―弟子の僧「犬に仏性はありますか?ないのですか?」
―趙州和尚「無」
このやりとりは有名な禅書『無門関』の冒頭,第一則である狗子仏性からの引用である.この公案はとてもシンプルな会話の体裁をとっていて,和尚の身も蓋もない回答に思わず吹き出してしまうようなユーモアが感じられるものの,「無」というたった一言に,質問者の思考・思念を開展させてしまうほどの奥義―絶対無=空の思想―が込められているものとして数多の禅者を魅了してきた.有るとも無いとも答えずに,皮相的な論点を超越して「無」と返す師.
20代,生物物理に学び始めていた頃,この公案に出会って以来,折に触れこのやりとりを思い出すことがある.当時私は名古屋大学で吉川研一先生のご指導の下,博士課程で,巨大二重鎖DNAの相転移現象と高次構造の履歴記憶効果について研究をさせていただいていた.いずれのテーマも,吉川研の根本的課題であった分子集合体の動的自己秩序形成・振動現象のシステムダイナミクスに関わるもので,私は自身の研究を通じて,要素間・階層間の相互作用が規定する「縁起」が系の循環と動的秩序を生み出す,という東洋的世界観の本質的表現である「空」そのものの表れ方を学んでいることに一人興奮していた.50代後半となった今の自分から見れば彼はなんて青臭い若者であろうかと思うけれど,それは歳を重ねて,いわゆるわかった気に簡単になっている浅はかさが見えるようになってもきたからだろう.
研究をしてきて,そこまでにわかっていると思ったこと,できていると思っていたことがあるとき崩れ去り,真相から観るとまったく別の理解に至るということを何度も経験した.わかった気になっている事柄が,真相という体系によって超越されていくドラマ.それはまさに冒頭の狗子仏性のやりとりのようなものに思える.弟子の僧は一切衆生悉有仏性(世界の全ての存在は仏性を有する)とわかった気になっており皮相的な質問を師に投げかけた.しかしわかった気になっていることは多くの場合軽佻浮薄であり,超越した真相が世界の奥義として返ってくるのだ.こうなると研究の探究は一生かけても終わらない.まさに少年老い易く,,,であるが,私は平凡で思考も鈍重なので学びを一生楽しめると思えば,人生はやはり面白いのかなと感じる今日この頃である.さて,,,
―仏教者「細胞に仏性はありますか?」
―一生物物理学徒「無ッ!!!」