This study examines home living improvements in postwar Okinawa, focusing on the movement for the abolition of Senkotsu (cleansing remains) and the establishment of crematories. Women’s associations in Okinawa initiated the home living improvement before the government provided official extension services for it. As part of the home living improvement, the Kizyoka Women’s Association (KWA) in Ohgimi village started the movement. Senkotsu was very hard and painful for women, so the KWA proceeded with the movement, and finally a crematory was built. Meanwhile, the movement also spread to other villages. The government began to provide extension services for home living improvement, and home advisors sent to various areas supported the movement of women’s associations.
戦後,日本(本土)は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の占領下に置かれた.「非軍事化」,「民主化」という占領方針の下,さまざまな重要施策が講ぜられた.その一つにアメリカの事業を基とする生活改善普及事業(以下,生改事業と略)がある.1948年に制定された農業改良助長法を根拠法として開始された同事業の目的は,農家生活の改善と「考える農民」の育成にあった.そのために各都道府県に「生活改良普及員」(以下,生改普及員と略)が「設置」された.生改普及員は,農村部で衣食住の改善,因習の打破などを訴えてまわり,生活改善グループ(以下,生改グループと略)を育成し,生活を改善するための技術的方法を教えた.
戦後日本(本土)の生改事業については,生改普及員や生改グループの活動に関する事例研究,そして事業の主管である農林省の方針と自治体の対応に関する研究が行われている1.
戦後の沖縄においては,日本(本土)の事業開始から数年後に生改事業が実施される.我々の究極的な問題関心は日本(本土)と比較して,アメリカによる占領が長期にわたった沖縄において生改事業はどのように行われたのかということにある.
米国統治下における沖縄の生改事業については2つの特徴がみられる.1つは日本(本土)とは異なり,根拠法の制定なしに事業が開始されたということである2.2つ目は,琉球政府3と琉球大学がそれぞれ独自に事業に参与したということである4.琉球政府は1951年12月より,琉球大学は1955年10月より生改事業に取り組んでいる.
しかし実は,戦後沖縄では,琉球政府や琉球大学の生改事業が始まる前より生活改善が婦人会によって行われていた.なかでも特異なのが,因習打破の一環として行われた「洗骨」廃止・火葬場設置運動である.洗骨は沖縄の死生観に基づく風習である.しかし,実際にその「作業」を行う女性達の精神的・肉体的苦痛は大きく,忌まわしい「因習」と考える女性が少なくなかった.そのために早急に改善すべきものとされたのである.しかし,こうした婦人会の動きを取り上げた論考はきわめて少ない.
本稿では,戦後沖縄の生活改善,とくに婦人会によって実施された洗骨の廃止および火葬場設置運動の実態を明らかにする.さらに,婦人会の生活改善と琉球政府による生改事業との関わりについて検討する.
1945年3月26日,米軍が慶良間諸島に上陸する.米軍は「米国海軍軍政府布告第一号」(ニミッツ布告)を発し,戦闘中にもかかわらず沖縄の統治を開始する.1945年6月23日,日本軍による組織的な抵抗は終わり,米軍による本格的な占領統治が開始される.戦闘を避けて山の中に逃げたり,壕にひそんでいた人々は米軍の収容所に送り込まれた.食料不足や衛生環境の悪さを耐え忍んだ人々は,同年10月頃から徐々に元の居住地に移動をはじめる(中野・新崎,1976:pp. 13–19).「生きることにもどうやら方向が見出せるようになつた頃から自発的に各部落毎に婦人会」が結成される(沖縄県婦人連合会,1957a:4).戦後の沖縄の婦人会は,官の都合に応じて結成されたわけではないのである.男性の不在を補い,生活を立て直すためであった.
戦後沖縄の婦人会は,結成当初より生活改善に力を入れた.例えば,東風平村字当銘では,「字の経済的向上を図る」ために「虚礼廃止」に取り組んでいる(うるま新報社,1951).虚礼廃止は,婦人会の生活改善における重要項目の一つであった.因習の打破も同様であった.その一環として行われたのが「洗骨」廃止・火葬場設置運動である.
洗骨とは骨を洗い浄める行為である.「チュラクナスン(美しくする)」,「カルクナスン(軽くする)」などともいわれる.一般的な方法は,次の通りである(沖縄県立博物館・美術館,2015:p. 28).
①棺を墓室内の「シルヒラシ」と呼ばれる場所に納め,遺体を白骨化させる.
②死後3~7年目に墓から遺骨を取り出して水で丁寧に洗い,布で拭き清める.
③骨を厨子甕に入れて墓に納める.
こうして一連の「作業」が終わると,死者は「後生」(あの世)に行くことができるとされている.
地域によって時期や方法などは異なるが,洗骨は沖縄本島,宮古,八重山,奄美でひろく行われていた葬送の風習である(名嘉真,1968:pp. 30–31).
実際に墓から取り出された骨を洗うのは,一部の地域5を除き女性の役割であった(名嘉真,1969:p. 55).洗骨は長く続く風習であったが,骨を直接手に取って洗う「作業」は精神的・肉体的な苦痛を伴った.まず,棺を開けて白骨化した遺体を見ることにより,故人の生前のイメージが損なわれるということが挙げられる.通常は死後3~7年後に行われることが多かったが,不幸が続いた時は墓室を空けるために,通常の時期よりも早く行う必要があった.その場合,遺体はまだ完全に白骨化していないため,骨に付着している肉を刃物などで削り取らなければならなかった(長田,1955:p. 108).多くの女性にとって洗骨は忌まわしい風習だったのである.
洗骨を因習ととらえていたのは女性だけではなかった.戦前の県当局,警察,有識者なども同様であった.しかし,彼らは女性を苦しみから解放するために洗骨の廃止を目指したわけではなかった.あくまでも沖縄の「ヤマト化」のためであった.明治30年代の「風俗改良運動」以降,刺青,琉装,方言といった沖縄土着の文化は「悪習」とみなされ,その改善が進められていく.その動きが洗骨の廃止に及ぶ契機となったのが 1937年の日中戦争の勃発である.「非常時局」に対応するため,生活改善の気運が高まり,1938年8月28日に「沖縄県生活更新協会」が設立される.理事には市町村の助役や学校関係者,顧問には貴族院議員の伊江朝助,衆議院議員の漢那憲和などが名前を連ねている6.同協会の設立を機に,県民生活のさまざまな面の「徹底的改革」が行われるようになる(沖縄県生活更新協会,1939:pp. 3–4).さらに,時局に応じて沖縄の土着文化の一掃に拍車がかかる.沖縄県警察部は「衛生方面」,「経済問題」から「墓地埋葬」と共に「弊風」である洗骨を「火葬に改めさせ」ようとしている(琉球新報社,1939).しかし,上から強制的に洗骨を廃止させることは困難であった.洗骨は沖縄の人々の死生観と深く結びついた風習だったからである.
(2) 洗骨廃止・火葬場設置運動―大宜味村喜如嘉婦人会の事例― 1) 喜如嘉の洗骨習俗喜如嘉は沖縄本島北部,大宜味村に属する「部落」(「字」・「区」)である.喜如嘉では洗骨のことを「シンクチ」といい,遺体を墓に入れて白骨化させることを「クチギレー」といった.喜如嘉における洗骨の方法は次のとおりである(平良,1970:p. 86;福地,1978:p. 47).
①棺を本墓の側に設けられている「シルピラシドゥクル」(遺体を白骨化させる場所)に納める.
②2~3年後に棺を取り出し,日傘をさして墓庭で海水(逆水)をかけながら布切れを使って骨を洗う.
③洗い終えた骨は,「チブ」(壷)や「ジシガメ」(厨子甕)に入れて本墓に納める.
洗骨をするのは「家族や近い親類の中年婦人,或いは家族の長女」であった.通常は2~3年後に行われることが多かったが,「村墓では死体を納棺する回数が比較的多いので,一年を過ぎて腐った死体はそのつど」洗骨をする必要があった(平良,1970:p. 86,91).1年程度で墓から棺を出すときは,遺体が完全に白骨化していないことがあった.そのような場合でも,女性達は辛い思いを必死で抑えながら洗骨をしなければならなかった.
2) 洗骨廃止・火葬場設置運動洗骨廃止・火葬場設置運動は昭和初期に大宜味村全体の運動として始まった7.1933年に県外や海外で生活経験のある女性を集めて村で「座談会」が開かれる.喜如嘉尋常高等小学校の「訓導」(大宜味村立喜如嘉小学校・創立百周年記念事業期成会,1988:p. 115)宮里悦8が,「郷土を離れてはじめて郷土のよしあしがはっきりわかるといわれるが,あらためるべき事があったら教えてほしい」と切り出す.すると,開口一番「洗骨の風習を改めてほしい」という意見が出される.女性達の意見を受け,大宜味村婦人会9は洗骨廃止・火葬場設置の運動を始めることを決め,次のような声明を出す(宮里,1976:pp. 611–613).
一 洗骨は沖縄独特の風習である.
一 洗骨によって,生前の肉親の美しいイメージがぶちこわされる.
一 非衛生的であり,ときには腐蝕しない肉体の部分もあって,棺を開けるまでの精神的苦痛はたとえようもない.
一 (前略)婦人だけが,洗骨のすべてを引き受けなければならないことは不合理である.火葬は最適である.
婦人会は,「村内をくまなくまわって火葬の必要性」を説いた.宮里らの説得により「理解者」や「賛成者」は少しずつ増えていった.しかし,太平洋戦争の勃発により運動は中断せざるを得なくなる(宮里,1976:p. 613).
沖縄戦の最中,大宜味村などの北部の住民は山中に避難した.米軍の攻撃や食糧難に耐え,住民が下山したのは1945年の7月中旬であった.下山後,栄養失調やマラリアなどが原因で死者が続出する(福地,1975:p. 207,214).新たな死者の棺を墓に入れるためには,その分の場所を空けなければならない.そのために洗骨が頻繁に行われることになる.下山から約1年後,喜如嘉婦人会の元会長大山幸は宮里の元を訪ね,火葬場設置運動の再開を訴える.洗骨の廃止を願う喜如嘉の女性達の切実な声を受けてのことであった(宮里,1986a).宮里は大山の申し出を快諾し,運動を再開させる.
しかし,宮里らの懸命の努力にもかかわらず,火葬場設置運動は,全村的な運動にはならなかった.いずれの「部落」も火葬に反対する者が多く,女性の声に耳を傾けるものは少なかった.
火葬に強く反対したのはおもに男性,とくに老人達であった.彼らは洗骨の直接的担い手ではなく,その辛さを理解していなかった.彼らが火葬に反対したのは,後生に行けなくなるという怖れ,自分の肉体が焼かれるという恐怖心からであった10.
喜如嘉婦人会だけが,そうした情勢にくじけることもなく,運動を継続する.喜如嘉婦人会は,区の代議員会11へ何度も火葬場の設置を提案する.1949年5月,ようやく代議員会で火葬場の設置が決議される.
しかし,火葬場の建設はなかなか実行に移されなかった.その一方で,製材所や精米所などの区の共同施設は次々と建設され,落成祝が開催されることになった.婦人会は祝賀会への参加を拒絶する.火葬場が設置された時に一緒に行うべきであると主張したのである(平良,1965:p. 21).女性達の強硬な態度を受け,喜如嘉の男性達は再度検討を始める.1951年9月9日,代議員会において火葬場に関する「再審議」が行われ,「本年度中に設置することに満場一致可決」する(喜如嘉誌編集委員会,1996:p. 85).いよいよ建設ということになり,区長の福地景二や宮里らが沖縄群島政府12に「助成金要請」を行うが,予算の問題から断られる(宮里,1986b).そのため,出稼ぎ者からの寄附や,婦人会や青年会の共同作業による資金調達が行われた.区民の努力の結果,喜如嘉区営の火葬場が建設され,1951年12月27日に竣工式が行われた(沖縄タイムス社,1951).総工費は15万1,255B円13であった(喜如嘉誌編集委員会,1996:p. 95).喜如嘉の区営ではあったが,他区の住民も利用できた.火葬場の設置により,女性達は長年にわたる洗骨の苦しみから解放されたのである14.
3) 喜如嘉の女性の運動基盤洗骨という長年の風習を変えること,火葬場という死を直接連想させる建物を「部落内」に受け入れるということに対してはかなりの葛藤があったと考えられる.しかし喜如嘉にはもともと新しい考えや文化を積極的に受け入れるという土壌があった15.
また,他の「部落」と比べると,喜如嘉の女性は「部落」や家の中でかなりの発言力を有していた.その背景にあったのが,女性の社会的意識の高さであり,経済力であった16.
かつて喜如嘉の女性は,村政の民主化運動(1931~1933年)にたずさわった.当時,18歳から25歳の女性のほとんどが,同年代の男性と隊伍を組んで「大宜味村政革新運動」に参加した.官憲の過酷な弾圧によって運動は敗北に終わるが,その記憶はいまだ彼女達の心の中に残っていた.なかには,投獄された経験を持つ女性もいた17.
喜如嘉は土地に恵まれず,農業生産力は低かった.「芭蕉布」と「畳表」の生産以外に現金を得る手段はなかった(中里,1954:p. 59).これらの生産を担ったのが女性であった.代議員会は,かつての同志であり,重要な稼ぎ手でもある女性の声を無視することはできなかったのである.こうした喜如嘉の動きは,他の地域に大きな影響を与える.
沖縄で行政主体の生改事業が開始されるのは1951年12月である.同月,琉球農林省18に事業の専任課として「生活改善課」が設置され,生改普及員26名が採用される(琉球農林協会,1955:p. 20).生改普及員は,沖縄本島,宮古,八重山,奄美に配置された.全て女性であった(琉球政府資源局農業改良課,1952:pp. 15–16).生改普及員は,婦人会の洗骨廃止・火葬場設置運動に関与することになる.以下,玉城村,今帰仁村,国頭村の事例を取り上げる.
(1) 島尻郡玉城村玉城村(現・南城市)は,喜如嘉の動きに強い影響を受け,早々に洗骨廃止・火葬場設置運動に着手する.とくに熱心に取り組んだのが,神里有子会長に率いられた玉城村婦人会であった.
1952年,婦人会が生改普及員となっていた宮里悦を招いて懇談を行う.喜如嘉の火葬場設置に深く関与していた宮里から,実際の経験談を聞く機会を設けたのである.懇談の結果,村に火葬場を設置することに決定する(沖縄タイムス社,1952b).この決定を受け,村では喜如嘉の「模範的な火葬場」を視察し,それをもとに設計が行われた.さらに,村の議員,各区長,婦人会長,青年会長らが「促進委員」となり,ハワイ,ペルー,ブラジルなどの海外在住の同村出身者に呼びかけて建設資金を募った(琉球新報社,1952).資金集めは,村長の石嶺眞誠や神里会長が中心となって行った(玉城村婦人会編集委員会,1986:p. 66).火葬場の建設着工は1952年11月22日,竣工は翌1953年1月20日であった.建設費は15万1,096B円であった(金城,1977:p. 586).火葬場の設置後もその利用に抵抗感を持つ者は少なくなかったが,徐々に理解され普及していった(玉城村婦人会編集委員会,1986:p. 112).
(2) 国頭郡今帰仁村今帰仁村の担当となった生改普及員は大城喜代19である.大城普及員は,「行事の改善」,「ユタの廃止」などに加え「火葬場の設置運動」に重点を置いた活動を行う(沖縄タイムス社,1952a).しかし反対者が多く,運動は順調には進まなかった.ここでも男性,とくに老人に反対者が多かった.
今帰仁村で火葬場設置運動が再燃するのは1958年になってからである.村長が「火葬場造設を予算化するので協力して欲しい」と今帰仁村婦人会に要請したことがきっかけであった.婦人会は「良いことだ」として村長の要請を引き受ける.「戦時中,野や山に葬った人達の後始末の体験」をした女性達にとって,「火葬場は是非必要」なものであった.しかし,多くの村民は「焼かれるのが嫌」という理由で反対した.そのため,婦人会は先ず「部落」の集会や茶飲み話の中などで「世論」を起こすことに尽力した.さらに当時,新生活運動の一環として火葬場設置を推進していた嶺井百合子20を招き,各「部落」で懇談会を開いた.それでも反対者は多かった.なかには「村長と婦人会長を先に焼け」と過激な発言をする者もいた.婦人会の会員は,年寄から「親を焼く親不孝者」と罵られ,夫からは「余り口出しするな」と叱責された(沖縄県婦人連合会,1981:pp. 144–145).そうした声に屈することなく,婦人会は火葬場設置に対する理解を得るために地道な活動を続けた.その結果,1959年に「近代的な火葬場」が2,200ドルで建設され(琉球新報社,1959),7月28日に竣工する.反対の多かった火葬場設置運動であったが,建設から2~3年後には村民の不満や抵抗はほぼなくなった(沖縄県婦人連合会,1981:p. 145).
(3) 国頭郡国頭村国頭村は沖縄本島の最北端に位置している.1947年4月23日,「全島に先がけて国頭村婦人会が結成」される.初代会長は宮城カナ21であった(宮城,1983:p. 26).宮城は自らが先頭に立って生活改善に熱心に取り組んだ22.行政府が生改事業を始めると,宮里悦普及員の指導を受けながら,カマド改善や行事の簡素化などを行った.1953年には,「村で初のモデル生活改善グループを結成」している.さらに,1956年からは生改グループの未結成地域を回り,グループの結成を促した(「戦後50年おきなわ女性のあゆみ」編集委員会,1996:p. 94).その結果,「村各区毎に生活改善グループ」を60組つくることに成功する(沖縄県婦人連合会,1957b).
生活改善の一連の過程で「特に大きな課題」として浮上したのが「火葬場建設」である.火葬場の建設は「全婦人たちの願い」であった.こうした気運の高まりは,隣の大宜味村の火葬場設置運動や,運動の中心人物であった宮里の指導も影響していた23.宮城は自らが中心となり,女性の声を結集して村当局や議会に訴え続けた(「戦後50年おきなわ女性のあゆみ」編集委員会,1996:pp. 94–95).宮城ら婦人会の訴えは村や議会を動かすことに成功する.1964年に火葬場の敷地が決定し,1965年に工事入札が行われた.1966年5月25日に村営火葬場が竣工した(沖縄県国頭村議会・国頭村議会史編纂特別委員会,2009:pp. 180–181).
上述したように,喜如嘉の火葬場設置運動は,他の地域へと波及していった.運動の中心となったのは婦人会であった24.婦人会の運動を支えたのが1951年12月に各地域に配置された生改普及員であった.生改普及員は衣食住等の知識や技術の普及と共に,行事の簡素化や因習の打破に取り組む.婦人会は生改普及員らの協力を得て,多くの女性にとって忌まわしい風習であった洗骨を廃止し,火葬場の設置を実現させたのである.
沖縄では戦後間もなく,各地域で「自然発生的」に婦人会が結成され,生活改善が行われた.因習打破の一環として行われたのが洗骨廃止・火葬場設置運動であった.洗骨は一部の地域を除き,女性が行うものとされた.洗骨を行う際の精神的・肉体的負担は大きく,その廃止は多くの女性の切実な願いであった.
戦前,県当局は洗骨の廃止を唱導した25.しかし,その目的は沖縄の「ヤマト化」であり,上から強制的に進められたことから沖縄の人々には浸透しなかった.その一方で,大宜味村では宮里悦を中心に,婦人会員らが住民に対して地道な説得を行った.その運動も太平洋戦争の勃発によって中断を余儀なくされる.
戦後,再び大宜味村で洗骨の廃止と火葬場の設置運動が始まる.戦前同様,宮里を中心に,女性達が各「部落」でその必要性を説いてまわった.しかし反対する者が多く,住民の賛意を得ることはできなかった.運動は次第に尻すぼみになっていった.唯一,喜如嘉の婦人会だけ,その熱意は変わらなかった.運動を継続し,婦人会は区の代議員会に対して何度も火葬場の設置を提案した.その努力が実り,ついに「部落内」に火葬場が建設されるのである.1951年のことである.その後,1971年に村営となるまで,火葬場は喜如嘉の人々によって管理・運営がなされる.
喜如嘉の運動は,他の地域に波及する.本稿では玉城村,今帰仁村,国頭村の事例を取り上げた.喜如嘉同様,これらの村においても婦人会を中心とした洗骨廃止・火葬場設置運動が行われた.婦人会は火葬を拒絶する人々の説得,資金集めなどを実施した.
1951年12月,「琉球農林省」に「生活改善課」が設置される.それと同時に生改事業が発足し,生改普及員26名が各地に配属される.生改事業においても,因習の打破は重要な改善項目であった.生改普及員は,婦人会とともに,洗骨の廃止と火葬場設置の必要性を説いて回るようになる.
1952年以降,各地で生改グループが続々と結成される.生改グループにおいても,因習打破の一環として洗骨の廃止と「火葬」が活動に組み込まれていく.例えば,国頭郡恩納村において1953年に結成された「恩納生活改善グループ」では,グループ活動の課題のひとつとして洗骨の廃止と「火葬」をかかげている26.
こうして,喜如嘉婦人会の先駆的な活動(生活改善)は,他地域の婦人会に対してだけではなく,生改普及員の指導内容や生改グループの活動すなわち生改事業にも影響を与えたのである.
本稿は「2018年度稲盛財団研究助成」および「科学研究費助成事業(19K06274)」の研究成果の一部である.
火葬場設置は婦人会や市町村が主導する形で進められた.「中央政府」は火葬場建設のための補助金申請があっても財政難の故か当初は冷淡な態度に終始した.しかし洗骨の廃止や火葬場の設置について無関心だったわけではないようである.例えば「第十二回沖縄群島議会」(1951年12月13~21日)で「沖縄群島墓地,埋葬等に関する条例制定について」(知事提出議案)が審議されている.当議案では「洗骨の廃止」や「火葬場設置」について具体的言及はないが,審議を付託された「第二部委員会」委員長の玉城泰一(群島議員)が,洗骨は「非衛生的であるから」「将来火葬を奨励して欲しい」と発言している(沖縄県議会,1996:pp. 332–333).