抄録
景観は、実在する物質性と人間の認識や意味が渾然一体と論じられる。この語用法は立論を鈍らせ、この概念の潜在的効力を発揮させない。しかし、この両義性は景観を人間の認識の様式から理解できる。阿部は、現象学にしたがって主観の側から客観の成り立ちを論じ、景観を環境の視覚像と前提する。そのとき、景観を意識する規範として意味母体が分析概念となる。各時代・各地域の意味母体の構造を探求し風土論が構築された。しかし、無意識の規範のみでは実在世界─景観─主体の連動メカニズムの解明は十分でない。
また、松畑・松岡はポスト構造主義の立場から、現象学的なこの連動メカニズムに疑問を呈する。景観とは近代的強者の見方・語り方であったが、1980年代から実在世界との接点を失い、シミュラークルとしてそれ自体の意味化作用にしたがって複製・増殖し、主体をその共犯関係に巻き込んでしまう。景観はもはやメディアのなかにしかなく、そもそも「非在」という存在だったという。しかし、景観は実在世界から断絶した存在ではない。そこで、視線の作用から再度景観現象を追跡してみる。
Meinigは環境と景観を次のように区別する。環境は私たちを包みこむ直接的な有機的存在の要素である。景観は視覚によって明確に見定められ、知性によって解釈される、と。視線は行為を前提するから、行為を意識しないとき私は身体を通じて環境と融合する。しかし、行為を意識した瞬間、私の眼には視線が生まれ、私と世界が節合され始める。
視線は主体確立と関係をもつ。まず私は他者に同一化する。私は他者ではないことに気づき、他者によって示された鏡像を引き受ける。多様な鏡像から統合された私の像を作り内面化して主体を確立する。主体は他者と情動で強く結ばれ、同時に他者から外部化されて存在する。視線はモノからも私を外部化する。行為を意識する私の視線は環境から私を引き剥がし環境との相互浸透を制限することで、景観が現れる。この現象こそが私が主体として意識的に地理的空間に出逢う瞬間である。
ところが、景観にはこの範疇に収まらないものがある。一つは、主体が対象と情動的に同一化する景観の相貌的把握がある。もう一つは、視線を失った眼に映える景観である。そのとき、環境の圧倒的なリアリティを前に私たちは嘔吐を催し恍惚に身を委ねる。また、他者とともに地理的空間を見る三項関係において景観が情動と共に敷き写される。視線は景観にも情動を絡みつかせ不安定で強力な感化力をもたらす。
主体確立の過程で何を知り信じたのかが景観という視覚像を彼/彼女に独特に形成する。ここでは意味母体より流動的でアクティヴな言説を分析概念とする。言説とは正統化・制度化された語りであり、社会の世界認識や実践に統制力をもつ。景観は知のネットワークの交差部に現れたダイナミックな言説的場である。主体は様々な起源と特徴を持つ言説をモジュールとして自在に活用できる。言説の統制力を借りて、主体は景観という視覚像のなかで対象を並置・連結・評価する。景観に対象を位置づける座標系が設定される。
主体は言語や科学を駆使して自己の行為により適合する緻密な景観を編成し、地理的空間を評価して構造化し特定の布置を作る。そこから、より抽象的な思考操作を経て空間的構想を生み出す。しかし、敢えて主体と環境の出逢いの場である景観を論じつづけることは何を意味するのか。これは視線にともなう情動に訴えて、人間の存在の仕方を問い直したり、思考操作を検証したり、新たな空間的構想を起動させようとする社会的・政治的戦略である。このように景観を捉え直すことで、個人や集団の社会的戦術について微細に論理的・動態的に捉える社会地理学研究の可能性が開かれる。