2021 年 17 巻 p. 35-48
20 世紀転換期頃はいわゆる第一波フェミニズムの興隆期にあたり、世界的に女性運動の台頭をみる時期である。ドイツにおいては市民女性運動の中核組織であるドイツ女性団体連合(Bund Deutscher Frauenvereine, 以下BDF と表記)が多くの女性組織を統括し、民法典闘争などフェミニスト・プログラムを組織的に展開した。また売買春制度、結婚制度と二重道徳、性病、未婚の母と婚外子、そして刑法218 条堕胎罪規定など、性をめぐる諸問題にも関与した。マリアンネ・ヴェーフラウエンフラーゲバー(Marianne Weber, 1870-1954)もBDF 幹部の一人として、当時の女性問題に理論面と実践面において関わった。本稿は、帝政期ドイツにおいて性をめぐる自然科学的言説と女性の主体性に関する議論が交差するなかで、「母性保護連盟(Bund für Mutterschutz, 以下BfM と表記)」に集った人びとの言説、およびそれを批判的にみていたヴェーバーの思想を〈自然〉概念を中心に検討することで、彼女が女性の主体性をどのように構想したのかを明らかにするものである。
ドイツ市民女性運動は穏健派と急進派に分けられる。両派の分離線は論争の対象によって変化するが、女性のセクシュアリティの捉え方では対立する傾向にあった。その点を際立たせたのは、H・シュテッカーら急進派のフェミニストが設立した性改革運動の一つ、BfM によって唱えられた「新しい倫理(Neue Ethik)」である。それは市民的結婚観と結婚制度を批判し、女性の性欲と自由恋愛を主張するものであった。これは教養市民層の文化的価値体系と規範体系をあらためて問題化する契機となった(Gilcher-Holtey 2004, 55)。先行研究によると、穏健派は「新しい倫理」を個人主義の行きすぎとして捉え1 、急進派はそれを女性の自己決定権から肯定した。この観点からとくにシュテッカーらは堕胎罪の完全削除要求まで唱えるにいたる(Gerhard 1995, 269; 若尾1996、373 頁以下; 水戸部 2000)。
BfM には優生学(人種衛生学)、性科学、生物学、遺伝学、人類学、新マルサス主義などの影響が指摘される2 。この特徴はBfM に関与した男性科学者の利害関心に導かれたものとみる向きもあるが(Gerhard 1995, 271)、BfM のフェミニストたちもまた優生学の言説を積極的に受容し、母性と生殖を中心に女性の主体性を論じたため、この組織は「フェミニズムと優生学のきわめて独創的な統合を発展させた」とも評される(Allen 2005, 91)。またその関係のなかで、産業労働における女性保護問題と女性の自己決定権に結びついていた母性保険構想が、「権力政治的で人種衛生学的な人口管理の道具」へと変化したとも論じられる(Herlitzius 1995, 201)。BfM のフェミニストたちの優生学に対する距離については評価が分かれる。一方では、女性の自己決定権の観点から、国家の人口政策と生殖への警察国家的介入主義を批判することで優生学的思考とは一線を画した点が強調される(Herlitzius 1995, 337-339; Gerhard 1995, 271-273 ; 水戸部2000、53-54 頁)。他方では、彼女たちは国家権力に対しては抵抗したが、優生学という「生権力」には加担し動員されたと評される。「低価値者」を生み出さないことが自己決定権に内包されるならば、「留保なき個人主義」は優生学の前では「無力」であり、国家権力対個人の権利という二項対立では優生学の権力は捉えられないとする見方である(市野川 1996)3。
対して、「優生学的―ダーウィン主義的立場」は市民女性運動においては総体としては基盤を持たなかったとも指摘される。とくに穏健派はこうした科学的知とは距離を置く傾向があった(Meurer 2010, 364; Dickinson 2014, 112-113; Greven-Aschoff 1981, 103-104)。この傾向は穏健派が女性の主体性を自然科学的知によって補強しなかったことを意味するが、それはその知に対して無関心だったということなのか。本稿では、穏健派に属するマリアンネ・ヴェーバーが自然科学的知に対して無関心であったのではなく、むしろ強い懸念を抱く形で関心を寄せたことに注目する。彼女は「新しい倫理」を批判し結婚制度を擁護した。その理由については、「「性的解放」の要請」を市民的文化の理想と結びついた対等なパートナー関係の理念に包括させたため(Gilcher-Holtey 2004, 54-55)、あるいは大半の人間は国家制度による支えなしには自らの運命を形づくる能力を持たないと いう「人間の本質への疑念」や、家族形式の変革が「社会的・国家的秩序の解体を伴いうるという恐れ」を抱いたためと説明されてきた(Greven-Aschoff 1981, 68)。しかしヴェーバーが「新しい倫理」を批判した背景には、自然科学的言説に対する強い警戒があったことは十分に検討されてこなかった4。
本稿は、彼女の批判が当時の自然科学的言説に内在する問題性への批判と関連していること、またその批判の立脚点は穏健派の市民的価値観だけにあったのではなく、新カント派哲学やドイツ観念論哲学にもあったことを強調する。さらにこの点は、夫であるマックス・ヴェーバーを中心としたドイツ社会学創成期における科学の客観性をめぐる論争に接していることも指摘する。
以上により、まずは自然科学的言説とその影響を受けたフェミニスト的視点が交錯する現場であったBfM に注目し、性という〈自然〉の肯定や生殖という〈自然〉への介入をめぐる議論について分析する(Ⅰ、Ⅱ)。そのうえでマリアンネ・ヴェーバーが「新しい倫理」と自然科学的言説に現れる〈自然〉を警戒し、〈自然〉と〈倫理〉を峻別する立場からそれらを批判したことを論じる(Ⅲ、Ⅳ)。この検討を通じて、彼女が自然科学的言説に抗するなかで女性の主体性を確立しようとしたことを明らかにする。