農林業問題研究
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個別報告論文
米国統治下の琉球列島における生活改善普及事業
―奄美の事例を中心に―
中間 由紀子内田 和義
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2025 年 61 巻 2 号 p. 87-94

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Abstract

This study examines the implementation of extension services for home living improvement in the occupied Ryukyu Islands during the early period, with a focus on the Amami Islands. Although the policy of the Ryukyu project closely mirrored that of mainland Japan, it emphasized greatly on the realistic and economic aspects because of the region’s extreme poverty. On the Amami Islands, public halls and social education officers supported the formation of women’s associations and pertinent activities in each area. Home demonstration agents collaborated with public halls and agricultural extension workers to promote home living improvements, mainly targeting women’s associations. The main activities included eliminating unnecessary expenditure, promoting thrift and savings, setting up community stores, and improving kitchens and kamado (kitchen stoves).

1. はじめに

戦後日本1の農政は「農村の民主化」を重要な課題の一つとして推し進められた.当然のことながら農業改良助長法を根拠法として1948年に開始された協同農業普及事業も同様であった.協同農業普及事業は,本稿で取り上げる生活改善普及事業の他に,農業改良普及事業,青少年教育から成っていた.

生活改善普及事業(以下,生改事業)では,事業の目的として農家生活の改善とともに「考える農民」2の育成が掲げられた.「考える農民」の育成は,普及事業に共通する標語であった.「考える農民」こそが農村の民主化の礎をなすと考えたからである.「考える農民」は,戦後日本の大きな課題であった「日本の民主化」と強く結びついた概念であった.

農林省は生改事業の受入組織として自主的・同志的な生活改善グループ(以下,生改グループ)を育成することを方針とした.既存の網羅的な組織である婦人会を受入組織とすることを強く戒めた.グループ活動を通じて農村の女性が「考える農民」になることを期待したのである3

アメリカの単独占領下にあった琉球列島(沖縄・奄美地方)では,日本の事業開始から3年後に普及事業が開始される.琉球列島の普及事業には,日本の普及事業と異なる特徴があった.①根拠法の制定なしで事業が開始された,②「全琉民政機構」4(1951年12月開始)と琉球大学(1955年10月開始)がそれぞれ独自に事業に参与した,という2点である.

沖縄の生改事業に関する研究としては,生改事業の必要性を勧告したGenevieve Feaginの「軌跡」を検討したKoikari(2015),琉球大学の事業について家政学の視点から考察した石渡(2020),琉球政府と琉球大学との普及事業をめぐる主導権争いを検討した森(2022)などがある.沖縄における生改事業の背景など,これらの先行研究から学ぶ点は少なくない.しかし,戦後の琉球列島の生改事業については,解明されなければならない課題が数多く残されている.初期の生改事業の実態解明もその一つである.当該期に事業の基本方針がほぼ確立したと考えられるからである.

本研究では,米国統治下における琉球列島の初期の生改事業について,奄美を事例に考察する5.奄美を事例としたのは,資料の残存状況からみて,初期の実態を明らかにすることができると考えたためである.琉球列島における普及事業の基本方針を明らかにし,現地においてどのように生改事業が実施されたのかを解明することにしたい6

2. 米国統治下の琉球列島における生活改善普及事業の基本方針

(1) 普及事業の基本方針

1945年6月23日,沖縄における日本軍の組織的抵抗は終わり,米軍による本格的な占領統治が開始される(中野・新崎,1976:p. 13).米国軍政機構は「米国軍政府」,「米国海軍軍政府」,「米国陸軍軍政府」と変遷する.1950年12月15日に「琉球列島米国民政府」(USCAR)が発足して以降は,USCARが琉球列島を統治する(沖縄県公文書館,2000:p. 11).

米国統治下で実務に当ったのが「全琉民政機構」7である.その一つが1950年4月1日に創設された「琉球農林省」である(沖縄民政府,1950:p. 10).同省に「農業改良局」が設置され,各群島(沖縄,宮古,八重山,奄美)の農事試験場は「農業研究指導所」(以下,農研所)と改称される.同年の5月9日から11日にかけて与儀農事試験場で農業改良局長主催の会議が開かれ,琉球列島の普及事業が発足する.これに伴い各農研所には普及事業の拠点として「研究部」と「普及部」が置かれる.試験研究の成果を直ちに農家に伝え,農家の問題を直接研究部に持ち込み,解決するためであった(大島農業研究指導所,1952:p. 3,5).この点は,研究は農業試験場が,普及は農業改良課(或は農務課等)が所管した日本と異なっている.その後,普及事業の主務部局は,政府の機構変遷に伴い頻繁に変更される.本研究の対象期間に限れば,「琉球臨時中央政府資源局農業改良課」(1952年1月~1952年3月),「琉球政府資源局農業改良課」(1952年4月~1953年3月),「琉球政府経済局農務課」(1953年4月~)である(沖縄県公文書館,1998:p. 31;沖縄県公文書館,2000:p. 37).

普及事業開始当初,基本方針は明確には示されていなかった.1951年以降,農業改良課職員による日本視察が度々行われるようになり,その結果を基に基本方針が策定される.

以下は,資源局農業改良課が示した「普及事業の目的」である(琉球政府資源局農業改良課,1952:p. 1).

農村に住み,農村に働く人々に科学的な知識や技術を与へて,農業を能率化し,農業生産を増大し農家の生活を向上させるのが目的である.

「農業改良助長法」の内容と酷似しており8,日本の普及事業の影響を強く受けていることがわかる.また,事業内容についても,「農業改良」,「生活改善」,「農村青少年」教育から成るとしており,日本の普及事業と同じである.指導に際しても「農家の実情にそつた綜合指導をする」,「万事押しつけしない」など,日本の事業と同様に農民の自主性を重視する考えが示されている(琉球政府資源局農業改良課,1952:pp. 1–2).

しかし,琉球の普及事業では,日本の事業よりも現実に沿った基本方針が提示される.それを示すのが「自主的な農民」,「考える農民」が内包した意味内容である.日本の事業における「自主的な農民」や「考える農民」は,精神的・思想的に自立し,主体的に行動・活動する農民という意味が込められている.琉球の事業においてもこれらの文言が普及関係の機関誌等に散見するが,農民の精神的・思想的な自立以上に,経済的な自立という意味合いが強い.例えば,農業改良課長の森根武信は次のように述べている(森根,1952:p. 1).

農業改良事業の意義も次第に一般の認識する処となつたのであるが更に我々は改良事業の農村民主化,農民教育,そして生産力の高い自主的農民を作り上げるという目標を認識しこれを発展せしママることが我々の今後の任務と思われる.

森根は普及事業の目標として,農村民主化や農民教育と共に「生産力の高い自主的農民を作り上げる」ことが重要であるとしている.

また資源局発行の『明るい村』(旬間新聞)には,換金作物を栽培し経済的な自立を図る各地の農民が,「考える農民」として紹介されている9.琉球列島の事業における「自主的農民」あるいは「考える農民」とは,行政に頼らず,自力で工夫を凝らし,「儲るママ農業」を行う農民のことだったのである(源,1952b).

(2) 生活改善普及事業の基本方針

1951年2月,米国政府の意向を受け,「家政教育者」のGenevieve Feaginが沖縄を訪れる.その目的は,沖縄の女性や家庭生活に関する調査・教育活動を行うことであった(Koikari, 2015: p. 86).Feaginは,同年2月12日から3月1日にかけて八重山,宮古,沖縄群島において調査を実施し,その結果を「琉球列島における生活改善研究と普及計画に関する提案書」としてまとめる.その中でFeaginは,琉球農林省に生活改善に関する課を設置することを「勧告」している(Feagin, 1951: p. 20).Feaginの「勧告」を受け,1951年8月,琉球農林省に「生活改善課」が設置される(琉球農林省農政局,1951:p. 7;赤嶺,1960:p. 15).しかし「生活改善課長」に内定していた竹野光子10の鹿児島からの帰島が遅れたため(琉球新報社,1951),生活改善課の実質的な始動は同年12月となる.生活改善課の発足と共に,最初の「生活改善普及員」(以下,生改普及員)26名が12月1日付で発令される(琉球農林省,1951:pp. 11–12).これにより,琉球列島における生改事業が発足するのである.

1952年4月,琉球政府農業改良課の「生活改善係長」を務めていた竹野光子は,日本の生改事業の視察を行い,報告書を作成する(竹野,1952b).琉球における生改事業の基本方針は,この視察結果をもとに策定される(沖縄県,1991:p. 238).以下は,生改事業の「一般方針」に関する記述である(琉球政府資源局農業改良課,1952:p. 8).

本事業は農業改良事業の一環として実施するもので農家の負担に耐えなかつたり農民の意志を無視した改善を勧めるものではなく明らかに農家の生活にとつて有益且実用的な知識技術を導入する様各種の適切な手段を講じ普及の徹底を期するものとする.

生改事業は農業改良普及事業の一環であり,農家生活にとって有益で実用的な知識や技術を導入することが目的であるとしている.これに続けて「担当地区内に毎月定期的に集会を行ふ農村婦人グループを育成する様に努める」よう生改普及員に指示している(琉球政府資源局農業改良課,1952:p. 8).

生活改善の担い手については,竹野係長が次のように述べている(竹野,1952a).

生活改ぜんママ係としてはまづ農村の各部落の生活改ぜんママのため組合(クラブ)を作る様におママすゝめママています.(中略)そのクラブの仕事は外から押しつけられるのでなしにクラブ員お互いが考えてすばやく手をつけるべきことから始める訳で目下の問題としてはたとえば次の様なことが考えられます.11

生活改善係は,担い手として「各部落」に「組合(クラブ)」を作ることを推し進めている(或は推奨している)が,「組合(クラブ)」は自主的にかつ民主的に運営されなければならない,としている.これは日本の農林省が提示した生改グループの在り方と一致している.

しかし,日本の生改事業の基本方針と異なる部分も見受けられる.日本では農家生活の改善と共に「考える農民」を育成し,農村を民主化することが生改事業の最終的な目標であるとされた.「考える農民」は,生改グループの活動を通じて育成すべきであり,グループは生活改善に意欲を持った同志によって結成されるべきとした.そのために,婦人会のような網羅的な組織を利用してはならないとした(中間・内田,2022:pp. 21–38).これに対して琉球の基本方針には,「組合(クラブ)」の結成方法についての言及がない.米軍統治下にあった当時の沖縄や奄美の生活は,日本よりもはるかに厳しいものであった.生活改善は,早急に実現しなければならない課題であった.そのため少数の有志・同志によって生活改善を行うのではなく,「部落」の全住民がこぞって参与する必要があった.琉球政府はあえて「組合(クラブ)」の結成方法を示さなかったのである.沖縄でも奄美でも生活改善の主要な担い手は「部落婦人会」であった12

3. 米国統治下の奄美における生活改善普及事業

(1) 普及体制

戦時中,奄美の島々は,米軍による連日の空襲や艦砲射撃によって市街地を中心に多大な被害を受けた.終戦後,人々は焼け跡にバラックを建て,食糧難に苦しみながら生活再建を図った.そうした中,1946年2月2日,GHQは日本政府に対し,北緯30度以南の琉球諸島は日本から行政的に分離するという命令(二・二宣言)を下す.これにより奄美群島は沖縄と共に米国の統治下に置かれる.同年3月には,奄美大島に軍政府が設置され,沖縄本島より佐官級の軍政官が派遣される.また行政分離に伴い,日本に籍を有する官吏は本土に送還されるなど,民政機構の改革が実施された(名瀬市誌編纂委員会,1983:pp.82–90).占領期における奄美群島の民政機構は,「大島支庁」(1946年2月2日~10月3日),「臨時北部南西諸島政庁」(以下,政庁)(1946年10月3ママ日~1950年11月24日),「奄美群島政府」(1950年11月25日~1952年3月31日)と変遷する(沖縄県公文書館,2000:p. 11).

奄美で普及事業が開始されるのは政庁時代である.琉球農林省の発足(1950年4月)に伴い,大島産業試験場は「大島農業研究指導所」(以下,大島農研所)と改称され,普及事業の拠点となる.(鹿児島県農業試験場大島支場,1982:p. 2,32).所内には研究部と普及部が設けられ,現場で指導に当たる「改良普及員」は所長の指揮下に置かれた.1950年12月1日,農業改良普及員(以下,農改普及員)21名が任命され,各市町村に1名宛配置された.採用に関しては試験を実施せず,琉球農林省の示す「資格」に該当する者を各市町村農業改良委員会が推薦するという形がとられた(大島農業研究指導所,1952:pp. 3–5).

1951年7月,琉球農林省の通牒により,生改普及員の候補者選考が実施される.選考の方法は農改普及員のそれに準じた.その結果,同年12月1日付で「松岡百代,橋口ノリ,樺島夏枝,蘇登志恵,前原美津子,金城アキ」の6名が任命される.それぞれ「名瀬市,古仁屋町,実久村,宇検村,伊仙村,知名町」に配置されることになった(奄美タイムス社,1952).しかし,沖永良部島の知名町に配置される予定であった金城アキ(元教員)が突然辞退してしまう.その結果,急遽橋口初枝(教員)が任命され,同島の和泊町に配置される13

生改普及員は原則として出身地域に配属され,1人で2~4市町村を担当した(大島農業研究指導所,1952:p. 14).生改普及員を出身地域に配置したのは,おもに言葉の問題からであった.奄美は,喜界島,奄美大島,徳之島,沖永良部島,与論島等の島々からなっているが,言葉(方言)が全く違うとされている.沖永良部島で聞き取りをしたところ,かつては隣の与論島や徳之島の住民と会話をするのも困難であったという14.また陸上交通が極めて不便であった奄美大島では,陸続きであっても,山を越えた他村の住民との会話は難しかったとされている15

(2) 生活改善普及事業の実態

戦後,奄美でも生活改善に熱心に取り組む婦人会があった.しかし,沖縄と比べて婦人会の結成の動きは低調であった(津田,1984:p. 41).

1950年6月,政庁文教部に「成人教育課」が設置され,社会教育や「青少年団体及び婦人団体」等に関する業務を所掌する(臨時北部南西諸島政庁,1950:p. 5).同年8月には各町村に「成人教育主事」(後「社会教育主事」と改称),10月には主事補が政庁職員として配置される.その多くは現職の校長や教頭クラスの「実力者」であった(古賀・上野,1988:p. 449).成人教育主事らの積極的な関与により婦人会の結成や活動は次第に活発となる.翌1951年5月,成人教育課は,奄美群島政府文教部「社会教育課」と改称される(奄美群島政府,1951a:p. 8).さらに同年6月には「社会教育條例」が公布され,各町村に「公民館の設置」が要請される(奄美群島政府,1951b:p. 11).各地で社会教育が盛んになり,公民館が生改事業に深く関与していくことになる.

1) 三方村の事例

三方村は奄美大島のほぼ中央に位置し,名瀬市を取り囲む形で構成された村である.同村を担当した生改普及員は,松岡百代である.

松岡百代(旧姓碇山)は1900年,奄美大島の名瀬村に生まれる.1919年に名瀬実科高等女学校を卒業し,1年間家業(紬業)に従事した後教員となり,戸口,知名瀬,小宿,浦上などの小学校に勤務する.戦後は,「婦人生活擁護会」会長,名瀬市朝日区婦人会長,名瀬市議を経て,1951年に生改普及員として採用される(大山,1966:p. 29;松岡,1958松岡,1965:p. 56).

松岡普及員の担当地区は,一市二村(名瀬市,三方村,龍郷村)という広範囲であった.沖縄の「生活改善係」に相談したところ「やりやすい所を先にしていい」という回答を得る.松岡は「約三十年住みなれた三方村を取り上げ,特に婦人会指導に重点をおくこと」に決める.「村内小学校に十九年務めた」松岡にとって,「婦人会員の殆んどが顔見知りで,何でも遠慮なく話せる」ということは,「大きな力のもと」であった.しかし,当初は生改事業に関する明確な方針もなく,何をどのように進めてよいか不明であった.参考とすべき資料も文献もなかった.又相談すべき生改普及員も近くにはいなかった.ある時,大島農研所長の牧義森に「大島の生活改善は先ず現金収入の道を計ることですよ」と言われる.松岡はその言葉に示唆を得て,生活における「資金」,そのための「生産の増強」および「無駄を省いた貯蓄」奨励の重要性に気付く.さらに,それを実現するためには「農家の人々の心を如何に集めるか」が不可欠であると考え,三方村を中心に啓蒙指導を行っていくことに決める.

松岡の活動を支えたのが,三方村公民館主事の伊藤佐孝であった.伊藤は「婦人講座,成人講座,青年幹部会,特別講座など,あらゆる会合に」松岡を連れて歩いた.さらに農改普及員の恵勝己も松岡に協力し,一緒に各「部落」を廻った.その結果,生改事業に対する住民の理解が進み,生改普及員の存在が徐々に認められるようになっていった(松岡,1952:p. 21;松岡,1958).

生活改善を盛んにするためには,他の範となるような「モデル部落」が必要であった.松岡は,名瀬市近郊の山あいにあるスモモ栽培で有名な「里部落」(55戸)に眼をつける.里は,スモモ生産による現金収入があり,比較的豊かな「部落」であった.松岡は,公民館や農改普及員の支援を受けながら生活改善の指導に取り組んだ.その結果,「青壮年,婦人会が協力して」生活改善が実施された(奄美タイムス社,1953a奄美タイムス社,1953b).1951年9月には上水道が設置され,「部落共同購買店」が開設された.1952年3月には「部落共同電話」が設置され,4月には茅葺屋根をトタンに替えるための「トタン「もあい」」が組織された(小野,1958:p. 3).1953年には,薪の無駄をなくすため,煙突を付けた「カマドの改善」が実施された.こうした一連の活動が評価され,「里部落」は1953年に三方村の「生活改善モデルグループママ」に選定される(奄美タイムス社,1953b).

2) 和泊町の事例

前述したように,金城アキの突然の辞退16により沖永良部島駐在の生改普及員として急遽採用されたのが,橋口初枝(和泊町在住)であった.

橋口初枝(旧姓大朝)は1910年に沖永良部島の和泊村に生まれる.1929年に鹿児島女子師範学校本科一部を卒業し(大島農業研究指導所,1952:p. 14),小学校教員となる.赴任先の奄美大島の小学校で同僚であった橋口富一と結婚する.二人は同郷であった.その後,二人は生まれ故郷の沖永良部島に帰る.病弱だった富一が教員をやめると,初枝が一家の生活を支えることになった.初枝は教員(後生改普及員)を続け,休日には田畑も耕した.5人いた子供の面倒は家にいる富一の担当だった.初枝は,本土復帰後も鹿児島県の生改普及員として働いた17.縁戚関係にあった島の一女性は,初枝は「ハイカラですてき」な女性で,「ブラウスやスーツを着て」「歩いて和泊の役場まで通っていた」,また「子供からみても話に説得力があった」と述べている18

和泊村は戦前より婦人会活動が盛んであった.大正期には,「三つ石カマド」の改善に着手している.三つ石カマドは燃料効率が悪いだけでなく,火事の危険性があった.1929年には「和泊村産業組合婦人会」が結成され,「勤倹貯蓄」,「料理講習」,「作業服ノ改善」,「台所ノ整理整頓」,「時間励行」,「日用品配給所」の設置,「家計簿」の記帳などが計画され,実施された.さらに1932年には「竃改善互助会」が結成され,頼母子講によるカマド改善を実施している.「ロストル式」という燃料効率の良いカマドの導入が試みられた(大島信用販売購買組合和泊支部,1934:pp.1–5;日置,1969:pp. 5–6).

戦後,徐々に「部落単位」で婦人会が結成されるようになったが,「町全体の組織作り」は進まなかった.1951年頃より「町全体会」の結成を望む声が出てくる.「それを契機として公民館に全町の部落婦人会長が集まり」,協議の結果,「和泊町連合婦人会」が結成される.初代会長には橋口初枝が推挙される.また「部落婦人会を盛りあげるため」の「リーダーの研修」を目的として,「和泊町婦人幹部会」が結成される.公民館長の重村中久を中心に,毎月4日を定例日として課題解決のための話し合いの場が持たれた(日置,1969:pp. 11–12).

婦人会長でもあった橋口は,公民館や農改普及員と連携し,「婦人会を通して」生活改善指導を行う.先ず実施したのが,島民の現金収入の乏しさを考え,冗費の節約であった.そのために「冠婚葬祭」の簡素化を行った.「冠婚葬祭に一升ビンの持参廃止」,「案内されたところには持参金二十円以内とすること」,「出産病気見舞廃止」などの申し合わせをした(南海日日新聞社,1953).その他,「婦人貯金」,「かまどの改善」,「台所改善」,「日常食の改善」などを実施した(日置,1969:pp. 12–13).改善項目の多くは,戦前の産業組合婦人部時代の生活改善の内容を踏襲したものであった.

婦人会長としての橋口が特に力を入れたのが祖国復帰運動であった.「異民族支配」から脱却し,「日本人」としての誇りを取り戻すのは奄美の全島民の願いであった.そして何よりも島の生活の困難さの原因が「分離下」という状況にあると考えたからであった.日本本土との交易の制限は,生活物資の極端な不足をもたらした.また黒砂糖などの特産物の移出が自由にできなくなり,農民の現金収入を減少させた.橋口は,1953年に奄美群島の連合婦人会副会長として,会長の基八重子と共に日本に渡航し,来日中のエレノア・ルーズベルト(元大統領夫人)やアメリカ政府関係者に面会し,奄美群島の本土復帰を陳情する.このほか日本の政治家,役人,著名人等にも会い,本土復帰の早期実現とともに,奄美の「生活・経済」の窮状を訴えて「支援・救済」を求めた(奄美大島連合婦人会,1953).

橋口は,各方面への復帰陳情の合間に,農林省を訪れる.渡航報告書に,次のような記述がある(奄美大島連合婦人会,1953:p. 12).

六月二十九日 日曜 晴

午前十時,奥山事ム所西田氏と共に,一,大使への陳情文作成,二,農林省農業改良局生活改善課長山本女史と会見,資料をいたゞく.

生改普及員であった橋口初枝は,日本の生改事業を指揮していた山本松代と面会し,話を聞き,生改事業の資料をもらって帰るのである.当時,日本の生改普及員にとって山本松代は仰ぎ見る「カリスマ的存在」であった.その名は遠く沖縄や奄美にも知れわたっていた.橋口の感激がいかばかりであったか想像するに難くない.持ち帰った資料は,その後の奄美の生活改善に活かされることになる.

4. おわりに

全琉民政機構は,基本的には日本の普及事業を範とした.しかし,日本の普及事業を象徴する重要な概念であった「考える農民」については,経済面の向上に結び付けて用いる傾向が強かった.

琉球列島で生改事業が開始されたのは1951年の12月であった.生改事業の目的は,農民の自主性を尊重しつつ農家にとって有益かつ実用的な知識・技術を普及することとされた.管見の限り,生改グループの結成や活動を通じて「考える農民」を育成し「農村の民主化」を実現するという日本の農林省の基本方針は採用されなかった.当時の琉球列島は,戦争の影響が色濃く残り,人々の生活は困窮していた.そのため,全琉民政機構は,人々の生活再建のために,より現実に沿った方針をとったのである.また,日本の事業と異なる点として,琉球では農研所が研究および普及の拠点となったことがあげられる.両者の連携により現場の課題を把握し,研究成果を速やかに農民に還元するためであった.

奄美では6名の生改普及員が配置されたが,担当地域が広範囲にわたったため,農改普及員と連携して活動を行った.農改普及員の中には,生改事業の開始以前より生活改善に取り組む者もいた19.事業開始後も生改普及員が未配置の島(喜界島,与論島)や町村があったが,そうした地域では農改普及員が積極的に生活改善の指導を行った20

奄美の生改事業において大きな役割を果たしたのが公民館である.奄美では,沖縄とは異なり,公民館を中心とする社会教育が活発に行われる21.それは軍政府の意向によるものであった22.公民館の積極的な働きかけにより,緩慢だった婦人会結成の動きが活発となる.生改普及員は公民館と連携し,婦人会を主な対象として普及活動を行った.

占領下の奄美では,日本との交易が自由にはできず,あらゆる物資が不足した.また黒砂糖等の特産物の移出もままならず,農民の現金収入の道が閉ざされていた.「軍事施設」があることによる経済的「恩恵」を受けた沖縄(本島)と比べて,奄美の状況ははるかに深刻であった.そうした状況の中で生改事業が始まり,戦前の経済的に厳しい時代に計画され,実施された生活改善に学んだりしながら,冗費節約,勤倹貯蓄,カマド改善,模合の実施,共同売店の設置などが行われた.物資不足,現金不足への必死の対応であった.

本稿では,奄美を事例として,琉球列島における生改事業の基本方針と実態を明らかにした.奄美は1953年(12月25日)に日本に復帰するが,沖縄は引き続き米国の占領下におかれる.国際情勢(特にアジア情勢)の変化に米国の統治方針はゆらぎ,琉球政府の諸政策はその影響を受ける.本稿が対象とした時期以降の沖縄の普及事業がどのように変遷するのか,それを明らかにするのが次の課題である.

謝辞

本稿は「科学研究費助成事業(19K06274,23K05428)」の研究成果の一部である.

1  本稿の「日本」という文言は,「本土」を指すものとする.

2  「考える農民」は,農林省農業改良局長の小倉武一が提唱した概念である(小倉,1981:pp. 330–331).

3  戦後日本の生改事業については,中間・内田(2022)を参照.

4  普及事業関連では,沖縄本島に置かれた「琉球農林省」,「琉球臨時中央政府」,「琉球政府」を指す.

5  奄美については復帰後の大和村における婦人会の生活改善運動を中心に考察した季(2015)がある.

6  本稿で用いる資料は,主に沖縄県公文書館,沖縄県立図書館,鹿児島県立図書館,鹿児島県立奄美図書館の所蔵である.

7  最初の統一的全琉民政機構は,「琉球臨時中央政府」(1951年4月~1952年3月)である.暫定政府であったため,各群島政府(沖縄,宮古,八重山,奄美)と並立して存続した.その後,恒久的な中央政府として「琉球政府」(1952年4月~1972年5月)が設立される(沖縄県公文書館,2000:p. 5).

8  「農業改良助長法」の該当部分は以下の通りである.

「この法律は,能率的な農法の発達,農業生産の増大及び農民生活の改善のために,農民が農業に関する諸問題につき有益,適切且つ実用的な知識を得,これを普及交換して公共の福祉を増進することを目的とする.」(農業改良助長法,1948

9  例えば『明るい村』第1号には,大宜味村宮城島で「水瓜の早期促成栽培」を行っている農民が「考える農民」として紹介されている(源,1952a:p. 3).

10  竹野は戦時中鹿児島に疎開し,戦後も鹿児島市で生活していた(「戦後50年おきなわ女性のあゆみ」編集委員会,1996:p. 44).

11  この文章の後,具体的な項目として「共同買物」や「共同炊事」などに関する説明が続く.

12  農林省の方針にも拘わらず,日本でも実際には自主的・同志的な生改グループが担い手となることは少なかった.詳しくは,中間・内田(2022)を参照.

13  生改普及員の最終学歴は,女子師範学校2名,高等女学校4名である(大島農業研究指導所,1952:p. 14).

14  前田トヨ子氏(1933年生れ)からの聞き取り(2024年5月24日,和泊町にて).

15  奄美諸島の方言については,春日(1984)及び山田(1984)を参照.

16  金城アキの「発令」年月日は1951年12月1日,「退職」年月日は1951年12月31日である(琉球農林省,1951:p. 12).

17  橋口初枝は,1967年3月まで,沖永良部担当の生改普及員として働いた(鹿児島県,1973:p. 391).

18  橋口初枝の人柄や家庭等に関しては,村山としえ氏(1950年生れ)からの聞き取り(2024年5月25日,和泊町にて)による.

19  徳之島駐在の當安武は,亀津町で「生活改善」のための「婦人クラブ」を結成している(大島農業研究指導所,1952:p. 54).

20  例えば,住用村駐在の農改普及員・大里宮吉は,「公民館,成人教育主事と共に戸主並に婦人会に呼びかけて」,家普請の際の「冗費節約」,冠婚葬祭の簡素化,「カマドの改善」などを行っている(大島農業研究指導所,1952:pp. 45–46).

21  政庁文教部長,琉球政府初代文教局長を務めた奥田愛正は,沖縄では「社会教育というのはあんまりなかった」と述べている(東京学芸大学,1982:pp. 33–34).

22  詳しくは,古賀・上野(1988)を参照.

引用文献
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  • 奄美タイムス社(1953b) 「生活改善モデル部落を現地に見る」『奄美タイムス』1953年4月2日,2面.
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