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かつて中国の「本草綱目」(1)(1590)では「金石部」の項目に「金類」や「石類」として鉱物が図入りで紹介されている.さらに,日本の「和漢三才図会」(2)(1713)でも「金石部」に鉱物が記載されている.すなわち鉱物は,少なくとも江戸時代までは「金石」と呼ばれていた.
今回の資料探索の中で,「鑛(鉱)物」という用語が,「澳国博覧会報告書 27」(3)(1875)に見い出した(右図).著者(訳者)は,この万国博覧会に派遣された,富田淳久(とみたあつひさ)である.その後,著者は明記されていないが,「博物舘列品目録」(4)(1880)にも「鑛(鉱)物」の用語が使われている.「和田鉱物標本」(5)(2001)の中で「・・・万国博覧会に出品した鉱物の研究はオーストリアの研究者に研究を依頼する一方,博物局に収蔵した標本については和田維四郎に命じて研究を行わせた.・・・」とあることから,和田維四郎(わだつなしろう)が,この目録を作成したとみられる.
同時期に,わが国最初の博物館の創設や生物の分類についての翻訳に関わった田中芳男らも関係したかも知れない.
以上から,「鑛(鉱)物」は,万国博覧会に展示されていた Mineralの和名として,明治時代の初期に用いられたとみなすことが出来る.
一方,「寶 (宝)石」については,前述の「本草綱目」(下図)や「和漢三才図会」に紹介されているが,現在のような使われ方ではない.「和漢三才図会」では,津軽(青森)に産出する瑪瑙に対し「寶 (宝)石」として呼んでいる.「寶 (宝)石」は,明治期になると寶 (宝)玉誌(1889)と同年発行の「地學雑誌」に使われていることから,寶(宝)玉と寶 (宝)石は同じ意味で使われていた(6).
これらから,明治期に和田維四郎が「寶 (宝)」,「玉」及び「石」から二文字を選び,「寶 (宝)玉」や「寶 (宝)石」として単行本や雑誌で紹介し,それらの用語を(啓蒙活動の一環として)広めたとみられる.