Geographical review of Japan, Series B
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近世日本における焼畑耕作
溝口 常俊
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1989 年 62 巻 1 号 p. 14-34

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抄録

焼畑村落の変容過程を江戸時代初期から現在にわたって明らかにすることが本稿の目的である。従来の研究において,焼畑は時代が下ると少なくなると信じられていた。しかし,白川郷を対象とした本研究においては反対の結果が得られた。すなわち,焼畑は江戸時代初期から明治後半にかけてむしろ増えてきたのである。生産性の乏しい地域にもかかわらず,この時期に人口が増えているのは膨大な焼畑開墾によるものと考えられる。焼畑が減り始めたのは明治後半以降のことである。
焼畑主要地は居住地周辺から遠ざかり,山地の緩やかな斜面から急な斜面へと移っていった。農業的な土地利用の変容過程として,仮説の一つとして唱えられていた焼畑から水田という変化は白川郷では認められず,ほとんどの焼畑が森林もしくは畑地に変っていった。明治後半,白川郷には630筆の焼畑があった。1筆の平均面積は約1haであった。焼畑は700-1,000m,居住地から1-2km,傾斜20-30度の東斜面に最も多く分布していた。
土地保有の変化に関して,以下の結果が得られた。本百姓と本百姓に従属する抱からなっていた元禄時代の村において,本百姓の間では土地保有上顕著な差はなかったが,抱は本百姓より少ししか保有していなかった。しかし,江戸時代後期になると,両者ともに新しい土地を開墾し始め,ともに焼畑を開いた。安永時代までに,抱はかなりの土地を保有するようになり,本百姓から独立していった。同時期に,多くの村有の焼畑が開かれ,その共有の焼畑は村のいかなる農民もいつでも自分の利益のために使うことが認められていた。それゆえに,この地域では,他の一般の近世村落とは異なり,農民層の顕著な分解はみられなかった。
近世における広大な焼畑の開墾,焼畑耕地の分散と共同作業,農民層の未分解,焼畑の森林・畑地への転換などの事象は,山梨県湯島村でも追跡でき,焼畑村落の共通した性格と考えられる。

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