抄録
第四紀に活〓な構造運動が行なわれたことが知られている新潟県魚沼地方の地形発達史を明らかにするために十日町市周辺を調査し,次のような結果を得た.
六日町盆地,魚沼丘陵,十日町盆地の分化が始まったのは魚沼層群塚山累層堆積後である.それまで一様な堆積平野であった魚沼地方の中で魚沼丘陵東部が隆起をはじめ,その東側の越後山脈との間には六日町盆地が残された.一方西側の十日町付近は越後山脈からの直接の物質の供給を絶たれ,代って西南から火山岩を含む物質が供給されるようになり,そこに魚沼層群上部の小国累層が堆積した.丘陵東部では隆起に伴って開折がすすみ,かくして生じた起伏をおおって桝形山熔岩が噴出,堆積した.
魚沼層群堆積後その褶曲がすすみ,かつ背斜部に近い魚沼丘陵と向斜部の十日町盆地はともども隆起して侵蝕地城となった.その間に地盤運動のややゆるい時期があり,十日町盆地を流れる信濃川に南東からそそぐ支流によって侵蝕面的性格の大谷内面と伊達原面が相ついで形成された.伊達原面形成後はそのような広い地形面は形成されず,信濃川とその支流は千手面などいくつかの段丘面を作りながら下刻し,現河床に至っている.この間十日町盆地を作った信濃川現流路をほぼ長軸とする向斜盆を作る運動がつづき,信濃川に直交する方向の動きは伊達原面の変形(東上り西落ち)に,信濃川に沿った方向の動きは千手面の変形(北上り南落ち)に認められる.一方六日町盆地には段丘地形はほとんど認められず,おおむね堆積地域であったと思われる.
このように魚沼層群堆積後,十日町盆地は周辺に対しては向斜として沈降しながらも基準面に対しては隆起の傾向にあったのに対し,六日町盆地は魚沼丘陵の後背地としてむしろ沈降の傾向にあったといえる.