農林業問題研究
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個別報告論文
農山漁村経済更生運動における農事実行組合の活動実態
―島根県鹿足郡柿木村の事例―
花﨑 雪井上 憲一中間 由紀子
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2023 年 59 巻 4 号 p. 173-180

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Abstract

The Movement for Rural Reconstruction (Nosan-Gyoson-Keizai-Kosei-Undo) was carried out to uplift Japanese rural areas impoverished by the Showa Depression. The main rural executive organizations involved in the movement were agricultural execution associations. This study examines the activities of agricultural execution associations by focusing on Kakinoki Village in Shimane Prefecture. Agricultural execution associations were organized in each hamlet, and various plans were made to improve agricultural production and home living. In particular, the organizations worked on punctuality, tax payments, and savings. Kakinoki’s movement improved agricultural production and home living, and strengthened solidarity among rural residents. It also provided women with opportunities for public participation. This was a consequence of a movement based on subsistence agriculture.

1. はじめに

1929年のニューヨーク株式市場の株価大暴落に端を発した金融恐慌は,世界の資本主義国に波及して大恐慌となった.日本もその影響を受けて昭和恐慌が起った.とくに農業分野(主に米と養蚕)への打撃が大きく,各地の農村を疲弊させた.この恐慌に対して日本政府が講じた農村救済政策の一つが1932年から開始された「農山漁村経済更生運動」(以下,更生運動)である.農林省の主導の下,各道府県において,「農村」,「山村」,「漁村」に区分された「指定町村」が選定された1.指定町村は,運動の着実な遂行のために更生計画を作成した.「実行団体」とされたのは,運動の末端組織に位置付けられた農事実行組合(以下,実行組合)2であった.実行組合は,町村の計画に応じて「部落」計画を策定して活動を行った.

更生運動についてはこれまで多くの研究が行われている.代表的なものとして,更生運動とファシズムとのかかわりに関する研究がある.森(1971)は,更生運動を「日本ファシズムの人民支配体制形成」の「原点」であると捉え,その担い手の中心は中農であるとした.一方,高橋(1974)は貧農を含んだ全農民,小峰(1978)は在村中小地主が運動の担い手であったと指摘している.これに対して,庄司(1986)は,「厳密な運動史」としての研究の必要性を説いている.庄司の問題提起を受けて今田(1991)は,「農林省・道府県・町村の各段階における分析と三者の対照」を行い,運動の全体像に迫っている.さらに,近年は農村開発政策としての定量的評価(有本,2010),政策執行における集落の機能についての検討(坂口,2012),更生運動下の青年期教育の特徴と意義の解明(坂口,2015),官製運動の日常生活および民俗慣行への介在に関する考察(和田,2021)等,さまざまな視点から更生運動に対するアプローチが行われている.

しかし,既存研究では実行組合の活動に関する考察はほとんどみられない3.更生運動の実態に迫るためには,運動方針や町村更生計画の内容を検討し,それに応じて実行組合がどのように計画を作成して活動を行ったのかについて明らかにする必要がある.さらに,既存研究は東日本を対象としたものが中心であり,なかでも養蚕地帯を取り上げたものが多い.その一方で,西日本の地域を対象とした研究は少ない.更生運動の全体像を把握するためには,西日本を含めた事例研究の積み重ねが必要である.

本稿は,更生運動における実行組合の計画および活動の実態について明らかにする.そのために,第一に農林省の方針について検討する.第二に農林省の方針に応じ,指定町村において更生計画がどのように策定されたのかを検討する.第三に,実行組合の計画内容および活動実態について明らかにし,更生運動が農村の経済や生活に与えた影響について考察する4.研究対象として更生運動の「模範村」に選定された島根県鹿足郡柿木村(現吉賀町)を取り上げる.

2. 農林省の農山漁村経済更生計画樹立方針

昭和恐慌は,日本経済とくに農村に大きな打撃を与えた.主要産物である米と繭の価格の暴落は農家経済に深刻な影響をもたらした.疲弊した農村の救済のため,帝国農会等各種団体から「救農議会」の開催の請願がおこった.1932年の8月から9月にかけて第63帝国議会が開かれ,更生運動の実施が決定された.運動の主管として農林省内に総務,産業組合,金融,副業の4課からなる「経済更生部」(部長・小平権一)が新設された.10月6日,農林省は地方自治体に対し「農林省訓令第二号」として「農山漁村経済更生計画ニ関スル件」を公示する(更生部,1933a:pp. 2–4).これは運動の「根本方針」を示したものであった(農林省,1932:p. 4).すなわち,更生運動の目的は,農山漁家の「自奮更生」の促進と農村部落の「隣保共助」の精神の活用により,農山漁村の「産業及経済」を「計画的組織的」に「刷新」することにあるとした(更生部,1933a:pp. 2–3).

農林省は12月2日に「農山漁村経済更生計画樹立方針」を策定する.同方針は訓令に即して,指定町村が計画を樹立するにあたっての「綱要」を示したものであった.農林省は町村計画の樹立,実行および指導督励を担う機関として,各道府県に「町村経済更生委員会」を設置すべきとした.委員は,町村吏員や学校教職員,農会や産業組合の関係者等,「町村ノ主要ナル人物」を網羅して組織することとされた.町村の「経済更生計画ノ基礎的実行機関」とされたのが「農事実行組合」と「養蚕実行組合」であった.「実行団体」としてとくに重視されたのが実行組合であった.さらに,運動の主要な実施項目は,農業経営の集約化・合理化,支出の節約,経営の多角化の三点とした.ただし,各町村には,方針に掲げた12項目5から実状に即したものを取捨選択して「最モ適切ナル経済更生計画ヲ樹立実行スルコト」を求めた.また,販売,購買等の「経済行為ノ実行ハ産業組合」を主として行うこととした.そのために,実行組合等の「実行機関」を「産業組合ニ加入」させ「之ト一体ヲ為」すべきであるとした(農林省,1932:pp. 7–13).

1933年3月10日,農林次官・石黒忠篤より地方長官宛に通牒が出される.その内容は「計画ノ実行ヲ確実」にするため,町村計画の下に「部落計画(実行組合ヲ含ム)」およびその基礎となる「個人計画」の作成を指示するものであった(更生部,1933b:p. 5).

3. 島根県鹿足郡柿木村の農村経済更生運動

島根県は,1933年1月に「農山漁村経済更生計画樹立指針」を策定する(島根県,1933).その内容は「農林省「農山漁村経済更生計画樹立方針」ニ準ジ」たものであった(更生部,1933a:p. 270).同指針を受け,指定町村6(1932年度・23町村)は更生計画を作成して活動を開始した(更生部,1936a:pp. 103–106).その一つが鹿足郡柿木村である.

(1) 柿木村の概況と恐慌の影響

柿木村は島根県の最西に位置し,7つの大字(柿木,福川,椛谷,白谷,下須,大野原,木部谷)からなる.村の面積の98.8%を山林が占め.高津川水系に沿って僅か1.2%の狭小な耕地がある(柿木村誌編纂委員会,2003:p. 84,131).1932年の人口は3,294人で,戸数613戸のうち494戸が農業に従事していた(柿木村役場,1933a).農家の階層は,自作農202人,自作兼小作180人,小作112人であり,小作地の約8割は在村地主が所有していた.土地所有は1町歩以下が8割を占め,そのうち5反歩以下が6割を超える(柿木村役場,1933b).農家は米や麦の他,副業として養蚕や木炭,製紙原料等の生産を行っていた.なかでも林産は農産に匹敵する生産高を占める重要な部門であった7.林産の中心を占めたのが製炭であり,多くの朝鮮人労働者8が従事していた.

昭和恐慌は,農村に「殺人的不景気」をもたらした.柿木村も例外ではなく,村全体の農業生産額は,1929年に231,919円だったものが1932年には122,311円となり,一戸当たり392円から199円に減少した(柿木村役場,1933a).この恐慌は「人心ノ緊張」をもたらすと同時に,村民の「勤勉心」や「自ラ産業」を「増殖」しなければならないという意識を高めた9柿木村役場,1932).

柿木村は1932年度に更生村(農村)の指定を受ける(更生部,1936a:p. 105).1933年1月4日,「柿木村経済更生委員会」(以下,村更生委員会)が設置された(富民協会,1935:p. 66).会長に村長の齋藤長太郎,副会長には産業組合長の西山茂が就任した.委員として20名が選任され,幹事と書記は役場吏員が務めた(柿木村,1933a).委員の職業は,産業組合や農会関係者,学校関係者,村議会議員,僧侶,神主,農家であり,村の主要人物を網羅していた.

(2) 柿木村の農村経済更生計画

村更生委員会は,1933年2月15日に「農村経済更生計画」(5ヶ年)を作成した(富民協会,1935:p. 66).総説の冒頭には,「自己ノ努力,自己ノ全力」を信じ,「和協」を以て数年後に必ず「更新ノ実」を挙げるという決意が示されている.さらに,具体的な実践については次のように記されている(柿木村,1933a).

元来農業ノ経営ハ営利本位ニアラズシテ,生産厚生本位タラシメ労働ヲ尊重シ勤労ヲ尽シテ多角形経営トナシ,生産ノ増加ヲ計リ,作リテ食ヒ余剰アレバ売リ,売リタル財貨ハ度ヲ計リテ買ヒ,常ニ生活ノ充実ヲ目標トシ,営利ヲ眼中ニ置カス孜々トシテ働キ,自給自足乃至入ルヲ量リテ出ルヲ制スルヲ以テ目標トナスニ於テ,不知不識ノ間ニ余剰ヲ生シ,負債ノ償却貯蓄増成ヲ来タスベシ(一部読点および下線は筆者による.以下同断.)

勤労と多角経営による収入の増加と自給自足による支出の節約によって金融の改善を図ることが示されている.一方で,農業は自家の生活を豊かにするために食糧を生産するものであるととらえている.そのために,商品生産を前提とした農業生産ではなく,自給の延長上に位置づけられた農業経営によって改善を図るべきであるとしている.また,「指導及実行単位」として「農事実行組合ノ組織化」を図り,「産業組合トノ連係ヲ強固」にすべきであるとした.

上記の目的に基づき,具体的な改善項目として以下の5つが掲げられた.

①土地の改良,分配,整理其他一般計画

②農業生産改善計画

③農業経営の改善計画

④農家経済の改善計画

⑤其他(社会的教育的文化的施設)

「①土地の改良,分配,整理其他一般計画」では,開墾や自作農創設等によって耕地面積の拡張を図ることとしている.

「②農業生産改善計画」は,稲作や麦,養蚕,畜産等の農業生産と,製紙原料や木炭,山林経営等の林産物の副業を合わせて15の改善項目がある.稲作を中心に山林経営を副業としてきた村の農業生産体系に,自給肥料の生産を主目的とする畜産を加えた多角経営が計画されている.さらに,各品目で品種の統一や栽培方法を改善することによって収量の増大を目指している.

「③農業経営の改善計画」の主目的は農業生産費の節減である.その手段として産業組合10の共同利用,自給肥料の改善,増産や飼料の節約,共同設備の利用等が挙げられている.

「④農家経済の改善計画」には,農家生活の改善項目と金融改善について示されている.農家生活については,漬物や調味料の「改善増産」,生活品の共同購入等が掲げられている.また,台所改善等の「生活改善」の実行機関として「婦人会」が明記されている.金融改善については,「負債償還」のために生産増加や支出の節約を行うべきであるとしている.さらに「金融方法ノ改善」のために「産業組合信用部」の利用を推奨している.

「⑤其他(社会的教育的文化的施設)」では,部落集会,時間励行,納税の励行等,主に部落の共同生活に関する改善が取り上げられている.また,「本村農業ノ振興ニ貢献セシムル」ことを目的として「婦人会ノ活動」が項目に掲げられ,「村農会技手」による「指導督励」等が行われることになった(柿木村,1933a).

柿木村では,村の中心人物を網羅して経済更生委員会を結成し,上記の5項目を基本とする計画を作成した.この計画に基づき運動が実行に移される.

(3) 農事実行組合の計画と活動実態

1) 農事実行組合の計画

柿木村の運動において最初に行われたのが,「指導及実行単位」に位置付けられた実行組合の組織化であった.実行組合は「従来の小組制度を基礎」として結成することとされ,「部落」(小字)がその基盤となった(日紫喜,1936:p. 67).その組織化に尽力したのが,村更生委員会会長である村長の齋藤長太郎11であった.齋藤の働きかけにより村内で39の組合が設立された(西島,1937:p. 71).実行組合は産業組合に加入し,その下部組織となった12.産業組合の「信購販利の諸事業」は「すべて実行組合を通じて行ふこと」が「原則」とされた(日紫喜,1936:p. 68).

1933年8月,役場,産業組合および農会により「農事実行組合理事会提出計画実施案」が作成された.実施案には個人計画を立てる上での注意事項等が記載されている.個人計画作成上の「方針」については下記のように述べられている(柿木村,1933c).

各家個々ノ実状ヲ観察洞視シテ各個ノ計画ヲ組合員総体ノ協議ニヨリテ之ヲ定ムルコト

個々ノ計画ニ就テハ可成家内総動員ニヨリテ組合家族ノ会合ヲ求メ協議ニ参加セシムルコト少クモ主婦及相続人タルモノバ必ス参加スルヲ要ス

個人計画は「各家個々ノ実状」をふまえた上で「各個ノ計画ヲ組合員総体ノ協議」によって定めることとしている.計画の作成に当たっては,「組合家族ノ会合ヲ求メ協議ニ参加」させることを求めており,少なくとも「主婦及相続人」は必ず参加させることとした.計画の実行にあたっては,「時間ノ励行納税貯金等ニ重心」を置くこととされた(柿木村,1933c).

2) 亀田農事実行組合の事例

実行組合の一例として,柿木村大字福川の亀田組を取り上げる.亀田組は,1933年9月に従来の「組制度」を廃して「亀田農事実行組合」(以下,亀田農組)を設立した(亀田農組,年不明b).亀田農組では,村の更生計画に基づき組合員によって個人計画(5ヶ年)が作成された13.個人計画は「目標」,「実行方法」等で構成され,具体的な実施項目は,農業生産と農家生活に関するものに大別される.農業生産面については,ほとんどの農家が稲作,麦作,養蚕,製炭の増産目標を掲げている.稲作は「手間肥」を施して多収穫と品質向上を目標にしている.麦は自家用として栽培することにしており,養蚕は春秋2回の収繭と桑畑の改良によって増収を図っている.製炭は平均で年に200俵ほどの生産を目指している.自給肥料の製造を目的とする畜産は全戸が掲げ,家畜の種類は畜牛と養鶏に分かれている.上記の他,「炭俵アミ」と「購買販売」も多くの農家が実施項目として掲げている.「炭俵アミ」は自家用も兼ねた副業として,「婦人の仕事及夜業」とされた.「購買販売」は「総テ産業組合ヲ利用」することを目標とした.他方,農家の生活面については全戸が「時間励行」,「協力親密」,「規約尊重」を掲げている(亀田農組,年不明a).

亀田農組は計画に基づき活動に着手する.「産業組合ヲ利用シ得ルモノハ総テ産業組合ヲ通シテ之ヲ行フモノ」とされたことを受け,1933年10月に産業組合に加入し,共同販売等を行うようになる(亀田農組,年不明b).また,組合内に「林業部及貯蓄納税組ノ事務部」が設置された.さらに,10月1日の集会では,「本組合ハ時間厳重ニナシ集会ニ無断欠席セザル事」が示され,改めて時間励行の徹底がなされた.12月23日の集会では,納税についての決議がなされ,資金積立のため「婦人会ハ毎月炭俵」を作ること,「毎月一回産業組合ノセッケン」を販売することとされた14.この他,犢運動場,木炭倉庫,稚蚕共同飼育場の設置にも取り組んだ(亀田農組,年不明c).

亀田農組の活動は村内で評価を受け,組合長の斎藤富十郎は1935年に模範組合長として表彰を受けた(柿木村組合,1936).さらに翌1936年には,村の優良組合として表彰された(柿木村組合,1937).

(4) 運動の結果

柿木村では,実行組合が中心となって更生運動に取り組んだ.村の計画で掲げられた5項目の成果は次に示す通りである.

第一に「土地の改良,分配,整理其他一般」についてである.耕地の拡張は,1935年の時点で開墾により8町歩,自作農創設により10町4畝歩の農地を確保するに至っている(富民協会,1935:p. 68).

第二は「農業生産改善」である.計画で重視された農産物の品種の統一は,郡農会を通して行われた(柿木村農会,19341937).その結果,水稲の奨励品種の栽培は8割にのぼった(富民協会,1935:p. 68).これらの品種は実行組合が柿木村農会を通して共同購入を行った.収量の増大については,1935年の時点で稲作が目標の8割,養蚕,楮皮,木炭は6割の達成率であった.とくに稲作は,風水害15等を受けながらも大幅な減収には至らなかった.増産の取り組みが減収を食い止めた一因であったと考えられる.一方,畜産については,牛および鶏のいずれも飼育頭数・羽数に大きな伸びはみられなかった(柿木村役場,1934a柿木村,1936).

第三の「農業経営の改善」では,産業組合の購販事業に重点が置かれた.事業成績をみると,購買事業については,1931年に19,299円(信用組合,1932)であった「売却高」は,1937年には61,267円に増加した(柿木村組合,1938).これは,肥料や飼料といった農業資材や調味料の販売量および組合員数の増加によるものと考えられる.農産物の販売事業は木炭を中心に行われ,1934年には「組合員生産ノ九割ヲ統制」した(信用組合,1935).「販売金額」も36,389円(1931年)から101,126円(1937年)となり大幅に増加した(信用組合,1932柿木村組合,1938).

第四の「農家経済の改善」において大きな成果を挙げたのが調味料や漬物の改善である(富民協会,1935:p. 68).とくに漬物の改善は,自給品の生産により支出と時間の節約を図ったものであった.柿木村農会技師の西島亀男は,講習会等を通じ,農家の女性達に対して自身が考案した漬物法の普及に努めた(日紫喜,1936:p. 69).さらに,漬物の改善を契機として女性達は漬物の材料となる「蔬菜栽培」に熱心に励むようになっていった(更生部,1935:pp. 29–30).こうした取り組みにより,全組合員の総貯金額は,107,452円(1931年)から272,590円(1937年)に増加した(信用組合,1932柿木村組合,1938).

第五の「其他(社会的教育的文化的施設)」においてとくに重点がおかれたのが時間励行と納税の励行であった.時間の励行は「板木」の設置によって行われた.これは,「各戸に一つ宛板木を設置」し,「起床,昼食,就寝その他集合等」の予定時間になると一斉に「板木を打つ」という取り組みであった.納税については,完納した実行組合に「完納旗」や「奨励金」を交付した(西島,1934:pp. 49–50).その結果,村民の「大部分」が「期内ニ完納」するに至った.これらの取り組みは,「実行組合ノ団結心」を高めた(更生部,1935:p. 27).

こうした柿木村の活動が評価され,1935年10月,富民協会より地方賞を受賞した(富民協会,1935:pp. 65–69).さらに,1936年には「経済更生特別助成村」に指定された(更生部,1936b:p. 32).

4. 考察

柿木村は更生村の指定を受け,経済更生計画を作成した.計画の冒頭には,自己の力を信じ,村民同士の「和協」によって「更新ノ実」を挙げることが示された.実践項目として掲げられたのは,農産物の増収と支出の節約による金融改善であり,基本的には農林省の方針に沿ったものであった.一方,農業は「生産厚生」が本位であるとし,余剰があれば販売するという自給的農業に基づく考えを示した.

柿木村で最初に着手されたのは,「部落」(小字)に実行組合を設置することであった.運動を確実に実行するため,役場,産業組合および農会は,農家の個人計画の作成とその取りまとめを実行組合に要請した.各農家は,自家の実状に即した項目を選択して個人計画を作成した.計画において重点が置かれたのが時間励行,納税,貯金であった.これらの項目が重視された理由については,まず時間励行に関しては労働時間の確保という点があげられる.農産物の収量増大,自給肥料の増産等のためには多くの時間を必要としたためである.納税については,確実な税収の確保により,村の財政再建を図るということがあげられる.村の財政の安定が村民生活の安定にもつながるからである.貯金については,不測の事態に備えての余裕金の確保という理由からであった.実行組合を中心とした活動により,柿木村は「模範村」に称されるほどの実績を挙げた.

柿木村が生産に偏重せず,生活の改善にも熱心に取り組んだのは,同村の更生運動が自給的農業に基づいていたことに由来する.自給的農業に基盤を置いた理由としては,耕地面積が狭小であるために換金作物の量産が困難であること,自作農の割合が多いこと等が挙げられる.ただし,それを可能としたのは,農産に次ぐ重要な部門であった林産(とくに製炭)の存在である.製炭によって現金収入を得られるという前提があったからこそ,自給的農業を基盤とした運動を実施することができたといえる.

製炭には多くの朝鮮人労働者が従事していた.その数は1933年の時点で「四百人余」であった(柿木村役場,1934b).しかし,計画および実績を示す文書には,重要な働き手であったはずの朝鮮人労働者に関する記述は全くみられない.彼らは「「第三国人」といわれて差別され」,村の正式な住民として扱われなかった(柿木村誌編集委員会,2003:p. 341).そのために,林産部門ひいては更生運動における重要な存在であったにもかかわらず,村の公的な記録から除外されたと考える.

女性の関与についても類似の点が指摘できる.村や実行組合の計画には,女性の参画に関する記載がいくつかみられる.しかし,実績に関しては数字や簡潔な記述に止まり,人々の実際の苦労などに関する説明はほとんどみられない16.その要因は,更生運動の過程および成果の可視化が最優先されたことにある.運動の着実な遂行には,1年毎に進捗状況を確認し,次年度の取り組みを行うことが不可欠であった.そのために,経済面の項目は数値目標が設定され,実績は金額や数量で示された.しかし,生活面の実績は数値化が難しいことからわずかな記述に止まり,それに付随して主に生活面の改善に関与した女性の活動記録も少なくなったと考える.

5. おわりに

農林省は,農民の「自奮更生」と「隣保共助」を活用して農村・農家経済の改善することを更生運動の目的とした.さらに,更生村として選定された町村が計画を樹立するための方針を示した.その主たる内容は,農業経営の集約化と合理化,支出の節約,多角経営により農家経済を改善するというものであった.そのために,指定町村に経済更生委員会を設置し,経済更生計画を作成することを求めた.計画の主要な実行単位として位置づけられたのは実行組合であった.

柿木村は,更生運動の初年度に島根県より更生村の指定を受けた.同県の指針に応じて村更生委員会を設置し,経済更生計画を作成した.自己の力を信じ,村民同士の「和協」によって「更新ノ実」を挙げるとし,農産物の増収と支出の節約による金融改善を実施項目として掲げた.柿木村の更生計画は,基本的には農林省の方針に沿ったものであった.一方で,農業は営利ではなく「生産厚生」が「本位」であるとし,自給的農業を基本とする考えを示した.

更生計画に基づき,村内の「部落」に実行組合が設置された.実行組合は個人計画を作成し,生産と生活の両面に重点を置いた活動を行った.実行組合を中心とした活動により,柿木村の農家経済や生活は大幅に改善された.さらに,「和協」の精神に基づく取り組みは,実行組合の「団結心」,ひいては村民同士の連帯感を高めた.こうした村の実績が評価され,柿木村は更生運動の「模範村」となった.ただし,その実績の陰には,公的な記録から捨象された多くの朝鮮人労働者の存在があったことを指摘しておきたい.一方,具体的な活動内容を示す資料は少ないものの,婦人会が村の農業振興および生活改善の実行機関に位置付けられたことの意味は大きいといえる.役割を明示されたことにより,これまで表に出ることのなかった女性が村の運動に参加し,活動する機会が増加したと考えられるためである17

昭和初期における更生運動は,柿木村の農業経営および農家生活の改善に寄与した.さらに,住民の連帯の強化,女性の公的活動への参画など,農村の「経済」に直接かかわる部分以外にも影響を及ぼしたといえる.ただし,更生運動の実態やその特徴に迫るためにはさらなる事例の検証が必要である.今後の課題としたい.

謝辞

調査に当たり,吉賀町教育委員会,柿木公民館,吉賀町立図書館,吉賀町の多くの方々に協力をいただいた.記して感謝申し上げる.

1  指定町村は,農村,山村,漁村のいずれかに区分されたが,なかには「農林」や「農漁」のように重複して区分される町村も存在した.

2  明治30年代以降,「資本主義経済の農村侵入に対応」するため,農会等の指導により各地で「農家小組合」(「部落農家の共同組織」)が結成される.1932年の産業組合法の改正により,農家小組合は法人化され,「農事実行組合」または「養蚕組合」として産業組合に団体加入することが認められた(調査会,1956:pp. 413–428).

3  管見の限りでは,高橋(1974)吉田(2008)が実行組合の計画や事業内容について取り上げているのみである.

4  考察の対象期間は,1932年(昭和7)から1937(昭和12)までとする.日中戦争勃発(1937年)以降は,更生運動の目的が変容すると考えるためである.

5  方針に掲げられた12項目は次の通りである.「土地分配ノ整備及土地利用ノ合理化」,「農村金融ノ改善」,「労力利用ノ合理化」,「農業経営組織ノ改善」,「生産費其ノ他ノ経営費ノ軽減」,「生産方法ノ改良及生産ノ統制」,「生産物販売ノ統制」,「農業経営用品ノ配給統制」,「農家経済ノ改善」,「各種災害ノ防止施設,共済積立,備荒貯蓄等各種貯金ノ充実普及」,「農村ニ於ケル各種団体ノ連絡活動促進」,「農村教育,衛生,生活改善其ノ他ニ関スル農村諸施設ノ改善」(農林省,1932:pp. 14–30).

6  1933年10月11日に「地方連合経済更生計画協議会」が開催される.同協議会において島根県農林主事の石川温一郎は,町村の選定基準について「経済更生ヲ為ス必要ノアルコト,更生ヲ為サントスル気分濃厚デアルコト,中心人物ノアルコト,分布ガ均一ニナルヤウニスルコト等デアル」と述べている(更生部,1933c:p. 229).初年度(1932年度)の選定基準も同様であったと考えられる.

7  1932年度の「生産総価額」は「農産」が143,006円,「林産」が109,567円であった(柿木村,1933b).

8  当時,柿木村には多くの朝鮮人が居住していた.「鉄道開通を機とする林業開発,薪炭業の発展に誘導」されたためであった(内藤,1989:p. 116).彼らの多くは,村はずれにある大峰峠の付近で炭焼きをしながら生活していた(河野通昭氏[1931年生れ]からの聞き取り,2022年10月29日,吉賀町にて).朝鮮人労働者の居住域は「大峰朝鮮部落」と呼ばれるようになる(内藤,1989:p. 232).

9  更生運動開始以前より,柿木村では農会と産業組合が中心となって不況対策に着手し,生産費の低減,多角経営の奨励,栄養改善等を行っている(三浦,1930:pp. 22–24).こうした先駆的な取り組みを行っていたことが,初年度に更生村として選定された理由の一つであったと考えられる.

10  柿木村における産業組合の嚆矢は,1904年12月28日に設立された「無限責任柿木村信用組合」(1920年に「無限責任柿木村信用購買販売利用組合」に改称)である.初代組合長は齋藤長太郎であった(柿木村組合,1935:pp. 1–3).

11  齋藤は1895年に柿木村書記となり,その後郵便局長や郡農会議員を務めた.1904年に「柿木村信用組合」を設立したことで村民の信望を得て,1929年に村長となる(武田・楠本,1985:p. 86).

12  産業組合への加入数は,1933年・26組合,1934年・33組合,1935年・36組合,1936年・39組合となっている(信用組合,19341935柿木村組合,19361937).

13  「組合計画書」には発行年が記されていない.しかし,各個の計画樹立方針等を示した「農事実行組合理事会提出更生計画実施案」(「組合計画書」[亀田農組,年不明a]所収)は,1933年8月に作成されている.よって,本計画書はこれ以降に作成されたものであると推測される.また,「組合計画書」は個人計画(10戸)が合冊された形で残されている.上掲の実施案には,組合長が個人計画をもとにして「総合表」を作成し,役場等に提出することを義務づける記載がみられる.しかし,現時点ではで亀田農組の「総合表」は見つかっておらず,作成されたのか否かについても不明である.

14  同日の集会では,「実行組合ニ於テ決議ナシタル事項ハ婦人会ノ協賛ヲ経タル後実行ヲナス事」が決議されている(亀田農組,年不明c).

15  1936年9月11日「本村未曽有ノ大水害」が柿木村を襲った.この災害で「死者二十一名」を出し,田畑の流失や埋没,道路の欠潰等の被害が生じた.被害額は「百五十万円」にのぼった(柿木村役場,1937).

16  もちろん,活動の詳細に関する資料が作成されたが残らなかった可能性もある.

17  更生運動における女性の関与について考察した研究は少ない.管見の限りでは,吉田(2008)および和田(2021)が言及しているのみである.

引用文献
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  •  今田 幸枝(1991)「農村経済更生運動の政策意図と農村における展開」『歴史研究』(28):1–36.
  • 柿木村誌編纂委員会(2003)『柿木村誌 第2巻』.
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  • 柿木村(1933b)「一箇年統計台帳」.
  • 柿木村役場・柿木村産業組合・柿木村農会(柿木村)(1933c)「農事実行組合理事会提出計画実施案」.
  • 柿木村(1936)「統計報告(産業之部)」.
  • 柿木村農会(1934)「受付発送件名簿」.
  • 柿木村農会(1937)「文書受付発送簿」.
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  • 柿木村役場(1933a)「特別町村調査関係書類」.
  • 柿木村役場(1933b)「県指令」.
  • 柿木村役場(1934a)「産業統計」.
  • 柿木村役場(1934b)「村会会議録」.
  • 柿木村役場(1937)「村会会議録」.
  • 亀田農事実行組合(亀田農組)(年不明a)「組合計画書」.
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  • 無限責任柿木村信用組合(信用組合)(1932)「事業報告書」.
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  • 無限責任柿木村信用購買販売利用組合(柿木村組合)(1937)「事業報告書」.
  • 無限責任柿木村信用購買販売利用組合(柿木村組合)(1938)「事業報告書」.
  • 森 武麿(1971)「日本ファシズムの形成と農村経済更生運動」『歴史学研究』別冊特集1971年度歴史学研究会大会報告:135–152.
  •  吉田 丈太郎(2008)「滋賀県の農村経済更生運動」『滋賀大学大学院教育学研究科論文集』(11):127–137.http://hdl.handle.net/10441/98
  • 和田 健(2021)『経済更生運動と民俗』七月社.
 
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