抄録
本稿は、わざを習得することに伴う知覚経験が、生や実存といった現象学上の重要概念をふまえることによってはじめて理解できるという見通しを提起するものである。近年の認知科学的現象学の蓄積によって、スポーツや芸術における熟練の経験を知覚および運動志向性の変容という観点から論じられるようになり、行為者において鋭敏に現れる状況の変化や、行為遂行中の前反省的意識のありようについての解明が進んでいる。他方、心理学における実存現象学的研究の試みとして、スポーツ選手の実存に着目することで、運動に関連する人間的事象(例えば不安)などの記述も重ねられてきた。本稿では、両者の議論が相互補完的であることを指摘して、これらの理論的知見をつなげる道筋を探っていく。結論として、運動志向性の変容は、パフォーマンス中の卓越した知覚や認知に関わる事象として経験されるだけではないことが示される。それはむしろ周囲の状況との関わりや他者への応答可能性へと拡張されるのであって、これは現象学が関心を寄せてきた、人間の生や実存といった、世界に対する人間の関わりのありようをめぐる事象そのものである。