2024 年 2024 巻 13 号 p. 143-153
本文は、20世紀以来、中国における日本の霊子術の受容と変容に関する考察である。新文化運動とほぼ同時期に、中国では、西洋の思潮をいち早く受け入れた上海を中心に、西洋と日本のさまざまな「オルタナティブサイエンス」も堂々と輸入された。そして、これは思潮に止まらず、知識層から一般市民まで広範に参加される社会運動として広がった。このような思潮と社会運動では、日本から帰国した華僑が中心的な役割を果たしてきた。彼らが主催する団体により、日本の催眠術や田中守平の太霊道とその霊子術などが中国に導入された。主催者は自らの科学性と哲学性を標ぼうし、心霊万能と精神決定論を主張し、物質のみ重視の従来の科学を批判する。同時に、中国の伝統文化の中からその根拠を求め、さらに、国民性の改造をはかり救国救民の道を探っている。受容の過程において、太霊道の思想は中国では拒絶されたが、一方でその技術体系である霊子術は広く普及し、現代中国の気功の一流派となった。中国に伝わる霊子術は功法の面で基本的に田中守平の体系を踏襲しているが、治療体系では中医鍼灸と密接な関係が持たされた。この事例を通して、近代の西洋科学が強いディスコース・パワーを持っていた時代でも、中国の思想界および関連する心身技術の分野で示される状況は、近代と伝統、科学と迷信、西洋と東洋のような明確な二元対立の構造ではないことが見て取れる。激変する時代の中で、東学(Knowledge in Japan)、西学(Western learning)、国学(Traditional Chinese knowledge)、玄学(Metaphysics,Spirituality)、科学の間には複雑な関係が形成される。