抄録
放送100年を契機に、新たな史料などに基づいて放送の歴史を多角的に検証するシリーズ「新史料で振り返る放送100年」。第5回は、「NHKアーカイブス」に保存されている太平洋戦争中の楽譜に焦点を当てて、戦時下の放送音楽の実態に迫る。
太平洋戦争中の放送音源はごく限られたものを除いて現存していない。当時のラジオの番組表などには、放送された音楽のタイトルや作曲者名などの記載があるが、音源や楽譜が存在しないために、音楽の詳細はわからないことが多かった。
しかし2年前、NHKアーカイブスに「戦時楽曲資料」として保存されていた253曲の楽譜が確認された。これは、戦前から戦時中の放送用に作られた楽譜を、NHKアーカイブスが独自に分類して保存したものである。
政府は1941年12月の太平洋戦争開戦直前にまとめた「国内放送非常体制要綱」において、国民の士気を昂揚するために音楽を積極的に活用することを決めた。それを受けて、日本放送協会が「大東亜戦争行進曲集」を作成したことは知られていた。今回、それらの楽譜の多くがNHKアーカイブスに残されていたことが確認され、開戦直後の勇壮な音楽の実態が明らかになった。
しかしその後、戦争が長引く中、国民の間に不平や不満が高まることを懸念して、戦争末期に徐々に放送音楽に対する方針が変化したことが先行研究で指摘されている。1944年4月にはそれを象徴する1つの文書が政府から日本放送協会に伝えられていた。内容は、国民の疲れを癒やし、不平や不満、陰鬱な気分を払拭するような音楽を放送する方針であった。しかし、NHKアーカイブスに残された楽譜を見る限り、その方針が直ちには反映されていなかったことがわかる。政府の文書は秘密扱いだったために、周知徹底がなされていなかった可能性がある。実際に音楽の内容に変化が見られるのは、政府による1944年10月の「決戦世論指導方策要綱」発表以降である。1944年の末から、幻想的な音楽や優美な音楽も作曲されるようになっていった。
今回、NHKアーカイブスに残された楽譜を調べることで、戦時中の政府の政策の変化が、音楽に対して具体的にどのような変化をもたらしたのか。その一端がわかってきた。