2001 年 2001 巻 27 号 p. 1-20
これまで後北条氏による一向宗の「禁教」は定説化され、永正三年(一五○六)より六十年間継続するとされてきた。しかし、後北条氏領国内や本願寺関係などに残る多様な史料を検討すると、一向宗の寺院や門徒衆の継続した宗教活動を確認することができる。本稿では、まず、これまで「禁教」の根本史料とされてきた永禄九年(一五六六)の善福寺宛の北条家掟書の検討と、その成立の状況を考察した。すると、北条氏は本願寺との外交交渉を有利にすすめるために「禁教」の存在を主張したといえるのであった。また、「禁教」を標傍するきっかけとなるのは、文亀年間(一五○一〜一五○四)の細川政元の東国政策の転換が原因かと思われる。宗瑞の領国内における本願寺派の活動は、中央の政治動向と無関係ではなかったといえる。しかし、北条氏による「禁教」政策は存在しなかったとしても、「抑圧」を思わせる史料や、『新編相模国風土記槁』には「弾圧」による移転を伝える寺院の記録類を所載するが、これらについても検証をおこなうと、やはり後北条氏による禁教政策によるものではなく、本願寺派と法華宗の関係や、政治的状況の変化など種々の要因が作用して発生したといえる。また、これらの「抑圧」的状況の発生には、かつて相模に所在した武田氏の使僧実了の影響によるものが含まれる可能性を指摘することが出来る。