2024 年 93 巻 3 号 p. 135-146
1914年から1919年にかけて、わが国では、結核及びハンセン病に対するシアン化銅剤の治験が盛んに行われたが、結論として有意な治療効果は確認できなかった。2023年の第96回日本ハンセン病学会学術集会で、石田 裕、青木美憲両氏は、外島保養院医長菅井竹吉が当該化学物質を用いて実施したハンセン病の治験について、「猛毒である青酸カリウム塩水溶液」の投与で「人権侵害」であると主張する発表を行った。筆者は当該記録及び当時の文献を検索し、当該主張は誤りである旨の意見を発表後の質疑応答で示し、両氏の見解を問いただしたが両氏より合理的な回答は得られなかった。本論文では、公開されている当時の記録・論文を文献学的に検索し、その製法を化学的に考察した。その結果、菅井がハンセン病患者に投与し、同時期に古賀玄三郎が結核患者に投与したシアン化銅剤が両氏の主張する青酸カリウム(塩)水溶液ではなく、水溶液中ではカリウム(またはナトリウム)イオンとシアン化銅イオンに分離し、加熱、酸、重金属との会合以外でシアン水素を遊離しない、シアン化銅重塩水溶液であったことが判明した。菅井、古賀は動物を用いた毒性試験をもとに人体に安全な投与量を決定しており、治験においても重篤なシアン中毒を示す症状は記録されていない。本治験が行われた時代は、結核、ハンセン病は治療薬のない不治の病であり、治療薬候補として試みられた物質の中で、シアンを含む物質だけを絶対的な毒として問題視することは妥当とは言えない。事実、当該治験を非難したとして両氏が引用した芳我・渡邊論文でも、人体内での微量のシアン化水素の生成可能性は問題としていない。以上より、石田・青木両氏による、菅井論文と芳我・渡邊論文を根拠にした、シアン銅錯塩製剤を用いた結核・ハンセン病への治験が、シアン化カリウム水溶液の投与であり、人権侵害として調査が必要、とした結論は事実誤認によることを明らかにするものである。