地理科学
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辻村太郎の「景観」学説
岡田 俊裕
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1987 年 42 巻 2 号 p. 67-81

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抄録

辻村太郎は,1930年ごろからLandschafrt(landscape)の訳語として「景観」を用いるようになり,それが広く普及して定着した。しかし1937年ごろ以降のかれは,日本の地理学会における「景観」の初訳者であることを自認しようとしなくなった。また彼は,「景観」を地域の可視的・形状的側面に限定して把握した。そして当時の日本では,辻村と同様の「景観」把握に基づいた研究例が最も多く見られたといわれ,彼の影響力の大きさがうかがわれる。辻村の景観学論においては,景観研究の地理学に占める比重はシュリューターのそれに比べて小さく,また,辻村による景観地理の学術的位置づけは極めて不明瞭である。さらに,彼の景観地理学は景観形態学ないし形状学であり,地理学や植物生態学という自然科学の研究方法を採用しようとした。文化景観の発生・進化・発達についても,地形学や植物生態学の観念を駆使して論じた。辻村の景観論は,1933年ごろから若干変容していく。すなわち,景観形態と生態との関連性を意識しはじめるのであり,例えば集落形態と土地経営・経済生活・村落発達史との関係に着目しようとする姿勢を若干示すようになる。辻村の提唱する景観形態学論は多くの批判を呼んだ。主な批判点は,a)経済的・文化的価値を有する諸現象を,その外面的形状に限って分析対象にしていること,b)文化景観をその社会的経済的基礎面から切り離し,自然科学の手法で説明していること,c)景観に対する人間の主体性の理解がかけていること,d)村落景観に関しては,その形態のみ重視し,村落成立史が視野に入っていないこと,などである。また,彼の景観学は明治以来の自然科学の成果を背景に地理学の理学化を目指したものだとする指摘もあった。さらに著者は,敗戦前の日本としては最も活発に社会科学が研究された磁気に辻村が自然科学的な景観学説を唱えたことに着目し,日本の景観研究は,その出発点においてすでに非社会科学的な性質を帯びていたことを指摘した。戦後の辻村は,これらの批判や時代思潮の変化の影響を受け,文化景観の歴史性や経済機構との関連性を重視し,自然科学的方法の限界を認めるに到った。しかし,景観に対する人間の主体性についての考究は依然として乏しく,そのことが,彼の景観学に現実社会との関連性を欠く傾向をもたらしているのではないかと考えられる。

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