明治期日本の海外における気象観測について,清国海関での観測を基盤とした中国沿岸の気象サービスを考慮しつつ,電信ネットワークとの関係を検討した.初期は気象担当官庁がなく,清国海関総税務司のロバート・ハートの提案を受け止めることができなかったが,長崎医学校化学教師のヘールツによって上海,厦門,香港の気象データとの交換が1873年から実現され,長崎測候所によって1882年に受け継がれることになった.ただし朝鮮半島や華北に関する気象データは,それぞれの地域の事情により交換で入手することが困難で,日清戦争後に台湾や琉球列島で観測点の増大が実現したに過ぎない.日露戦争期に至ると,軍用電信線を追うように臨時観測所が設置され,中国国内の電信網が利用できる日本領事館にも臨時観測施行場所が開設された.中央気象台技師の和田雄治がこれを推進し,他方海底電信線や望楼を通じた艦船への天気予報や警報の伝達も実現された.