生物物理
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大腸菌の代謝動力学モデルにおける成長状態と休眠状態の出現
姫岡 優介
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2024 年 64 巻 3 号 p. 147-150

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Abstract

大腸菌をはじめとした多くの細菌は「休眠状態」と呼ばれる,成長速度が非常に低い代わりに強いストレス耐性を持つ状態へと遷移することがある.我々は,大腸菌代謝の数理モデルが休眠状態に類似した状態へと遷移することを見出し,また,この遷移においてATPといった補酵素が重要な役割を担っていることを明らかにした.

1.  細菌の休眠状態

大腸菌は至適環境であればおおよそ20分で自らのコピーを生み出すことができる.これは他の生物種と比べてみても相当速い自己複製である.「増える」ことがたいへん得意な大腸菌であるが,実は「止まる」こともできる.大腸菌は飢餓などのストレス環境下では「休眠状態(ドーマント状態)」と呼ばれる状態に遷移することが知られている.休眠状態では細胞増殖活性が低く抑えられる代わりに,様々なストレスへの高い耐性を備えることができる.

興味深いことに,大腸菌が「止まる」のはストレス環境下だけではない.たとえ至適環境においても,不思議なことに細胞集団のごく一部(百万分の一程度)は休眠状態にあることが様々な実験から明らかになっている1).これは環境の急変に備えたベット-ヘッジング戦略だといわれている.休眠状態は大腸菌に限らず多くの細菌や単細胞生物で見られる状態であり,往々にして強い薬剤耐性などを示すことから,基礎・応用の両面から興味が持たれている現象である.

至適環境における休眠状態遷移の分子的メカニズムとしては様々な仮説が提案されているが,そのいずれも共通して,細胞内化学反応の確率的な揺らぎを状態遷移のトリガーと想定している2).しかし,休眠状態という,成長状態とは大きく異なる状態への遷移が,細胞内に生じた小さな化学反応の揺らぎからどのようにして生じているのだろうか.

生化学反応の小さな揺らぎから細胞内状態の大規模な変化の可能な道筋のひとつを明らかにするために我々は,大腸菌中心代謝経路の動力学モデルを用いたシミュレーションを行った.数値シミュレーションの結果,代謝物質濃度の揺らぎが場合によっては代謝状態を大きく変化させ,代謝活性が大きく下がった,休眠状態に似た状態へと遷移することを見出した3)

2.  in silico細胞

『オートヴァースは“おもちゃ”の宇宙―それ専用の単純化された“物理法則”に従うコンピューター・モデルだ.[…]オートヴァースは現実世界の忠実なシミュレーションではない―チェスが中世の戦争の忠実なシミュレーションではないのと同じに.』

これはグレッグ・イーガンによるSF小説『順列都市』の一節である4).登場人物のマリアは,“自堕落な趣味”として,このオートヴァースでA・ランバートと呼ばれる微生物の“培養”をしている.細胞内分子の振る舞いは,この単純化された物理法則によって決められ,それら分子の相互作用の帰結としてA・ランバートは代謝し,増殖し,進化する.

筆者はいわゆる「モデル屋」であるが,筆者が日頃モニターと睨めっこしながら行っていることは,このオートヴァースにおける自堕落な趣味から,そう遠いものではない.筆者の扱っているin silicoの“細胞”内では,例えばミカエリス-メンテン式といった経験的な動力学式に基づいて“代謝”が行われ,それにより細胞が成長していく.

in silicoの細胞内で起こることは全て,第一原理的に導き出されたものではなく,経験則のパッチワークの上に成り立っているものである.そのため,in silico細胞は現実の細胞とは異なる挙動を示す可能性がある.これは数理モデルの大きな欠点であるが,その代わりに利点もある.in silico細胞はその内部状態を全て測定可能であり,かつ遺伝子発現状態を自由に調整できるのである.要は全分子種に関して1細胞ライブオミクスが可能かつ,全ての遺伝子のプロモーター上流に,直交する精密な誘導系が組み込まれているような細胞,それがin silico細胞だといえる.

休眠状態への遷移は多くの因子が関与する複雑なプロセスであると考えられているため,内部状態を網羅的に測定・制御できるin silico細胞の強みを(欠点にも気を付けつつ)活かすことで,実験だけでは掴みきれない,遷移のダイナミクスを理解することができるかも知れない.本研究ではin silico細胞をつかって,細胞内反応の小さな揺らぎが,どのようにして「休眠状態への遷移」を可能にするほど大きな細胞内状態変化へと結びつくのか,その可能なシナリオのうちのひとつを明らかにすることを目指した.

3.  代謝動力学モデルが示す休眠ダイナミクス

本研究では大腸菌中心代謝経路(図1)を常微分方程式系でモデル化した.

図1

本研究で用いた大腸菌の中心代謝経路.ひとつひとつの丸が代謝物質に対応し,線が反応である.この代謝系では外界からグルコース(左上角の丸)を取り込み,解糖系,ペントースリン酸経路,TCA回路などを通じて成長に必要な代謝物を合成する.描画の都合上,ATPやNADHなど複数の反応に関わる代謝物質は複数描かれている.右上の反応はアデニル酸キナーゼ反応である.

  
dx dt = S J x -μx (1)

このモデルにおいては大腸菌の細胞内物質の空間非一様性は考慮されていない.また,細胞内部反応の確率性をモデルに導入する場合,しばしば確率モデルが用いられる.しかし確率モデルは計算コストが大きいため,確率性は別の方法で導入することにして,決定論モデルを用いることとした.

ここで,xは代謝物質の濃度を表すベクトル,Sは化学反応量論係数行列,Jは反応レート関数ベクトルである5).本モデルでは(一般化)ミカエリス-メンテン式を用いた.最後にμであるが,これは細胞が体積成長することによって化学物質が薄まる効果を表した希釈項である.ここでは細胞はいくつかの代謝物質を消費することで体積成長を行うと仮定し,それら物質の濃度の関数として比成長速度μを定めた.また,本研究においては代謝反応を触媒する酵素タンパク質濃度はモデルに含まれておらず,パラメーターとして扱われている.

細胞の代謝状態が代謝反応の揺らぎによってどのように変化するのかを調べることが本研究の目的である.この「揺らぎ」の効果を決定論モデルに導入するために,我々は以下のシミュレーションを行った.

①各代謝物質の生成と消費が釣り合った「定常状態」を計算する.

②代謝物質濃度を定常濃度から少しずらし,その後の代謝物質濃度の時間発展を調べる.

ここで,代謝物質の濃度を定常状態からランダムにずらす(以後これを「摂動」と呼ぶ)ことが揺らぎに対応している.摂動は,代謝状態の時間発展を計算する前に一度行うだけでそれ以降は行わない.細胞内の代謝反応は常に揺らいでいるので,たった一度しか摂動を行わないのは非現実的ではあるが,これによって,どの代謝物質への,どのような摂動が代謝状態の大きな変化をトリガーしたのかを詳細に調べることが可能になる.

代謝状態摂動後のモデルダイナミクスを示したのが図2である.ほとんどは図2上図に示したように系は元の状態へとほぼ単調に戻っていく.しかし稀に図2下図のような,元の状態に戻る過程で定常状態とは大きく異なる代謝状態(「プラトー」と呼ぶ)へと遷移し,そこに長い間止まるケースが確認された.

図2

代謝モデルから生じた成長ダイナミクス(上)と休眠ダイナミクス(下).それぞれの線は異なる代謝物質の濃度を表す.

定常状態への緩和過程における細胞の成長速度を調べたところ,前者の単調な緩和の場合は成長速度にほぼ変化はなかったが後者の場合はプラトーにおいて成長速度がほぼゼロになっていた.代謝物質濃度のみを抽出した数理モデルにおいて,休眠状態に似た状態が出現し得るのである.それぞれの特徴に基づいて,以降前者を「成長ダイナミクス」,後者を「休眠ダイナミクス」と呼ぶことにする.

4.  休眠ダイナミクスはどこから生じるか

代謝物質濃度の揺らぎから生じる,成長速度がほぼゼロの「休眠ダイナミクス」は代謝反応ネットワークのどこから生じているのだろうか.いま調べているモデル(図1)は少し複雑なので,我々はモデルを簡略化して,休眠ダイナミクスを生じるミニマルモデルを導出しようと考えた.

ミニマルモデルを得るために我々は,成長ダイナミクス・休眠ダイナミクスの両者が現れる限り,反応や代謝物質をモデルから取り除いていった.その結果得られたのが図3のネットワークである.このネットワークには解糖系を簡略化した部分(青),TCA回路を簡略化した部分(緑)に加えて,アデノシンキナーゼ(ADK)反応,ピルビン酸キナーゼ(PYK)反応,ホスホエノールピルビン酸シンターゼ(PPS)反応が含まれている.

図3

モデル簡略化の結果得られたミニマルネットワーク.元の代謝ネットワークにおける代謝反応との対応関係を枠で示している.主要な反応名の略称を四角内に,代謝物質の横には代謝物質の略称を記した.

数理的な解析から,このミニマルモデルにおいて休眠ダイナミクスが生じるメカニズムは次のように説明できることがわかった.図3を確認しながら読み進めると納得しやすいかも知れない.

①摂動によって偶然,pepよりもpyrが過剰になる.

②pyrとpepの量の不均衡を解消するために,PPS反応がpyrをpepに変換する.この時,同時にatpがampに変換される.

③PPS反応を駆動することによりpyrが減ってpepが増えるが,同時にatpも減る.

④pepはPPS反応の逆方向の反応であるPYK反応の基質であり,またatpはPYK反応の生成物であるため,pepの増加とatpの減少はPYK反応を駆動する.

⑤PYK反応が起きる.するとpepとpyrの量は元に戻る.①に戻る.

元々はpepに比べてpyrが多いというところから始まった一連の反応によって,PPS反応とPYK反応が駆動され,摂動によってはこのサイクルがぐるぐると回る.

このサイクル1周分ではpepとpyrの量は変化しないが,1分子のatpが1分子のampに変換されることになる.不均衡の元であったpepとpyrの量は結局変化させないのに,atpをひたすら消費するということで,このサイクルはいわゆる無益回路(futile cycle)を形成していることになる.PPS反応とPYK反応によって形成される無益回路によってatpがどんどん減り,多くの反応が止まってしまうことが休眠ダイナミクス出現のメカニズムであった.

5.  「止まっている」状態の理解へ向けて

LBなどの培養液を満たした試験管に大腸菌を入れれば,ものの数時間で細胞はぐんぐん増え,溶液はどんどん濁る.「増える」というこの能力は,言うまでもなく生物にとって本質的である.増えることによって生息域を拡大していくことができ,また増殖時の遺伝子複製エラーは進化の駆動力にもなる.

しかし,「止まる」ということも細胞集団が生き延びるために極めて重要な機能である.実験室環境において我々は大腸菌に早く増えてもらうために至適環境を用意することが多いが,あれほどに恵まれた環境は自然界においては稀であろう.ストレス環境に晒された時,あるいは突然の環境変化へのリスクヘッジとして,「止まれる」ことは変動環境下を生き延びるために大きなアドバンテージとなるはずである.

ここからは全く以って筆者の感覚の話だが,「増える」ことに比べて「(再増殖可能な状態で)止まる」ことは難しいことのように思える.例えば,一度スピードに乗ってしまえば自転車を漕ぐのは容易であり,また「成長は全ての矛盾を覆い隠す」という言葉に表されるように,社会の様々な問題点は,経済が成長している間は顕在化しにくい傾向にある(チャーチル元英首相の言葉らしいが,どうもその原典が見あたらない).

これと細胞成長・休眠を結びつけるのはあまりにも乱暴だが,荒唐無稽に過ぎるということもないかなと思う.例えば大腸菌細胞集団において,変性タンパク質の蓄積問題はまさに「増えること」によって回避されている.大腸菌では変性タンパク質は細胞内で分解をされるというよりも,一部の細胞がそれをまとめて引き受けることで,集団としては変性タンパクのない細胞が大多数となる6).また,増殖している細胞集団においてはいくつかの単純な現象論的法則が見出されており7)-9),これらの法則の数理的な導出においては「増殖している」という仮定がクリティカルであることが指摘されている8),9)

細胞が増殖している時は顕在化しなかった様々な問題が頭をもたげてくる休眠状態において,細胞はどのようにして生命機能を維持しているのだろうか,そしてそこではどのような法則が成立しているのだろうか.これらの疑問に答えることは,「生命とは何か」を解き明かすための重要なピースになると信じている.

文献
Biographies

姫岡優介(ひめおか ゆうすけ)

東京大学大学院理学系研究科生物普遍性研究機構助教

 
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