鎌倉彫は現在漆工芸の一作品分野として認識されつつあるが、これはごく最近のことといえる。系統立てて作品を研究できるほど遺品が遺されていないことに加えて、近代になって復興した鎌倉彫の影響があまりにも大きいことや、関連する資(史)料の少なさなどが原因しているものと思われる。このような研究状況の中で、鎌倉彫が中世にさかのぼることは遺品の研究から疑う余地はないのだが、果たして中世における鎌倉彫の産地や様式の認識については正面から論じられることは少なかった。加えて文献史料による裏付は、その史料がほぼ皆無であるという理由でキッチリとなされてきたとは言い難い。本稿では室町時代後期に生きた京都の公家である三条西実隆の『実隆公記』にみえる「鎌倉物」という表現を、同時期の公家の史料を読み込むことによって明らかにし、「鎌倉物」が指すものについての可能性を提示する。また、「鎌倉物」の表記は毎年八月一日に行われる八朔の儀礼(御頼・御憑とも)と合わせてのみ登場し、その登場の時期から、京都が政治的に混乱しているときに使われていると結論付けた。さらに、東国との関係から、連歌師を通じて東国の土産としてもたらされた可能性をあげた。