抄録
本発表の目的は,府県の統廃合がほぼ終了した後,地図が果たした役割を明らかにすることである.そして,明治政府や県,地元住民らの間で県境が定着する経緯を検証する.明治政府は,近世の領主制を廃し,地方行政区の単位として国郡制を基に府県を設置した.そして,新政府による諸政策は府県・郡・村単位で実施されたため,全ての土地の所属を明瞭にする必要性が生じた.また,府県や地元住民は新体制を受け入れようとはしながらも,混乱することもあった.そこで,こうした問題の解決策として,県境を明示しようという動きがみられるようになった.県境を把握するための手段として,江戸幕府撰国絵図,とりわけ元禄図や天保図が用いられた.ところが,この国界文言の記載(「国境不相知」),国絵図上の図像表現をめぐり問題が生じた.そのため,国絵図上の記載をそのまま県境として採用する府県と,そうでない府県がでてきた.そこで,明治政府は現地へ官人2名を派遣し,県の職員や地元住民らとともに,現地調査を行っている.その際,明治政府は両県の主張,旧記などの記述をとりいれながらも,自然国界を重点においた.現地調査の結果,決定した県境上には境界杭や標石などが設置された.県はこれを実測図(測量地図)にしたため,明治政府へ提出した.そして,この実測図をもとに,政府はこれを追認する姿勢をとってはじめて,県境が画定したのである.県境を地図上に表現し,それを政府へ献上するという作業は,争論の防止だけではなく,境界を不動のものへと変質させる役割を有していた.また,地元住民への境界画定の旨を伝達したことで,新しい境界・行政区を創出していったのである.このような県境の画定作業は全国一律に実施されたわけではなく,新政府が樹立し,諸政策が断行されるなかで,府県は徐々に県境の明確化を志向したのである.