抄録
古代日向国は神話伝説の地として喜田貞吉等の古代史家に論じられ,西都原古墳群は大正年代にはやくも考古学的発掘の行なわれたところであり,宮崎県は九州では最も多く前方後円墳が分布する県として知られる.にもかかわらず古代の都市や交通路に関する歴史地理学的調査は極めて不備であった.筆者はかつて日向国府が一ツ瀬川溯航点の現西都市妻の地にあったこと,その方6町域を都市域の候補地として三宅部落東北方の地を推定したが,今般は「延喜式」にみる駅家と律令的古代における官道の調査を行なって,その復原を試みることにした1).その折に郡家の所在地にも注意したが,たまたま現西都市域にふくまれる三宅部落西南4kmの地点の段丘上に都於郡町なる地名があり,付近に高屋部落の現存することに気付いた.高屋は景行天皇熊襲征代時の行宮の名であり,古墳時代の豪族の館が,律令的古代の郡家として踏襲せられたものと推定した.一方「書紀」にみる天皇軍のコースが現在の国道268号線とも一部に合致すること,その他現国道10号線もまた「延喜式」の支路に大部分が合致することを確かめた.さらに当時の駅家や郡家が今もなお宮崎県の現代の市や町となって継承されていること,つまり交通路や地域的中心都市は,時代によってそのもつ機能を異にはするが,古代に計画設定された原位置を継承維持する場合の多いことを確認した.調査の方法は,いずれも現地の微地形や地割調査と各役場での地籍図からする小字名の摘出を第1とし,近世の絵図その他の資料を間接的なものとして援用する方法をとった.