抄録
【目的】
今回,細菌性髄膜脳炎により左片麻痺を認め,視野障害及び高次脳機能障害を合併した症例を経験した.本症例は,右眼に正中位から外側へ約30度の視野欠損,眼球運動障害があり,高次脳機能障害として左半側空間無視(以下左USN)を呈していた.視野欠損により右視野の情報が過剰となり左USNが助長され,動作が阻害されていると考えた.そこで本症例に対し,空間無視のない右側の視覚刺激を遮断しながら理学療法を行い,身体機能及び動作能力の向上を認めたので報告する.
【方法】
60歳代男性.発熱,頭痛,意識消失にて他院救急搬送.頭部CTにて脳室拡大,MRIにて右基底核に高信号領域があり,脳幹脳炎疑いにて治療開始.全身造影CTにて両側肺膿瘍,肝膿瘍,化膿性眼内炎を認めた.血液検査上,敗血症状態であった.人工呼吸器管理,坑生剤加療を開始し,2日目よりベッドサイドにて呼吸理学療法開始.人工呼吸器離脱後,リハビリテーション室にて理学療法開始.炎症所見沈静化し,発症から約2ヶ月後,当院転院.
転院時評価は,覚醒はムラがあり,表情変化乏しく,コミュニケーションは可能だが辻褄の合わない発言があった.HDS-R13点.両眼の視力低下があり,右眼は正中位から外側へ約30度の視野欠損, つまり約30度~90度までの視野しかなかった.右眼球運動障害は外転偏位であった.端坐位姿勢は頭頚部,体幹は前屈,右側屈位であった.高次脳機能障害は左USN,注意障害があり,線分抹消課題は左側に加え中央も抹消困難で,模写課題は左側の欠損を認めた.Brunnstrom stage(以下BRS)上肢3,手指3,下肢4.感覚は正常.寝返り,起き上がりは麻痺側管理困難. FIMは47点でADLは自立心が強い一方で危険管理が困難で,介助を要した.Berg Balance Scale(以下BBS)23点.
歩行は右からの刺激には素早く反応し,曲がり角では突進してしまうため,転倒しないよう介助が必要であった.左側は見落としが多く直進し,道に迷ってしまうため,誘導が必要であった.
本症例に対し,右側の視覚刺激を減らすために,主な訓練課題として視覚による状況判断を課した歩行,座位・立位において身体の動きに伴って視覚を必要とするものとした.同時に各課題では右眼をタオルで覆い,右視野を遮断した状態で施行した.施行期間は約1ヶ月行った.
【説明と同意】
ヘルシンキ宣言に基づき,本症例に対して研究に際しての説明をし,同意を得た.
【結果】
覚醒は良好となり,笑顔が増え,コミュニケーションは良好となった.HDS-Rは27点と向上した.抗重力位では頭頚部・体幹,眼球とも正中位に近づいた.線分抹消課題は正答率が向上し,模写課題は左側描写も可能となった.BRS上肢4,手指5,下肢5に改善.基本動作は自立した.FIMは87点と向上し,入浴動作以外は監視レベルとなり,退院後の屋内移動は自立した.BBSは52点に向上した.
歩行は右側を過度に選択して進んでしまうことが少なくなり,左側に曲がる時は声に出して知らせるようになった.そのため指定した場所に戻ること,自室にも迷わず帰ることが可能になった.座位・立位課題でも左上下肢の運動性に向上が見られた.しかし,現在も危険管理は困難なことがあり,失敗経験から自分の能力をフィードバックしていることがある.
【考察】
文献によると,USNは左右の空間に対するバランスが崩れるために,正常な体性感覚との統合に解離現象を与え,姿勢や眼位の異常が起こる現象と考えられている.本症例は,運動麻痺は比較的軽度であったが,右眼の視野欠損,左USNが合併していたことで,移動能力,ADL動作に介助を要していた.今回,右側の視覚刺激を減らすことで,右視野の情報量を制限し,左視野の認識を促した.さらに環境や身体状況に対しての認識を促すアプローチを実施した.その結果,視覚遮断を行った状態ではもちろん,視覚を開放した後も左視野からの視覚情報の認識が促進された.そのため体性感覚入力により身体状況に関与する情報が増加し,USNが軽減したと考える.さらに,左視野の情報を受け取りやすくなったため,左空間認知が向上し歩行時の状況判断,危険管理能力が向上したと考える.しかし,まだ難しい判断を要求される場面や多方向に注意を向けなくてはいけない場面では誤りが見られ,自立に至っていない.今後も引き続き介入していく必要がある.
【理学療法学研究としての意義】
USN患者に対する視覚遮断を用いた研究は多く散見されるが,今回行ったアプローチは,簡便であり,臨床での応用範囲も広く,本症例のように視野障害と左USNを合併した症例に対しては有用な可能性があると示唆された.また,視覚遮断を行った状態での訓練中はもちろん,視覚を開放した後も効果的であったことは興味深い結果となった.