

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Abstract

In this report, we will focus on “regional resources” related to “food”, and consider how their excavation and utilization have been done from the perspective of geography, based on their history. Specifically, we will analyze the process by which cooking literacy related to “Local Taste” is changing and spreading to the region, with a view to the relationship between the living world and local resources in Kamiina-gun, Nagano Prefecture. The main points are summarized in the following three points. The first point is the structural change surrounding the changes in rural areas and families and the “Local Taste” since the 1980s. Since the 1980s, it has been rediscovered, and cooking literacy for passing on to the next generation has been discovered, reorganized, and disseminated as “local knowledge.” The second point is the process by which local knowledge develops into open commons. Cooking literacy was formed by collecting, publishing, and sharing recipes, and skills and local resources that were shared in a limited range became widely disseminated and utilized as open commons. The third point is that when considering the efforts related to “Local Taste” from the viewpoint of geography, “Place” consisting of daily experience is always in conflict with “Placelessness” that loses its uniqueness and identity.

1. はじめに

(1) 「食」という地域資源

本報告では「食」に関わる「地域資源」に焦点を絞り,その発掘と利用が誰によってどのような目的でなされてきたのか,その歴史をふまえ,地理学の視点から考察する.具体的には「ふるさとの味」をめぐる調理リテラシー1が変化しつつ地域に普及していく過程を,長野県および上伊那郡における日常生活世界と地域資源との関わりを視野に入れて分析する.

「食」に関わる「地域資源」を発掘し,利用していこうとする契機は,歴史的に見て様々な危機への対処として,これまで何度も繰り返されてきた.近代には全国的な「郷土食」調査が実施された(中央食糧協力会編,1944).これは戦時中に外米の入手経路が途絶える中で,「食糧自給体制」の再編による「国民食糧の確保」を目的としたものであった.

第二次世界大戦後,高度経済成長期には仕事を求めて多くの人びとが農山漁村から都市へと流入した.都市化や産業化による人の移動や地域の変化が生じると,「ふるさと」的なものや場所が求められ,再発見されるという現象が都市空間で展開した2.人口の地理的移動が大規模かつ急激に生じた高度経済成長期においては,その傾向が顕著になった.

農山漁村でもこの時期に大きな変化が生じていた.むしろ,農山漁村のほうが,「生活改善運動」などを通して,地域の女性たちが中心となって積極的かつ組織的に生活世界の変化を促したといっても過言ではない(田中,2011).そこには食生活の改善運動も含まれていた.油脂,動物性たんぱく質を積極的に摂ること,漬物による塩分の過剰摂取に気をつけること,新しい献立を取り入れるなどの調理リテラシーが普及していったのである.高度経済成長期における合理的な食事の提案,栄養学の知識の啓蒙は,食生活の地域差を是正していく役割を果たした(矢野,2007).

ところが,1980年代以降,あらためて「ふるさとの味」が再発見され,次世代へ受け継ぐための調理リテラシーが「ローカル・ナレッジ」として発掘,再編,発信されるようになったのである.この背景には農林業問題としての第一次産業の従事者数の減少や高齢化,地域文化の後継者難などが想定される.

本報告ではこうした動向を生活改善グループの発行資料から明らかにするとともに,活動の動機や社会的背景を明らかにし,それを地域の人びとがどのように受容していったのかを考察する.

(2) 問題の所在

この研究には3つの意義がある.1つ目は,これまで等閑視されてきた,1980年代以降の生活改善運動の新展開を明らかにすることである.「ふるさとの味」を地域農林の動向をふまえて動態的に議論した研究は管見の限りほとんどないが,生活改善運動の戦後展開を論じた研究が先行研究として注目される.また,この運動を農村女性政策とエンパワーメントとの関わりから論じた成果は1950年~60年代にとどまっており(岩島,2020),本稿で着目する1980年代以降の解明は課題として残されていた.

2つ目は,口伝や暗黙知(竹尾・土屋・中村・黒地,2002星野・深町,2014佐藤,2018),経験知で感覚的に伝えられてきた「味」を,材料や分量を明記したレシピや料理書として言語的(リテラシー)に再構成して再現可能する情報構築のプロセスを解明することである.生産技術や技能の暗黙知については既に2000年代に製造業に関わる分野で議論され,2010年代には農業へも応用されている.しかし,その一方で消費技術や技能といった日常生活世界に関わる技術や技能ついては等閑視されたままであった(Henry Notaker, 2017).ただし,料理やレシピと社会を関わらせた研究は都市やメディア論としてはいくつかの研究がある(①大野・土井・鈴木・河村,2018,②村瀬,2010,③村瀬,2020a,④村瀬,2020b).

3つ目は,これまで静態的にとらえられてきた「ふるさとの味」をめぐる事象や言説が,農山漁村の変化を反映した動態的なダイナミズムを創出していたことを明らかにする意義である(千葉・糸長,2014).

以上の問題意識をふまえ,以下ではまず,日本で最初に「食」を文化財に位置付けた実践を有する長野県を研究対象とし,県の政策を明らかにする.次に,長野県内の各地域の取り組みと農山漁村の変化について分析する.「味の文化財」指定のその後の展開として,書籍化,商品化,事業化の3つがあり,漬物とおやきは,「ふるさとの味」という地域資源として再認識され,地域産業へと展開した(①水谷・中島・千賀,2005,②関満,2009).それを支えた1980年代以降の生活改善運動の展開として,「調理リテラシー」の収集と普及活動に着目してみたい.最後に,こうした県や集落での地域資源の発掘と利用が,個々の生活改善グループや個人のライフヒストリーにとって,どのような意味を持っていたのかについて議論する.

2. 地域文化と資源としての「食」の発見

(1) 長野県における「味の文化財」指定の取り組み

1980年代,長野県では他県に類を見ない「味の文化財」指定を開始した.1981年,同県に対し「味の文化財」を提唱したのは,地理学者の市川健夫であった3.市川はその経緯を次のように記録している.

昭和56年(1981)正月,吉村午良県知事が文化人との懇談会を開いた.その席上私は信州における「食の文化財」について,その維持と保護を提案した.翌57年全国的にみても特色のある手打ち蕎麦,焼餅,御幣餅,野沢菜漬,スンキ漬の五品目を選び,民俗文化財に指定することを長野県文化財保護審議会に提案した.ところが,食文化は国の文化財保護法の対象になっていないという理由などで反対が強く,審議未了になってしまった.しかし昭和57年7月になり,ようやく県選択無形文化財として,前期の五品目が決定されるに至った.選択無形民俗文化財は,文化財指定としては最も低いランクに属する措置であるが,県民の反応は大きく,これら五つの風土食は「県重要文化財」に指定されたと認識している人が多い(市川,1998).

県民の反応の具体的な現れとして1984年2月には第1回「信州・味の文化展」が開催され,その後も継続された.1990年代以降には,上伊那郡の生活改善グループや農業改良普及所,JA上伊那などが,長野県では県の生活改善グループ連絡協議会と農業改良協会が関連冊子を相次いで刊行している4

つまり,活動の中心となった1980年代以降の生活改善グループは,初期の新生活運動とは異なる新たな展開として,「ふるさとの味」という地域資源の発掘と利用に取り組んだことになる.県下一円の選択無形民俗文化財として正式指定された①手打ち蕎麦,②焼餅(おやき),③御幣餅,④スンキ漬,⑤野沢菜の中で(長野県教育委員会編,1984),県の野沢菜漬の生産額は1980年には70億円であったところ,1996年には180億円に急増した.また,焼餅(お焼き)は70億円産業となり,有力な地場産業に成長した(市川,1988).

2000年代に入ると,県下一円の五品目だけでなく,地域ごとの指定が進み,よりミクロな地域の固有性の再発見,商品化が進んだ(表1).

表1. 長野県下の選択無形文化財(味)
指定年 名前 地域
1983 手打ち蕎麦 全県
焼餅(おやき) 全県
御幣餅 全県
スンキ漬 全県
野沢菜 全県
2000 伊豆木の鯖寿司 飯田市伊豆木
富倉の笹寿司 飯山市域
万年鮨 木曽郡王滝村一円
南信州の柚餅子 飯田市南信濃,下伊那郡天龍村,泰阜村
2001 朴葉巻・朴葉餅 木曽郡6町村,松本市奈川,塩尻市楢川,飯田市上村,伊那市西箕輪,下伊那郡平谷村・阿智村・売木村
早蕎麦 下水内郡栄村,下高井郡山ノ内町須賀川
2002 遠山郷の二度芋の味噌田楽 飯田市上村・南信濃
2007 いもなます 長野県岳北地方
えご 東・北日本地域から信越地域の山間部
富倉そば 飯山市富倉地区
富倉の笹ずし 飯山市富倉地区を中心とした西側山間集落

資料:八十八文化財団長野県の芸術・文化情報センター「信州の文化財」により作成.

(2) 日常生活世界の変化と食の「没場所性」

先述の市川が「食」の文化財指定を提案した背景には,高度経済成長期における社会の変化があった.とりわけ農山漁村の「食」の変化は大きく,それは次のように説明されている.

 わが国においては1960年代から70年代にかけての経済の高度成長期にかけて,食品工業が発展し,食物の画一化が進行した.信州においても例外ではなく,伝統的な郷土食が失われ,それに伴って,その素材となっていた伝統作物も次第に姿を消していった.私はこのままでは信州文化のひとつである食文化が滅亡するおそれがあり,何とか歯止めをかけなければならないと考えた(下線は引用者付記)(市川著,市川健夫先生著作集刊行会編,2010:pp. 150–151).

 地理学者のエドワード・レルフ(1999)によると,「人間であるということは,意味のある場所で満たされた世界で生活することである」.同書は,私たちの日常経験からなる生きられた世界についての地理学的現象である「場所」が,次第にその多様性やアイデンティティを弱体化させ,「没場所性(プレイスレスネス)」が優勢になりつつある社会の変化を捉えようとした.市川の主張はこの「没場所性」とも通底し,「地域」という場所に根差した「味」が失われていく現象に警鐘を鳴らしたものだと意義づけることができる.

以下では2000年に選択無形文化財指定された南信州の柚餅子(ゆべし)を事例に5,味の「没場所性」とそれに対する地域の具体的な取り組みを検討する.対象となる天龍村では,下伊那南部に位置し,天竜川沿いの温暖な地域で柚子栽培が行われてきた.囲炉裏の上に吊るして乾燥させた,各家庭の保存食,冬季の栄養源として重宝されてきたが,生活の中から囲炉裏が姿を消すと,柚餅子の加工も衰退した.また,天龍村坂部地区は森林資源に恵まれた地域で,柚餅子は山林労働者の携帯食でもあったが,国産木材の需要低下による過疎化の進行が柚餅子需要の減少にも拍車をかけた(長野県商工会連合会婦人部編,市川・倉島監修,1985:p. 178).

日常生活世界が変化することに伴って,そこに根差していた「味」が喪失され始めた時,坂部地区の若妻たちがグループを作り,柚餅子の勉強会を開始した.伝統行事「冬祭り」の見物者にふるまうと評判になり,東京から大量の注文が入るようになった.これを契機として,1975年に「天龍村柚餅子生産者組合」が発足し,商品化への試行錯誤の末,ゆず飴とゆず加工品の産業化に成功した(長野県農業改良協会編,1990:p. 352).こうした試みは生活改善グループあゆみ会が中心になって進められた.

代表の関京子さんのライフヒストリーにはこの地域における地域資源としての「食」の発掘過程が認められる.関さんは1935年に隣の阿南町新野に生まれ,結婚を機に天龍村に移住した.1972年に村の展示会で初めて出会った柚餅子の上品な香りに感動し,「過疎化が進んでいく地域をなんとか元気にし,伝統食文化を後世に伝えていこうと,当時,あまり作られなくなっていた柚子餅を,一念発起して,地区のお母さんやおばあさんたちと協力して作っていくことにした6」のだという.40年以上にわたる活動の末,2018年3月には組合員の高齢化などにより組合は解散した.しかし,2021年現在は天龍村の地域おこし協力隊OB,OGによるNPO法人「ツメモガキ」が継承に取り組み,「味」を受け継ぎ,販売に挑戦している7

「天龍村柚餅子生産者組合」の活動を見ると,長野県天龍村の戦後史における「柚餅子」の調理リテラシーの役割が非常に大きかったことがわかる(相川・丸山・福島,2021).

「味」や「レシピ」の継承は,単に食品生産というだけでなく,「生活世界」を再構築し,「没場所性」の波に抗う実践であった.その結果,味の固有性の維持が地場産業への発展へとつながり,地域経済にも寄与し,その「場所」に住み続けるための基盤にもなった.つまり,先述したエドワード・レルフの考え方を援用すれば,「日常経験からなる生きられた世界」である「場所」を記録し,共有するためのリテラシーが味を復元する調理方法であり,レシピであったといえるのである.

3. 生活世界と「場所」の再編

(1) 変化する農山漁村と生活世界

「没場所性」が進行する状況は「食」に焦点を当てると,どのような現象として生じたのだろうか.

戦後の食糧生産が回復すると,1955年には日本食生活協会が設立し,量だけでなく質の改善が求められるようになった.1956年から日本食生活協会による栄養指導が始まった.栄養士によるキッチンカーの巡回によって,調理方法,調理器具,台所改善の知識が農山漁村の各地に普及し,食べることに対する意識,新しい食材,献立,調理方法の導入が進んでいった.そうした指導の中で,お正月とおせち料理の再編も進み,地域の行事食から家族の祝祭へと転換した.この背景には,旧暦から新暦への移行,サラリーマン家庭の増加によって,従来の生活世界のリズムが変化したこともあったと思われる.

台所改善運動とも連動する台所や調理道具の変化は,「食」や「味」に直接影響するものであった.例えば自家醸造味噌の仕込み作業における豆挽き道具の導入は,家族総出の作業を女性の分担へと転換した.また,栄養知識の普及により,味噌への栄養添加が推奨され(矢野,2007),漬物の塩分摂取についての注意喚起なされるようにもなった8.住宅の改修による囲炉裏の喪失は,囲炉裏の灰で焼くおやきや(三田,1988),煙で燻す柚餅子などを作る場の喪失でもあった.

また,長野県における粉食から米食への移り変わりには,次のような産業構造の変化があった.「秋山郷では切明発電所工事が始まった昭和28年頃から,アンボなどの粉食は余り行われなくなった.焼畑が減って材料が少なくなったことと,つくるに手数がかかることがその原因である.また経済的に米食にした方がはるかに楽で,安くつくからである(市川,1961)」.

(2) ハレ(行事食)とケ(日常食)の再構成

高度経済成長期まで,焼餅(お焼き)は畑作が盛んな粉食地域における主食であった(三田,1988).上水内郡小川村は標高500~1000メートルに近い山村で急斜面が多く,川沿いの水田以外は畑でダイズ,アズキ,大小麦,養蚕,麻,タバコなどが主作物で,粉物食が常食となっていた.おやきは山野での保存食,野良仕事の「小昼」として食べられた.西山地方のおやきは,火力の弱い落葉を燃料とし,ホーロクで表面を乾かし,たき火の灰で蒸し焼きにするのが特徴である(長野県商工会連合会婦人部編,市川・倉島監修,1985:p. 331).

「食事のしたくがすべて主婦の肩にかかるのではなく,家族全員の協力で作っていたらしいことも知れる(蒲,1984:p. 56)」とあるように,農作業の後,囲炉裏を囲みながら家族総出で準備して食する日常経験を記憶にとどめている人も少なくない.

それが前章で述べたような社会変化の中で作られなくなり,食べられなくなった後,当地域ではおやき専門店ができ,山村の保養センター等でも名物として売り出されるようになった.過疎山村の振興の一環として「おやき」製造が注目されるようになり(章,1993),地域の人が日常食として食べるのではなく,全国各地に流通する「おやき」として再編され,地場産業として重要な役割を果たすようになった.

おやき製造販売会社「小川の庄」はその有名な企業の1つである.1955年頃,地域の青年たちの同志的集まりとして「こだま会」が発足し,同会が主体となって「おやき」が再発見された.1986年に信州西山農協が「ふるさと田舎事業」の指定を受け,初期は漬物製造に取り組み,その後,小川村の第三セクターによる村事業により「小川の庄」が誕生し,同地域の主要産業へと成長した.現在では冷凍技術と配送技術,インターネットによる取引技術を駆使して,全国各地に市場を広げている.

地域住民の雇用の場となり,また,高度経済成長期以前に一般的であった囲炉裏端の灰で焼く調理法も復元するなど,同社による「ふるさとの味」の再編は,全国的な流通網を持ちながらも,小川村という「場所」に地域住民が住み続ける条件と動機の創出を実現している.その意味で,これは「ふるさとの味」とそのレシピの単なるイメージやシンボルとしての再編ではなく,「没場所性」を乗り越えるための実践であると換言することができる.

4. 「ふるさとの味」の再発見と新生活改善運動

(1) 1990年代の生活改善グループによる「ふるさとの味」の再発見

ここまでは主に,行政や企業の取り組みを見てきたが,最後に実際に様々な調理に関する情報を受容し,調理をする主体としての個人に焦点を当てて,長野県における「味の文化財」指定が具体的な生活世界にどのような影響を与えたのかを考えてみたい.事例とするのは上伊那郡の生活改善グループと農業改良普及所の取り組みと,それを受容したある一人の女性が所蔵する料理本やノートである.

上伊那郡生活改善グループ連絡協議会,農業改良普及所は1993年に『ふるさとの味・梅の味』という冊子を作成した.これは一般の図書ではなく,地域内で配布する手づくりの冊子である.その冊子から,活動の浸透と社会的背景を読み取ってみたい.

 せっかくの地場産の豊富な原料を嘆くのではなく,有効に活用してふるさとの味を見直すとともに,贈答などに利用して都会の人たちに広くこの味を知ってもらえたら…という願いから,生活改善グループリーダー研修会でとりあげ,各々で実践している加工品を持ち寄り研究して参りました.100余点の中からの抜粋ですが,皆様の研究の成果ですので参考にして下さい(上伊那郡生活改善グループ連絡協議会・農業改良普及所編,1993)(下線は引用者付記).

 都市と農村をつなぐ「味」という意味付けが興味深い.上伊那生活改善グループ連絡協議会会長は次のように述べている.

 昨年7月に行われました生活改善グループの研修会で,梅の加工や消費拡大について検討されました.その折参加された方々が,お互いに自分が漬けた梅料理を持ち寄って,試食をしたのですが皆さん腕に自信を持ってすばらしい「我が家の味」を作り出しておられました.

何種類もの漬け方,びん詰めの仕方,煮方や梅の持ち味を上手に生かしたお菓子等々手作りで伝統ある郷土の味,それぞれアイデアのすばらしい家庭の味がこれほど豊富に持ち寄られたことに驚き,本当に感激致しました.

このたび,会員が家庭の味として作り上げてきたこれらの梅料理と,今まで生活改善グループで残してきたふるさとの味をここに1冊の本としてまとめ,刊行の運びとなりました.

 持ち寄ってみると,これほど多様だったとは,という感嘆がまずあり,地域に根差す食や味の複雑かつ多様さの発見があったことがわかる.また,ここで明示されている「我が家の味」とは,家庭内に閉じられた「暗黙知」であったと言えるが,それを「ふるさとの味」という共有するための「形式知」として再編しようという意図が伝わってくる.

(2) 調理リテラシーの収集と共有

『ふるさとの味・梅の味』は「梅の部」と「ふるさとの味の部」に分かれている.分量的にも本書の中心である「梅の部」に絞って目次を整理すると,①各々で実践してきた「我が家の味」「家庭の味」を言語化,数値化,体系化して公開していること,②内容が類似していても,品目の名前が様々であること,③レシピは個人の名前に帰属しており,1人が複数のレシピを提供する場合もあることが明らかになった.

また,レシピを詳しく見ると,同じ品目でも微妙な違いがみられる.例えば「梅の砂糖漬け」のレシピを提供しているのは4名であり,材料,分量,手順に違いが認められる.これまで個人,あるいは親しい知人や家族とだけ共有していた知識は,地域内で公開され,不特定多数の人に伝えられるようになったのである.

(3) ある女性の調理リテラシーと生活世界

こうした活動成果を,地域に暮らす個人はどのように受容したのだろうか.また,地域に存在する「味」に関する無数の暗黙知は,本当に形式知として定着したのだろうか.ある女性の調理に関する蔵書から,調理リテラシーの構造とその形成過程からそれを考えてみたい.

蔵書はおおよそ4つに分類された.すなわち①生活改善グループや農業改良普及所の刊行物やプリント,②家の光社による刊行物,③一般の書籍,料理本,④自作のノートやメモである.これらから分かることは次の4点である.

第1点目は,個人にとって,調理リテラシーの習得は様々なチャネルからなされていたということである.第2点目は地域で共有されたレシピは,個人の中でさらに再編されるということである.自作のノートやメモを見ると,他のチャネルから得た情報を選択して書き写し,また漬物などは自分が漬ける分量に合わせて再計算したうえ,分量の記載を新たに加えたりもしている.第3点目は食卓には「ふるさとの味」だけでなく,新しい献立が併存して並んでいたということである.「漬物」や「鯉の旨煮」などは地域のレシピを参照していたとしても,具体的には「万能めんつゆ」などは料理家である栗原はるみのレシピが自作のノートに転記されていたりもするからである.第4点目は,「ふるさとの味」の中でも,その戦後の展開には個々の品によって衰退や再編の過程が異なるということである.この事例の場合,「漬物」については独立したノートが作成され,台所や生活の変化の中にあっても,漬けること,振舞うこと,食べることが継続されていた.

個別事例を通してみると,地域内で個々のレシピが収集され,整理,公開され,「ふるさとの味」が再編されたとはいっても,これで全ての「暗黙知」を「形式知」に転換し,完全に共有できたとはいえないことがわかる.個人のレベルでは,それをさらに自作のノートや記憶の中に再編し,新たな暗黙知へと転換することもあるからである.

また,無数にある暗黙知の大枠をレシピとして公開することができても,いわゆる「塩梅」や「秘訣」と呼ばれるような,なお言語化できない残余部分が存在する.そこには素材や水や気候といったその「場所」に根差した固有の条件,いわば「風土」に関する要素も多分に含まれるだろう.逆説的ではあるが,じつは,形式化され尽くされないその「残余」はむしろ,「おふくろの味」を通して固有の「場所」が「没場所性」に回収し尽くされないための,重要な地域資源といえるのかもしれない.

5. おわりに

本稿の目的は,「食」に関わる「地域資源」に焦点を絞り,その発掘と利用がどのようになされてきたのか,その歴史をふまえ,地理学の視点から考察することであった.その要点は以下の3点にまとめられる.

第1点目は農村と家族の変化と1980年代以降の「ふるさとの味」をめぐる構造転換である.1980年代以降,あらためて「ふるさとの味」が再発見され,次世代へ受け継ぐための調理リテラシーが「ローカル・ナレッジ」として発掘,再編,発信されるようになった.この背景には農林業問題としての第一次産業の従事者数の減少や高齢化,地域文化の後継者難などがあった.この時期に長野県では他県に類を見ない「味の文化財」指定を開始している.1990年代以降には,生活改善グループや農業改良普及所,JAなどが,長野県では県の生活改善グループ連絡協議会と農業改良協会が関連冊子を相次いで刊行した.つまり,活動の中心となった1980年代以降の生活改善グループは,初期の新生活運動とは異なる新たな展開として,「ふるさとの味」という地域資源の発掘と活用に取り組んだことになる.

第2点目はローカル・ナレッジが「暗黙知」から「形式知」へと展開し,共有されていく過程である.レシピの収集,公開,共有によって地域内で調理リテラシーが形成された.これによって,限られた範囲で共有されていた技能や地域固有の資源が,家の外,さらには地域の外へ,広く普及し,活用できるようになった.そうして共有された調理リテラシーが,地場産業や地域づくりにつながることもあった.しかし一方で,個人レベルで知識の受容を見ると,個人は複数のチャネルの中から調理リテラシーを選択し,再編し,共有された知識が再び固有の知識に転換することもあった.

第3点目は,「ふるさとの味」をめぐる戦後の県,組織,個人の取り組みを地理学的に再解釈した結果見出されたのは,日常経験からなる生きられた世界である固有の「場所」は動態的なものであり,常にその固有性とアイデンティティを失う「没場所性」とのせめぎ合いの中にあるということであった.

地域資源の発掘と持続的利用をめぐる議論は昨今ますます盛んになっており,2013年のユネスコ世界無形文化遺産への「和食―日本人の伝統的な食文化」の登録や,2014年の山形県鶴岡市のユネスコ食文化創造都市への認定などが注目される.これは単に「食」という問題だけでなく,人間にとって「場所」とは何か,「場所」に根差した「食」とは何かを問う重要な転機にほかならない.その意味で,ガストロノミー(食文化)における「味」と「調理リテラシー」の役割と可能性を「場所」という視点を付加して再考する必要があろう.この議論を深めることを今後の課題としたい.

謝辞

本研究は,科学研究費補助金(17K03237,17H02552)による成果の一部である.

1  リテラシーとは「読み書き能力」を示すことが多いが,ここではより広義の「必要な情報を引き出し,活用,応用する能力」を意味するものとして用いる.本稿では,調理をめぐる情報を引き出し,活用,応用する能力を「調理リテラシー」と定義する.

2  成田(1998)によれば,都市空間の中で展開される故郷の記憶をめぐる物語は,一九世紀後半以降の日本で,絶えず紡ぎ出されてきた.

3  週刊長野2010年(H22)10月23日号掲載.昨今,地理学では飲食文化に関する議論が高まっている.例えば,金田(2020)荒木(1998)がある.

4  農山漁村文化協会から『日本の食文化全集』が刊行され始めたのは1993年であることをふまえると,長野県の実践は先駆的なものであったといえる.

5  南信州の「柚餅子」に関しては,八十八文化財団「ふるさとの文化財を守り伝える心」から詳細を知ることができる.米屋(2001)

6  JA長野県ホームページ(2021年8月26日アクセス).

7  長野県 天竜の「柚餅子」伝統つながる 解散した組合の技術継承」北陸新幹線で行こう!北陸・信越観光ナビ(2021年8月26日アクセス).

引用文献
 
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