日本地質学会学術大会講演要旨
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第128学術大会(2021名古屋オンライン)
セッションID: T5-O-5
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T5(口頭)文化地質学
土石流がもたらしたブランド石材:御影石(六甲花崗岩)
*先山 徹
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抄録

六甲山地に分布する花崗岩(六甲花崗岩)はかつて御影の浜(現兵庫県神戸市御影)から各地に積み出されたため,御影石と呼ばれるようになった.このことは江戸時代の名所図会に記述されている.そして現在は,花崗岩類石材全般を御影石と呼ぶようになっている.このことは六甲花崗岩が全国的に広く流通していたことを物語っている.六甲花崗岩は淡紅色のカリ長石を特徴的に含むことや瀬戸内海沿岸地域の他の花崗岩と比べて高い帯磁率を有することなどから,比較的容易に産地の同定が可能であり,中世(鎌倉~室町時代)から西日本を中心に広域的に流通していたことが知られている(市村,2013;先山,2013).一方瀬戸内海沿岸地域には花崗岩が広く分布し,大坂城築城の際には多くので石材が供給された.それらの石材産地と比べた時,六甲山地は活断層が多く大きな石材が得られにくいこと,急峻な山地のため搬出が難しいことなど,良好な産地であるとは言いづらい.それにもかかわらず,六甲花崗岩のみが広域に流通したのはなぜだろうか.本発表では,その要因として六甲山麓で頻繁に発生した土石流の可能性を名所図会の記述と六甲山麓の地形・地質との関係から検討する.

 江戸時代の名所図会で御影石を記述したものとしては日本山海名産図会(1799年)と摂津名所図会(1796年)がある.日本山海名産図会の説明文では,(1)御影の浜から各地に搬出していたため御影石と呼ばれたが, (2)海岸線が海側に移動して遠くなり, (3)山地入り口付近のものは取りつくされてしまい, (4)現在は山地奥で採石して御影まで運んでいることが記されている.図会では山地の崖から石を切り出す様子が描かれているが,この記述によると以前は山麓の岩塊を採石していたことが想定される.

 現在,六甲花崗岩を採石している場所はなく,1カ所で住吉川河床の岩塊を採取しているのみである.下図に示した2万分の1仮製地形図神戸及び六甲山(兵庫県立人と自然の博物館所蔵)では,住吉川上流の山中の2ヶ所で採石場が記されているのみで,大量に出回っている六甲花崗岩全体から見ると少ない.六甲山地の花崗岩は徳川大坂城築城に際して大量の石材が供給されたとされ,その残石は大名の刻印を記された「刻印石」や石割の過程を示す「矢穴石」として現地に多く存在するが,その大半は東方の芦屋川流域から西宮に至る地域で,その多くは尾根部に存在する花崗岩のコアストーンや過去の土石流による岩塊である.

 地形的に見ると御影地域を含めた住吉川流域は六甲山麓最大の扇状地であり(下図参照),過去に頻繁な土石流に襲われていたことが知られている.この扇状地地形が海岸線まで達していることから推測すると,御影が村として栄える以前にはこのような土石流によって運ばれた堆積物は海岸線付近まで存在していたと考えられる.このような地形的背景と日本山海名産図会の記述に採石遺物の産出状況を考え合わせると,当初は山麓の扇状地上で,土石流によって運ばれた岩塊を採石していた可能性が高い.中世から六甲花崗岩が他地域の花崗岩類に先駆けて全国に出回り,「御影石」が花崗岩の代名詞となるまで普及した背景には,土石流による岩塊が海岸近くにあり,運搬が容易だったことがあると推測される. 摂津名所図会には,御影石の項目に滋賀県の「木戸石」と京都「白川石」の2ヶ所の石材も示されている.「木戸石」は琵琶湖西岸の比良山地を構成する花崗岩で,山麓には扇状地や沖積錐が発達する.また白川石は京都盆地東部の比叡山周辺の花崗岩で,山地部と盆地境界には扇状地が発達し,山麓に土石流によって運ばれた花崗岩塊が残されている.これらも併せて考えると,江戸時代以前の採石や運搬技術が未発達な頃,石材確保の場は土石流の頻発地域であり,特に海岸近くまで岩塊が運ばれていた御影地域は,絶好の石材産地となったのであろう.

市村高男(2013)御影石と中世の流通―石材識別と石造物の形態・分布.高志書院,282p.

先山 徹(2013)花崗岩の識別と帯磁率による産地同定.御影石と中世の流通-石材識別と石造物の形態・分布-(市村高男編),高志書院,45-58.

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