農林業問題研究
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書評
上田 遥著『食育の理論と教授法 善き食べ手の探求』
〈昭和堂・2021年3月〉
山田 伊澄
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2022 年 58 巻 2 号 p. 108-109

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本書は,著者がフランス在外研究中に実施したフィールドワークの成果をはじめ,6本の査読付き論文に書き下ろしの章を含めて,精力的に研究をとりまとめた学術的成果である.「善き食べ手」を育むための食育をテーマとし,食育の実証から理論まで幅広い論点を扱っている.農業経済学分野の既往研究が主に「食消費はいかなるものか」を消費者行動の客観的把握をもとに解明しようしてきたのに対し,本書は「食消費はどうあるべきか」を問うことに重点を置いた研究書といえよう.

本書は大きく4部で構成される.各章が個別に議論が完結する形をとっていると同時に,全体を通して一貫した問題意識のもとにつながっている.主要な内容は,各部および各章のタイトルに端的に表されている.

第Ⅰ部 食育研究の課題と方法

第1章 食育の系譜

第2章 食育の研究動向

第Ⅱ部 新たな教授法としての味覚教育

第3章 味覚教育の系譜と性質

第4章 味覚教育の教育効果と評価

第5章 味覚教育の推進体制

第Ⅲ部 基底思想としてのガストロノミ

第6章 食遺産としてのガストロノミ

第7章 フランス市民の認識におけるガストロノミ

第8章 味覚の哲学者ピュイゼにおけるガストロノミ

第Ⅳ部 食育理論の構築

第9章 潜在能力アプローチを用いた食育理論の構築

結章 「善き食べ手」を育むための食育へ

第Ⅰ部では,わが国の食育の系譜と研究動向を整理し,今日の食育をめぐる根本的な問題として,「食」が栄養的価値にのみ還元されて教えられる栄養主義的状態から抜け出せず,他者や社会への視点が希薄なままであったことを指摘している.

そうした課題を解決しうる教授法として味覚教育に着目し,第Ⅱ部ではフランスの味覚教育の教授法の可能性を検証している.味の違いがわかるかどうかという狭義の味覚教育ではなく,食の楽しみ,食文化,食環境とのつながりなど食の価値を重視する教授法であるという.

すなわち,味覚教育とは「自己の身体や他者・社会環境との関係構築能力の拡大」を目的として掲げ,「実際の食材の味覚経験や他者との交流経験」を教材とし,「子どもたちの味覚に関する主観性を尊重し,かつ他者との交流を通じてそれを相対化する」方法をもって「味覚の生理的法則およびそれに関連する食の社会文化的性質」を内容として学習させる教授法という.これが日仏伊の3か国に共通することである一方,そこで目指される人間像には違いがあると述べている.

第Ⅲ部では,味覚教育の基底思想をなすガストロノミと,味覚教育の開発者ジャック・ピュイゼの思想に言及している.ガストロノミはエリートの特権文化という見方をされがちであったが,そうした限定的な意味にとどまらないことを,市民へのインタビュー調査やWebアンケート調査の結果をもとに示している.現代フランスでガストロノミという名で価値づけされていたのは,友愛や教養を重んじる食生活であると論じている.

さらに第Ⅳ部では,アマルティア・センの潜在能力アプローチ(CA: capability approach)を応用し,食育における「教育」の性質を深めた理論的枠組みの構築を目指している.センのCAの食育への応用として,CAの諸概念の再吟味,セン自身の「食」と「教育」観の評価,CA教育研究の論点整理およびCAと思想的親和性の高いジョン・デューイの経験主義的教育論による補強といった3段階の分析・考察を経て,食育の性質を規定する5つの定義を導出している.

そして食育とは,子ども達が限られた財(食材・経済的資源)を「善き食生活」に変換するための「食潜在能力」の拡大を目的とする社会的措置である一方,教授法が適切でない場合,それは食潜在能力を縮小しうるため,適切な教授法の条件探索が求められるが,それは少なくとも「財から食機能への変換に影響を与える諸要因の結合関係をより多く認識させ」かつ「子どもたち自身の経験を尊重し」なければならないと論じている.

最後に本書全体の結論として,食育とは善き食生活を不断に「探求」できる食べ手を育むことであるとし,善き食べ手を育むための主な条件を,①体系的かつ思想的に魅力ある教授法の開発,②エビデンスに基づく食育の展開,③推進体制の各レベルにおける「協働」,④日本の食育をめぐる現状認識,⑤善き食べ手=民主的主体へ,として試論を示している.

以上のように,本書は極めて幅広い内容を扱っており,独創的で優れた学術性を持つ.大変興味深く,食を通じた子どもたちの発達が重要との著者の考えに賛同するが,食育研究のさらなる発展という視点から,評者が今後の研究課題として考える点を挙げさせていただきたい.

第一に,本研究では研究対象外とされているものの,幼児期の食育も非常に重要なのではないだろうかという点である.食育は学校教育以外に家庭での重要性も高く,発達段階に応じた食育がどうあるべきかを考える意味でも,幼児期からの食育に関する議論が残された検討課題と思われる.フランスにおいて,主観的意思を尊重する教授法である味覚教育が,幼児を対象とした場合にはどのように実施されているのか,合わせて知りたかった点である.なお,わが国では市町村の乳幼児検診時に,食事に関する資料が配布され,栄養バランスやよく噛んで食べることの重要性,食事の楽しさや家族との心のつながりを深める等の家庭への啓蒙がされているケースがみられる.

第二に,本書では主にフランスを対象に分析されているが,今後はさらに,わが国の文化に適した食育の教授法を開発する研究が期待される.本書で指摘されている通り,食育の実践と効果評価,評価結果に基づく教授法の改善,その実践と再評価という一連のサイクルを構築していくことは,社会的意義が大きいと思われる.また,新型コロナウイルス感染症によるフランスの味覚教育への影響は決して小さくないと想像するが,果たしてどのような状況であるのか,わが国の場合はどうなのかも気になるところである.

第三に,食育により善き食べ手を育むことができれば,フードシステムの見直しにつながるのではないか,という観点からの研究が望まれる.その背景として,2019年にEAT-Lancet委員会報告(Eat-Lancet Commission, 2019)が世界保健機関(WHO)や各国政府に報告され,食生活を変えていくことが目指されており,衆目を集めている.EAT財団と医学誌ランセットによるプロジェクトで各国から参加した研究者37人は,農業や気候変動,栄養学など専門分野が様々であり,栄養疫学的視点に加え,地球の生態系への影響を検討している.持続可能なフードシステムによる健康的な食事への転換を提言し,一大議論を巻き起こしている.

また,フードシステムに関連し,本書で取り上げられているセンのCAの食育への応用研究として,例えば,栄養のみならず生態系や他者・社会とのつながりを認識できる善き食べ手を育むための,具体的な指標を提示する研究が考えうるだろうか.一般的にCAは貧困をはじめ不平等・不利性の問題を扱う理論とのイメージであったため,評者にとって,本書第9章で論じられた食育への応用は理解がやや難しく思われた.けれども,生態系や他者・社会とのつながりの認識の欠如は,不利性の問題ととらえることが可能なようにも思われる.あるべき食育に向けた具体的な指標を示すような,一層の食育研究の進展を期待したい.

本書は,フランス社会のガストロノミを取り上げて議論を展開し,食べることをトータルに考えるための具体的な方法(教授法)として味覚教育を位置づけるとともに,センのCAを応用して食育理論の構築に果敢に挑戦している.食と農,教育について,ダイナミックで示唆に富む内容となっている.ぜひとも多くの方に手に取って読んでいただきたい.

 
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