抄録
Deflecting wrinkle は下顎大臼歯に現われる形質で、原始的特徴といわれている。その形態は、近心舌側咬頭 (metaconid) の中心隆線が大きく発達し、これが咬頭の先端からまず近心頬側咬頭 (protoconid) に向い、歯冠の中央を走る近遠心溝に達してその方向をほぼ直角に遠心へ向けて歯冠中央部に至り、多くの場合遠心頬側咬頭 (hypoconid) に接して終る。
この隆線は Gigantopithecus を始め、多くの化石人類によく発達しており、最初に WEIDENREICH,ついで KOENIGSWALD によって記載された。現代人には少ないが、 Mongoloid には比較的よく発達しており、鈴木•酒井の日本人永久歯、ならびに埴原の日本人および日米混血児の乳歯に関する報告がある。
本論文では鈴木•酒井の研究を1歩進めて、より詳細な記載をおこない、同時にこの形質の形態学的意義について若干の考察をおこなった。その結果を要約すれば次の通りである。
1. Deflecting wrinkle には先人の記載したもののほかにも少なからぬ変異形が存在する。
2.著者らの調査では、現代日本人(男性163、女性246個体、12-18才)のうち、男性の約1/3、女性の約1/4がこの形質をもっているが、それは第1大臼歯に限られ、第2大臼歯には全くみられない。第3大臼歯については資料が若年のため不明であるが、他の歯冠形質から推測して恐らく皆無か、又は極めて少ないと思われる。一方白人(男性8、女性5個体)には第1大臼歯にも deflecting wrinkle は全くみられない。資料は少ないが、これは下顎第2乳臼歯にみられる傾向と一致している (m2における頻度:日本人55.6%、白人13.2%; HANIHARA, '63参照)。化石をも含めてこれらの資料をみると、この形質は大臼歯群の中で後方の歯より退化を始め、またその退化の速度は人種によってかなり違うらしいことが推測される。
3.同じ歯の左右の相関は極めて高く、このことは本形質に対する強い遺伝子支配を想像させる。
4.乳歯における所見も加味すると、下顎大臼歯にみられる distal trigonid crest, 中心結節、および近心舌側咬頭の中心隆線に生ずる中央部の狭窄はいずれも形態学的に deflecting wrinkle と密接な関係を示し、これらは恐らく同じ起源をもつものと考えられる。歯冠形質の退化が進むにしたがって、deflecting wrinkle はこれらの中で最後に残った形質であると思われる。