日本物理学会誌
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最近の研究から
結晶カイラリティと巨視的スピン応答――カイラル磁性とスピン偏極
戸川 欣彦
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2021 年 76 巻 10 号 p. 646-651

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抄録

カイラリティ(chirality)の概念は素粒子から生態系まで自然界の様々な階層に見出される.物質科学ではケルビン卿による定義が広く受け入れられている.それは鏡の中では互いに映しあうが実際には重ね合わせることができない関係を意味している.

この幾何学的な定義に従うカイラルな構造といえば,まずは左手と右手を思い浮かべる.続いて,ねじやDNAなどのらせん構造であろう.らせんは右巻きや左巻きを示す.確かにカイラルな構造だ.

さて,らせんな階段を歩めば,廻りながら階段を進む.また,ねじを廻せば,ねじ穴を進む.「進むと廻る,廻ると進む.」この関係はらせんを含むカイラルな構造の本質を考えるうえでとても示唆的である.

この特徴は1980年代にローレンス・バロンが提唱した時間反転対称性を含むカイラリティの定義につながる.そこでは,静的な構造のみならず動的な特性を含めて議論する.自然光学活性を動的なカイラル応答として明確に位置づけ,よく混同される磁気旋光性(ファラデー効果)と峻別する.

著者たちの研究グループは,静的・動的なカイラリティ概念の普遍性に触発されて,物質が示すカイラリティとスピン応答の関係を調べている.これまで取り組んできたカイラル磁性の研究では,カイラルな結晶構造をもつ磁性結晶が巨視的なスピン応答を引き起こすことを明らかにした.例えば,磁気抵抗は巨大化,離散・多値化し,磁気共鳴は離散化,広帯域化,多モード化する.

これはカイラル磁性結晶に巨視的なスピン位相秩序が現れるためだ.磁気モーメントがらせん状に連なって配列するカイラルらせん磁気構造がゼロ磁場で現れる.重要なことに,結晶カイラリティがこのカイラルな磁気構造を保護する.そのため,カイラルスピン秩序はらせん軸に沿い試料全体に亘って一様に現れる.安定に存在し,集団で一体となって振舞う.この振舞いは単軸性結晶において顕著となる.

その磁場応答はさらに特徴的だ.ゼロ磁場で数nmから数十nmのらせん周期は磁場中で周期性を保ちながら試料サイズまで大きくなる.つまり,磁場強度に応じてらせんの巻き数が変わる.外部磁場で制御可能なトポロジカル数を得る.カイラルスピンソリトン格子とよばれるこのスピン位相秩序は,強磁性体にしばしば現れる磁気縞ドメイン構造とは根本的に異なり,巨視的な空間スケールでコヒーレントに振舞う.

磁気抵抗や磁気共鳴は,スピン位相秩序のコヒーレントでトポロジカルな特性を反映して,多様なスピン応答を示す.カイラル物質は磁場や電流の向きに応じてダイオードのような整流効果を示す.カイラルスピン秩序は電気磁気カイラル効果とよばれるこの非相反応答を巨大化する.

さらに著者たちはごく最近,カイラル結晶に電流を流すとその電流がスピン偏極することを見出した.結晶は磁気を示さないにもかかわらず,スピンが揃い,結晶内を伝わる.電流がスピン偏極状態を引き起こし,電圧信号として検出できる.室温で生じ,磁石や磁場を用いる必要がない.結晶がカイラルであることのみに由来する効果であり,有機分子から無機結晶に亘る多様なカイラル物質が示す普遍的な性質である.

カイラルな物質が巨視的なスピン応答を示すことがわかりつつある.いずれも「カイラル結晶では単位格子での空間反転対称性の破れが結晶全体に波及し巨視的なスピン応答を引き起こすこと」を示している.すなわち,物質におけるカイラリティは巨視的スケールで物質応答を制御する鍵となる.カイラル物質の多様さを踏まえれば,生物・化学・物理系の広範な研究者らが参画する学際的な研究テーマとなりうる.今まさに“カイラルスピン物質科学”とよぶべき新たな研究領域が息吹きつつある.

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